夜の虹に眠れ  <後編>





 自分の病室はこちらだから、と同じ階の廊下で、二人の少年とひとりの少女は左右に別れた。薄い黄色を纏った小さな背が角を曲がったところで、千石はそれまで浮かべていた笑顔を消し去る。無言のまま歩き出した彼に、は半歩遅れるかたちで続いた。
「――くん、気づいてる?」
 ささやくような問いかけではあったが、栗色の髪の少年は訊き返したりはしなかった。わずかに瞳を伏せ、やはりささやくように応える。
「はい。おそらく、千石さんと同じことに……」
「……そっか……」
 短い返事を境に、少年たちの間に沈黙が落ちた。廊下には他に人影がなく、二人分の足音だけがやたらと大きく響く。
「……いい子だよね、ミハルちゃんって」
「ええ、本当に」
「ずっと入院してて、友だちもいなくて……寂しかっただろうね」
「……千石さん……」
 はいたたまれないような気持ちになり、思わず足をとめていた。と、それに気づいたのか、山吹中のエースが振り返る。
「――俺って、どうもこういうめぐりあわせに、好かれているみたいだ」
 そして、それはやがてかけがえのないものとなっていくのだろう。互いにとって。少なくとも、彼はそう思いたかった。





 ――藍の空に月が浮かぶ。ぼんやりと滲んで見えるそれは、弱々しい光を地上に降らせながら沈黙を貫いていた。
 昼間よりも気温はぐっと下がり、夜風が冷たく肌を打つ。屋上への扉を開け放った千石は、予想以上の冷たさに我知らず身体をひとつ震わせていた。消灯時間はとうに過ぎ、病院中の照明は落ちている。本当ならば、こんな所にいていいはずがない。だが、どうしても、ここにこなければいけない気がしたのだ。
「……やっぱり、きちゃったのね」
 弱い月明かりの下で、切り揃えられた黒髪が翻る。ミハルは何もかも悟ったかのような、それでいて、何もかもをあきらめてしまったかのように笑った。
「うん……ここにくれば、逢えるんじゃないかと思って」
 痛みを隠して彩られた笑顔が、自分にも痛くて、千石はわずかに視線をそらす。それをどう受け止めたのか、薄茶の双瞳をした少女は唇を歪める。
「……ごめんなさい。騙すつもり、なかったの……」
「ミハルちゃん……?」
 千石の顔と声が、やや困惑の色をおびた。彼女の口から謝罪の言葉が洩れる理由が、とっさに理解できなかったのである。瞬きを二度ほど繰り返して、自分が招いてしまった誤解にようやく気づく。
「えぇっと、違う。誤解だよ。謝ることなんてない。大体、騙したって何? 俺、そんな風に思ってないよ」
 すると今度は、薄茶の双眸がそらされる番であった。
「知っているんでしょう? 私が――もう死んでいるって」
 一際冷たい風が、少年と少女の間を吹き抜ける。
 あの看護士は言った。確かに「ミハル」という名の少女はいた、と。「いる」ではなく、「いた」と言ったのだ。それが意味するところは、ひとつしかない。その少女は、数年前に息をひきとり、過去形で表す存在となっていた――。
「こういうのを、死にきれなかった、って言うんでしょうね。私、死んだ自覚はあるくせに、まだ『ここ』にいるの。ううん、いきたくないの。だって、私――」
 寂しかった。物心ついた時には、すでに入院していて。「友だち」というものがどんなもので、そのよさも知らないことが、とても寂しかった。若くして人生を終えてしまったことは、実をいえば、さして悲しくはない。だが、自分が独りだということだけが、どんなことよりも辛く、悲しいのだ。
「生きていても、寂しかったのに……死んじゃったら、もっと寂しくなる。お父さんもお母さんもいない。前よりも、ずっと独りになっちゃう……!」
 言葉の後半は、ほとんど嗚咽混じりになっていた。うつむき、両手で顔を覆う。
「だから、だから、まだ『ここ』にいるとわかった時、嬉しかった。身体は自由に動くし、これでもう独りじゃなくなるんだ、って思ったわ」
 だが、現実はそれほど甘くなかった。ミハルの姿は、誰の目にも映らなかったのである。人々の視線は、全て彼女の上を素通りしていった。同じ年頃の少年や少女を見かけるたびに、近寄って、声を投げかけても、誰も気づいてくれなかった。
 辛くて、悲しくて――とても、とても寂しくて。
 そんな時だったのだ。千石清純という少年に出逢ったのは。
 自分と年が近いのを見てとり、常のように近づいた。傍にいって、あたかも会話しているかのように言葉を紡げれば、それで充分だったから。だから、彼の眼に自分が映っていると知った時は、本当に驚いた。
「驚いたけれど、それ以上に嬉しくてっ……もう死んじゃってる私が、友だちなんて、つくっちゃいけないのに……!」
 すでに死んでいる自分では、別れを避けることはできない。自分だけでなく、相手までも悲しませてしまう。わかっていたのに――できなかった。伸ばされた手に縋りついて、さも生きているかのように振る舞って。
 ――怖かったから。
 死者だと知られて、恐怖や嫌悪の眼を向けられるのが。話をするのに屋上を選んだのも、そのためだ。建物の中にいれば、どこかしらに人の目がある。彼らの目に自分は映らないから、一見すれば、千石が無人の空間に話しかけているように見えるだろう。自分のために彼が奇異の眼差しを向けられるのも耐えられなかったが、自身が死者だと知られてしまうのが怖かった。
「ごめ……さい……ずるくて……嘘、ついて……ごめんなさいっ……!!」
 しゃくり上げる細い肩を、ふわりとあたたかいものが包んだ。千石の腕の中に、自身がおさまっているのだと理解するまで、数秒を要する。
「清純くん……?」
「謝らないで。きみは、何も悪くない。独りが寂しくて、それで友だちがほしい、って思うのは当たり前だよ。死んじゃったら、友だちをつくっちゃダメだなんて、誰が決めたわけでもない。きみは――何も悪くないよ」
 それは、昼間青緑の双眸を持つ少年が言ったことと、ほとんど同じだった。彼といい、千石といい、本当に優しい人たちだ、とミハルは思う。自分などにはもったいないくらいの、何と素敵な「友だち」だろうか――。
「それとね、俺が、ミハルちゃんの顔を見られなかったは――嫌だったから、なんだ。俺には何もできないって、自覚するのが……何かしたいのに、できない。それが、すごく悔しくて、悲しくて……」
 自分などにどうにかできるとは思わない――知っていた。わかっていた。けれども――心はそれで納得しない。したくもない。
 と、少女の腕が山吹中の三年生の背へとまわった。慰めるように、優しく叩く。
「それこそ、謝らないで。清純くんは、私にたくさんのことをしてくれたわ。勿論、くんも。私、もう寂しくない。寂しくないよ」
 千石はわずかに身体を離し、少女を見直した。その刻がきているのを感じて。
「――きみの名前、教えてくれる?」
 少しずつ輪郭をぼやけさせながらも、黒髪の少女は微笑んだ。その笑顔は、これまでみせたどんなそれよりも幸せそうで。
「私は、魅晴。柚原魅晴」
「柚原、魅晴ちゃん、か。うん、いい名前だね」
 鮮やかな色の双眸を細めて、少年は笑った。ほとんど泣き笑いにも近かったが、それでも精一杯笑ってみせた。
「――……ありがとう、私の、大切な友だち…………」
 言葉が夜闇に溶け終えた時、少女――柚原魅晴は、在るべき場所へと還った……。




 控え目に、本当に控え目に音がした。本当ならば、そんなものを立てる必要もなかっただろうに。傍までやってきたことを知らせるために、一度だけ、は音を立てた。
 藍の空の下に立ち尽くしていた千石は、ふっと口元をほころばせる。
「――ありがとう、気を遣わせちゃったね……」
 一連の出来事を、は扉の向こうからずっと見ていた。屋上までは二人一緒にきたのだが、彼は山吹の三年生だけをいかせた。そうした方がよい、と思ってのことだ。
くん……?」
 応えはない。青学の二年生は視線をやや下方に向けたまま、千石との微妙な距離を縮めようともしない。
「キミは、本当に優しいね……」
 たった一度の足音も、重ならない瞳も、縮まらない距離も、そして沈黙も……全ては別離を迎えた二人のために。静かな空気を壊さぬように気配と足音を殺し、千石の顔を見ないように顔はあげない。二人がいた空間に踏み入らないように距離を開け、どんな言葉をかけるべきか必死で考えている。これを優しいといわずに、何というのだろうか。
 と、山吹中のエースは頭上を振り仰いだ。
「ねぇ、くん、空を見てごらんよ」
 は黙然とその言葉に従い――わずかに双瞳を瞠った。
 夜に滲む月に、淡い七色の光が重なっている。
「……虹……」
「うん、魅晴ちゃんが還っちゃった後にね、ふっと浮かんできたんだ。きっと、彼女からのメッセージなんじゃないかなぁ」
 ――ありがとう……という、声が聞こえる。
 本当に礼を言うべきなのは、こちらかもしれないのに。
 そっと息をつき、千石はその場に座り込んだ。視線を月虹に固定したまま、片足を無造作に投げ出す。
「――くんは、先に戻っていてもいいよ。俺は……もう少しだけ、ここにいたいから……」
 栗色の髪の少年は踵を返し――ふと思い直したように、千石の元へと歩み寄る。何を言うでもなく、ただ黙って山吹中のエースの背後に座る。ちょうど背中あわせになるかたちだ。
くん……?」
「僕も、もう少しだけ、ここにいたいです――」
「――そっか……」
 後頭部に何かが重なる感触があり、千石は瞳を動かした。視界の隅に、明るい色の頭髪が浮かび上がって見える。あたたかな重みに、喉の奥から込み上げてくるものがあった。
「……魅晴ちゃん……笑っていましたね」
 の声が夜風に混じる。
「うん……」
「千石さんに逢えて、魅晴ちゃん、きっと幸せでしたよ」
「そうだったら、嬉しいなぁ」
 声が震えているのを悟られたくなくて、山吹中のエースは大きく息を吐き出した。いくら努力しても、おそらく自分の背後にいる少年は、きっと全てお見通しであろう。そうとわかっていて、あえてごまかそうとするのは、意地でも矜持でもなく、自分が泣けば、彼も泣くことがわかっていたからかもしれない。
「……忘れないであげて下さい」
「うん……」
 小さく頷き、千石は口元に微苦笑を飾った。
 ――泣いている。
 背中ごしに伝わってくる気配でわかる。やはり心優しい友人は、自分と一緒に泣いてくれている。それを申し訳なく思うと同時に、嬉しく思ってしまう自分は、どこかおかしいのだろうか。
 自身の背よりも、一回り以上は小さなそれに寄りかかり、山吹の三年生は改めて藍の空を仰いだ。
「――――忘れないよ…………」
 彼女からもらったもの、全てを――。
 月に架かる七色の橋が、ぼやけて見える。瞬きすれば、眦から何かが滑り落ちる。それは冷たくもあり、あたたかくもある、不思議な感触を伴っていた――。



 ずっと、寂しかった。
 キミに出逢うまでは。



 もう寂しくはない。
 キミに、出逢えたから。






                     ――Fin――




 <あとがき>

・前回に引き続き、またもくんと千石くんのお話になりました。ちなみにこれは、水帆ちゃんと一緒に考えた、お題三五「虹」でもあります。
 何だか最近は、幽霊さんのお話ばかり書いている気がします(実はまだ何本か幽霊話は考えていたりするのですけれど)。きっと遙かとかの影響だろうなぁ、と思う反面、しんみりとしたお話を書くのが嫌いじゃない、というのもあるのだと思います。悲恋とか死にネタは、少々苦手ですが; やっぱりみんなが幸せになれるのが、一番いいですよね。次は、もう少し明るいお話にしたいです。
 余談かもしれませんが、今回のゲストキャラさんのお名前は、『柚原魅晴(ゆはら みはる)』ちゃんと読みます。ずっと独りぼっちで寂しい思いをしていた彼女が、最後の最後で出逢えたのは、千石くんとくんという素敵な友だちで。お話を書きながら、生きる時間の長さに関わらず、人は幸せになることができるんだよね……とか、つい考えてしまいました。(以前、とある理由で水帆ちゃんと『幸せ』について、夜明けまで話し合ったことがあったので、そのことも含めて)。
 ここまで読んで下さって、ありがとうございました。

                                      2006.5.2    風見野 里久