とどかない不思議――掴めない掌――

            <第二日目・昼その二>





 いまから自分の教室に戻っても、また入れ違いになる可能性がある。幸い行き先はわかっているのだから、ここは先回りするべきだろう。そう判断したリョーマは、階段を駆け下りてゆく。途中ですれ違ったテニス部顧問の竜崎から、危ないから走るな、という一喝を頂いてしまったが、聞こえないふりをする。
「……リョーマの奴、何をあんなに急いでいるのかねぇ……?」
 文字通り脇目もふらずに駆けていった教え子を見送り、竜崎は心から首を捻った。



「失礼します!」
 校舎一階の奥にある保健室の扉が、大きく開かれた時、室内にいた少女は反射的に身体を硬くした。何やら鬼気迫る雰囲気から、よほどの急患が現れたのかと思ったのだ。
 振り返った拍子に大きく翻る、豊かな黒髪。少なからずの緊張を宿した双瞳は、リョーマのそれよりも明るい琥珀で。
「――――って、ひょっとして美凪先輩?」
「はい。ひょっとしなくても、美凪です……」
 表現上はどちらも「琥珀」とされる、二対の瞳が暫し重なる。
 がやがやと開け放たれた扉の向こう、廊下側の方から移動教室らしい生徒の団体の音が聞こえてきたところで、二人は我に返った。一年生レギュラーはとりあえず扉を閉め、保健室内へと歩を進める。
「えっと……リョーマくん、一体どうしたの?」
 あれだけ勢いよくやってきて、具合が悪いということはないだろう。怪我という線も同様の理由から考えにくい。となると、他の誰かに何かあったというところか。整理を終えたばかりの救急箱のフタを閉め、テニス部の二の姫――雨宮美凪はわずかに首を傾ける仕草をした。絹糸のような黒髪が、さらりと肩口からこぼれる。
「あ、ひょっとして海堂くんのことできたの?」
「は? 海堂先輩?」
「大丈夫、本当にただのかすり傷だから。すぐに治るわ」
 にこにこと微笑む先輩を見上げ、リョーマはかすかに眉間に皺をよせる。
「あの、話が全然みえてこないんっスけど……」
「あれ? 海堂くんの件できたんじゃないの?」
「全然違います」
 力一杯否定してみせる後輩は、先輩という立場からみれば、はっきりいってかわいくはないだろう。だが、二の姫にはどうしてか、微笑ましく思えたらしい。唇をほころばせ、笑みを含んだ吐息を洩らす。
「そうなんだ。ごめんね、勘違いしちゃって」
「いや、別にいいですけど。ちなみに海堂先輩、どうかしたんっスか?」
「うん、さっき体育館裏でコワイ顔をした三年生さんたちと、話し合いをしてきたんだって。それでちょっとおでこを擦っちゃっから、一応消毒に」
 たっぷり十秒ほどの間があく。リョーマはゆっくりと瞬きした。
「あの、それって……」
「あ、喧嘩じゃないよ。本人がそう言っていたもの。ただ、男の子ならではの語り合いで解決してきたらしいよ。海堂くん、口下手なのに頑張ったよね」
「はあ……語り合い、ねぇ……」
 リョーマは汗がひくのとは別の理由から、とても涼しい気分を味わっていた。眼前にいる先輩の声音は、それこそ水晶の鈴を転がすようなものなのに。それなのに、どうしてこんなにも紡がれる内容は、物騒なのだろう。しかも、口にしている当人が、そのことに全く気づいていないことが、またこわい。
「美凪先輩に余計な心配をさせないためとはいえ……もう少しまともな言い訳はできないのかな、あの人は……」
 男の子ならではの語り合い――――。
 それはつまり、拳で黙らせてきた、ということに他ならぬ。
「…………まあ、美凪先輩が疑っていないんだから、いいか」
 内心でそう結論づけたリョーマは、自身の目的を遂げることにした。室内に三つ並んだベッドが全て無人であることを確認してから、改めて二の姫を見やる。
先輩、きてませんか?」
「え?」
「包帯、かえにいくって聴いたから……」
 言いながら、リョーマの表情は曇ってゆく。美凪の様子の変化に比例してのことだ。まさかとは思うが――。
「えっと……あの……くんなら、さっききて……」
 白い指先が、先ほどまでいじっていた救急箱のフタを撫でる。
「その、包帯だけもらって……帰ったわ。ほら、いつ誰がくるかもわからないから、どこかの空き教室でかえる、って……だから、その……」
「――――要するに、もうここにはいない?」
「うん、そうなる」
 またすれ違いか――がくり、と一年生レギュラーの肩が落ちた。元々小柄なだけに、そういった挙措をとると、ますます小さく見える。と、落とされた両肩に白い手がのせられた。持ち上げた視線の先で、自分のものよりも色の明るい琥珀が優しく微笑む。
「すれ違っちゃって、残念だったね。でもね、同じこと、くんも感じているよ」
 ここにくる前に一年の教室にもいってみたのだが、肝心の人物には逢えなかった――うまくいかないね、と微苦笑していたを思い出す。逢いたいと思っている心も、寂しいと感じているそれも、きっとリョーマとかわらない。
「大丈夫、きっと逢えるよ。だから、その時まで、一番に何を言ってあげるのか、たくさん考えてあげてて。ね?」
 まるで幼子を慰める母親のような言動に対して、何かしら思うところがあったのは事実だ。だがそれでも、黒髪の少年はおとなしく頷いてみせた。