――――遙かな昔より、人は空に憧れた。
 いつか鳥のように、あの空を翔けめぐりたい。
 誰もがそんな夢を見て。

 鋼の翼が夢をかなえても、人は空を見上げる。
 いつの日か、この手が、あの高き場所へとどくことを願って――――。






           空を見上げて――待ち望んだ輝き――

                   <第一日目・朝>





 蛇口からあふれでた水流が、頭髪から額、頬、顎へと抜けていく。ひとしきり水を浴びたところで、越前リョーマは傾けていた上体を起こした。大きく頭を振れば、重く湿った髪から数百の飛沫が散り、それらは陽を受けて光の欠片と化す。
 少しずつ気温が高くなり、身体を動かしていると、自然に汗が噴き出る時期となってきている。熱中症やら日射病などの危険性が高まるのは厄介だが、練習の後に蛇口の水を頭からかぶることが、一年をとおして最も爽快な時期であることも確かだ。
「――よし、今朝の練習はここまでとする! 各自、授業に遅れないように注意しろ!」
 常であれば、部長である手塚国光のこの言によって解散となるのだが、この日は少々違った。皆が動きだすよりもはやく、副部長である大石秀一郎が前に進み出たのである。部員たちの踏み出しかけた足がとまり、何事かと注視する。
「すまないな。少しだけ時間をくれ。今日はみんなに、嬉しい知らせがある」
 そう告げる大石自身が、誰よりも嬉しそうだ。ざわめく部員たちを眺めわたし、双瞳に優しげな光をたたえる。
「先日、二年のが体調を崩して入院したことは、もうみんな知っているな。そのが、昨日退院し、今日から学校にくることになった!」
 訪れる空白の時――。
 一、三、五……十まで数えたところで、さすがに心配になった副部長である少年が、口を開きかけ――歓声が爆発した。
『ぃやったぁぁぁーっ!!』
『おめでとー! 先輩ー!』
『よっしゃあぁ!!』
 一年生を中心に眩いほどの笑顔が弾ける。特に桃城や七海の喜びようは深く、迷惑がる海堂を巻き込んで肩を組むほどだ。レギュラーを含む三年生たちは安堵の吐息を洩らし、微笑をかわしあう。圧倒的な熱量が、という少年の人望の高さを証明していた。
「もう学校にきてるんですか!?」
「部活への復帰は、いつ頃になりそうですか!?」
「どうなんですか、大石先輩!?」
 普段は控えめな一年生たちが、ここぞとばかりに口を開く。矢継ぎばやに飛ぶ質問の嵐に、大石はやや気圧され気味だ。
「ま、まあ、まあ、みんな、落ち着いてくれ」
 気圧され、口元に苦笑めいたものを浮かべながらも、あいかわらず瞳に宿る色は優しい。ここまで皆に慕われるという後輩が誇らしく、そして、本当に少しだけだが、羨ましかった。が、この感想を聴けば、さぞ周囲から反論されたことだろう。テニス部副部長とて、に負けぬぐらいの人望の持ち主なのだから。
「えー、は今日の昼には学校にくるそうだ。病み上がりだから、部活のことはまだ正確には決まっていない。だが、遠からず練習にも復帰する予定だ。それに、今日もコートに顔ぐらいはみせにきてくれるだろう。楽しみしていてくれ。以上だ、解散」
 いささかわざとらしい咳払いとともに告げられた内容は、再びコート内を沸かせた。
 解散していく部員たちのほとんどは喜びを口にし、その内の幾人かは桃城の肩や背を叩く。桃城がと親友同士であることを知らぬ者は、およそ男子テニス部内にはいない。青緑の双眸を持つ二年生が急遽入院するという事態に、一番堪えていたのも、おそらくはこの二年生レギュラーであっただろう。投げかけられる声に応える彼は、久々に晴れやかな笑顔をみせていた。
 と、熱い喧騒の中を抜け、さっさと部室へ引き上げていく小柄な影がある。毛先からまだわずかに水滴を滴らせる一年生レギュラーは、もたらされた朗報に関心はないといった体であった。表面的には。
「――――そっか……今日からか」
 小さく呟く唇には、ほのかな笑みが滲んでいて。青緑の輝きが不在の間に降り積もり、胸の奥で凝っていたものが、綺麗に霧散していくのがわかる。見上げた空の青さが、何だか眼に眩しかった。



 表向きは、体調不良による入院とされているだが、実はそうではないと知っているのは、本当にごく一部の者だけである。当日よりはだいぶ注目度がさがったものの、数日前に真昼の飲食店を襲った凶悪事件は、いまだ人々の記憶に新しい。渦中の真っ直中でこそないが、比較的近くにいたリョーマたちにとってはなおさらだ。
 ――薄紫色に染まる空で、ふたつのきら星が高らかに上げた凱歌……。
 あの音なき音を、声なき声を、忘れる日など、ひょっとしたら、生涯ないかもしれぬ。いまでも、瞼を落とせば、あの輝きを思い浮かべることができるぐらいなのだから。
 昼食をはやめに終え、バスケットをやろうという堀尾たちの誘いを断り、青学のルーキーは教室を出た。腕時計に視線を落とす。
「……軽く挨拶するぐらいなら、充分だね」
 仮にも後輩なのだから、先輩の退院に祝いの言葉をおくっても、何の不自然もない。だが、自分から誰かに会いにいくというのは、存外気恥ずかしい。近くに用があったから、そのついでに顔を覗かせた、ということにでもしてしまおうか。
「……さて、と――」



     「まずは、教室にいってみようかな」

     「時間からして、先生に挨拶にいっている頃かも……?」