二、フェンリル



「下町は僕にとっては、庭のようなものさ」
 と、アゼルは言い、それを証明するかのように、彼はシュバルツ兄弟を色々な所に案内した。小さいが綺麗な噴水のある公園、安くておいしいパンを売っている店、果ては近所に棲む猫や犬の集会所まで……あげればきりがないくらい、彼は色々知っていた。
 カールとトーマは、時間ができると下町に行くようになった。すると示し合わせたかのように、アゼルは二人の前に姿を現す。そしていつしか、アゼルという少年の存在は、二人にとって特別なものになっていた。
 ある時、いつものように下町の一角で出会うと、碧水の双眸を持つ少年は言った。
「ねえ、カール、トーマ、これから僕の家にこない?」
「アゼルの家に? いいのか?」
 カールは遠慮がちに問うた。いままで色々な所に案内されてきたが、アゼルは自分の家のことは話ですらふれたことはなかったのである。何か理由があるのだろうと思い、カールも訊かなかったし、トーマも兄が訊かないのなら、とそれに倣っていた。  
 アゼルはにっこりと笑ってみせる。
「いいよ。二人なら、信用できるしね。ただし――」
 と、アゼルは声をひそめた。カールとトーマにしか聞きとれないくらい、小さな声だ。二人は、彼の言葉を正確に聞きとろうと身体を寄せる。他の者から見れば、いかにも密談といった光景だ。子供同士であるから、道行く大人たちには微笑ましい光景でしかなかったが。
 アゼルは口調にいたずらっぽいものを含ませた。
「これから僕の家で見ることは、誰にも言ってはいけないよ。勿論、ご両親にも。二人とも、約束できるかい?」
「ああ、約束する」
「はい、誰にも言いません」
 一体彼の家で何が見られるのだろうか。カールもトーマも何だか楽しくなってきた。
「よぉし、じゃあ、行こうか」
 アゼルも楽しそうである。兄弟は、導かれるままに街路を歩いていった。


 その家は、帝都のはずれにあった。大きな倉庫のある一軒家だ。
「さあ、着いたよ。ここがいまの僕の家さ」
「いまの?」
 耳ざといカールは、アゼルの言葉に敏感に反応した。トーマがアゼルを見上げる。
「アゼルさんは、別の所に住んでいたことがあるんですか?」
「ああ、そうだよ。というより、訳があって、いまは僕だけここに住んでいるんだ」
 アゼルの話によると、彼の母親と弟は帝都からだいぶ離れた所にある、小さな村に住んでいるという。ちなみに父親は二年程前に亡くなっている。
 彼が家族の話をするのは、初めてだった。特に弟がいるということは、カールとトーマを驚かせた。
「弟がいるのか?」
「いるよ。ちょうどトーマと同じくらいかな」
「どんな子なんですか?」
「トーマと同じくらい優しい、いい子だよ」
 照れたように笑うトーマの頭を撫で、アゼルは家の中に入っていく。カールとトーマは好奇心に満ちた瞳を見交わすと、彼に続いた。
「こっち、こっち」
 アゼルが手招きする。彼の前には扉があり、それは倉庫につながっているようだった。やってきたシュバルツ兄弟とともに扉をくぐる。中は昼だというのに真っ暗だった。
 扉をくぐったところで思わず立ち止まった二人に、
「明かりをつけるから、ちょっとここで待ってて」
 アゼルがいたずらっぽい眼差しを向けた。
 碧水の双眸を持つ少年は、慣れた足取りで闇の中に入っていき、その姿はすぐに辺りに溶け込んだ。すると闇の中から、何かのうなり声のようなものが響いてきた。
 トーマは思わず兄の足にしがみついた。
「に、兄さん、何かいますよ!?」
 カールは数瞬の間警戒するような表情だったが、やがて何かに気づいたように微笑する。
「大丈夫だ、トーマ。兄さんがいる。それに、怖がることなんてなさそうだぞ」
「え? どういうことですか?」
「いまにわかるさ」
 そう言って、カールは視線を闇の奥に向けた。トーマも、怖かったが大好きな兄が「大丈夫」と言ってくれたので、多少安心してアゼルの消えていった方を見やった。
「カール! トーマ! 明かりをつけるよ!!」
 少し離れた場所からアゼルの声がしたかと思うと、室内が明るくなった。
 それを見た瞬間、シュバルツ兄弟は、翡翠の双眸を全開にし、驚きと感歎の声を上げていた。二人の目の前には、アゼルの瞳と同じ碧水のコマンドウルフがいた。右の首筋あたりに月と星を思わせる、不思議な紋章がはいっている。
「コマンドウルフ……!?」
 カールは驚きの眼差しをアゼルに向けた。コマンドウルフといえば、共和国のゾイドとして知られている。いま帝国と共和国は微妙な関係にあり、神経を尖らせている者は多い。が、そんなことをカールは気にするつもりはない。帝国であろうが共和国であろうが、同じ人であることにかわりはないのだから。気になるのは、何故アゼルがゾイドを所有しているか、だ。
 そんな彼の考えを読んだのであろうか、アゼルは笑ってみせた。
「彼の名前はフェンリル。僕が生まれた時から一緒にいるんだ。元々は父さんのゾイドでね。共和国とは関係ないよ」
「あの、アゼルさん、触ってみてもいいですか?」
 興奮しているのか、頬をやや上気させてトーマは言った。
「いいよ」
「本当ですか!? ありがとうございます!」
「俺もいいか?」
「勿論、いいよ」
 シュバルツ兄弟は互いの顔を見合わせると、フェンリルに近づいていく。カールは何でもないような様子だが、トーマは多少緊張しているように見えた。
 カールはそんな弟の手を握り、笑いかける。
「大丈夫だ、トーマ」
 トーマは緊張がほぐれていくのを全身で感じた。大好きな兄に、同じように笑いかけると、そっと小さな手をコマンドウルフに向け伸ばす。
「わぁ……!!」
 指先をとおして感じるその感触に、トーマは歓声を上げた。弟が感じているものを、自分も感じようとカールはフェンリルに触れる。硬いかと思われたコマンドウルフの皮膚は、不思議な柔らかさとあたたかさの双方を併せ持っていた。言葉にはできない想いを、カールは口元に浮かんだ微笑にのせる。
 と、フェンリルが小さく鳴いた。
 その声に、トーマは身体をびくりと震わせる。何かコマンドウルフを怒らせるようなことをしてしまったのだろうか。するとアゼルが「心配ないよ」と笑う。
「フェンリルは喜んでいるだけだよ。僕以外の人に触れられるのは、久しぶりだからね。なあ、フェンリル!」
 相棒である少年の声に応えて、フェンリルは上機嫌らしい声を上げる。
「アゼル、操縦はできるのか?」
 カールは一番気になっていたことを訊いてみた。アゼルは複雑な微笑を口元にたたえる。
「まあ、ね。人並み程度なら」
 トーマは目を輝かせた。ゾイドを所有していること自体凄いが、操縦までできるとは。
「凄いですね、アゼルさんって!!」
「ありがとう。でもね……凄くなんか、ないんだよ」
「アゼルさん……?」
 トーマが小首を傾げる。アゼルの碧水の双眸に、一瞬悲しげな光がよぎったのを、カールは見逃さなかった。自分より年下のはずの少年が、この時は大人のように見えた。
「……アゼル、お前……」
 カールが口を開くと、アゼルは何かに気がついたような表情をする。
「あ、ごめんね、変なことを言って。それより、カール、トーマ、明日は暇かい?」
 どうだろう、とばかりにトーマは兄を見上げた。それに応えて、カールは頷く。先ほどのアゼルの様子は気になったが、あえてそのことは声にも表情にもださなかった。
「ああ、大丈夫だと思うが……それがどうかしたか?」
 碧水の双眸を持つ少年は、満足げに笑うと言った。
「なら、明日出かけないかい? フェンリルに乗ってさ」
 突然の提案に、兄弟は顔を見合わせる。
「いいんですか!? アゼルさん!?」
「ああ、そのかわり、朝早くになるよ。それでもいいかな?」
 返事は言うまでもない。
「じゃあ、決まりだね。明日の朝、ここに来て。準備をしておくから」
「ああ!」
「はい!」
 その後細かいことを決めると、この日はこれで別れた。


 シュバルツ兄弟は、その日の夜、期待に胸をふくらませながら眠りにつくのだった……。



                 ……To be continued.