三、風を呼ぶ丘で



 気がつくと、辺りは深い闇に覆われていた。自分のおかれている状況が掴めず、カールは翡翠の双眸をめぐらす。
 と、前方の闇にぼんやりと人影が浮かび上がった。その人物をカールはよく知っていた。
「――アゼル……!? どうしてここに……?」
 碧水の双眸を持つ少年は、カールに気がつくと、淡い微笑を口元にたたえた。何か言いながらこちらへと歩み寄ってくる。するとその背後に、禍ヶしい影が浮かび上がった。カールは直感的にそれが危険だと判断した。  
「逃げろ! アゼル!」 
 その声が聞こえたのか、それとも気配を察したのか、アゼルが自身の背後を振り返る。碧水の瞳が見開かれた。
「――!?」
「アゼル!?」
 カールが叫んだのとほぼ同時に、無数の銃声らしきものが轟いた。少年の細い身体がのけぞり、真紅の液体を宙に飛散させる。倒れる彼の陰から、帝国軍の旗が翻るのを、カールは見た……。


「――!? ――!!」
 声にならぬ声を上げ、カールは飛び起きた。上半身全体を使って、激しく呼吸をする。冷たい汗が額から頬へ、頬から顎へと流れ落ちていく。
「……何て夢だ……!」
 うめくように呟くと、翡翠の双眸を持つ少年は湿った前髪をかき上げた。時計を見やれば、まだ夜は始まったばかりである。気を落ち着けるように、カールは窓の外に広がる、深い闇色の世界に視線を移す。
「あれは夢だ。ただの悪夢だ。現実に起こるわけがない」
 少年は自身に言い聞かせるように胸中で呟くのだった。


 太陽が顔を出すか、出さないか、という微妙な時間に、シュバルツ兄弟は起きだした。両親はまだ眠っている。が、昨日のうちに「友達と朝早くからピクニックに行く」と言ってあり、了承も得ているので問題ないだろう。起きてみると、キッチンにバスケットがおかれていた。母からの「楽しんでらっしゃい」というメッセージカードもそえられている。バスケットの中には、弁当とお茶やジュースの入った水筒が入れられていた。カールとトーマは、まだ夢の中にいるであろう母に胸中で礼を言うと、身支度を整え、家を出た。
 時間が時間なだけに、薄く霧のかかった帝都の街は静まりかえっていた。大気はひんやりとして冷たい。
「トーマ、寒くないか?」
 右手でバスケットを、左手で弟の手を握っているカールが問うた。
「平気です!」
 トーマが元気よく、それでいて小さな声で答えた。周囲をはばかったのである。頬がやや紅潮しているが、寒さのためではない。興奮が彼の小さな身体を火照らせており、辺りを覆う冷気は心地よくさえ感じられる。
 弟の楽しそうな雰囲気が伝わったのか、兄である少年はわずかに口元をほころばせた。
 アゼルは家の外に出て、二人を待っていた。三人は挨拶をかわしあう。
「――!?」
 突然脳裏に昨晩の悪夢が甦り、カールははっとしたように碧水の双眸を持つ少年を見つめた。視界が赤く染まっていくような錯覚に襲われる。
「ん? どうかしたの? カール?」
 視線に気づいたアゼルが、小首を傾げて友人の顔を覗き込んだ。翡翠の双眸を持つ少年は、我に返ると、曖昧に笑ってみせる。アゼルとトーマは、不審そうに視線をかわしあった。
「ところで、アゼル、一体どこに行くんだ?」
 はぐらかすようにカールは別のことを口にした。アゼルは少し考えてから「着いてからのお楽しみ」とだけ告げた。
 少年たちは早速コマンドウルフに乗り込んだ。二人乗りであるため、トーマは兄の膝の上に座る。中心部から離れているとはいえ、街の中でゾイドを動かすことは、いらぬもめ事を呼ぶかもしれない。そのため、アゼルの行動は慎重であった。まず光学迷彩を起動させ、周囲に人がいないことを念入りに確認する。それから極力大きな音を立てないように、碧水の狼の四肢を動かし始めた。最初はゆっくりと、だが、帝都の街から出ると、歩みが疾走へと変わり、風となる。
 やがてフェンリルは、帝都から少し離れた所にある小高い丘に到着した。さわやかな風が吹き抜けていく。
 兄たちの手を借りて碧水のコマンドウルフから降りると、トーマは深呼吸をする。
「風が気持ちいい!」
「ああ、本当だ」
 見えない手に頬を撫でさせながら、カールは口の端に笑みをひらめかせる。と、トーマは何かを思いついたように、二人の年長者を見上げた。
「兄さん、アゼルさん、鬼ごっこしませんか?」
 カールとアゼルは互いの顔を見合わせると、笑みを浮かべた。
「じゃあ、鬼はカールだね」
「何でそうなる……まあ、いいか」
 吐息混じりにカールは頷いた。表情こそ仕方なげであったが、その瞳は笑っている。
 アゼルとトーマはいたずらっぽく笑うと、走りだした。少し間をおいてから、カールが二人を追って走りだす。実に楽しそうな笑い声が、丘全体に響きわたった。
 気のすむまで走り、転げ回ると、三人は弁当を食べることにした。それが終わると、はしゃぎ疲れたのか、トーマが船を漕ぎ始める。
「おやおや……」
 カールは微笑すると、トーマの身体をそっと抱き上げ、草地に寝そべっているフェンリルの元に向かう。アゼルがキャノピーを開け、後部座席の背もたれを倒した。そこへトーマの身体を横たわらせると、二人は静かにそこから離れた。
 フェンリルから少し離れた斜面に、カールたちは腰を下ろした。陽光をたっぷりと浴びた草地は、ほのかにあたたかい。カールはそのまま上半身も草の上に投げだし、翡翠の双眸に空を映す。青空を背に、二つの月が白く浮かび上がって見える。
「どう? 楽しんでくれてるかな?」
「ああ、いい所だな。風が気持ちいいし、空もよく見える」
 アゼルは天空を仰ぎ見た。白い雲がゆっくりと流れていく。赤みをおびた茶色の髪を風に任せながら、少年はどこか遠くを見るように呟いた。
「……何か嫌なことがあった時や寂しい時は、いつもここにくるんだ。何もかも風が持っていってくれる……そんな気がしてね」
 カールは横になったまま、視線だけを友人の横顔に投げかけた。
「――ひょっとして……気を遣ったのか、俺に……?」
 碧水の双眸を持つ少年は、曖昧な微笑を口の端にたたえる。
「……何だか、今朝のカール、嫌なことがあった時の僕と同じような目をしていたから……少しでも元気になってくれれば、って……ごめん、余計なお世話だったかな……?」
「謝ることなんてないさ。ありがとう、何だか、すっきりした」
 その言葉に、アゼルはにっこりと笑ってみせる。彼特有の、見る者の気持ちを穏やかにさせるような優しい笑顔だ。翡翠の瞳にそれを映しながら、カールは昨日見た悪夢について語った。
「……それは……遠くて近しい未来かもしれないね……」
 カールが口を閉ざすと、アゼルは小さな小さな声で呟いた。たった十数年しか生きていない自分だが、大人に負けないくらいの出来事を経験してきた。それらから考えていくと、何となくだが、自分の行く末も想像できる。それはきっと――。
「ん? 何か言ったか?」
「ううん、何でもないよ。大丈夫、僕はこのとおり、生きているよ」
「――そうだな」
 翡翠の瞳に優しい光を宿し、カールは微笑んだ。家族以外には、滅多にみせない笑顔である。少々驚いたような色が碧水の双眸に浮かぶ。
「初めて見るな。キミのそういう顔は」
「そうか?」
「ああ、カールはいつも大人びた表情ばかりしているもの」
 それを言うなら、アゼルだってそうである。彼が自分よりも年下だということを、しばしば忘れることがあるのだ。
「ねぇ、カール、僕の前で大人の顔はいらないよ。僕は、カールたちともっともっと仲良くなりたいんだ。だから、時々でいい、ありのままのお前をみせてほしいな」
「そうだな……それも、いいかもしれない」
 それだけ言って、カールは双眸に幕を下ろした。耳元で、風に揺れる草たちが、ささやかな音楽会を開いている。何だかくすぐったいような気分だ。だが、嬉しかった。真っ直ぐに自分を見てくれる存在が。
 ……風に乗って、軽やかな笑い声が緑の大地を渡る。丘に呼び込まれた風が空へと還っていく。それは真昼の月たちが見守っていた、優しくあたたかい時間であった。



                  ……To be continued.