――ずっと、寂しかった。

                 キミに出逢うまでは。





                 夜の虹に眠れ  <前編>





 空に浮かぶきら星たちが、誇らしげに凱歌をあげた翌日、青春学園にほど近い場所にある市立病院に、彼らの姿はあった。山吹中の三年生・千石清純と、青学の二年生・の二人である。ほとんどの者は知らないが、朝の新聞の一面を大きく飾った事件を、見事に解決した功労者たちだ。
 年齢も性別も様々な患者たちの間を、は歩いていた。薄い水色のパジャマの肩に、同色の上着を羽織り、軽く右足をかばうように歩いている。母親似の、繊細なつくりの顔には、湿布やら絆創膏が貼られ、何とも痛々しい姿である。
 昨日、お好み焼き店に数人の暴漢が入り込み、店長や従業員、そして居合わせた客たちを、店もろとも焼き払おうとする事件が発生した。男たちは事件を起こす一ヶ月ほど前、その店で酔って暴れたことがあった。その際、店長たちによって店の外に追い出されたことがあり、それを根に持っての犯行、と新聞には書かれている。皆の前で恥をかかされ、恨んでいた、とも。自分たちに非があることを自覚しもせず、無差別殺人を行おうとした醜悪さに、新聞を読んだ誰もが男たちを嫌悪し、軽蔑したものだ。
 と千石が、その店に居合わせたのは、ほんの偶然でしかなかった。だが、その偶然が、多くの命を救ったのである。二人の少年の活躍によって、暴漢たちは全員逮捕され、店が焼かれることもなく、死亡者はひとりもでなかった。ただ、奮闘の結果、少年たちは少なからず負傷し、検査も兼ねて数日間入院することになった。
 病室へと戻ってきたを、明るい笑顔が迎えた。
「あ、くん、お帰り」
 ベッドの上で上体を起こしていた千石が、ひらひらと片手を振ってみせる。その膝の上には、何かの雑誌がひろげられている。青学の二年生が病室を出た時には、確か持っていなかったから、売店で買ってきたのだろうか。
「すれ違いだったね。ついさっきまで、うちの部の連中がきてたんだよ。くんに、紹介したかったなぁ」
 見舞い品なのだろう。私物を入れる戸棚の上には、真新しい花がいけられている。いま千石が読んでいる雑誌も、山吹中テニス部の者が持ってきたものだという。もそうだが、千石も軽く動く分には問題のない身体なので退屈だろう、という配慮からだ。
「それで、足の方はどうだった?」
 青緑の双眸を持つ少年は午前中にレントゲンを撮り、いましがた結果を聴いてきたところなのだ。は自分のベッドに腰かけ、まだ少し痛む右足をさする。
「レントゲンの結果、骨に異常はないそうです。鉄板をぶつけられたのに打撲ですんだなんて、ラッキーだったね、と先生も笑っていましたよ」
 ひびぐらいは、覚悟していたんですけれどね。は肩をすくめるように言う。病院側が気を遣ってくれたのか、それとも単に病室数等の都合なのか、と千石以外にこの部屋を使っている者はいない。ベッドの数も二つだけだ。おかげで事件のことを、はばかることなく話せる。
「そっか、よかったね。でも、ただの打撲でも、油断しちゃダメだよ。ここでしっかり治しておかないと、後でとんでもない事態を招くかもしれないからね」
 所属学校こそ違うが、三年生という立場らしく千石は言った。その言葉に、はどきりとした。ほとんどの者はまだ知らない。だが、自分は知っている。「とんでもない事態」を招いてしまった人物のことを。
 青緑の瞳に翳りがさしたことを認め、山吹中のエースはさりげなく話題を転じた。
「でも、よかったね。これで予定どおり、明後日には揃って退院できるよ」
 気遣われたことを悟り、はふわりと微笑む。
「そうですね。ところで、何を読んでいるんですか?」
「あぁ、これ? この雑誌の占い、よく当たるんだよ。昨日言った、『好きなものは我慢しましょう』っていうのも、これで見たんだ」
 そこでふと、千石の視線がページの隅に縫い止められた。小さく、だが、目につくように工夫された応募企画を読み、表情をひらめかせる。にも見えるように雑誌をひろげ、おもしろそうに言う。
「ねぇ、ねぇ、くん、この企画なんか、おもしろそうじゃない? 俺、応募してみようかなぁ」
「え? どれですか?」
「これ、この――」
 該当箇所を指差し、読み上げようとした時、扉がノックされた。二対の双眸が動き、若い女性看護士が顔を覗かせた。
「千石くん、左手の診察の時間ですよ」
「あ、そうだった。すみません、いまいきます」
 青学の二年生の手に雑誌を預け、千石は立ち上がった。





 礼を言って診察室を出ると、山吹中の三年生はひとつ息を吐き出した。真新しい包帯の巻かれた左手を見、目元を緩める。医師の話では、火傷の程度は軽く、痕もほとんど残らないだろう、とのことだ。
「よかった……これで、心配をかけずにすむな」
 南たち山吹中テニス部の者もそうだが、何よりも青学の二年生が安堵するだろう。彼は千石にライターを受け止めさせたことを、とても気にしていた。いくら利き手ではないとはいえ、テニスをやる以上、全く必要ないというわけではない。同じテニスをする者として、本当に申し訳ないことをさせてしまった。自分がやればよかった。青緑の瞳の少年はそう言って謝ったものだ。
「そんなに気にしなくてもいいのになぁ……」
 ガーゼを貼った頬を指先で撫で、千石は苦笑めいた笑みをたたえる。あの時、自分もも最善の行動をとったと思う。確かに、掌を痛めてしまうのは、ラケットを握ることを思えば、少々問題だろう。だが、おかげで皆が助かったではないか。
「むしろ、あれは俺がやってよかったと思うんだよね、うん」
 歩きながら腕を組み、独り言を続ける。
「だってさぁ、くんはあの時点ですでに足を怪我してたわけだし。その上、手まで怪我をしたら、しばらく何もできなくなっちゃうよ」
 手だけ、あるいは足だけならば、できることもある。ラケットを握れないのならば、足腰の強化練習をすればいい。走ることができないのならば、素振りなどに励めばいいだけの話だ。その両方ともできないのは、辛いであろう。
「それに……くんにばかり痛い思いをさせてたら、俺がいた意味がないじゃないか」
 欲を言うならば、自分が負傷することになっても、あの青学の二年生は無傷ですませたかった。あの日、あの店へと誘った者として責任を感じているのか、と問われれば、何か違うような気がする。
「うーん、年上としての義務……いや、違うな。手塚くんたちに申し訳ない、っていうのもあるけれど、単に怪我をさせたくなかったんだよなぁ。見たくなかった、というか……」
「大事なお友だちだから、傷ついてほしくない……そう思ったんじゃないの?」
「そう! そういうこと! って――え?」
 何故独り言に応じる声があるのだろうか。千石は思わず立ち止まり、首をめぐらせた。ちょうど彼の斜め後ろに、いつの間にか少女の姿がある。肩で切り揃えた黒髪に、薄茶の双眸。やはり入院患者なのだろう、薄い黄色のパジャマを着ている。
「えっと……きみは?」
 少女は瞳を瞬かせ、千石がいぶかしく思うほど、山吹中のエースの顔を凝視した。が、それもわずかな間のことで、話を聴いていたことを一言詫び、晴れわたった空のような笑顔をみせる。
「私はミハル。あなたは?」
「俺は千石清純。よろしくね、ミハルちゃん」
「こちらこそよろしくね、清純くん」
 挨拶が終わると、千石は改めて少女を見直した。年齢は自分と同じくらいだろうか。色が白く、やや痩せすぎの印象を受ける。ひょっとしたら、入院生活が長いのかもしれない。色々やりたいことのある年頃だけに、長期の入院はさぞ辛いだろう。
 ミハルは軽く首を傾けると、思い出したように笑う。
「清純くんって、おもしろいね。さっきからずっと見ていたけれど、ほっとした顔をしていたかと思えば、急に考え込んだりして……つい笑っちゃった」
「あははっ、見られてたんだ。いやぁ、恥ずかしいなぁ」
 台詞ほど恥ずかしがっている様子もなく、山吹中のエースは頭を掻く。そして、常日頃そうしているように、誘いをかける。
「ねぇ、ミハルちゃん、ここで会ったのも何かの縁だよ。俺と一緒に、喫茶店でお茶でもしない?」
 ここは病院で、誘う方も誘われる方も、ともに入院患者ではなかったのか。傍で聞いている者がいれば、間違いなくそう思ったことだろう。千石もそれはわかっていたが、何となくミハルを見ていると、このまま別れてしまってはいけないような気がしたのである。それが何故かは、彼自身にもわからなかったが。
 少女は少しの間考え込み、わずかに目を伏せた。
「ごめんなさい……私、病室を抜け出してきちゃったから、あんまり人目につきたくないの。先生や看護士さんにみつかったら、連れ戻されちゃうし……」
「なら、そこの自販機で何か買って、屋上で乾杯、なんてどう?」
 さりげなく自身の身体でミハルを隠し、千石は茶目っ気たっぷりに片目を閉じてみせる。するとミハルの顔に笑みがひろがった。細すぎる手を伸ばし、明るい色の髪をした少年の袖を掴む。
「うん! いく!」
「よぉし、決まりだね!」
 山吹中のエースはミハルの手をとると、できるだけ不自然にならぬよう歩きつつ、病院関係者の目に気をつけて歩いた。秘密の行動というものは、緊張もするが、なかなかどうして、心が弾む。少女も同じことを思ったのか、千石と視線が重なるといたずらっぽく笑ってみせた。





 病室の扉がノックされた時、はてっきり千石が帰ってきたのかと思った。だが、扉の向こうから顔を覗かせたのは、桃城であった。
「よっ! 調子はどうだ?」
 明るい笑顔と声に、青緑の双眸を持つ少年もつられたように微笑む。
「いらっしゃい。きてくれたんだ」
 当たり前だろ、と言う二年生レギュラーに続いて、七海、海堂、リョーマが入室してくる。朱色の双眸を持つ少年の手には、色とりどりの花束がある。問うような青緑の瞳を受けて、七海が「部員たちでお金をだしあって買ったものだ」と教えてくれる。
「そっか。何だか悪いな、全然たいした怪我じゃないのに」
 花を受けとって、は微苦笑した。
「そんなこと気にするなよ。こういうのは、気持ちだろ」
「そうそう」
 桃城の言葉に、七海も同意する。穏やかな微笑を口元に刻み、は視線を動かした。室内には花瓶がひとつしかなく、しかもすでに別の花がいけられている。と、彼の視線に気づいた桃城が、鞄をベッドの脇に置いた。
「花瓶、もらってくる」
「あ、僕がいくよ」
 ベッドから足をおろそうとした親友を、桃城が頭を振って制する。
「お前は足を怪我してるんだから、おとなしくしてろよ」
 それだけ言うと、七海たちにひとつ頷いて部屋を出ていった。は軽く肩をすくめ、足を元の位置に戻す。パジャマの上から右足をさすり、何ともいえない感情に唇をわずかに歪めた。
「――肝心な時にいなくて……ごめんな」
 事件の直後、桃城はそう言って頭を下げた。一晩経ったいまも、いつもとかわらぬ言動の中で、彼の瞳は悲しそうな色を滲ませている。自分はいつもそうだ。肝心な時に何もできず、結果としてばかり傷つけてしまっている。こんな親友ですまない、と無言の言葉が聞こえてくるのだ。
 そんなに気にすることはないのに、とは思う。こんな怪我などすぐによくなる。また皆でテニスもできる。だから、そんな顔をすることはない。そんなに自分を責めることなどないのだ――そう音にしても、おそらく正確には伝わらないだろう。感情の全てを言葉だけで満たせられるほど、人の心というやつは単純にできていない。
「……そんなに、気にすることないのに……」
 同じ頃、こことは別の場所で、全く同じ台詞が呟かれていることを、は知らない。もしもこの場に千石がいれば、「お互い様だよ」と微苦笑混じりに言っていたことだろう。
先輩……?」
 右足を見つめたまま黙り込んでしまったに、リョーマが心配そうに首を傾げた。傷が痛むのだろうか。
「あ、ごめん。大丈夫、何でもないよ。ちょっと、考え事しちゃって……」
 栗色の髪の二年生は慌てて笑顔を繕うと、白い手を伸ばして後輩の頭を撫でる。まるで幼子に対するかのような仕草だったが、リョーマはされるがままになる。澄みきった琥珀の双瞳が、いぶかしむように細められた。
「……おんなじ」
「え?」
「何でもないっス」
 それ以上の追求を避けるように、青学のルーキーは肩にかけていた鞄をおろし、桃城のそれの隣に置きにいく。今日一日というもの、桃城は時折物思いに沈んでいることが多々あった。部活の合間に、休憩中に、それまで浮かべていた明るい表情をかき消して、どことも知れぬ場所を見つめる。どうしたのかと声をかければ、「何でもない」と笑うのだ。いまののように。本当に、何事もなかったように。
 ――距離を、感じる。
 背中に視線を感じつつ、リョーマは胸中でそっと息をついた。こういう時、年齢というものを痛感する。自分が青学に入学してから、まだ数ヶ月だ。自分の周囲にいる者たちのことは多少わかってきたが、あくまで「多少」でしかない。どれほど身近に感じていても、自分の知らない「顔」が、まだまだたくさんある。普段はあまり気にしないが、それが時折何とも寂しく感じられる。一年の差は、大きい。
 後輩を一瞥し、七海はベッドの側に椅子を引き寄せる。
「それで、足の方はどうなんだ? 骨とかは平気か?」
 朱色の双眸に映る友人の足は、どう見ても細い。河村や桃城などがその気になれば、あっさり折れるのではないか、と思うほどである。もっとも、彼らがそのような気になることなど、生涯ないのだろうが。
「うん、ひびぐらいは覚悟してたんだけどね、思ったより頑丈だったみたい」
「頑丈」という言葉が、これほど似合わない奴も珍しい。所在なげに部屋の隅にいた海堂は、の、色の白い顔を見ながらそう思った。
 と、その視線に気づいたのか、青緑の瞳が海堂のそれを見返した。
「海堂、そんな隅にいないで、こっちにきたら? リョーマくんも」
 笑顔で手招きされ、海堂とリョーマは互いの顔を見合わせると、素直にそれに従う。お世辞にもたわいもない会話、というものが得手ではない二人だったが、約半日ぶりに見た穏やかな笑顔に、ほっとするのだった。



                             ……To be continued.