Angel――白き風になりたい―― <後編>
決断の時は、と桃城が言葉をかわした、その日の放課後に訪れた。
部活が終わった後も、桃城とは自主練習に励んでいた。二年生レギュラーの力強いストロークが地面を叩き、はね上がる。コートの外へと逃れようとするボールを、が快足をとばして捕まえた。
「――コースが甘いよ、桃!」
「それじゃあ、これなら――どうだ!」
言葉の後半に、ガットの鳴る音が重なる。うなりを生じて飛び込んでくる打球を、青緑の瞳をした二年生は追いかけ――急停止した。眼前を通過していくボールを見送り、親友の方へと向き直る。
「残念――アウトだよ」
若々しい顔を流れる汗を手の甲で拭い、は唇を微笑のかたちに歪める。その背後で、ボールがベースラインをわずかに越えてはね上がった。
桃城は口元を歪め、頭を掻いた。
「やっぱり、アウトになったかぁ。角度的にきついとは、思ってたけど」
「腕の振りだけで、ボールを飛ばそうとしたでしょ? 手首の捻りを加えてれば、ぎりぎりで入ったと思うよ」
「だよなぁ」
先ほどのショットを再現するようにラケットを振りながら、二年生レギュラーは手首を動かす。その後、同じコースを何とか入るまで続けると、満足したように腕をおろした。
「よっしゃ、つきあってくれて、ありがとな、。今日のところは、これぐらいにしようぜ。俺、そろそろ腹が減ってきたし」
肩を上下させ、青緑の双眸を持つ少年は「そうだね」と頷いてみせた。二人の少年は何でもない会話をかわしながら、コートを出る。
と、聴き慣れた足音が響き、何気なくそちらを見やったは瞠目した。傍らにいた桃城も、ぽかんと口を開けただけで、言葉がでてこない。
彼らの視線の先にいるのは、解散早々にどこかにいっていた一の姫である。だが、その姿が二人の少年を驚かせたのだ。緑の瞳の少女は、部活中に愛用しているジャージ姿でもなければ、制服姿でもない。という少女が、ひとりのテニスプレイヤーだった頃に着ていたウェアに身を包んでいる。
「くん、私と、試合をしてほしいの。テニスで」
白いラケットを抱える手にわずかに力を込め、は驚くべきことを口にした。この少女が何故テニスができないのか、その理由を知る少年たちは、思わず互いの顔を見あわせた。
「でも、ちゃん……!!」
「1ゲームだけ。1ゲームだけなら、大丈夫だと思うから。お願い、自分の気持ちを決めるために、どうしても必要なの」
緑の瞳と青緑のそれが、正面からぶつかりあう。ややあって、ふっとは身体から力を抜いた。姉と妹を兼ねた少女の意志が、金剛石並みにかたいことを悟ったのである。
「――わかったよ。でも、もし途中で腕が痛み始めたら、その時点で中止するからね」
「ありがとう、くん」
はようやく笑顔になると、風が吹き抜けるような足どりでコートへと向かう。心を決めることも重要だが、純粋にテニスをすることが嬉しかったのだ。その背をまるで兄のような眼差しで見つめ、は隣にいる親友に声をかける。
「桃、審判をやってくれる?」
「ああ、いいぜ」
桃城はあっさりと承諾し、脱ぎかけていたジャージに再び腕をとおした。フェンスの向こうで嬉しそうにラケットを振る少女を眺めやり、苦みを含んだ笑みをたたえる。
「……あれが、いまのの姿なんだろうな。本当なら……」
「うん……」としか、には返す反応が思いつかなかった。
青緑の瞳をした少年は、「神」というものの存在を、あまり信じてはいない。というのも、何か嫌なことや理不尽なことが起きた時、「神様」のせいにしたくない、という理由からである。桃城から言わせれば、「らしいな」ということになるが、これは現実感覚をしっかりもっている、ということでもあるだろう。
だが、この時のは、目に見えぬ何かに問いかけたかった。
「あんなにもテニスが好きな女の子から、どうしてそれを奪ったのですか」と。
問うたところで詮ないことである。もう起きてしまったことなのだから。ひとつ頭を振って暗い思考を追い払うと、はコートへと入っていった。ネットを挟んで向かいあえば、鬱屈とした感情など溶けていた。
――久々に打ち合うことができる。
はそれが嬉しくてならなかった。それはの方も同様で、両眼が生き生きと輝いている。
「1ゲームマッチ! 、サービスプレイ!!」
桃城の声が上がり、落日色に染まったコートを舞台に、互いを兄妹と遇している少年と少女の試合は始まった。
緑の瞳をした少女は、小さく息を吐き、吐いた分だけの吸い込む。
――目がかわった。
無理をしないよう見張るつもりで、審判台からの様子を観察していた桃城は、その瞳がかわったことに気づいた。外見的な変化は何ひとつないのに、少女をとりまく空気が一変している。そしてその目は、試合に臨む際の彼女の兄たちのそれと酷似している。
「やっぱり兄妹だなぁ」
感歎にも似た呟きを胸中で洩らす中、トスが上がる。の身体が宙に舞い、白いラケットが鋭く動く。力強さこそないものの、腕が不自由なことなど嘘のような、充分なスピードののったサーブが、側のコートへと打ち込まれた。
フォアハンドで受けながら、は口元に笑みを飾る。
「コントロール、衰えてないね!」
手首を翻せば、ラケットは持ち主の意思を正確に打球へと伝えてくれた。鋭いリターンが右のコーナーをつく。無論、手加減など一切していない。気持ちからいえば、手加減してやりたい。だが、それはできない。そんなことをしても、は喜ばないと知っているから。
そんな少年の心の内を読んだのか、は鮮やかな色の瞳に笑みをたたえる。
「さすがくん、私の気持ちをよくわかってくれてるね!」
走り込みざまに伸ばしたラケットの先端に、衝撃が走る。体勢が充分ではなかった少女は、わずかに身体をよろめかせる。鈍い音とともに、ボールが高く上がった。
――くる!
もう見慣れた光景が脳裏に浮かび、は反射的に顔を上げた。の身体が宙に躍り上がる。桃城が小さく口笛を吹いた。人よりも鳥を思わせるような身ごなしは、彼のような豪快さは全くないが、ただただ見ている者たちの感歎を誘う。
スマッシュが決まり、はね上がったボールが少女の横を通過する。は暫しの間、呆然と前だけを見つめていた。のろのろと首を動かすと、フェンスに衝突し、力なく転がるボールを視界におさめる。
「0―15!」
コールする桃城の声にも、感歎が滲む。
「――すごい……まるで鳥みたいだったよ、くん」
興奮のためか、心なしか頬を紅潮させては言った。ここ最近はコートの外から眺めることしかなかったが、間近で見るとやはり違う。自分がひとりのプレイヤーであった頃に比べて、ずっとずっと洗練されている。
は汗で湿った髪をかき上げる。
「そうかな? ありがとう」
「よぉし、絶対くんから一本とるんだから……!」
一の姫は好戦的な笑みをたたえ、サービスの位置へと歩き出した。途中でボールを拾うのも忘れない。
放たれたサーブは、先ほどを上回る鋭さをもって宙を駆けた。の狙った場所に、寸分違わず打ち込まれる。それを青いラケットが捉え、さらなるスピードを加えて返した。少年と少女がそれぞれ風を起こし、虚空に青と白の軌跡を描く。
「0―30!」
汗の玉が飛び散り、少年の青緑の双眸が煌めく。
「0―40!!」
茶色の髪が流れ、汗に濡れた少女の顔がほころぶ。
――どちらも、いい顔をしている。
審判台からは選手たちの顔がよく見える。桃城は、かつてないほど生き生きしている友人たちの顔に、自分まで口元がほころんでいるのを感じた。
緑の双眸を持つ少女の足が地面を蹴る。風を纏い、高く飛ぶ姿は、とはまた違った意味で、見る者の感歎を誘った。落日色に染まったラケットが、振り下ろされる。大気が鳴り、次の瞬間には、ボールはの傍を駆け抜けていた。
「15―40!」
審判という立場を忘れ、桃城は拳を握りしめる。コールする声にも、嬉しさがあふれているのがわかる。それはも同様で、ポイントをとられたというのに、顔中に笑みをたたえて少女を見やった。
「やったね! ちゃん!!」
笑いかけられた方は、というと、呆然とした様子だった。自身の荒い呼吸音しか耳には入ってこない。風が冷たく首筋を拭い、そこでようやく自分がから一本とったことに気がつく。痙攣を始めた、自身の右腕にも。
「……私……!」
握力がなくなり、愛用のラケットが抜け落ちる。
「ちゃん……!?」
「!?」
二人の少年が慌てて駆け寄ってくる。そんな彼らの姿が、一の姫の双瞳にはぼやけて映った。腕が痛むのかと心配する桃城たちに、やたらと頭を振ってみせる。右腕を掴む左手に力が入った。
――たとえ、自分の腕がテニスのために使えなくても……。
「私……テニス、好きだよ。大好きだよ……!!」
……いま自分にとって何よりも大切で、大好きなのはテニスなんだ――。
涙混じりに紡がれる言葉に、桃城とは思わず顔を見あわせた。どちらからともなく微笑がこぼれる。二人は大切な仲間の頭や背を、なだめるように撫でてやった。
「あら、さん、この前の話、考えてくれた?」
快活な笑顔に、は内心やや怯んだ。本人はそんなつもりで笑っているのではないだろうが、いまのには期待に満ちた顔にしか見えなかったのである。背筋を伸ばし、真っ直ぐに弓道部部長を見据える。
「――私は、弓道部には入りません。ご厚意はありがたいです。弓も大好きです。でも、いまの私は、他にやりたいことがあります。だから、このお話、なかったことにして下さい」
そう言って、はきっちりと頭を下げた。どんな言葉が返ってくるだろうか。内心でそれを考えながら、一の姫は心の準備をととのえた。が、返ってきたのは、意外にも軽やかな笑い声であった。
「やっぱり、そう言ってくると思ったわ」
弓道部部長は笑いをおさめ、後輩の右手をとった。
「あなたのこの右手は、いまは弓道で上を目指すためにあるんじゃないって、私はわかってたわ。惑わすようなこと言って、ごめんなさいね」
「先輩……」
「全国にいきなさい、テニス部で。あ、でも、たまには弓をひきにきてね、くんも一緒に。歓迎するわ」
すてきな部長だ。はそう思わずにはいられなかった。こんな部長に率いられている女子弓道部の者たちが、少々羨ましい。心に痛みにも似た何かを感じたが、一の姫はそれを押し隠した。
「はい、必ず。先輩、もし私の腕が必要になったら、呼んで下さい。臨時部員ということで、いつでも助っ人にいきます!」
「まあ、頼もしいわね。その時はぜひお願いするわ」
二人の少女は笑った。笑いながら、は指先で目元を拭った。
稽古場を出たところで、は足をとめた。前方に人影がある。整った容貌を持つ、細身の少年が壁に寄りかかり、半身を落日色に染めている。少年はに気づいて顔を上げた。
「あ、ちゃん、一緒に帰らない?」
にっこりと笑って、は足下においていたテニスバッグを肩にかける。いつもと全くかわらない態度が、の心を優しく包む。
「桃くんは? 一緒じゃないの?」
「先に帰ったよ。僕ひとりの方が、ちゃんも話しやすいだろう、って」
「そっか……気を遣わせちゃったね」
二人は何となく黙り込み、足だけを動かした。は何も訊こうとはしない。それをありがたいと思いつつも、はこの兄と弟を兼ねる少年に、話さなければならないと思った。でなければ、自分の気がすみそうにない。
「――あのね、弓道部のお誘い、断ってきた」
「断ってきたの?」
青緑の瞳をした少年の問いかけは他意のない、自然なものであった。
「……うん、弓も好きだけど、いまはみんなと全国にいきたいから」
の言う「みんな」が主に指し示しているのは、手塚たち三年生のことである。彼らと一緒に全国へいくことができるのは、いまこの時しかないのだから。
「――そっか」
は短く頷く。それ以上質すでも、何かを勧めるわけでもない。のだした結論を、そのまま受け入れる。それはの意志を尊重するとともに、一の姫の存在を認めることでもある。少年と少女が、血の繋がりという枠をこえて、兄妹という関係を築くことができた秘訣が、まさにこれであった。
「私、くんと兄妹になれて、本当によかった」
心の中でそう語りかけ、緑の瞳の少女は微笑んだ。
正門を出たところで、は何かを思いついたような顔をする。
「そうだ! 桃くんのところへいきたいんだけど、お家がどこだか知ってる?」
「うん、知ってるよ。これからいくの?」
「私が決断できたのは、桃くんのおかげでもあるから、お礼が言いたいの」
は屋上で桃城が言ってくれた言葉を、に伝える。
――桃……キミの親友だということが、とても誇らしく思えるよ。
栗色の髪の少年は、口元に優しい笑みを刻んだ。
「じゃあ、桃の家まで送っていくよ」
「ありがとう、くん」
二人は靴先を桃城家の方へ向け、暮色に包まれる空の下を歩いた。しばらくの間、たあいもない会話を展開していたが、ふとは視線を夕空に向けた。
「……くん、私ね、風になるわ」
軽く両手をひろげて、緑の瞳の少女は兄妹を顧みた。
「みんなを高く、遠く、全国大会は勿論、どこまでも運べるような風に」
「なれるよ、ちゃんなら」
お世辞でもなければ、冗談でもない。本当に、眼前にいる少女なら、きっと風にだってなれるだろう。はそう思った。
「ありがとう。くんのことも、ちゃんと運んであげるからね」
くすり、と笑みをこぼして、は青緑の双眸をひらめかせる。
「空の果てまで?」
「うん、空の果てまで!」
快活に言い放ち、続いては風がはためくように笑ってみせる。まるでそれに応えるかのように、大気が動いた。快い風となって、空と大地の間を駆け抜けていく。
「――……いい風だね」
「本当ね……」
……風になろう。
キミを運べるような風に。
いつか、いつか……。
――きっと私は、風になる……。
――Fin――
<あとがき>
・くんと、水帆ちゃんが書いている、『テニスのお姫様』の一の姫ことちゃんのお話でした。オリキャラばかりのお話ですみません(ーー;)
くんとちゃんは、血の繋がりこそありませんが、青学中等部の中では最も互いを理解しあっている存在で、兄妹みたいな関係を築いています。特にくんに関しては、桃くんや手塚部長よりも、ちゃんの方が詳しいぐらいです。そのため、くんの物語にも、後々大きく関わってきます。彼女のお兄ちゃんたちも。
今回のお話では、弓とテニスで揺れてしまったちゃんですが、彼女の心は最初からテニスでかたまっていました。でも、弓が好きだという気持ちも本物だったから、ちょっと揺れてしまったわけです。そこで自分の気持ちを確かめるために、くんと試合をして、「やっぱりテニスが好き」と再確認したちゃん。きっといままで以上に、マネージャーとして頑張ってくれると思いますv 水帆ちゃん、色々迷惑をかける娘かもしれないけれど、これからも一の姫をよろしくね(^^;)
ここまで読んで下さって、ありがとうございました。
2005.3.21 風見野 里久
