第三章   視えなかった凶兆





 誰かの声が聴こえたような気がして、は思わず立ち止まっていた。周囲をぐるりと見わたし、神経を研ぎ澄ませてみるが、もう意識にひっかかるものはない。

「どうした? ?」

 気づいたイサトが呼びかければ、時見の少女は軽く首を傾けた。

「う、ん……何か、聴こえたような気がしたんだけれど……気のせいみたい」

「――ならば、さっさと歩け、娘。一刻もはやく、あれをみつけねば……!」

 と、これは白雉である。足首に生えた羽根で気流にのれる彼は、イサトたちのように地に足をつけて歩く必要がなく、いまも空中に浮遊している状態だ。徒人の眼には映らぬよう力を抑えているらしいが、もしそうでなければ、いま頃大騒ぎだっただろう。

 とにかく霊珠を持ち去ったという妖を、一刻もはやくみつけださなければならぬ。

 これも何かの縁と白雉に協力を申し出、早速都へと繰り出したたちであったが、捜索は難航していた。現在の都には様々な気が渦を巻き、複雑に絡み合っている。その中から一匹の妖を気配を頼りに捜し出すというのは、雲を素手で掴むようなもので。

 白雉は苛立たしげに舌を打った。

「この都は、一体どうなっておるのだ!? 神々の加護が失われているばかりか、時と空の理からもはずれておる。おかげで気が澱み、憎き彼奴の気配がまるで掴めん!」

「ギャアギャア騒ぐなよ。騒いだって、みつかるわけねぇだろ」

 天の朱雀が軽く肩をすくめていえば、白雉が猛然と言葉で突きかかる。

 お前はあの霊珠の価値も、我の責務も知らぬから、そのようなことが言えるのだ。あれは本当に大変貴重なもので、熊野の至宝なのだ。それが汚らわしい妖に奪い去られたなど、あってはならぬこと。我は熊野の神にお仕えする者として、何がなんでもあれを取り返さねばならない……。

 放っておけば永遠に動きそうな口を、が片手をあげて制した。

「ひとつ訊いてもいい?」

「何だ?」

「どうして、その至宝は奪われてしまったの? それだけ価値のあるものなら、然るべき場所に安置してそうなものじゃない? 結界とかを張って」

 それこそ、汚らわしい妖などが触れることも、近づくこともかなわぬ場所に。いぶかる若葉色の双瞳に見つめられ、何故か白雉は怯んだようである。イサトは少女の言葉を腑に落とすと、確かにそうだと頷いた。宝を安置しているのなら、そこは最も護りが厳重な、いわば神々の膝元に近い場所のはず。賊はそこに入り込めるほど、強大な力を有した妖なのだろうか。

 黒曜石の光が狼狽え、落ち着かなげに彷徨う。

「そ、そんなことをお前たちに言う必要は――」

「ねぇ、とか言うなよ。重要なことだぜ、これは」

「そうね。私たちは妖の姿をちらっと見ただけで、他には何も知らない。相手の実力によっては、こっちだって態勢を整える必要が出てくるわ」

 場合によっては、出かけているたちを呼び戻し、八葉全員に招集をかける必要もあるだろう。それならそれで、はやく行動に移らなければ。土壇場になって呼集したところで、到着した頃には事が終わっている可能性がある。それも悪い意味で。

 少年と少女の強い眼差しを受け、白雉はいよいよ顔色をかえた。言い逃れはできないと判断したのか、それとも腹を括ったのか。どちらにせよ、重い口が開かれそうになった時、耳慣れた声が投げかけられた。

「イサトに殿ではありませんか」

 身なりのよい、色の薄い髪をした少年が、ゆったりとした歩調でやってくる。

「よお、彰紋。ちょうどいいところに」

 僧兵見習の少年は親しげに声をかけたが、実はこれは大変なことであった。何といっても、色の薄い髪をした少年、彰紋は今上帝の弟にあたるのだから。一般庶民といえるイサトとでは、大きな身分の差がある。だが、それをはがせば、同じ八葉の仲間で、イサトにとっては対の存在――地の朱雀でもあった。

 親しげに名を呼んでもらったことが、嬉しかったのだろう。彰紋はおっとりとした表情に笑みをたたえ、軽く瞳を細めた。

「お二人とも、こんにちは。イサトの言葉からして、何かあったようですね。僕に、お手伝いできることはありますか?」

『おおいにある』

 問われた方が揃って頷けば、彰紋は双眸をしばたたかせた。そこで空中で居心地が悪そうにしている子供に気づいたようだ。緩く首を傾ける。

「おや、そちらは……?」

「わ、我は――」

「こいつは熊野の神様に仕えてる白雉、って奴だ。訳あって、いまはオレたちと行動をともにしてる」

 天の朱雀がさらりと説明すれば、言を遮られた白雉は虚しく口を開閉させた。その姿をはいささかあわれっぽく見上げる。神仙に近い存在であるのに、威厳を全く示せないのはさぞ悲しいだろう。

 早速「訳」を手短かに説明して、は夜空の一部を切りとったかのような頭髪をかき上げた。

「――というわけで、賊の捜索をしているところなんだけれど、さすがに二人だけじゃ手が足りなさそうなの」

「わかりました。ぜひお手伝いさせて下さい。誰かに何かが起こる前に、一刻もはやくその妖をみつけなければ」

 生真面目に頷いてみせる少年の顔には、為政者としてのそれが見え隠れしている。八葉としても、今上帝の弟――東宮としても、彼には人々を護る義務があるのだ。

 と、そこへ馬蹄の音が響いてくる。明らかに急ぎと思われるその音に、空中に佇む白雉はともかく、たちは道の端に寄ろうとした。うっかり馬の足にひっかけられようものならば、妖捜しどころではなくなってしまう。

「ねぇ、あれって幸鷹さんじゃない?」

 馬上の人を遠目に見やり、時見の少女は若葉色の双瞳を細めた。

「んー? あ、ホントだ」

「どうしたんでしょうか? 彼があれほど慌てるなど珍しい」

 天地の朱雀が口々に言い、小首を傾げる。幸鷹、つまり天の白虎・藤原幸鷹は、検非違使別当の地位にあり、彰紋とはまた違ったかたちで、京の治安を護る義務を負っている。その彼が馬に乗り、道を急いでいる――何か事件が起きたとみるべきだろう。

 まさか――。

 は嫌な予感を覚え、無意識のうちに前身ごろをかきあわせていた。脳裏を一瞬よぎった面差し、あれは――。

 と、馬が嘶いた。前足をさお立たせ、急停止する。

「どう、どうっ。――これは、皆さん、ちょうどよいところに!」

 どこかで聞いた台詞だ。イサトが瞬きし、彰紋が笑いを堪える表情をする。が、時見の少女は笑えなかった。白い面差しが蒼白になっていることに気づいた白雉が、いぶかしげな視線を注いでくるが、それに応えることもできぬ。

 幸鷹は馬から飛び降り、額に浮かぶ汗を拭う。

「つい先ほど、検非違使庁に急使が参りました。頼忠と勝真殿からです」

 そこでひとつ息がつかれる。努めて冷静に、平静を繕おうとしている様子だ。

「東寺で怪異が起き、多数の一般市民と――殿たちが巻き込まれ、負傷されたそうです」

『――――!?』

 鋭く息を呑む気配が、の左右で生じる。若葉色の双瞳が、ゆるゆると瞠られた。

 脳裏を一瞬よぎった面差し、あれは。

 あれ、は――――。



                  ……To be continued.





            大切なものほど、この手はとどかない……。