とどかない不思議――掴めない掌――

               <第二日目・昼その二>





 青春学園の図書室は、独立棟となっており、一階建てではあるが、その分縦横の面積が広い。語学、スポーツ、歴史、地理、文化、工芸、哲学、医学、薬学、経済……と、蔵書は種類も数も豊富である。「読書離れ」なる現象が著しい現代の若者たちにしてみれば、単なる本の倉庫も、読書好きな者たちにとってみれば、まさに宝の山であろう。
 越前リョーマは図書委員ではあるが、あいにくと読書はさほど好きというわけではない。日本にくるまでは、どちらかというと英語を身近な言語としていた彼にとって、慣れぬ言語の、しかも活字というやつは、なかなかの難敵であったのだ。
 昼休みともなれば、図書室の人口密度は高い。課題や宿題のために必要な文献等を探しにきた者、単に好きな本を読みにきた者、静かな環境で自習をすべくやってきた者……様々な理由で訪れた生徒たちが、本棚の間を、閲覧用のテーブルを埋めている。
 ――琥珀の双眸が彷徨う。
 には人の眼を惹く何かがあるから、ほんのわずかでも視界に入れば、きっと気づくだろう。だがそれにしても、利用者が多い。
「何か、酔いそうだな……」
 思わず嘆息が口をついた時、背後から肩を叩かれた。
 ――リョーマくん。
 振り向いた視界が青緑――ではなく、黒一色に染まる。琥珀を瞬かせ、リョーマは視線を持ち上げた。
「やあ、越前。珍しいね、こんな所で会うなんてさ」
「……河村、先輩……」
 黒一色も道理。乾に次ぐ長身を誇る河村が間近に立てば、リョーマの身長では制服の黒しか視界には入らない。傾けた首の角度は乾同様、ほぼ垂直だ。と、それに気づいたのか、河村は少しばかり口元を歪め、一歩下がった。
「ごめんな、どうも気が利かなくて」
「……? 何が?」
「ん……いいんだ、こっちのこと。どうも大石みたいにはいかないなぁ」
「はぁ……」
 一年生レギュラーは心から困惑した風情で首を捻る。先輩たちが自分よりも背が高いことなど、彼の中ではもはや当然で。どうして謝られるのか、ましてやそこにテニス部副部長がどう関係してくるのか、よくわからない。
 今度こそ笑って、河村は頭を振る。
「気にしなくていいよ。ところで、越前は委員会の仕事かい?」
「いえ……その、人捜し……」
 おや、と三年生レギュラーは瞬きをする。いつも生意気といわれる、クールな後輩ぶりが少々なりをひそめている。何かあったのだろうか。
「人? 誰を捜しているんだい? 先生?」
「違います。――、先輩っス」
「あぁ、か……」
 得心がいった体で頷き、河村はがっしりした体躯を屈める。膝の上に両手をおいて、小さなレギュラーの顔を見やった。
「捜してるんだってね、のこと。何か約束でもしてるの?」
 緑がかかった黒髪が揺れ、無言のうちに否を示す。
 ――約束。
 いっそのこと、しておけばよかったかもしれない。そうすれば、これほど苦労することもなければ、胸の奥に奇妙な感情を抱えることもなかっただろう。
「……そっか。俺は少し前からここにいるけれど、の姿は見かけてないよ。役に立てなくて、ごめんな」
「いえ……ありがとうございます」
 うつむいたまま頭を下げ、リョーマは河村に背を向けた。その小さな背が図書室を出てゆくまで見送り、テニス部一のパワーの持ち主はとてもそうは思えぬほど背を丸める。
「どうして、俺はこうなんだろう……」
 こういう場合、大石や不二のような、心を癒す言葉を持つ友人たちが羨ましい。言葉だけでなく行動でも、彼らは相手の心を汲み、さりげない気配りができる。それに比べて自分はどうだろうか。
「――タカさん、どうしたんだ?」
 横手から投げかけられた呼号は、耳によく馴染んだもので。河村はあらゆる意味で絶妙な場に現れた友人を見やり、ぎこちない笑みを浮かべた。
「やあ、大石……」
「何だか、元気がないみたいだけれど……具合が悪い――のとは、違うな。何か、悩み事でもあるのかい?」
 一瞥で自分の状態を見抜かれ、河村は改めて自分たちの副部長の眼力に感心した。感心すると、余計に切ない気持ちになる。――少しだけ、ほんの少しだけはやく、彼がきてくれたら、どんなによかっただろう。
 他の利用者の邪魔にならない位置に移動し、河村は事情をかいつまんで説明した。そして最後にこうつけ加える。
「越前が、を慕っていることも、知っているのに……昨日自分が会えたから、ついそれで満足しちゃって……何の役にも立てなかった……」
「……――タカさん、そういう風に自分を責めるのは、よくないよ。責めたって仕方がない。越前とが会えないのは、お互い会おうと思って行動している結果なんだ。それはタカさんのせいじゃない。勿論、あの二人のせいでもない」
「うん……それは、わかっているんだけれど……」
 丸くなる背に手をあて、大石は優しく微笑む。
「どうすればよいのか、それがわかって初めて何かを責めることができるんだと、俺は思うよ。でも、この場合は、何をどうすればいいのか、なんてわからない。俺だってさっぱりだ。なら、責める前に考えなきゃ」
「……考える?」
「そう。たとえば……そうだなぁ、俺たちでとコンタクトをとって、どこか一ヶ所にとどまっていてもらうとか。捜している越前を手伝うとか。ほら、誰かが一緒にいれば、たとえ空振りになっても、独りよりは気持ちが違うだろ?」
 すらすらと自身の考えを述べる大石を、河村は目の醒めるような思いで凝視する。
 ――役に立てなくて、ごめんな。
 それで全てを終わらせてしまった自分。あの時、ならば一緒に捜そうか、と声をかけてやれば、きっとあの後輩は顔を上げてくれただろう。うつむいて、逃げるように背を向けられることも、なかったはずだ。
「……そっか、そうだね。――やっぱり大石はすごいなぁ、かなわないよ」
 深いため息をつく河村とて、よい部分はたくさん持っているのだが、自分のことは存外わからないものだ。テニス部副部長は微苦笑を刻み――何かに気づいたように、河村の後方へと視線を投げやる。
「どうしたの、大石?」
 怪訝に瞬き、河村は彼の視線を追う。そうして眼を剥いた。
「えぇっ……!? ど、どうしよう、俺……!?」
 慌てて首をめぐらせるが、リョーマが図書室を出ていったことは、他ならぬ河村自身が見届けたことだ。狼狽える友人の肩を宥めるように叩き、大石は片手に本を抱えたまま、真っ直ぐにそちらへと歩いていった。