「くんっ!?」
その声に半ば沈みかけていた意識を叩き起こし、は音をたてて踏みとどまった。痛む足で大きく踏み込み、肉迫してくる男の右の膝下に、手加減なしに踵を打ち込む。
「千石さん! 受け止めて!!」
青緑の瞳をした少年の白い手から、グラスが投じられる。大気を引き裂いて飛んだそれは、男の顔面に衝突して砕け散った。
火のついたライターが、放物線を描くように宙を飛ぶ。
――それが床に落下した瞬間、この場は火の海となる。
きら星たちの凱歌 <前編>
淡く晴れた空を、無数の翼の影が走る。空と風を友とする鳥たちは、飛翔する自分たちのさらに上方から降り注ぐ光を浴びて、双翼を輝かせる。その情景を鮮やかな色の瞳に映し、口元をほころばせたのは地上をゆく少年である。
その少年、の姿はこの日の午後、商店街にあった。部活が休みなのでまだ陽は高く、空は青い。遊び盛りのはずの中学生が、商店街に何をしにきているのかというと、実は食料品の調達であった。夕飯の材料もあるが、近いうちの昼食のそれを買っておくことが、一番の目的である。
「何を作ろうかなぁ……周助先輩は洋風も和風も大丈夫みたいだけど、リョーマくんは和風がいい、って言っていたしなぁ」
白い指先を細い顎にあて、は考え込む。といっても、その表情はどこか楽しそうである。主婦たちにとっては毎日の悩みの種も、この少年にとってはささやかな楽しみのひとつでしかない。
「卵焼きもいいかな……そういえば、桃は唐揚げが食べたい、って言ってたっけ」
近いうちに弁当を作ってきてほしい、と青学のルーキーにそう頼まれたのは、つい先日のこと。よほど忙しい日や疲れてでもいないかぎり、は基本的に自分の弁当は自分で作っている。最近は生徒会の手伝い等もあって母親に作ってもらっていたが、今日は部活もないので、せめて材料の調達ぐらいはしてしまおうと、ここまでやってきたのである。
昼食をふるまう相手は、何もリョーマだけではない。食欲旺盛な親友は勿論、以前「僕もまた食べたい」と言ってくれた不二もいる。青緑の双眸を持つ少年としては、どうせなら海堂や七海、菊丸なども呼んで、みんなで楽しく食べたいところだ。
と、は歩みをとめた。きょろきょろと周囲を見回す。いま誰かに呼ばれたような気がしたのだが、自分の気のせいだろうか。
「おーい、くーん! こっち、こっち!」
上体を捻って顧みれば、白い学生服を着た、明るい色の頭髪の少年が、こちらに手を振りながら歩み寄ってくる。人懐っこそうな笑顔は、の記憶に新しい。
「千石さん!」
山吹中の三年生は親しい友人に対するように、陽気に挨拶する。
「やあ、奇遇だねぇ、こんな所で会うなんて。あれからどう? 元気にやってる?」
「はい、その節は大変お世話になりました。ありがとうございました」
は丁寧に一礼する。千石と初めて言葉をかわしたのは、桃城との関係が危うくなった時であった。彼との出逢いは偶然でしかなかったが、おかげで自分は心を救われ、親友とも仲直りすることができたのだ。本人は「何もしていない」と言っていたが、言葉では言い尽くせないほど感謝している。
「そんなに改まってお礼を言われちゃうと、さすがに照れるよ。本当に俺は、何もしてないのになぁ」
軽く左頬のあたりを掻いて、千石ははにかむように笑った。そうかと思えば、表情を改めて青学の二年生の双瞳を覗き込む。
「うん、本当に、元気になったみたいだね。よかった」
にこりと微笑むと、千石はぽんとの頭に手をのせた。どうやら山吹中のエースは、自分のことを気にかけてくれていたようだ。心にあたたかな気持ちを抱いたは、深い双眸に映る自身を見、ふわりと笑ってみせる。
――いい笑顔だ……。
千石は素直にそう思った。どこか心があたたかくなるような、そんな笑顔だ。出逢った時にみせていた、あの傷ついた、苦しそうな顔がまるで嘘のようである。何だか自分まで嬉しくなって、山吹中のエースは、よくマネージャーにやってやるように、頭髪をくしゃくしゃとかき混ぜてやった。
「せ、千石さん……!?」
青緑の双眸を持つ少年はくすぐったそうに笑う。
「あはは、ごめん、ごめん。何かこっちまで嬉しくなっちゃってさ。くんの笑顔、俺は好きだなぁ」
正直な感想を口にすれば、今度はが照れたように笑う番であった。
「そうですか? ありがとうございます」
すっかり立ち話が長くなってしまった。夕飯支度の人々、一見して主に「おばさん」たちが、非難がましい視線を放っているのに気づいて、二人の少年は足を動かすことにした。がここにきた目的を告げれば、千石はふと心づいたように声を発した。
「じゃあ、その買い物が終わった後は、時間はあいているのかな? それと、お好み焼きは好き?」
「はい、買い物の後の予定は特にないです。お好み焼きも大好きですよ。それがどうかしましたか?」
問いかけにはすぐに応えず、山吹の三年生はぐっと拳を握る。
「やっぱり、俺ってラッキー!」
青学の二年生はわずかに首をかしげ、さらなる問いを視線にのせる。無言の問いを正確に理解した千石は、「じゃーん!」と制服の上着からチケットのようなものを出してみせた。
「この近くにある、お好み焼き屋の割引チケット! 期限が今日まででさ、南――あぁ、うちの部長ね、その南と一緒にいこうと思ったんだけど、あいにく風邪をひいて学校を休んでてね……」
ちなみに、ここにくる前に南の家へ見舞いにいったのだが、追い返されてしまったという。そこだけ聴いた時は、は色鮮やかな双瞳を翳らせたが、話が進められていくうちに、その表情が徐々に複雑そうに歪んでいった。
熱が高いので横になったままの南の傍にいき、千石はまず必要事項を伝えた。そこまではよかったのだが、その先がまずかった。
「それにしてもさ、南って、やっぱ地味だよねぇ」
それまで穏やかだった山吹中テニス部部長の表情に、盛大なひびが入る。千石は全く気づいた様子もなく、さらに語を続ける。
「インフルエンザとか、風邪が流行ってみんながへばってる時には、ぴんぴんしてるのに、みんなが元気な時に人知れず寝込んでるんだもの」
うんうん、とひとりで納得し、山吹中のエースは視線を転じる。南は熱のせいで赤くなっていた顔をさらに赤くし、無言で肩を震わせている。それが自身の言葉によるものだとは露ほども思っていない千石は、不思議そうに首を傾げた。
「あれ? 南、何かさっきより顔が赤いよ。熱があがったんじゃない?」
「誰のせいだ!?」
叫ぶのと同時に、南の手が閃く。千石ほど動体視力と反射神経に優れた者が、その一撃をかわすことも受けることもできなかった。顔面に枕が衝突し、大きくのけぞった千石はそのまま後方にひっくり返った……。
「……で、そのまま追い出されちゃったわけ。ひどいと思わない? 俺はただ見舞いにいっただけなのにねぇ」
「その南さんという方が、お気の毒でなりません」
といったことは一切言わず、は小首を傾げるにとどめた。横にいる山吹中の三年生としては、純粋に「見舞い」のつもりだったようだが、南の意見も訊いてみたいものである。彼からすれば、「何しにきたんだよ」というところだろう。
「まあ、とにかく、そんなこんなで、他に一緒にいく人がいないんだ。みんな、それぞれ予定があってね。だから、くん、つきあってくれない?」
ひとりで食べるのは、ちょっと寂しいから、と千石は両の掌をあわせて、拝む姿勢をとってくる。は青緑の瞳に笑みをひらめかせ、彼の誘いを受けることにした。せっかくの好意は、受けなければ悪いというものだ。
「本当? ありがと! くん!」
そうと決まれば、さっさと買い物をすませてしまおう。青学の二年生と山吹の三年生という、少々珍しい組み合わせは足を速めた。
千石がよく顔をだすという店は一階建てだが、その分横の面積が広く、天井が高い。店内は清潔感があふれ、こざっぱりとした雰囲気を備えている。ほとんどの席が埋まっており、客層も大人だけではなく、老人や幼子を連れた親、学生など様々だ。
大学生らしい女性店員が千石との姿を認めて、「いらっしゃいませ」と明るく笑いかけてくる。どうやら顔見知りらしく、山吹中のエースは愛想よく手を振ってみせる。
「やあ、いつもの席、空いてる?」
「ええ、空いてますよ。あら、今日は違うお友だちなのね?」
品よく髪をまとめた店員は瞳に笑みをたたえ、の顔を覗き込むようにする。視線を受け、青学の二年生は微笑とともに一礼した。正確には「千石の友人」といっていいのかわからない、微妙な立場だが、わざわざ訂正するほどのことでもないだろう。
「とりあえず、本日のおすすめメニューを二人前ね」
「はい、かしこまりました」
店員はオーダー表と盆を手に、厨房へと駆け込んでいった。
千石は「こっちだよ」とを手招きし、湯気とソースの匂いが渦巻く中、店の中央よりもやや手前の席へと移動した。慣れた手つきでお好み焼きを作りながら、学校のことやテニスのことといった、何でもない話で盛り上がる。
半分ほども食べた頃、店の入り口付近から怒号と制止の声が飛びかった。と千石を含む客たちの視線が、何事かとそちらに集まる。
見るからに酔っ払った風情の男六人が、店長に向けて喚き散らしている。四十代半ばというところの店長は、口調こそ丁寧だが、露骨に嫌悪の表情をつくっている。どうやらあまり嬉しくない顔見知りらしい。
青緑の瞳をした少年が小声で言う。
「事情はよくわかりませんが、あの人たち、あまりこのお店にいい感情を抱いていないようですね」
「みたいだね。大方、酔っ払って騒いで、店から叩き出された経験でもあるんじゃないかな」
おおいにあり得る話だ。二人の中学生は、苦笑にも似たものをかわしあう。が、笑ってもいられない事態が発生した。店長を怒鳴りつけていた首領格らしき男が、仲間に何事かを命じると、五人の男は持っていた計五つの紙袋から、それぞれポリタンクを取り出したのだ。
『――!?』
と千石が、思わず腰を浮かせる。ポリタンクの中に何が入っているのか、瞬時に悟ったのである。
「動くなっ!!」
リーダーの声が店中に轟いた。その横で、仲間のひとりがライターを弄んでいる。ここまでくれば、客たちもこれから何が起ころうとしているのかを察した。女性を中心に短いが、爆発的な悲鳴が上がる。
恐慌状態に陥る寸前、客たちは口を閉ざした。また別の男が、警告、とばかりに、レジを床に叩きつけたのである。その間に残った者たちが、店中のカーテンをひき、自動シャッターをおろす。入り口には鍵をかけ、さらにレジ台を寄せかけて内側から扉を塞いだ。店内にいる者は、これでほぼ閉じこめられたことになる。
「店長さんよ、俺たちは無用に残忍じゃない。あんたの態度次第で、客も店も助かるんだよ」
卑しく口元を歪め、リーダーは蒼白になっている店長の肩をわざとらしく叩く。
「ど、どうすればいいんだ……!?」
「そうだなぁ、この間の慰謝料と詫びも含めて、一千万くらいで手を打つぜ」
「む、無理だ! そんな大金、払えるわけないじゃないか!?」
悲鳴にも似た声を上げる店長の襟首を、リーダーは荒々しく掴んだ。
「じゃあ、しょうがないな。――店ごとこの世から消えちまえ!」
その言葉を合図としたかのように、四人の男たちがポリタンクに入った液体を、店中に撒いて歩き始める。
「灯油か……やってくれるね」
千石が苦々しげに呟いた。できることならば、すぐにでも飛び出して男たちをのしてやりたいが、そうもいかない。リーダーの傍に控えている男の手には、いまだライターが握られている。迂闊に飛び出して、あれを床に落とされれば、目も当てられない。
「客どもは一箇所に集まれ!」
リーダーの指示で、客たちは全員店の奥へと移動させられる。奥へと歩きながら、は男のひとりに声をかけた。
「火をつければ、僕たちだけでなく、あなた方もただではすみませんよ」
こんな場合でも、丁寧な言葉遣いは崩れない。だが、千石の耳は、連れの言葉には砂粒ひとつ分ほどの敬意も親しみもないことを聴きとっていた。
「なぁに、俺たちは裏口からずらかるさ。俺たちが全員脱出したら、裏口も外から塞がせてもらう。死ぬのは、お前らだけだ」
酷薄な笑みとともに、男は自分たちの行いに酔ったように舌を動かした。
客たちの集団の、ちょうど最前列に位置する場所に座り込むと、千石がささやいた。
「……どうしようもないゲスだな」
「全くもって同感です」
心からは同意してみせた。
ふとそこで、山吹中のエースは何かを思い出したような顔をする。
「……そういえば、『今日は好きな物は我慢しましょう』って、占いの本に書いてあったっけ……」
まだ半分しか食べていなかったのになぁ、と深い悲しみをたたえて頭を振る。
「――その占い、当たりましたね」
「あれ? くんって、占いとかを信じる方?」
「どちらかといえば、あまりよくない内容は信じない方ですが……ただ――」
青緑の双眸がついと動く。それに倣って、千石も視線を転じ――耳障りな声で騒ぎたてる男たちを視界におさめた。
「ただ……あれを見ると、信じないわけにはいかないような気がします……」
リーダーの怒鳴り声が一際高く響き、壁や天井に反射した。千石は軽く肩をすくめ、皮肉っぽく頷いてみせる。
「それもそうだね。仮に俺が全く占いを信じない奴でも、これを見たら、信じたくなっちゃうな……」
は苦笑めいたものを口元にたたえ、さりげなく男たちの方を観察した。この状況を長引かせるのは、自分はともかく、幼子たちには好ましくない。千石も似たような感想を抱いているのか、軽口を叩きながらも瞳だけは真剣そのものである。
男たちは素顔をさらしている。これだけの騒ぎを起こしながらも、なお素顔をさらしているということは、捕まってもいいと考えているのだろう。おそらくは泥酔状態だったために、正常な判断力を失っていたとして、無罪か減刑を主張する気だ。
――そうはいかない。自分のやったことを思いしらせてやる。
この場にいる誰ひとりとして、死なせはしない。奴らの思いどおりになどさせるものか。鮮やかな色の瞳を見かわし、青学の二年生と山吹の三年生は強く決意した。
……To be continued.