「先輩、明日の練習の後、俺と試合しません?」

     リョーマは流れる汗を拭うと、不敵な微笑を口元に飾った。





            コートを駆ける疾風となれ <前編>





 まだ練習が始まる前のテニスコートから、歓声が上がった。いや、正確にはテニスコートの外からであるが。集まっている者たちの視線の先では、二つの影がめまぐるしく動いている。
 と、そこへ唯一の一年生レギュラーであるリョーマがやってくる。
「何やってるの?」
 まだ練習は始まっていないというのに。そう思い、手近にいた同じ一年生に問いかけると、彼は何やら興奮した様子で答えた。
「いまね、先輩と林先輩が試合やっているんだよ!」
 リョーマは視線を彼からコートの方へと移動させる。確かにコート内にいるのは、と林だ。探るような瞳で試合を眺めていたリョーマだが、ふっとその表情を緩めた。圧倒的にが優勢だ。
 林の打ち返したボールが高く上がった。の青緑の双眸が、ボールへと向けられる。彼の身長を考えれば、それは頭上遥かを通過するはずであった。が、そうはならなかった。少年の身体が高々と宙を舞い、栗色の髪が風なき風にのって流れる。その姿は体重のない者のようであり、まるで風の一部と化したかのようだ。
 リョーマは無意識のうちに、左の掌を握りしめていた。
 ラケットが大気を鋭く鳴らす。次の瞬間、ボールは林の足下へと突き刺さっていた。勢いよく弾んだ打球が、コートの外へと飛び出す。林はそれを半ば呆然と見送った。
 審判を務めていた桃城が高らかに宣言する。
「ゲーム・アンド・マッチ! ウォンバイ! 6―0!!」
 一瞬の沈黙をおいて、観戦者たちの口から弾けたような歓声が上がる。特に一年生などは、日頃から評判のいい先輩の圧勝に、興奮状態だ。口々に試合の評価が始まる。
「凄かったねーっ! 最後のジャンピングスマッシュッ!!」
「さすが先輩っ!!」
「足が速い上に、ジャンプ力も半端じゃねぇよなぁ!」
 そんな言葉を背中に受けながら、青緑の双眸を持つ少年はクラスメイトと握手をかわした。それが終わると、審判台からおりた桃城に向かって軽く片手をあげてみせる。
「審判してくれて、ありがとう、桃」
「たいしたことじゃねぇよ。それより、お疲れさん」
 桃城は小さく笑うと、友人にタオルを差し出した。礼を言ってタオルを受けとると、は若々しい顔を流れる汗を拭いていく。手を動かしつつ、親友と言葉をかわす。細い肩が上下しているが、話をする分には問題ないようだ。
 その様子を、琥珀の双眸を持つ少年がじっと見つめていた。




 練習を終え、皆が部室へと引き上げていく中、リョーマは彼の元へと歩み寄った。気づいたが、汗を拭く手を止める。
「どうかしたの? 越前くん?」
 琥珀の瞳が、真っ直ぐにを映し出す。
先輩、明日の練習の後、俺と試合しません?」
「え……!?」 
 唐突といえば、あまりに唐突な申し出に、は思わず声の主の顔を見直した。リョーマの瞳は真剣そのものだ。
「先輩と試合がしてみたい」
 自身の正直な気持ちを、リョーマは口にした。技術や経験等は圧倒的にこちらが上だ。勝負をしても、まず負けることはないだろう。だが、練習前に見た試合が、忘れられなかった。とにかく、彼の動きが綺麗だったのだ。見た目の派手さはないが、癖のない、流れるようなその動き……強さや上手さといったものを通り越して、惹きつけられた。
 は大きく頷いてみせた。
「いいよ。明日の練習の後だね」
「それじゃあ、よろしくお願いしますよ」
 それだけ言うと、リョーマは何事もなかったように、先輩である少年に背を向けた。
 立ちつくしているように見えるの肩を、桃城がいぶかしげに叩いた。
「おい、? どうかしたのか?」
「……試合、申し込まれちゃったよ」
「は? 誰に?」
 は肩ごしに親友を見やると、口元に淡い笑みを刻んで言った。
「越前くんに」
「な……!? 越前にっ!?」
 桃城は目を見張ったようだ。リョーマがレギュラー陣以外に、自分から試合を申し込むことはあまりない。挑発でもされたのならば話は別だが、に限ってそれはない。一体どういう風の吹き回しであろうか。
 は細い肩を軽くすくめてみせた。
「理由は僕にもわからないよ。でも、越前くんと試合ができるなんて、ちょっと夢みたいだね」
「いつやるんだ?」
「明日の練習の後」
 ふーん、と頷いたかと思うと、桃城は自分が審判を務めようか、と申し出た。は少し考えるような表情で言った。
「ありがとう、桃。越前くんにも訊いてみて、彼がOKだったら、お願いするね」
「おう。頑張れよ、!」
 そう言って、桃城は友人の背中を力任せに叩いた。青緑の双眸を持つ少年は、つんのめりそうになりながらも、肩ごしに笑顔を向けてみせる。
「勝てるとは、思えないけどね。でも、やれるだけやってみるよ」
 青緑の瞳が、西方の寝所へと帰っていく落日の光を弾いた。青いラケットを握る白い手に力が入る。気持ちが高ぶってきていることが、自分でもわかる。こんな気分は少々久しぶりかもしれない。
「……明日も、晴れるといいなぁ……」 
 親友の小さな独語に、桃城は唇を微笑のかたちに歪めるのであった。





 翌日はの望みどおり、天上は見事なほどの青色に染まっていた。大きな白い雲と、そこからこぼれる陽光が、地上に光と影を送り出す。
 練習は何事もなく始まった。もリョーマも、表面上は特に変わった様子はない。だが、この日の二人をよく見ている者がいれば、互いに互いの姿を視界におさめがちであることに気づいたはずだ。
 この日の練習は、早めに終わることになっていたから、手塚によって解散の意が告げられた時、頭上にはまだ青々とした空が広がっていた。部員たちが次々にテニスコートから去っていく。そんな中で、とリョーマ、そして桃城だけは、その場から動こうとはしなかった。
 青緑の瞳と琥珀のそれが、歩み去る部員たちを挟んで交錯する。
「やるかい?」
「勿論」
 リョーマは流れる汗を拭うと、不敵な笑みを口元に飾った。対するの方は、というと、こちらはどこか楽しそうな表情だ。
「まずは先輩からのサーブでいいっスよ」
「いいの?」
「どんなもんか、見てみたいしね」
 と、青学のルーキーは桃城に顔を向けた。
「桃先輩、審判やってくれるんでしょう?」
「ああ、いいぜ」
 二年生レギュラーは短い黒髪を撫でつけつつ、にやりと唇を歪めた。
 三人は一旦部室に戻り、荷物を持ち出す。周辺からテニス部員たちの姿が消えるのを待って、リョーマとはコートのひとつに入った。側にある審判台に桃城が座る。
「まずは、小手調べ」
 琥珀の瞳をした少年は、左手で持っていたラケットを、放るように右へと持ちかえた。あえて序盤は、利き腕でない方で勝負をしようというのだ。気の短い者ならばこの態度に激怒していただろうが、は気にした様子はない。むしろ自分の実力を考慮し、ハンデを負ってくれた小さな後輩に、感謝したいくらいだ。
「ありがとう。失望させないよう、頑張るよ」
 は青緑の双眸を閉じると、大きく息を吸い、吐いた。数瞬の沈黙をおいて、ゆっくりと瞳を覆う幕を上げる。瞳に映るのは、青学のルーキーの姿。軽くその場で跳びはね、身体を伸ばしている。いまの自分では決してかなわないだろう。だが、そんな相手と対戦できるというだけで嬉しい。
 桃城は二人の少年を眺めやり、双方準備が整ったことを見てとると声を発した。
「ザ・ベスト・オブ・1セットマッチ! 、サービスプレイ!!」
 青緑の瞳をした少年は、ボールの感触を確かめるように、地面について弾ませる。それを何度か繰り返すと、それまで地に向けられていた顔が持ち上げられた。
 ――目が違う。
 リョーマは唇を歪めた。の容姿は何ひとつ変わっていない。その栗色の頭髪も、青緑の双眸も、日焼けを知らぬ白い肌も。だが、明らかに先ほどまでの彼とは違った。穏やかな表情の中に、鋭いものが見え隠れしている。
 の左腕があがり、白い指先からボールが空に向けて飛んだ。青いラケットが動き、細い足が地を蹴る。大気が鋭く鳴り、サーブが放たれる。
 と、見ていた桃城が、思わず感歎の吐息を洩らした。
「いつ見ても、綺麗なサーブだぜ」
 そう思ったのは、彼だけではなかった。琥珀の双眸を持つ少年は、目深にかぶった帽子の下で、口元に笑みを刻んだ。
「へぇー、綺麗なフォームだね」
 そう言いつつ、身体はすでに動いている。大気を引き裂いてコートに飛び込んできたサーブを、難なく打ち返した。だが、気づくべきことには、気づいていた。見た目よりも、かなり打球が重い。
 リョーマの返した球は、右のコーナーを正確についていた。
「さすが、凄いコントロールだね!」
 感歎の声を上げるは、すでにボールに追いつき、捕球体勢に入っている。弾んだボールは青いラケットに的確に捉えられ、再びリョーマの方へと返っていった。と、同時には風を起こした。自身の打ったボールを追いかけるように、前方へと走り出る。
「リターンダッシュ……!! あの越前相手に、ネットプレーを挑む気か、……?」
 真剣な眼差しでコート内を眺めわたしつつ、審判を務める少年は胸中で呟いた。
 確かには部内でも屈指の瞬発力の持ち主だ。が、リョーマのそれは部内でも一番を誇る。よって当然ネット付近のプレーは得意分野だ。その彼にネットプレーを挑むというのは、少々無茶ではないか。
 一年生レギュラーは、琥珀の瞳をおもしろそうに煌めかせると、微妙に手首を捻る。ボールが高く、放物線を描くように打ち上げられた。の頭上を飛び越し、その背後に落とすつもりなのだろう。
 青緑の双眸を持つ少年は、疾走をとめると、その場から飛び退くように数歩分の距離をさがる。親友の考えに気づいた桃城の口の端に、笑みがひらめいた。
の奴、誘いやがったな……!」
「――!!」
 リョーマの脳裏に、昨日の試合の光景が甦った。
 の身体が、宙へと躍り上がった。部内で一番の跳躍力を持つ桃城には及ばないし、彼のような力強さもない。だが、こちらはまるで背に透明な翼が生えているかのような印象を、見る者に与える。ラケットが振り上げられ、振り下ろされた。
 スマッシュが決まり、ボールはコートの外へと飛び出した。リョーマはあえて追わず、それを見送った。フェンスに当たって転がる球を、静かに見つめる。ややあって、「ふーん」という声とともに、青学のルーキーは先輩である少年に顔を向けた。
「――やるじゃん、先輩」
「ありがとう」
 は立ち上がりつつ、小さく笑った。
「15―0!」
 コールをしつつ、桃城は表情をほころばせた。本気ではないとはいえ、あのリョーマを相手に、エースをとった。勝てないまでも、これはなかなかおもしろい試合になりそうだ。
 この時、三人のテニス部員は気づいていなかった。彼らのいる場所からは死角になる位置の物陰から、試合を観戦している者の存在に。



「……やるなぁ、
 と、感歎の声を上げたのは大石だ。その横で手塚が黙って頷く。ラリーの応酬を見つめる双眸は、真剣そのものだ。

「30―0!」

 の一撃が決まり、リョーマはまたもポイントを奪われた。だが、次は彼のリターンが決まる。

「30―15!」

 小柄な二人の少年が、コート内を駆ける。何度目かのラリーの後、青緑の瞳をした少年が手首を閃かせた。ボールはラケットの持ち主の意志どおり、リョーマの立つ位置とは反対のコーナーに飛び込んだ。

「40―15!」

 それを見、テニス部の部長は淡々と呟いた。
「……は、基本を徹底的に磨いている。堅実なプレーほど、崩しにくいものはない」
「ああ。目立たないが、彼は充分レギュラー候補だな」
 これにはやはり黙って頷くと、手塚はわずかに瞳を眇めた。
「――見せてもらうぞ、。お前がどこまで、越前に食らいついていけるかを」
 その言葉は胸中で発せられており、隣にいる大石の耳にはとどかなかった。



 ベースラインを狙って打ち込まれてきたボールを、青学のルーキーはバックハンドストロークで返す。その表情は実に楽しそうだ。予想どおり、いや、それ以上であるの実力に、試合を申し込んでよかった、と思う。
 の動きは明らかに試合慣れしている。リョーマの実力を知りつつも、臆すことなく挑めるということは、彼と同等かそれ以上の相手と戦ったことがあるということだろう。
 と、がラケットをふるい――トッ、という軽い音が響いた。逆回転をかけられたボールは、小さな放物線を描くようにネット際に落ちる。
 ――ドロップショット……!!
 ボールは小さく小さく弾むと、力なく転がる。
「ゲーム! 1―0!! チェンジコート!!」
 コールが響く中、リョーマとは汗の浮かんだ顔をほころばせた。
先輩、本当にテニス歴二年なんっスか?」
「本当だよ」
 そう言って、は少々長めの前髪をかき上げた。汗が頬をつたう。
「でも、そうは見えないっスよ」
 同じテニス歴二年でも、堀尾などとは格が違う。クラスメイトには少々失礼であろうが、リョーマは素直にの腕に感心した。
 次はリョーマのサービスゲームである。ボールをつく手は左手であり、ラケットはまだ右手に握られたままだ。となれば、青学のテニス部員ならば、誰でも予想するサーブがある。もそれを想像し、緊張した面もちで後輩を見つめる。
「いきなりアレは打たないから、安心していいよ」
 どこかいたずらっぽい口調で、リョーマは言い放った。先輩である少年がわずかに表情を緩めたのがわかる。
 打たれたサーブは、本人の言ったとおり、普通のそれであった。が、到底油断できるような代物ではない。琥珀の双眸を持つ少年は、サーブを打つのとほぼ同時に、ネットに向かって走り出した。
(サーブの後のネットダッシュ……!! だったら――!!)
 ベースラインを狙って打ち込まれてきたサーブを、はフォアハンドストロークで迎え撃つ。ボールは走るリョーマの足下目がけ宙を駆ける。
「やっぱりね。そうくると思った」
 リョーマは足を止めると片足を引き、ボールを打ち返した。間髪入れずに、ネットへと一気に詰めていく。
「そう簡単には、キミの足は止められない、か」
 青緑の瞳をした少年は自嘲気味に呟くと、クロスへと返球してみせた。
「クロスへのパッシングショットか。狙いはいいが、桁外れの瞬発力とアレができる越前には、通用しねぇよなぁ」
 審判台の上で、短い黒髪の少年は小さく独語した。
 彼の言った「アレ」とは、一本足でのスプリットステップのことである。スプリットステップとは、相手が打つのとほぼ同時に、両足で真上に小さく跳ぶことだ。着地の反動を利用することによって、初動が早くなる。通常は両足で着地するのだが、リョーマは片足での着地によって、さらに早く動くことができるのだ。
 桃城の言葉どおり、リョーマはあっさりと打球に追いつく。
(狙うは、右コーナー!!)
 リターンはリョーマの狙いどおり、鋭く右コーナーをついた。
「――!?」
 リョーマは琥珀の双眸を見開いた。決まったと思っていたボールに、が追いついているではないか。
「こっちの瞬発力も、負けてねぇな」
 桃城はどこか楽しそうに呟いた。
 お互い一歩も譲らない。縦横無尽にコート内を走り回り、風を起こし、ラケットをふるう。果てしなく続くかと思われたラリーを、青学のルーキーのリターンが制した。
「15―0!!」
 コートの外を転がるボールを、は肩を上下させつつ見つめた。
 ――やっぱり、強い。
 愛用のラケットを握る手に、力が入った。
 栗色の頭髪をかき上げると、はリョーマに向き直った。琥珀の瞳をした少年は、ボールをつき始める。目深にかぶられた帽子の陰で、その表情はわからない。
「次、アレいきますよ」
『――!?』
 の顔だけでなく、桃城のそれにも緊張が走り抜けた。





                 ……To be continued.