当たり前なことが、当たり前でなくなった時――。

 人は寂しい、と感じるのだろう。

 僕にとっての『当たり前』は、キミの存在で……。

 声が聞こえなくなることが、こんなにも悲しいなんて、あの頃の僕は、夢にも思っていなくて。

 ――もう一度、キミに逢いたい、と思ってしまう自分が、ここにいる……。





            いつかキミの声をとどけて





 は教科書の出し入れをしながら、鞄の中身の整理をしていた。いくつかの物を机の上に出し、綺麗に入れ直していく。と、横で大欠伸をしていた友人が、そのうちのひとつに目をとめたようであった。
「あれ? 、お前、携帯なんて持ってたっけ?」
 桃城は珍しいものを見た、とばかりに机の上に置かれた携帯電話を手にとった。は友人の手の中に収まる携帯電話を見、曖昧な笑みを浮かべる。
「まあね。でも、それ、壊れてるんだ」
 桃城は無言で親友を見やった。いぶかしげな色が瞳を染めている。
「ずっと前に壊れちゃってね、もう使えないんだよ。もう鳴らないし、声もとどけてくれない」
「はぁ? じゃあ、どうして持ち歩いてるんだ?」
 携帯電話を返しながら、桃城は首を傾げた。
 はどこか遠くを見るような眼差しになると、返された携帯電話を白い手で包んだ。
「どうしてかな……? 捨てる気に、なれないんだ」
 親友の様子に、黒髪の少年は何事かを察したらしい。の隣に立つと、正面に顔を向けたまま、黙ってその細い肩に手をおいた。
 青緑の双眸を持つ少年の口元に、淡い微笑が刻まれる。何も訊かず、黙って傍にいてくれる親友の存在が、ありがたかった。



 高く澄んだ空であった。雲ひとつない青さが、見上げる双眸に眩しいくらいだ。
 学校の屋上は、の好きな場所のひとつだ。視界を遮るものもなく、地に足をつけている時よりも、空を近く感じられる。
 座ったまま、陽の光に透かすように手をかざした。白い手がほんのりとあたたかくなる。もう片方の手には、鳴らない携帯電話が握られている。この手がもっと小さかった時があった。その時は、掌に余るほどの大きさであった携帯電話も、いまではちょうどよいくらいだ。

「――逢いたいと思うことは、いけないことなのかな……?」

 ぽつりと、口からそんな呟きが洩れ出た。
「……誰に逢いたいの?」
「――!?」
 この場には自分以外誰もいないと思っていただけに、その声が聞こえた時は、文字どおり飛び上がりそうになった。弾かれたように首をめぐらせる。青緑の瞳を受けて、不二はわずかに顔をうつむかせた。
「ごめん、聞こえちゃったから、つい……」
「……不二先輩……」
 は身体から力を抜いた。ぼんやりしすぎだ、と胸中で自分自身に苦い笑みを向ける。
「すみません、気づきませんで……」
 不二は穏やかな笑顔のまま首を横に振る。
「別にいいよ、そんなこと。それよりも、悪かったね」
 何のことだろうか。一瞬、はそう思ったが、それが先ほどの自分の独語を聞いてしまったことを指していると悟ると、今度は彼が首を振る番であった。
「いいえ、お気になさらず」
「ならいいけれど。隣、いいかな?」
「はい、勿論です」
 いつかの日と同じような会話だ。は小さく笑った。不二も同じことを思ったのか、やはり笑みをこぼす。
 沈黙が流れた。微風が相づちをうつように、二人の少年の間を吹き抜ける。その中に、淡い色の髪をした少年の声が混じったのは、どれぐらいしてからだろうか。
「……手塚がね、を心配していたよ」
「え……?」
「ここに向かうキミを見たらしいんだ。自分はこれから生徒会の仕事があっていけないから、かわりに様子を見にいってくれないかって、僕に言ってきてね。何かあったんじゃないか、って、心配していたよ」
 ちょっとわかりにくいけれどね、と不二はいたずらっぽく笑ってみせる。
「国光兄さん……」
 胸中でこの場にいない手塚に感謝すると、は目の前にいる先輩に頭を下げた。
「ありがとうございます。それから、すみません、ご迷惑をおかけして」
「迷惑だなんて、ちっとも思っていないよ。キミは、先の楽しみな、かわいい後輩だからね」
 青緑の双眸を持つ少年は、軽く首を傾げるように微笑んだ。
 もう一年前のことになる。当時の新入部員の中で、という一年生は、それほど目立った存在ではなかった。それにはやはり桃城や海堂が、その傑出した身体能力を披露していたというのが、大きな要因であろう。
 そんなある時、がサーブを打つ姿が不二の目に入った。癖のない、まるでお手本のように綺麗なフォームを見、彼に興味を抱いた。それ以来、不二は暇をみつけては、に色々と教えた。教えがいのある、先の楽しみな後輩であったからだ。
 ふと不二の目が、の手の中のものを認めた。
「……それは?」
「え? あぁ、この携帯電話ですか? 壊れていて、もう使えないんです。でも何だか捨てられなくて……」
「……それ、のものじゃないでしょ?」 
 びくり、とは身体を小さく震わせた。それは決して、一瞬強く吹いた風のせいだけではないだろう。
「……よくわかりましたね」
 自分のものではないからこそ、捨てられない。たとえ用をなさなくとも、カタチあるものだから。
 淡い色の髪をした少年は、常に浮かべている笑みに苦みを含んだ。
「何となく、ね」
 一呼吸おき、さらに問いを発する。
「間違っていたら謝るけれど、ひょっとして、その携帯電話の持ち主は――」
 青緑の瞳をした後輩は小さく頷くと、視線を持ち上げた。
「いまは――この空に……」
「そう……」と短く呟くと、不二は後輩に向き直った。

「その人に、逢いたい……?」

 返答までには、やや間があった。
「……はい」
 ごく短い言葉ではあったが、そこには深い想いが織り込まれているようであった。


 ――逢いたい……。
 だが、それをしたら、キミはきっと喜ばないと知っているから。


「でも……それはできないし、そう思うのは、いけないことです」
 ――自分は生きているのだから。
 わかってはいるのだ。この世にいない者に逢いたいと望むことが、どういうことなのか。そして、それを望んでいるのが、自分ひとりだけではないということも。
 は青緑の双眸を伏せた。とてもではないが、先輩である少年の顔を見る勇気がない。不二はきっと困惑し、少なからずの怒りを感じているであろう。あるいは、呆れているかもしれない。
「そんなことないよ」 
 はっきりと紡がれた言葉に、は思わず顔を上げた。
 視界におさまった不二の顔は、困惑とも怒りとも無縁の表情であった。色の深い、何もかも見透かしてしまうような双眸が開かれ、それが真っ直ぐに自分を映している。
「大切な人に逢いたいと思うのは、当然だよ。いけなくなんか、ない。――逢いたいよね……こんなにも、想っているんだもの」

 携帯電話を握る手に、力が入った。
 再び伏せた双眸が、目頭が熱くなっていくのを感じる。

「幸せだね、その携帯電話の持ち主は……。手のとどかない場所にいってしまったいまでも、こんなにもキミに想われているんだから――」

 は声もなく、きつく閉ざした瞳から、透明な波を流した。



「でも、忘れないで」



 不二はハンカチをとりだすと、後輩の白い頬にあてた。あふれでる雫を、そっと拭ってやる。



「キミがいま、『この時』を生きている、ということを――」



 不二は優しい笑顔を浮かべたまま、の涙を拭い続けた。時折、言葉を投げかけ、いつもよりも幼くみえる後輩が落ち着くのを待つ。青緑の双眸を持つ少年が、いつもの穏やかな表情をとり戻したのは、それからしばらくしてのことである。
「……本当に、すみません。何から何まで」
 恐縮したように、は頭を下げ続けた。不二の声が、あまりにも優しく、あたたかかったから、つい子供のように泣いてしまった。いや、実際は子供なのだが。
 不二はにっこりと笑ってみせる。
「何で謝るの? は何も悪くないよ。気にしないで」
 ――手塚、キミが彼のことを放っておけない理由が、わかる気がするよ。
 周囲のことにいつも気を配って、穏やかな笑顔を浮かべて……副部長である大石とはまた違った優しさを、他の者に惜しみなく注いでいる。その分自分がおろそかになり、限界までため込まれた悲しみや辛さを、独りで吐き出す術を持たない。そんな危うさを、この目の前にいる少年は持っているのだ。
「……少し……似てるのかもしれない……」
 ふっと思わず笑みがこぼれる。
「え……?」
「ううん、何でもない。こっちの話だから」
 は小首を傾げたものの、ひとつ頷いてみせた。
 淡い色の髪をした少年は、話題を転じた。
「前から思っていたけれど、、って、いい名前だよね」
「ありがとうございます。でも、不二先輩のお名前だって、素敵ですよ」
「ありがとう。――これからは、、って呼んでもいいかな?」
 は一瞬何を言われたのか、わからなかったのだろう、きょとんとした顔をする。が、すぐににっこりと笑った。それがすでに答えとなっている。
「ありがとう、。じゃあ、僕のことも、周助、って呼んでくれるかい?」
「わかりました、周助先輩。本当に……ありがとうございます」
 先輩である少年の声を聴いていると、何故かまた涙がこぼれそうになった。がそれを指先で拭うよりもはやく、やわらかいハンカチが頬にそえられる。
「周助先輩……?」
「泣いていいよ。傍にいるから……」



 ――もう鳴らない携帯電話……。
 こんなカタチにすがっている僕を、キミは笑うかもしれないけれど……。
 逢いたいと思う気持ちに、嘘はないから。

 いつか……声なき声を、キミはとどけてくれるかな――。



                      ――Fin――



 <あとがき>

・水帆ちゃんと一緒に考えた、お題その四「携帯電話」でした。今回はくんのことをまじえたお話でしたが、自分でも何が書きたかったのか、よくわかりません; 『風の空、空の鳥』と繋がっている部分もあるのですが、それもわかりにくいでしょうね; すみません、もっとわかりやすい話を書けるよう、勉強します;
 在るべき場所に還ってしまったものに、どうしても逢いたいと思う時は、きっと誰でもあると思います。風見野にもそういう経験が、いまでもあります。逢えない、と頭ではわかっていても、逢いたい、と思ってしまうのですよね。そんな時、誰かが傍にいてくれることほど、救いになることはない、と風見野などは思います。くんには、不二くんにお願いしました。何だか不二くんって、人の気持ちの深い部分まで、くみとってくれそうな気がしたもので。
 ここまで読んで下さって、ありがとうございました。



             2003.5.24    風見野 里久