「……タイミングがちょっとずれたかな」

 は手の甲で汗を拭い、何ともいえない表情で小さく首を傾げた。





            コートを駆ける疾風となれ <後編>





 四対の瞳が見つめる中、トスが上がった。両足が地を蹴り、身体が宙に躍り上がる。鋭い気合の声とともに、赤いラケットが振り下ろされる。
「――!?」
 は反射的に首をひねっていた。一瞬まで彼の顔があった位置を、ボールがうなりを生じて通過していった。前髪が目に見えぬ手ではね上げられる。
 ――ツイストサーブ……!!
 これこそが、リョーマの必殺技ともいうべきサーブである。通常のサーブとは逆の回転をかけることによって、ボールはバウンド後、相手に向かって跳ね上がる。
 ガシャン、とフェンスが派手な音を立てるのを背中で聴きながら、は小さな後輩の打ったサーブの威力に感歎していた。ランキング戦や練習中に何度か目にしたことはあったが、実際に受けてみるとその凄さがよくわかる。
「……凄い……」
 呆然と、だが、どこか嬉しそうに青緑の双眸を持つ少年は呟いた。
 そんな親友の様子を見、桃城は口元に浮かべた笑みをさらに深くする。
の奴、心底試合を楽しんでるな)
 と、リョーマが自分の方へ視線を注いでいるのに気づき、二年生レギュラーは口を開いた。
「30―0!」
 琥珀の瞳をした少年は、不敵な微笑を口元に刻んだ。
「もう一球、いきますよ」
「――お願いするよ」
 は汗が冷えていくのを感じつつ、少しばかり湿った前髪をかき上げた。
 リョーマの小柄な身体が宙を舞い、ツイストサーブが放たれる。結果は先ほどと同様であった。はボールとの衝突を避ける以外、為す術がないようにみえる。
「40―0!!」
 桃城は真剣な眼差しでを見つめる。あの強烈なツイストサーブは、やはりどうにもならないのだろうか。



 桃城と同じことを考えているのだろう、大石は眉をひそめての方を見つめている。
「利き腕ではないとはいえ、あの威力……はどうでるかな……それとも……?」
 独り言ともとれる呟きに、手塚は視線を転じることなく応える。
「――すぐにわかる」
 大石は問うような瞳を友人に向けるが、手塚はそれきり何も言おうとはしない。
 リョーマのツイストサーブを受ければ、並のプレイヤーは多少なりとも戦意をくじかれてしまう。が、手塚が見る限り、にその様子はない。
 ――おそらくは、ツイストサーブを返すつもりでいる。
 テニス部部長は、確信にも似た思いを抱いていた。
 副部長である少年は、少しの間、黙って手塚の横顔に視線を固定させる。が、元々表情をあまり動かさない友人であるから、その考えを読みとるのは難しい。大石はひとつ息をつくと、双眸をコートの方へ向けた。



 またもツイストサーブが放たれる。これが決まれば、このゲームはリョーマが制することになる。逆回転のかかったボールが、側のコートに飛び込む。
 と、青緑の双眸に鋭い光がよぎった。はボールに向け、数歩走る。ボールがバウンドするのとほぼ同時に腰を落とし、ラケットをふるう。
『――!?』
 両眼を見開かせたのは、リョーマだけでなく桃城もそうであった。彼らは知らないことであったが、離れた所にいた大石も同じ反応をみせていた。ただ手塚だけは、全く表情を動かさなかったが。
 鋭い音が響き、ボールは低く返り――ネットに阻まれて落下する。
「……ゲーム越前! 1―1!!」
 ぽかんと目を見開いていた桃城であったが、我に返ったように言った。
 青緑の双眸を持つ少年はラケットを見やり、軽く首を傾げると独語する。
「……タイミングがちょっとずれたかな」
 明らかに失敗した、という顔をしている先輩を、リョーマは笑みを浮かべて見ていた。先ほどのプレーが、決してまぐれなどではないことを見抜いての笑みだ。
 ――もう二、三回も打てば、確実に返してくる。
(やっぱり、この人は並じゃない……!!)
「……先輩」
「ん? 何?」
 琥珀色の瞳をした少年は、唇をにやりと歪めると、ラケットを右から左へと放るように持ちかえてみせた。
「合格! こっからは本気で相手をさせてもらいますよ」
「――光栄だよ」
 嫌味でもなければ、皮肉でもない。心からの台詞であった。はラケットの存在を確かめるように握り直す。リョーマが本気になった以上、先ほどまでのようにはいかないだろう。ひょっとしたら、もう一ゲームもとらせてもらえないかもしれない。
 と、は気がついたように、自身の手を見下ろした。数瞬の間、何やら思案をめぐらす様子であったが、「まあいいか」と独語した。その声はリョーマの耳にもとどいたが、何のことだかさっぱりわからない。が、気にするほどのことでもないと思ったので、訊かなかった。
 からのサーブが放たれる。コーナーを狙ってきたボールを、リョーマは右の時よりもさらに鋭く返した。返球するの腕に、先ほどまでを上回る衝撃と重みが伝わってくる。やはり利き腕とそうでない方での差は大きい。
 再びラリーの応酬が始まる。
 左利きと右利きでは変化が逆になるため、戦うには慣れが必要だ。が、青緑の瞳をした少年には、その慣れがあった。の動きは、少しも鈍っていない。
「――先輩って、左利きに慣れてるみたいっスね」
 センターラインに打ち込まれたボールを、フォアハンドストロークで返しながらリョーマは言った。
「うん、幸い僕の周りには、左利きの人が何人かいるから、ね!」
 台詞の最後ですでにボールを捉えている。勢いに流れそうになる四肢を制御し、は次のリターンに備える。駆ける身体の動きにあわせて、汗の玉が飛び散った。
「でも、僕の腕じゃ、いまみたく、ちっとも相手にならないんだけどね――っと!!」
 駆けだしたものの、つい三瞬ほど前までいた位置に打ち返され、は慌ててそちらへと足先を転じた。右腕を一杯に伸ばし、手応えを感じるのとほぼ同時に、上半身をひねる。スイートスポットは外したが、それでも充分なスピードでボールはコーナーの、それもラインギリギリを抉った。
「15―0!」
 コールする桃城の声に、感歎の色が混じっている。審判ではあるが、口の奥では「やるなぁ、」と友人を称賛していた。
 リョーマは軽く肩で息をしつつ、ふてくされたような表情をつくる。まだまだ幼さの残る顔立ちだが、こういう時はさらに幼さが増してみえるような気がする。
「……相手にならないとか言っておいて、しっかりポイント奪ってるじゃないっスか」
 は手の甲で汗を拭い、何ともいえない表情で小さく首を傾げた。口にこそしないが、「まぐれだよ」とその表情が語っている。
(……そうは思えないけどね)
 どうも目の前にいる先輩は、自分の力を過小評価している。リョーマはそう思ったが、口にはしなかった。いまはそんなことよりも、との試合の方がよっぽど重要であったのだ。
 決着がついたのは空が落日色に染まり、影が大地に長く伸びた頃であった。



 ボールが地を打つ音が響く。
 手塚はそれまでずっとコートを映していた双眸を、初めて伏せた。

 続いて桃城の声が上がった。
「――ゲーム・アンド・マッチ! ウォンバイ越前! 6―2!!」

 二人の少年は肩で激しく呼吸をしつつ、無言で互いの姿を瞳に映した。大量の汗が額から頬、頬から顎へと滑り落ちる。
 と、どちらからともなく、口の端に笑みをこぼした。それぞれネットの側に歩み寄る。
「――ありがとう、越前くん。凄く楽しかったよ」
 息を乱しばがらもはにっこりと笑ってみせた。リョーマは帽子をとると、すっかり湿って額に張りついた前髪をかき上げる。
「俺も結構楽しかったっスよ。やりますね、先輩」
「ありがとう、越前くん」
「――リョーマ」
「え?」
 琥珀の双眸を持つ少年は、口元に不敵な笑みを刻んで言う。
「――リョーマでいいっスよ」
 了解、とばかりに頷くと、は白く細い手を差し出した。
「リョーマくん、もしよかったらでいいんだけど、また試合してくれると嬉しいな」
「いつでもいいっスよ、先輩」
 青学のルーキーは帽子をかぶり直し、差し出された手をしっかりと握り返す。
 と、拍手の音がし、二人はそちらへと視線を移した。見れば、審判台からおりた桃城が笑顔で手を叩いている。
「お疲れさん、ナイスゲーム!」
 そう言って、友人と後輩にタオルを投げ渡した。リョーマとは、それぞれ礼を言ってタオルを受けとった。



 大石は隣に立つ友人を見やった。
「なあ、手塚、例の件、でほぼ決まりなんじゃないか?」
「……それは竜崎先生と相談して決めることだ。だが――」
 手塚の瞳が、真っ直ぐにに向けられた。
「――今日のことは、参考になったな」
 友人らしい物言いに、大石は小さく笑みをこぼすと、コートの方を眺めやった。何やら会話を弾ませている三人の後輩たちの姿が、落日の光の中に浮かび上がって見える。
「――全く、頼もしい後輩たちだよ」
 部を想う気持ちの篤い副部長は、どこか安心したような笑みを口元にはりつかせる。ひょっとしたら、彼の瞳は、これからの青学テニス部の姿を映しているのかもしれない。
「そろそろ帰るか、手塚」
「ああ」
 テニス部の部長と副部長は、それぞれバックを背負い直すと肩を並べて歩き出した。



 三人のテニス部員は、コートの隅で着替えながら言葉をかわす。
「なあ、お前らこれからどうするんだ? せっかくだからよぉ、ハンバーガーでも食いにいかねぇか?」
 桃城の提案に、リョーマとは一瞬瞳を交錯させると頷いた。
「いいっスよ」
「うん、僕も少しお腹すいちゃったしね」
「よし、決まりだな」
 嬉しそうに唇を歪める桃城を、琥珀の瞳をした少年が何かを思い出したように見上げる。
「そういえば、桃先輩、一昨日、次は奢ってくれる、って言ってましたよね」
 途端、二年生レギュラーの笑顔が凍りついた。そうだった、とばかりに、天を仰ぐ。脳裏では、予想される出費の計算が始まっている。数十秒もすると、計算の結果がでたのか、若々しい顔が心なしか青ざめた。
 ――やばい。
 口にされずとも、リョーマももその声なき声を聞いていた。
 青緑の双眸を持つ少年が、クスクスと笑い声を発する。
「いいよ、桃、今日は僕が奢ってあげる。勿論、リョーマくんもね」
「いいんっスか? 先輩?」
 リョーマは少しばかり困ったような顔を、に向ける。今日の試合を申し込んだのは自分だ。自分の願いにつきあってくれた彼に、この上奢ってもらうというのは、さすがに悪い気がする。
 そんな後輩の心を読んだのか、はにっこりと笑ってみせる。
「遠慮しなくていいよ。僕がそうしたいから、するんだもの。ね?」
 リョーマと桃城は互いの顔を見合わせると、次の瞬間には、拝むように両の手をあわせた。
『ごちそうになりまーす!!』
 その様子がおかしかったのか、は声を上げて笑った。


 コートを駆け抜けた風が、落日色に染まった世界の中に溶ける。
 安らぎの時を迎えて、再び駆けだすために。



                       ――Fin――



 <あとがき>

・今回のお話は、初めての前後編&試合風景でした。タイトルの方ですが、『コートを駆ける疾風(はやて)となれ』と読んで頂けると嬉しいです。特に理由はないのですが、疾風(はやて)という読み方が好きなもので。
 リョーマくんVSくんの試合……書いていて楽しかったですが、正直言って、試合シーンは知ったかぶりで書いております; そのためおかしなところ等が多々あるとは思いますが、大目に見て下さると嬉しいです; また桃くんには、いつも審判ばかりさせてしまっているので、少々申し訳ないですね(^−^;) 手塚くんと大石くんは、友情出演して頂きましたが、あまり出番がなかったので、こちらも少々申し訳ないです; 大石くんの言っていた「例の件」については、そのうちお話の中でとりあげるつもりですので、それまで待って下さい。
 次に試合風景を書く時は、くんと誰かのダブルスに挑戦したいなぁ、と思っております。最初はたぶん桃くんになるでしょうが。
 ここまで読んで下さって、ありがとうございました。



                              2003.6.13    風見野 里久