空を見上げて――こぼれ落ちた欠片――
<第一日目・夕>
放課後の校庭は、運動部に所属する者たちのエネルギーに満ちている。特にこの時期は、どこも大会を目前に控えているだけに、誰もが真剣にそれぞれの練習に励む。
「どうして、急ぐ日ほど、掃除当番なんだろ」
リョーマは舌打ち混じりに呟いた。普段ならば、練習時間が削られることに対する苛立ちだが、この日はやや理由が異なる。
「先輩、まだ帰ってなきゃいいけど……」
部活に復帰していれば、自分も練習に参加する以上、絶対に顔をあわせることができるだろう。が、青緑の双眸を持つ先輩は、本調子に戻るまでは休部中の身である。必要以上に学校にとどまっているとは思えぬ。
だが、リョーマにはかすかな希望もあった。
大石の話では、は手塚を捜しているはずだ。テニス部部長と生徒会長を兼任している彼は、何かと多忙で、特に放課後は校内を転々としていることが多い。この広すぎる学園内で、たったひとりをみつけるのは、なかなか至難の業だ。
「先輩が、部長を捕まえるのに、苦労してくれてれば――」
思わず音にしてしまったから、一年生レギュラーはばつの悪い表情をつくる。表沙汰にはされていないが、いまは右足を怪我しているのだ。そんな彼に対する自分の発言は、かなり不謹慎だったといえるだろう。
「何せよ、急がなきゃ……!」
テニスバッグを肩に担ぎ、緑がかかった黒髪の少年は教室を飛び出した。
「生徒会室」
そう書かれたプレートを認めたところで、リョーマの足は急停止していた。夢中でここまできたのはいいが、自分は生徒会の役員でも何でもない。手塚以外に役員の顔見知りなどいないであろうし、生徒会室自体には用もない。そんな自分が、果たしてこの部屋に入ってよいものであろうか。
「……参ったな」
低く独語し、一年生レギュラーは頭を掻いた。いまさら、といえば、いまさらの話。しかし、思いあたってしまった以上、それを無視するわけにもいかぬ。
さて、どうしたものか。
頭を捻りかけた時、扉が音を立てて開いた。
二対の双瞳が正面からぶつかること、暫し――。
短くも奇妙な沈黙を破り、先に口を開いたのは、手塚の方であった。
「生徒会室に何か用か、越前」
「いえ、生徒会室に用はないっス」
「では、俺か? 何の用だ?」
「いや、部長にも用はなくて……」
よどみなく続いた言葉の応酬を打ち切り、黒髪の少年は半ば伸び上がるようにして手塚の背後を窺った。長身の間から垣間見た生徒会室内には、人影らしいものは認められない。
リョーマの視線を追うなり、手塚は軽く頭を振ってみせる。
「誰か役員を捜しているのか? あいにくだが、いまここには俺しかいないぞ」
「先輩も?」
「何だ、を捜していたのか」
だったら、最初からそう言えばいいものを。切れ長の瞳が無音の語を紡ぐ。それを正確に理解したリョーマは、幼さの残る顔をいささか不機嫌そうに歪めた。だが、口に出したのは、もっと別のことである。
「それで、先輩を知りませんか? 部長のところにいるはずだ、って言われてきたんっスけど……」
生徒会長は投げかけられた問いにすぐには応えず、右腕を持ち上げて時刻を確かめた。秀麗な容貌をわずかな憂いが彩る。
「――いるにはいた。少し話をして、十五分ほど前に別れた。それ以後のことは、残念ながらわからない」
淡々と告げられた内容は、小柄な身体の奥からため息を導き出すには、充分であった。
また、空振りか……。
しかも、今度はもう手がかりもなく、時間経過もあわせて考えれば、帰宅してしまった可能性が高い。自分も部活がある以上、今日はもうあきらめるしかないだろう。わかっている。わかっているが……。
自分よりもずっと低い位置にある頭を見下ろして、手塚はわずかに首を傾ける。さらりとこぼれた前髪が、涼やかな目元にかかった。
「何か――伝えたいことでもあったのか、に……」
「いえ、別に……」
返答には力がない。しかし、生徒会長はそれ以上の追求を避けた。いま後輩の身の内に凝る影を暴いたとしても、自分にそれを消してやることはできないだろう。それができるのは、いまここにはない、青緑の光だけだ。
「――――軽く右足をかばっているようだったが、それを除けば、元気そうだった。部活に復帰する日は、そう遠くないだろう」
珍しく、本当に珍しく穏やかな微笑を唇の端にたたえ、手塚はささやいた。自分にできることは少ない。ならばせめて、ほんのわずかでもいい。後輩の中にある曇りを、晴らすことができれば――そう、願って。
琥珀の双眸に静かに幕がおりる。リョーマは「誰が」とは訊かなかった。その必要などない。不器用なかたちで差し出された、これまた不器用な優しさに、口元がほころぶのがわかる。
「……ありがと」
踵を返しざまにささやいた言葉が、果たして手塚にとどいたのか。わざわざ顧みて確認する気には、どうしてもなれなかった。