Angel――白き風になりたい―― <前編>
ひっそりと静まりかえった空間に、朝の澄んだ大気が横たわっている。それを心ゆくまで満喫しながら歩くのは、栗色の髪の少年であった。朝靄の向こうに、見慣れた後ろ姿を認め、小走りで近寄る。
「おはよう、はやいね、ちゃん」
「おはよう。くんこそ、はやいじゃない。今日は朝練はない日なのに」
「何か、目が覚めちゃってね」
私も、と緑の瞳をした少女は笑った。後頭部で結った髪が揺れる。
「こうして二人きりになるのって、ちょっと久しぶりね」
「そうだね。学校だと、他の誰かがいるものね」
二人の顔に笑顔があふれる。その光景は恋人同士、というよりは、仲のよい兄妹同士といった感じである。だが、実際そのとおりであったりする。とは、青春学園に入学する以前からの友人同士であり、家族ぐるみで交流があった。そして、あることをきっかけに、互いを兄妹と見なしている。
少年と少女の会話はおおいに弾んだ。学校のこと、部活のこと、テニスのこと、家族のこと……ここぞとばかりに、二人は語りあった。話が途切れた時には、学校の正門をくぐったところであった。
「ねぇ、くん、ちょっと寄り道していかない?」
「え? どこへ?」
もう正門をくぐってしまったというのに、一体どこへ寄ろうというのだろうか。は青緑の双眸に軽い困惑をたたえて、一の姫を見やった。はいたずらっぽく笑うと、の手をとって歩き出す。
「ちゃん?」
「着いてからのお楽しみ」
楽しそうな少女の様子に、もつられたように微笑む。がを導いたのは、弓道部が使っている稽古場であった。
「ここはイタズラとかさえしなければ、基本的にどの生徒も出入りが自由なの。私も、時々ここでやらせてもらってるのよ」
「へぇ……知らなかったよ」
ぐるりと稽古場を眺めわたし、は壁際に並べてある弓のひとつを手にとる。軽く弦を指先でつまみ、弾いてみる。弾力性に富んだ音が、朝の大気を震わせた。
「練習用のものでも、きちんと手入れされているんだね」
「そうよ」
弓のひとつを手にし、ふとは心づいたように言う。
「ねぇ、くん、ひとつ勝負しない?」
いたずらっぽく、だが、瞳には並々ならぬ自信が満ちている。青緑の瞳をした少年は、軽く口の端をほころばせた。
「弓でちゃんに挑むなんて、僕には十年はやいと思うけれどなぁ」
その口調には、肩をすくめるような気配がある。
「何言ってるの。その辺の人よりも数段うまいくせに」
二人はそれぞれ位置につく。同時に矢をつがえ、互いの姿を一瞥する。微笑をかわしあい、これまた同時に弓弦を鳴らした。二条の光が宙を駆け、的の中央へと突き立った。
弓勢はの方が上であったが、正確さはの方が勝っている。青緑の双眸を持つ少年の矢が、的の中央は中央でもやや左よりなのに対し、緑の瞳をした少女の方は、まさに中心を射抜いている。
が感歎の呟きを洩らした。
「――やっぱり、ちゃんにはかなわないな」
「くんだって、すごいじゃない」
二人は立て続けに十本ほど射る。双方ともにただの一本もはずさない。鳴り響く弓弦の音が、まるでひとつの曲を奏でているようだ。
一の姫が十本目の矢を命中させると、どこからか拍手が起こった。
「お見事。二人とも、いい腕ね」
二対の双眸の先にいたのは、よりもやや背の高い、三年の女子生徒であった。すらりとした肢体に、腰まである黒髪を同様後頭部で束ねている。は彼女を知らなかったが、にとっては顔見知りであった。
「あ、先輩、おはようございます。使わせて頂いてます」
「おはよう、さん。今日はテニス部の練習はないの?」
「はい。でも、はやくきすぎてしまったので、弓をひきたくなって」
そうなの、と女子生徒は朗らかに笑った。彼女は女子弓道部の部長で、全国にその名を轟かせる射手だという。視線を受け、は丁寧に一礼した。
「彼女のクラスメイトのです」
「……? あぁ、テニス部の子ね。すごいわね、テニス部なのに、一本もはずさないなんて。男子弓道部の人に知られたら、間違いなくスカウトされるわよ」
青緑の双眸を持つ少年は、小さく笑って賛辞を受け入れる。いまでも時折、他の部から勧誘を受ける自分としては、これ以上それが増えるのは遠慮したいなぁ、と心の隅でそんなことを思う。
そろそろ弓道部員が集まり始めてきたので、たちは弓を返して稽古場を出た。彼らの背、特に緑の瞳の少女のそれを、弓道部部長は意味ありげに見送っていた。
女子弓道部の部長が、二年八組にやってきたのは、昼休みの半ば頃であった。
「、何かお前を呼んでくれって、三年の女子がきてるぜ」
そう言ってきた桃城の口調こそ明るいが、瞳は笑っていない。テニス部のマネージャーとなったことで、はいわゆる「呼び出し」を受けることが多くなった。弓道部部長のことをよく知らない二年生レギュラーとしては、今回もそれではないかと、警戒しているのである。
「ありがとう、桃くん。あの人なら大丈夫だから、心配しないで」
緑の双眸を持つ少女の言葉に、桃城はすぐには返事をしなかった。判断に迷ったように視線を彷徨わせ、ややあってから肩をすくめて笑う。
「なら、いいんだけど……一応気をつけろよ」
一の姫は、よほどの場合を除いて他者の手を煩わせることをしない。呼び出しなどの場合は、その傾向が特に強く、ひとりで解決しようとする。そのことは桃城に限らず、周辺の者たちにとっては、密かな悩みの種となっていることを、当の本人は気づいていない。
「うん、ありがとう」
にっこりと微笑み、は茶色の髪を揺らして席を立った。
彼女を見送って、桃城は自身の席に戻る。ちらちらと廊下の方へ視線を投げて、いつでも出ていけるように身構えながら、親友と言葉をかわし始めた。
やってきた一の姫に、弓道部部長はまず突然の来訪を詫びた。それが終わると、早速本題へと入る。
「ねぇ、さん、単刀直入で悪いんだけれど、弓道部にこない?」
「え?」
「あなたの右腕のことは、空手部の人に聴いているから、知っているわ。でも、今朝見た限りでは、弓をひく分には、特に問題はないように見えたけれど……違うかしら?」
なかなか鋭い観察眼だ。胸中で感歎の声を上げながら、は口を動かした。
「……症状がでていない時なら、確かに弓をひくのは問題ありません」
「だったら、弓道部に入ってみない? あなたの腕は、間違いなく全国を狙えるだけのものよ。さんが、男子テニス部のマネージャーをやっていることは知っているけれど、今朝のを見たら、何だかもったいないように見えちゃってね」
すぐにとは言わないが、少し考えてみてくれないか。返事はいつでもいい。女子弓道部の部長は、それだけ言うと、去っていった。
……残されたの瞳は、深い葛藤に沈んでいた。
つい先ほどまで笑顔だった少女が、表情を一変させて教室に入ってきたのを見、は眉をひそめた。桃城に軽く断りを入れて、立ち上がる。
「ちゃん? 何かあったの?」
遠慮がちにそう問えば、一の姫はかすかに微笑んだ。鮮やかな色の双眸が、この時は若干その輝きを失っているように見えるのは、の気のせいだろうか。
「くん、ちょっと、相談にのってくれる?」
青緑の双眸を持つ少年は、考えるよりもはやく頷いていた。彼女の兄妹として、当然のことであった。
少年と少女は場所を教室から、屋上へと移した。は屋上へと出るなり、軽く助走をつけて給水塔の横へと飛び乗る。も少女を凌ぐほどの身軽さでそれに倣った。
「さっきね……」
と、一の姫が語を紡ぎ始めたのは、給水塔の裏側に腰を下ろしてからだ。
の隣に座った少年は、静かに話に聴き入る。弓道部の部長から誘いを受けたことを話し、一の姫は自身の心の内を音にした。
「私は弓が大好き。だから、先輩が私の腕を見込んで、弓道部に、って誘ってくれたのは嬉しかった」
昨年、はテニス部にも弓道部にも入らず、空手部に入った。自身を鍛えて親友を護りたい、というのが一番の理由であった。だがそれには、実は「男子テニス部でマネージャーをやる」という選択肢があるとは思ってもみなかったし、独学で学んだ弓では、公式試合に通用しないと思い込んでいたという理由もあったのである。
先ほど弓道部の部長に「全国を狙える腕だ」と言われ、その思い込みが砕かれた。できるものならば、やってみたい。やってみたいが――。
「でも、弓と同じくらい、テニスも大好き。――どうしたらいいんだろうね……?」
「――ちゃん……」
はの心情を察した。にとってテニスは、たとえ自身ができなくても、かけがえのないものだ。そしていまの彼女には、「皆で全国にいく」という目標もある。しかし、弓もまた、緑の瞳の少女には無視できるものではない。彼女が弓をどれだけ真剣に練習しているかは、他ならぬ自分が知っている。
「……たぶん、どちらを選んでも、どこかで少なからず後悔するんじゃないかな。どっちも好きなら、なおさらね」
「――そうだね……」
一の姫は自嘲したようである。その肩に優しく手をおき、は穏やかな瞳を向ける。
「迷えばいいよ。迷うことが悪いことだとは、僕は思わない。迷うってことは、それだけ自分と向きあおうとしていることだからね」
そこで語を区切り、今度はの方が自嘲めいた笑みを口元に刻む。
「……何の参考にもならないことしか言えなくて、ごめんね。でも、これだけは憶えておいて。ちゃんがどちらを選んだとしても、僕は支持するよ。そして後悔する日がきたら――その時は、絶対に傍にいるから」
「……くん……ありがとう」
緑の双瞳を揺らし、は微笑んだ。の白く細い手が、兄たちのそれのようにあたたかく思えた。
一の姫の様子がおかしいことは、翌日までには、テニス部全体に知れわたることとなった。何かあったのだろうか、と心配した部員たちが、かわるがわる声をかけたが、は曖昧に笑うだけであった。
それまで見守るだけにとどめていた桃城が、昼休みになって、意を決したようにに問いかけた。ぼうっと空を眺めている一の姫を一瞥し、声をひそめる。
「なぁ、、何だか、の元気がないような気がすんだけど……俺の気のせいか?」
「ううん、気のせいじゃないよ。ちゃん、いまちょっと悩んでいるんだ」
「何で、って、訊いちゃまずいか?」
ためらいがちな問いかけが、二年生レギュラーの複雑な心境を反映している。知りたいという思いと、自分などが詮索するべきではない、という思いが混ざりあっているようだ。
栗色の髪の二年生は、瞳をわずかに伏せた。
「まずくはないよ。――ねぇ、桃、二つの物事があって、そのどちらか一方を選べ、って言われたら、どうする?」
親友の言葉は、直接この事態とは関係なさそうに思えた。が、桃城は生真面目な表情で考え込み、やがて答えた。
「……好きな方を選ぶな」
「どちらも好きだったら?」
「……悩む」
青緑の瞳を淡く煌めかせ、は兄妹のように思っている少女に視線を投じた。
「いまのちゃんも、それをやっているんだよ」
桃城は無言で親友の横顔を見つめる。言葉のない促しを受け、栗色の髪の少年は弓道部からの誘いについて話した。そして、どこか遠くに語りかけるように語を紡ぐ。
「どっちも好きだから、選べなくて困ってる……どっちを選んでも、いつか、何かのかたちで後悔するだろうから……」
「そうだな……そんなものだろうな」
二人の少年の瞳に、件の少女が立ち上がったのが映った。は深い思考に沈んだ顔で、ひとり教室を出ていく。その様子を気遣わしげに見やっていた二年生レギュラーは、わずかな逡巡の後、席をたった。
――空が青く、高い。
これほどいい天気なのに、屋上には人影はなく、ひっそりと静まりかえっている。
一の姫はフェンスの傍へと歩み寄ると、額をつけた。閉ざされた瞼の奥に、弓道部部長の姿とテニス部の者たちのそれが、浮かんでは消えていく。
「――本当は……わかっているんだけどなぁ……」
自分がいま何を望んでいるのか。何がやりたいのか。本当はわかっているのだ。わかっているのだけれども――。
扉の開閉音に、は視線をめぐらせた。
「桃くん……」
二年生レギュラーはぎこちなく笑う。
「よ、よぉ、」
その顔から、緑の双眸を持つ少女は、彼が何故ここにきたのかを察した。自嘲するように唇を歪める。
「ごめんね……くだらないことで、心配かけちゃって」
「くだらないなんて、そんなこと言うなよ! の今後に関わる、大切なことだろ」
「桃くん……」
一の姫が淡く微笑めば、桃城は思い出したように鼓動が高まるのを感じた。頬が熱くなるのを感じて、慌てて視線を斜め下方へ這わせる。
――舞い降りる沈黙の精霊。
風のない空間に、ただ陽の光だけが降ってくる。
「あの、さ…………」
どれぐらいしてからだろうか。黒髪の少年がもどかしそうに口を開いた。
「その……うまく言えねぇけど……」
桃城は視線を彷徨わせ、言葉を必死で探しているようだ。は急かすことなく続きを待つ。
「――俺たちは、完璧じゃない」
「気のきいた台詞」などよりも、「自分らしい言葉」の方が、きっと伝わりやすい。その結論に達すると、黒髪の少年は真っ直ぐにを見やる。先ほどまで感じていた熱も、いまはほどよいものとなり、それがある種の余裕となって言葉を紡がせる。
「――できるだけ後悔しないように生きたくても、どこかで必ず後悔する。そうできてるんだ。だったら、いましかできねぇ方を、選んでおいた方がいい。その方が、同じ後悔でも軽いだろ?」
は瞬きもせずに、桃城の顔を凝視した。いま瞬きをすればどうなるか、それぐらいわかっている。自分の双眸は、こんなにも熱くなっているのだから。
「……うん」
かすかに頷くのが精一杯だった。すると途端に照れくさくなったのか、桃城は緑の双眸を持つ少女に背をさらした。その背を眺めやり、は、が何故桃城を親友として遇しているのかが、改めてわかった気がした。
これはあくまで俺の考えだけど、と前置きし、二年生レギュラーは軽く空を仰いだ。
「――俺たち、いや、俺は、と一緒に、全国にいきたいと思ってる」
「――うん……ありがとう……桃くん……」
かすかに涙の混じった声が、の口から洩れた。その声を受けながら、桃城は静かに校舎内に戻っていった。
……To be continued.