一、碧水の双眸を持つ少年



 その日は、とてもよく晴れていた。蒼く澄んだ空に点在する雲が、羊の群を思わせる。シュバルツ兄弟の姿は、帝都の下町にあった。
 露店から客を呼び込む声や、値段を交渉する声が聞こえてくる。道行く人々の表情は皆明るく、子供たちなどは街路を走り回っており、ぼんやりしているとぶつかってしまいそうだ。
 カールは弟の手をしっかりと握る。
「トーマ、兄さんの手を放すんじゃないぞ」
「はい、兄さん!」
 兄の手を握り返しながら、トーマはにっこりと笑ってみせた。顔も声も上機嫌そのものである。下町にきたということも嬉しいのだが、何より兄と一緒にきたということが、この幼い弟には嬉しくてたまらないのだ。
 トーマの様子に、カールも思わず笑みをこぼす。
 二人はゆっくりと街路を歩いていく。弟の投げかける質問に、ひとつひとつ丁寧に答えてやりながら、カールも周囲に目を向けた。
 歩いていくうちに、だんだんと人通りが増えてきた。気をつけていたつもりであったが、前後左右から人の姿をした波が押し寄せた結果、トーマはいつの間にかひとりになっていた。
「あ……れ?」
 トーマは周囲を見回した。記憶にない道と建物ばかりが、視界に入ってくる。人の波に流されて、別の道に迷い込んでしまったようだ。
「兄さん? どこにいるんですか……?」
 不安げに首をめぐらす。が、大好きな兄の姿はどこにもない。そのまま立ち尽くしているわけにもいかず、とりあえずトーマは歩き出した。
「兄さん……?」
 トボトボと力なく歩きながら、まだまだ幼い少年は、その翡翠の双眸を動かす。映るのは知らない人と建物ばかりだ。
「……どうしよう……」
 不安と心細さに耐えきれなくなったトーマの瞳に、うっすらと涙が浮かぶ。

 兄さん、兄さん、どこにいるの? 僕をみつけて。僕はここだよ。

 小さな小さな胸を悲しみで一杯にしながら、トーマは歩いた。
 と、何かにぶつかった。
「わっ!? ご、ごめんなさい!!」
 ぶつかったのが人だとわかり、トーマは慌てて頭を下げた。が、相手が悪かった。彼がぶつかった男は、片手に酒瓶を持ち、まだ昼だというのに完全に酔っぱらっていた。
 男の酒に濁った両眼が、不快げに幼子を見下ろした。トーマはその視線に怯みながらも、もう一度頭を下げる。
「ごめんなさい! ぼんやりしていて……!!」
 男は酔って赤くなっていた顔を、さらに赤くした。
「このガキがっ!!」
「!?」
 襟首を掴まれ、トーマの身体は軽々と持ち上げられた。地を離れた小さな両足が、宙を蹴りつける。
「人がせっかくいい気持ちで飲んでいたのに、邪魔しやがって!!」
 トーマの顔が、息苦しさと恐怖でひきつる。
「兄さぁん……!!」
 浮かべていた光の滴が、翡翠の瞳からこぼれ落ちた。
「みっともない真似はよせ!」
 聞き覚えのない声が響いた。
 男とトーマの視線が、新たに現れた少年に向けられた。
 年の頃は、兄・カールよりも二つ、三つ下のようだが、身長はそう変わらない。同じ年頃の少年たちの平均身長を、遙かに上回っているだろう。雰囲気も大人びている。そして何よりトーマの目を引いたのは、赤みを帯びた茶色の頭髪の下の、少年の双眸であった。

 空の青と海の碧を溶け込ませたかのような、碧水の双眸――。

「誰だぁ? 小僧?」
 男は凄みをきかせて問うた。気の弱い者が聴けば震えあがりそうな口調だったが、少年は眉ひとつ動かさない。
「僕のことはどうでもいい。その子を放せ」
「何だとぉ!? てめぇには関係ねぇだろ!!」
「大の男が、そんなに幼い子に絡むな。みっともない。早く放せ」
「うるせぇっ! ひっこんでろ!!」
 少年は碧水の双眸を眇めると、一歩踏み出した。
「放せ、と言っているんだ」
「小僧……!!」
 男は声に怒気を込めると、トーマの身体を放り投げ、少年に向き直った。
「そんなに死にてぇか!!」
 不敵な笑みが少年の口元にたたえられる。
「できもしないことは、言うものじゃない」
 その言葉に、男は爆発した。酒瓶を投げ捨て、獣じみた咆哮を上げると、碧水の双眸を持つ少年に掴みかかる。少年の白く細い手が、無造作に男の手を払いのけた。信じられない光景であった。身長も体重も少年の倍以上はあるはずの男の身体が、手を払われた瞬間、よろめいたのだ。少年は男の鳩尾に容赦なく膝蹴りを叩き込んだ。声にならぬ奇声と大量の空気を吐き出して、男は地面を這う。
 少年は倒れた男には見向きもせず、座り込んだままのトーマの前に片膝をついた。数秒前までとは、まるで別人のように優しい表情だ。
「大丈夫かい?」
 呆然としていたトーマだったが、その優しい声に我にかえった。翡翠の瞳から、涙がいくつもいくつもこぼれてきて、白い頬をつたう。
 少年はトーマの頭をそっと撫でる。
「大丈夫。もう大丈夫だよ」
 撫でられる度に、トーマの両眼からは涙があふれだす。目の前にいるのは、知らない少年だったが、その手はあたたかく、何よりも優しかった。
 と、トーマの目が、男が起き上がったのを認めた。立ち上がり、自分に背を向けている、碧水の双眸を持つ少年に殴りかかる。
「――!?」
 トーマの様子と気配でそれを感じとった少年が振り返った。だが、男の方がはやく――その時だった。
「そこのお前っ!!」
 トーマがよく、本当によく知っている声が響いた。
 声の方へ目を向けた男が見たのは、自分目がけて繰り出される拳であった。振り向きざまに強烈な一撃を受け、男の身体は吹っ飛んだ。地面に叩きつけられ、そのまま動かなくなる。 
 男を殴り飛ばした少年は、軽く弾んだ呼吸を整えると、トーマに視線を移した。

 ――兄さん、兄さん。

 声がでない。そのかわりとでもいうように、涙が先ほどを上回る勢いであふれでてくる。
「トーマ……!!」
 大好きな兄が、自分の名前を呼ぶ。トーマは弾かれたように駆け寄り、膝をついた兄の腕の中に飛び込んだ。
「兄さぁぁん!!」
 トーマは力の限りに兄の服を握りしめた。もう離れない。もう放さない。
「トーマ……」
 カールは弟の小さな身体を抱きしめた。そして誓った。

 ――トーマは、絶対に護ってみせる。

 弟が落ち着いたのを見計らって、カールはその小さな身体を抱き上げた。自分たちを微笑ましげに見つめている少年に向き直る。
「お礼を言うのが遅くなって、すみません。弟がお世話になったようですね。ありがとうございます。さぁ、トーマ、お前もお礼を言いなさい」
「はい。ありがとうございます!」
 兄弟が頭を下げると、少年は慌てて両の手を振った。
「そんな、よして下さい。僕は偶然居合わせただけですし、先ほどはおかげで助かりました。こちらこそ、ありがとうございます」
 少年も頭を下げた。顔を上げた瞬間、翡翠と碧水の輝きがぶつかる。カールと少年は、何となく笑ってしまった。
 カールは態度を改め、親しい者に話しかけるように言う。
「俺はカール・リヒテン・シュバルツ。で、こっちが弟のトーマ。もしよかったら、キミの名前を教えてくれないか?」
「僕はアゼル。――アゼル・ラグナ。よろしくね」
 少年――アゼルは、風がはためくように笑ってみせた。それは、見る者の気持ちを穏やかにさせるような、とてもあたたかい笑顔だ。
 カールは意外に思わずにはいられなかった。大抵の者は、「シュバルツ」という名を聴くと、何かしらの反応を示す。が、アゼルは特に気にした様子はない。自然に受け入れてしまっているようだ。不思議に思ってそのことを口にすれば、アゼルは軽く笑ってみせる。
「みんながみんな、同じような反応をしたらつまらないし、カールたちだって嫌だろう? あ、勿論、僕だって、キミたちの家がどういうところかぐらいは知ってるよ。でも、僕にはキミの名前がカールで、この子の名前がトーマだ、って、わかっただけで充分だよ」
 そう言って、アゼルはトーマの頭を撫でる。トーマは嫌がることなく、嬉しそうな、くすぐったそうな顔で彼を見上げた。

 ……何かが違う。

 と、カールは思った。この少年は、いままで自分が出逢ったきた者たちとは、何かが違う。が、悪い気はしない。むしろ好感が持てる。
 すると今度はアゼルの方が問うた。
「そういうキミたちこそ、僕を見ても、何も感じないのかい?」
 兄弟は、互いの顔を見合わせる。兄の腕の中で、トーマが小首を傾げた。その姿はとても愛らしい。見ていたカールとアゼルが、思わず笑みをこぼしたほどだ。
「どういうことですか?」
 碧水の双眸を持つ少年は、大人びた笑みを口元にはりつかせると、ささやくように言った。
「周りの人を見てみて。僕と同じ目の色をした人がいるかい?」
 カールもトーマも、反射的に周囲の人々に視線を走らせた。色彩豊かではあるが、確かに目の前にいる少年と同色の瞳を持つ者はいない。二人が視線をアゼルに戻すと、彼はほろ苦い表情になる。
「いないだろう。誰も……」
 優しくて、それでいて、哀しい瞳が、兄弟の姿を映す。口にこそしないが、偏見の眼差しを向けられてきたのだろう。カールにはそれがわかった。幼いトーマも、アゼルが嫌な思いをしたことがある、ということはわかった。
「――綺麗だと思うよ、俺は」
 カールの言葉に、アゼルは驚いたように彼の顔を見直した。
「トーマはどう思う? アゼルの目?」
 聴くまでもないことであったが、カールは問うてみた。弟の返事は、兄の想像どおりのものであった。
「とっても綺麗だと思います!」
 トーマは間髪入れずに答えると、信じられないものを見ているかのような表情のアゼルに、笑いかけた。
「僕、好きです! アゼルさんの目!」
 アゼルは一瞬何を言われたのかわからなかった。

 何故恐れないんだ? こんな目の色をした者など、他にはいないのに。それを綺麗だって?

『この目の色って、悪いものなの? みんなが気味悪そうに見てくるんだけど……』

『そんなことはありませんよ。我々は好きです。とても綺麗ですよ』

 懐かしい声が耳の奥に、あたたかい笑顔が眼前に甦り、兄弟の言葉と顔に重なった。アゼルはその表情を、いまにも泣きそうなほど歪めた。が、それも数瞬のことで、すぐに笑ってみせる。そして、自分の中に生まれた、あたたかな想いの全てを言葉に込めた。
「――ありがとう」
 トーマが嬉しそうに兄を見上げ、カールはそんな弟に微笑してみせる。カールはトーマを抱いたまま、右手を差し出した。
「よろしく、アゼル」
「こちらこそ」
 差し出された手を、アゼルは握り返した。するとトーマが小さな手を精一杯伸ばしたので、アゼルはカールの方へと寄る。近づいた彼と兄の手に、トーマは自分のそれを重ねた。
「よろしくお願いします、アゼルさん!」
 三人は笑った。その日最高の笑顔で――。


 ……心地よい風が吹く。澄んだ空の下で握りかわされ、重ねられた手を、あたたかい陽光が静かに祝福していた――。



                 ……To be continued.