翼の舞い降りた地 <前編>





 嫌な夢を見た――それがどんなものだったのか、記憶には残っていない。ひょっとしたら、無意識のうちに消去されたのかもしれない。自己防衛本能という奴であろうか。
 だが、それでも夢の残滓は、不快な感触を伴って、少年の心にまとわりついていた。身体中から汗が噴き出し、呼吸は荒い。どうにも不快な目覚めである。
「――まいったな……」
 汗で額に貼りついた前髪をかき上げ、は大きく息を吐き出した。



 その日は朝から雲が多く、その色も白というより灰色に近く、どこか空が低くなったような錯覚さえ起こさせる。
 青春学園男子テニス部は、いつもとかわらぬ朝の風景を迎えていたが、は何度目かのため息をついていた。まるで空模様に同調したかのような憂い顔に、周囲の者は密かにいぶかしんだ。何かあったのだろうか。
「――
 横手からかけられた声に、青緑の双眸を持つ二年生は視線を持ち上げる。視界におさまったのは、同じ二年生の桃城だが、こちらはレギュラーである。
 桃城は親友の顔を軽く覗き込んで、眉をひそめる。
「……大丈夫か? 少し顔色が悪いぞ」
 元々は色が白いのだが、この日はさらに白くなっている気がするのは、自分の気のせいであろうか。
「……平気だよ、ありがとう……」
 声にも表情にも、およそ覇気というものがない。一応口元には微笑を飾っているが、それもつくられたものだということを、の親友は見抜いていた。
「――何か悩み事でもあるのか?」
 は応えない。今朝のことを話すべきか否か、胸中で思案をめぐらせる。自分にとっては、夢のことは充分にひきずるだけの価値のあることだが、桃城にとってもそうとは限らない。話せば、「何だ、そんなことか」と言われるだろう。できることならば、親友のそんな反応は見たくなかった。
?」
 二年生レギュラーは小首を傾げる。それ以上は口にしないが、その瞳は重ねて問いを発している。
 迷った末に、は重い口を動かす。昨夜から今朝にかけて、夢を見た。起きた時には内容は憶えていなかったが、嫌な夢であったことは覚えている。それがどうも心にひっかかって、いまだに振り切れない……。
「……時々あるよなぁ、そういうこと。はっきりとは憶えてねぇのに、何か気分がすっきりしないんだよな」
 想像していたものとは違った反応に、は内心でほっとした。次の言葉を耳にするまでは。
「そんな夢のこと、さっさと忘れちまえよ」
 二年生レギュラーは慰めの意味も込めて、口調を明るいものにする。
「憶えてもいないなら、別にどうでもいいじゃねぇか」
 青緑の瞳をした少年の脳裏に、暗い疑問が浮かんだ。
 ――憶えていない? 本当にそうなのだろうか?
 自分は、本当は憶えているのではないだろうか。それをとっさに憶えていないと、自身に言い聞かせているだけではないか。
 そう思うと、双眸の先に深淵が口を開けているような気がした。思い出しそうな、だが、思い出してはいけない何かが、その中にある。何か――途方もなく恐ろしいものが……。痛みにならぬ痛みを左胸のあたりに感じ、は思わず整った顔をしかめた。
「何にせよ、そんなのただの夢だろ。気にしたって、しょうがないぜ」
「……ただの……夢……」
 呟いた声が乾いているのが、自分でもわかる。いつものならば、「そうだね」と笑うことができただろう。が、この時の栗色の髪の少年は、それだけの心理的余裕を持ち合わせていない。思い出すことも、憶えていることもなかったが、それでも、何かがの心の奥底を灼いた。
「――キミに……!」
 青緑の双眸が揺れ、声が震えをおびる。
「キミに何がわかるっていうのさ!?」
 叩きつけるように発せられた声の大きさに、桃城だけでなく、コート内にいた者たちも驚いた。青緑の瞳をした二年生が声を荒げるなど、滅多にあることではない。ましてや、その相手が自他ともに認める親友である桃城となれば、なおさらである。
 だが、誰よりも驚いたのは、叫んだ自身であった。愕然とした表情で桃城を見、唇を噛む。
「……あ……ご、ごめん、桃。ごめんね……!!」
「あ、いや、その……俺は、別に……」
 桃城はようやく我に返った様子で、視線を彷徨わせる。
「本当に、ごめんね……僕、ちょっと顔でも洗ってくるよ……」
 言い終えぬうちに、は逃げるようにコートを出ていった。
「あ、おい、……!?」
 二年生レギュラーは反射的に呼びかけたものの、青緑の双瞳がこちらに向けられることはなかった。若々しい顔に影が落ちる。脳裏では自分の言ったこと、そして親友のそれがめぐっている。
 レギュラーを含むテニス部員たちは、の去っていった方角と桃城とを、交互に眺めやった。事情はわからないが、二人の間に生まれた不穏な空気を、この場にいる全員が感じとっていた。
 蛇口から冷たい水流があふれだす。その中に直接頭をもっていくと、たちまち頭髪は水分を吸い上げていく。はそのまましばらく身動きしなかった。ややあってから水をとめ、折り曲げた上半身を元に戻す。大量の水滴が、栗色の髪の先からこぼれ落ちる。

『キミに何がわかるっていうのさ!?』

 耳の奥で響く、他ならぬ自分の声。はその場に座り込むと、濡れた頭髪を両手で抱え込んだ。冷たく濡れた目頭に、熱い雫が滲むのがわかる。
「……何やっているんだろう、僕……」
 呻くように呟き、抱えた膝に額を押しつけた。



 気まずい一日となった。桃城もも、互いを避けるような真似こそしなかったが、かといって、話しかけるにかけられない。午前中の授業、昼休み……と、時間は流れ、放課後になっても、結局桃城とは言葉をかわす機会に恵まれなかった。
 テニスコートへとやってきた桃城は、憂いを込めた視線を四方に放った。と話がしたい。自分の何がいけなかったのかも知りたい。それがわからなければ、何に対して謝ればいいのかも、どうすればいいのかもわからないではないか。
「……?」
 瞳は彷徨うばかりで、目的の人物を見出すことができない。先に教室を出たはずなのに、どうして姿が見えないのだろう。
 桃城は目的を変更し、大石を捜した。テニス部副部長は、一年生のフォームを見ているところであった。近寄って親友の所在を問えば、大石は眉をひそめた。
は、今日の練習は休むそうだ。『いまの自分がいては、皆さんに迷惑をかけますから』と、言っていた」
 大石の双眸に気遣うような色が浮かぶ。いたずらに首を突っ込む気はないが、いつも仲のよい後輩二人が気まずい関係になっているのは、気の毒に思えてならない。自分にも何かできることがあればよいのだが……。
「そうですか……が――」
 暫しの沈黙の後、桃城は何やら決意した表情で踵を返した。真っ直ぐにコートの入り口付近に立つ、テニス部部長の傍に歩み寄っていく。
「――部長、お願いがあります」
 いつになく真剣な様子に、部員たちは思わずそちらを見やった。



 青春学園からはやや離れた、人気のない公園に、少々不規則な音が発せられては消えていく。それはテニスボールが壁を打つ音であり、打っているのは青緑の瞳をした少年であった。いま彼は白と空色を基調としたウェアに身を包み、何かを振り払うかのようにラケットをふるっていた。
 基礎練習を徹底的に積んでいるは、まるで手本のようなフォームを持つことで知られているが、この時はほんのわずかな乱れを隠しきれていなかった。それは身体の持ち主の心理状態を、そのまま表している。少年の脳裏では、今朝のことが濁流となって渦巻いているのだ。自分がとんでもなく嫌な奴に思えてならない。
「……腕に余計な力が入っているな。そんな打ち方じゃ、怪我するよ」
「――!?」
 斜め後方からかけられた声に、は思わず身構えるように振り返った。打ちそこねたボールが、身体の横を通り過ぎていく。
「あぁ、ごめん。邪魔しちゃったかな?」
 声の主は白い学生服を着た、明るい色の頭髪の少年であった。身長は桃城と同じくらいだろうか。が、体格的には彼よりも小柄な印象を受ける。はその人物に見覚えがあった。
「……確か、山吹中の千石さん……でしたよね?」
 青学の二年生は、できるだけ落ち着いた口調で確認した。だが、内心では驚きを隠せない。ほど気配や音に敏感な少年が、来訪者の存在に気づかなかった。千石が凄いのか、それともの注意力が散漫だったのか。おそらく両方であろう。
「へぇー、俺のこと、知ってるんだ。そう、俺は山吹中の三年、千石清純。練習の邪魔をしちゃって、ごめんね」
「あ、いいえ……」
 千石といえば、昨年はジュニア選抜に選ばれたテニスプレイヤーで、山吹中のエースである。強運の持ち主で、『ラッキー千石』とも呼ばれている。だが、幸運だけでジュニア選抜に選ばれたわけではなく、きちんとした実力と抜群の動体視力を持っている。からしてみれば、たとえ他校生であっても、充分敬意を払うべき存在だ。
 千石はの傍に歩み寄ると、苦みを含んだ笑みを浮かべた。
「随分一生懸命練習していたね。でも、腕に余計な力が入ってたよ。あれじゃ、肩か肘を痛めてしまう。せっかく上手なんだ、練習で怪我をしちゃったら、もったいないよ」
「……そうですね。すみません、ありがとうございます。ちょっと、考え事をしていたもので……そちらまで気が回りませんでした」
 伏し目がちにそう言えば、山吹中のエースは探るような眼差しを向けてきた。が、それも数瞬のことで、何かを思いついたような顔をする。
「ねぇ、キミ、いま時間はあるかな?」
「え? あ、はい、ありますけれど……?」
 は小首を傾げる。この時の彼は、目の前にいる他校生の真意を掴みかねた。
「それはちょうどよかった。なら、軽く打たない?」
「え? 僕が、千石さんと、ですか?」
「そう。今日はうちの部は練習が休みなんだ。ここには壁打ちでもしようかと思ってきたんだけど、せっかくいい相手がいるんだから、打たないともったいないでしょ、ね?」
 青緑の双眸を瞬かせ、は沈黙した。申し出が唐突であった、ということもあるが、自分が千石にとって「いい相手」とは到底思えなかったのである。が、青学の二年生の様子などお構いなしに、山吹の三年生はさっさと準備を始めてしまっている。
 えらいことになった、とは思う。いまの自分がいては、桃城を始めとした部員たちに気まずい思いをさせるし、何より自分自身集中して練習できるとは思えない。そう思ったからこそ、部活を休んでこの公園でひとり練習をしていたのに。それがどうして、山吹中のエースと打ちあうことになってしまったのだろうか。全く、これだから世の中何が起こるかわからない。
「サーブはキミからでいいよ。そのかわり、今日はそっちの方角がラッキーだから、そちら側のコートをもらうね」
「はい、どうぞ」
 壁打ち場の隣にあったテニスコートに入り、二人の少年はそれぞれの位置についた。
 白い手でボールをつきながら、青緑の双眸を持つ少年は大きく息を吐き出した。吐いた分だけの空気を吸い、瞳を持ち上げる。
 ――目がかわった。
 千石はおもしろそうに唇を歪めた。視線の先にいる少年の容姿には、全く変化がないのに、青緑の双眸に鋭いものが見え隠れしている。思ったとおり、彼はなかなか強そうだ。
「――いきます」
 短い言葉とともに、の左腕が上がり、ボールが宙へと飛んだ。それにあわせて細い足が地を蹴りつけ、青いラケットが動く。
「うん、綺麗なフォームだね」
 独語と動作はほぼ同時であった。打ち込まれてきたサーブを、千石は軽々と返球する。だが、ラケットをとおして伝わってきた衝撃は、打球が見た目以上に重いことを知らせてくる。山吹中のエースは、浮かべていた笑みを深くした。
 軽くラリーが続き、千石は彼自身にとっては決め球と思える一撃を、絶妙のタイミングで放った。の立つ位置から考えれば、とるのは難しい。が、青学の二年生は驚くべき脚力でボールに追いつくと、見事に返してみせる。
「まさか、いまのをとるとはね……!!」
 感歎の言葉を呟きながら、すでにラケットは動いている。千石の放ったボールがサイドラインを打って、コートの外へ飛び出した。青緑の双眸を持つ少年は走ったが、半歩ほどの差で間に合わない。
 は軽く息を弾ませつつ、賞賛の眼差しを千石におくる。
「……さすがですね、千石さん」
「ありがとう。でも、キミも凄いよ」
 これは正直な感想であった。小柄な分パワーはなさそうだが、かといって、打球が軽いわけでもない。それだけではなく、捕球は難しいと思われるボールにあっさりと追いついた脚力と、安定したプレー……千石は自身の気持ちが高ぶってくるのを感じた。
「――おもしろい……!」
 小さなささやきであったが、は聴きとれたようであった。軽く小首を傾げる仕草をする。それに「何でもない」と返しながら、千石はレシーブの位置につく。その若々しい顔は、実に楽しそうであった。それにつられたのか、ボールをつくの表情にも微笑が彩られた。この日初めての、心からの微笑であった。



               ……To be continued.