夜の虹に眠れ <中編>
夕闇の迫りつつある空に、薄く雲がひろがっている。屋上に備えられた簡素なベンチに腰かけ、千石は瞳を細めて空を仰いだ。涼気を含んだ風が心地よい。
「……外って、気持ちがいいよね」
どこか寂しそうな声音に、千石は視線を地上へと引き戻した。落日色をおび始めた陽光が、少女の青白い顔をほんのりと染めている。
「……私ね、ずっと昔から、ここにいるの。満足に歩くこともできなくて、学校にも数えるほどしかいったことがなくて。友だちも、ひとりもいない……」
ミハルの「世界」はとても狭い。四角い空間と、窓から見えるわずかな光景。それが全てであり、それ以上のことは知らなかった上に、知る術もなかった。時折両親が持ってきてくれる写真集や画集で、「外」の様子を知ることはできたが、実際に触れる機会など皆無に等しい。
「でも、そんなの寂しいでしょ。だから、時々こうして病室を抜け出して、『外』を見にくるの。いつもは独りだったけれど、今日は清純くんがいる。それが嬉しい」
「……ミハルちゃん……」
千石は滅多に示すことのない動揺を、わずかに示した。何と言葉をかければいいのか、とっさに思いつかない。自分には、彼女のような経験がない。自分の足で「世界」をひろげることもできれば、心を許せる友人もいる。同じ人なのに、この差は一体何なのだろうか。
と、考えが顔にでていたのだろう、ミハルは気づいたように言う。
「あ、ごめんなさい。こんな、変な話をしちゃって。こんなこと話されても、清純くんだって困るよね」
寂しそうに笑う少女に、千石は頭を振ってみせた。何故そうしなければならないのか、彼は無意識のうちに悟っていた。もっとも、理由などなくとも、同じことをしただろうが。
「ありがとう……優しいのね、清純くんって」
――お優しいんですね。
全く別の顔、別の声がミハルに重なった。
山吹中のエースは瞳を細めて笑う。
「そんなんじゃないよ――ただ、そうしたかっただけ」
少しだけ、似ているのかもしれない。容姿や性格ではない。笑っていながらも、どこか寂しそうな光を宿した、優しい双眸が――自分の知っている彼に、少しだけ、似ている。
面会時間が終了し、名残惜しそうにしながらも帰っていく友人たちを、は病院の玄関まで見送った。これには桃城を率先として、皆が控え目に反対したのだが、青緑の瞳をした二年生は頭を振り続けた。本当にたいした怪我ではない自分のために、わざわざ見舞いにまできてくれたのだ。せめて見送りぐらいはしたい。
「じゃあな、。明日も、これたら顔を出すから」
「無理しなくていいよ。明後日には、退院できるんだから」
「なら、なおさらだな。見張ってないと、お前、すぐ無茶するし」
「桃がそれを言う?」
楽しげに笑う桃城とを、海堂たちは少し離れた場所で見ていた。いや、正確には見ているのはリョーマと七海の二人であって、海堂の方は、というと、何やら入院患者のひとりらしい老婆と話をしている。とはいえ、その反応に困っている表情からすると、「つきあわされている」という方が正しいのかもしれない。
「お年寄りの話って、長いんだよなぁ」
しみじみとした様子で笑い、七海はふと鮮やかな色の瞳を転じた。うつむき加減の黒髪を見、さりげなさそうに声をかける。
「それで、リョーマは一体何をそんなに考え込んでいるんだ?」
「……別に」
いつものそっけなさを装った返事が、今日はあまり力がない。
「――まあ、何となくわかる気もするけどな。あんまり考え込むなよ。別に誰も、リョーマを疎外なんてしてない」
琥珀の瞳が瞠られ、青学のルーキーが顔を上げる。どうしてわかったのか、という無言の問いに、七海は口元を歪めた。
「お前、忘れてるだろ。俺だって、あいつらに逢ってから、そんなに日にち経ってないんだぜ? 知ってることより、知らないことの方が多い」
「でも、七先輩は……」
「確かに、俺は海堂と同じクラスで、桃やとは体育とかで一緒だ。リョーマよりは、一緒にいる時間は長いよな。でも、それだけといえば、それだけだ」
いくらともに行動する時間が長いとはいえ、相手のことを知ろうと努力しなくては、見えてくるものなど何もないだろう。現に、同じクラスに属していても、名前と顔を知っているぐらいで、ろくに話もしたことがない者も存在する。勿論、共有する時間の長さも大切だが、必要なのはそれだけではないはずだ。
「海堂は見てのとおりの性格だし、桃やにしても、去年は違うクラスだった、って聴いてるぜ。お互いに相手を気にかけて、知ろうとしたから、いまの関係がある。それでもまだ知らない部分は、きっとあると思うけどな」
七海は後輩の髪をくしゃりと撫でてやる。
「焦るなよ。まだまだこれからだって」
「……そうっスね」
ようやくリョーマは笑った。この病院にきてから、初めての笑顔だった。それに満足そうに頷くと、朱色の双眸を持つ少年は表情を改める。
「考えることが悪いとは言わねぇけど、考えすぎるのはよくないぜ。周りが見えなくなるからな」
意味ありげな台詞に、リョーマはいぶかしげな表情をする。七海はすぐには応えず、視線を話し込んでいる友人たちに向けた。
「あの二人――特にが、リョーマのこと、ずっと気にしてたぞ」
「え……!?」
「病室で話してる間、ずっと様子を窺ってた。気がつかなかったか?」
先輩の声には、咎めるような調子はなかったが、リョーマは思わず瞳を伏せた。
――気がつかなかった。
向けられた意識はおろか、病室内でどんな会話をしていたかも思い出せない。つきまとう疎外感と寂しさを拭えずに、適当に相づちをうっていた記憶しかない。そんな自分を、あの先輩たちは、どんな表情で見ていたのだろうか。
考えて解決する問題ならば、じっくりと考えればいい。だが、世の中には考えるだけでは解決しない問題もある。今回の件もそうだろう。いくら考えたところで、桃城たちとの距離が埋まるわけでも、知らない部分が見えてくるわけでもないのだから。
のろのろと持ち上げた視線の先に、話を終えてこちらにやってくる桃城とが映る。どうやら海堂の方も、ようやく解放されたようだ。
「ほら、反省したんなら、それで終わりにしろって。もう過ぎたことなんだから」
「でも……」
言いよどむ一年生レギュラーの顔が、珍しく頼りない。中学テニス界を騒がす存在といえども、それを剥がせばまだほんの少年にすぎぬ。こんな時に、自分がどんな顔をすればいいのかもわからないほどの。
朱色の双瞳に笑みをひらめかせ、七海は後輩の背を軽く叩く。
「さっきみたいに、笑ってればいいんじゃないか。もう大丈夫だ、って。そうすれば、桃もも、きっと安心する」
「――はい」
大きく頷き、リョーマは口元をほころばせた。別に「笑え」と言われたからではない。傍らにいる二年生が自身に向けた感情に、自然に笑みが導かれていた。
――もう、大丈夫。
自分の考えや思いに沈んで、向けられた心を見落としたりしない。
「まだまだ、これからっスよね、俺たち」
夕食の時間になって、ようやく千石は病室に戻ってきた。そろそろ捜しにいこうかと思っていたは、ほっとしたように息をつく。
「お帰りなさい、千石さん。なかなか戻ってこられないから、何かあったのかと思いましたよ」
「ごめん、ごめん。実は友だちができちゃってさ、つい話し込んじゃったんだ」
「お友だちができたんですか。よかったですね」
にこりと微笑む青緑の瞳をした少年に、千石はわずかに唇を歪める。
――あぁ、やっぱり似ている。
巧妙に隠された寂しさ。それが言葉にできない切なさを呼ぶ。自分などにどうにかできるとは思わない。思わないが、何かしたい。
「難しいなぁ……」
「はい?」
「へ? あぁ、いや、何でもないよ。こっちのこと!」
知らない間に考えが口に出ていたことに、山吹中の三年生はおおいに慌てた。首と手の双方を振りながら、慌ただしく思考を回転させる。
「あ、そうそう、そのね、友だちの名前はミハルちゃんっていうんだ。歳は、たぶん俺たちとそんなにかわらない。入院生活が長いらしくてさ、友だちが少ないんだって」
「そうなんですか……お気の毒に」
ひっそりと呟き、は絆創膏と湿布の貼られた顔を翳らせた。その表情を見、本当に優しくていい子だなぁ、と千石はついそんなことを思う。少なくとも、自分の周りにはあまりいなかったタイプの少年である。
「それでね、もしよかったら、くんも彼女に逢ってあげてくれないかな? 明日も屋上で会う約束をしたしね。どうかな?」
「僕がご一緒でも、大丈夫なんですか?」
「うん、平気だと思うよ。彼女もきっと喜ぶだろうし」
ほのかな笑みをたたえ、食事に手をつける千石の横顔を、青緑の双眸が眺めている。そこには好ましいものを見るような、多量の笑みが含まれていた。
屋上へと出る扉を開け放った途端、どこまでも青く晴れわたった空が、来訪者たちを迎えた。二人の少年は流れ込んでくる空気に、それぞれの鮮やかな色の瞳を軽く細める。わずかに涼気を含んだ風が快い。
人気のない、静かな空間に彼女はいた。圧倒的な青の下に、薄い黄色がぽつんと佇んでいる。まるで独りとり残されてしまったかのように。千石が殊更明るい声を発したのは、そんな空気を察したからに違いなかった。
「あ、いたいた! おーい、ミハルちゃーん!」
片手を振りながら、小走りで少女に近寄っていく山吹中のエースに、は静かについていった。二人が軽く挨拶をかわす様を、少しばかり離れた場所から見守る。
「それでね、今日はミハルちゃんに紹介したい子がいるんだ」
千石はそう言って、ミハルとが正面から向きあうかたちになるように、身体の位置をずらす。
――重なる双眸。
薄茶と青緑の瞳が邂逅をとげた瞬間、そこに何かがよぎった。初めて出逢った者同士がもつ、特有の緊張感だけではない。もっと、別の何か――。
互いに感じとったものが表にでるよりもはやく、はにっこりと微笑んでみせた。
「初めまして、ミハルちゃん。青学二年、です。千石さんの友だち、になるのかな……?」
軽く首を傾ければ、栗色の髪がさらりと流れる。と、横で彼の自己紹介を聴いていた千石が、少なからず双瞳を瞠らせた。
「ちょっ、ちょっと、くん、俺とキミって、友だちじゃなかったの!? そう思っているの、俺だけ……!?」
もしそうならば、寂しい上に悲しいのだが。口調こそ冗談のようだが、眼差しには心がこもっている。それを見てとり、青学の二年生は慌てて首を横に振った。
「い、いえ、そうじゃなくて……千石さんは年も上だし、その……出逢って日も浅いのに友だちだなんて言うのは、厚かましいかなって思いまして……」
「くん――」
心底ホッとしたように息を吐くと、山吹の三年生は腕を伸ばした。自分より少しだけ低い位置にある頭部に手をのせ、わしゃわしゃと撫でる。
「よかった、嫌われてるのかと思っちゃったよ。厚かましいだなんて、とんでもない。俺は、くんと友だちになれて、本当に嬉しかったんだから」
より正確にいうならば、まるで弟ができたような気分だった。素直で優しくて、真っ直ぐで脆くて……なるほど、手塚たちがかわいがるのも当然だ、と「」という少年を知れば知るほど、そう思うようになった。
「弟みたい、っていう点では、壇くんもそうだけれど。あの子とは、また違ったタイプのそれだよなぁ」
うんうん、と独りで何やら勝手に納得し、頷く山吹中のエースを、青緑の瞳が不思議そうに見つめる。が、やがて唇をほころばせた。
「僕も、千石さんの友だちになれて、嬉しいです。――ね、ミハルちゃん」
唐突に話を向けられて、黒髪の少女は一瞬狼狽えたようであった。半ば反射的に首を縦に振ってみせる。
「え? ええ、そうね。私も、嬉しいわ」
返事はややぎこちない。千石の鮮やかな色の双瞳が、ほんの少しばかり眇められた。それは、彼女の言葉を疑ってのものではなく、何かに気づいたような、そんな眼差しであった。が、口に出して言ったのは、別のことだ。
「本当? ミハルちゃんみたいにかわいい女の子にそう言われるなんて、感激だなぁ」
数秒前まで浮かべていたものをかき消し、千石は若々しい顔に笑みを滲ませる。と、そこへ第三者の声がかかった。若い女性看護士が扉の向こうから、軽く顔を覗かせたのである。
「千石くん、こんな所にいたのね。包帯をとりかえる時間よ」
「あ、忘れてた。いまいきます! ――えっと、そういうわけだから、ごめん、ちょっといってくるね」
言葉の後半は、無論とミハルに向けてのものだ。申し訳なさそうな顔をする山吹中のエースに、二人は笑って頭を振った。自分たちはしばらくここにいるから、包帯をかえ終えたら、また戻ってくればいいではないか。
「うん、本当にメンゴね。終わり次第、帰ってくるから。あ、でも、風が冷たくなってきたりしたら、無理しないで中に入るんだよ。じゃあ!」
足早に屋上を去っていく背を見送り、残された少年と少女はどちらからともなく視線をあわせた。
「とりあえず、あそこにでも座ろうか」
の白い指が、屋上に設けられたベンチを示す。
「あ、くんは、足を怪我してたのよね。ごめんなさい、気づかなくて」
「謝ることはないよ。そんなつもりで言ったわけじゃないから。でも、気遣ってくれて、ありがとう」
「どういたしまして」
そこだけ切りとったかのような、ゆったりとした時間が過ぎる。ベンチに腰を下ろした二人は、特に何かを語りあうでもなく、黙然と空を仰ぎ見ていた。
「――私……ひどい子でしょ?」
音もなく流れていく雲を視界におさめたまま、ミハルがぽつりと呟いた。ともすれば、風に吹き散らされそうな音量だ。
「どうして、そう思うの……?」
優しい声音だった。具体的なものを何ひとつ訊かず、自然なかたちで問いかけてくる。その声と眼差しがあまりにも優しすぎて、黒髪の少女は思わず泣きたくなった。
「だって、あなたは気づいているだろうけれど、清純くんは――」
「……千石さんも、薄々気づいていると思うよ。あの人は、鋭い人だから」
「それならなおさらよ。私はっ……!!」
言葉に詰まり、膝の上で組んだ指が白くなるほどきつく握りしめる。目頭が熱くなり、じわりと視界が滲んだ。と、横から伸びた手が、ふわりと自身のそれに重ねられた。
「私っ……寂しかったの……ずっと、独りで……だから、友だちが、ほしくて……!」
つたわるぬくもりに促されたように、気がつけば、ミハルは自身の心の内を吐露していた。ずっと、ずっと独りで、寂しくて。だから、差し伸べられた手に縋った。それがどんな結果を招くか、わかっていたのに……。
「それは、悪いことなの……?」
は重ねた手にそっと力を込める。青緑の双眸は、どこまでも深い。
「独りが寂しいのも、それで友だちがほしいと思うのも、当たり前のことだよ。悪いことなんて、何にもない。それにね、本当にひどい人は――誰かのために泣いたりはしないんだよ」
ミハルははっと息を呑んだ。見開かれた薄茶の双瞳から、光の雫がこぼれて頬をつたう。それをあいている方の手で拭ってやりながら、栗色の髪の少年は穏やかに笑った。
「きみは優しくて、とても素敵な女の子だよ」
千石が、この少女を放っておけなかった理由が、少しだけわかった気がした。
真新しい包帯を、深い思案をたたえた瞳がじっと見据えている。そのあまりにも真剣な面持ちに、包帯のとりかえを行った女性看護士は眉根を寄せたようだった。きつく巻きすぎでもしただろうか。心配になってそう尋ねれば、千石はぱっと表情を切りかえた。
「いえいえ、そんなことないですよ。ありがとうございます」
「そう? なら、いいのだけれど……」
若い女性看護士は軽く首を傾げる。では、数瞬前までみせていた、あの表情は何なのだろうか。いぶかしむ彼女に、山吹の三年生は曖昧な笑みを口元に飾ってみせた。わずかに視線を落とし、これまたわずかに声をひそませる。
「ひとつ、訊きたいことがあるんです。この階に、俺たちと同じ年頃の、ミハルちゃんという名前の女の子はいますか――?」
暫しの沈黙。やがて返ってきた、心の片隅で予想していたとおりの言葉に、彼は唇を噛んだ。ますますいぶかしむ女性看護士の視線から逃れるように、軽く天井を仰ぎ見る。
――無性に、空が見たくなった。
……To be continued.