ふうじん  らんぶ
           
第二章   風刃乱舞





 空癒の少女――雫月は、東寺の柱のひとつに寄りかかって、遠く響く鐘の音を聴いていた。百年の時を
越えて聴く音色は、記憶にあるものと同じで。それが逆に切ない痛みを呼び起こす。彼らは、彼は、いま頃どう
しているだろうか。

「――、ひとりか?」

 横手から突然投げかけられた声に、は思わず悲鳴を上げそうになった。慌ててめぐらせた視線の先には、
もう見慣れた顔がある。龍神の神子を護る八葉がひとり、地の青龍・平勝真だ。

「――か、勝真さん……!?」

「すまん。驚かせたか?」

「あ、いいえ! ぼうっとしてた私が悪いんです!」

 両手にあわせて首まで振りながら言う少女に、勝真は笑みを誘われた。自分の知る同じ年頃の少女たちは、
どちらかというと、しとやかすぎるほどしとやかな者ばかりで。そういうものだとは頭でわかっていても、何とも
味気なく感じる心を抑えることができぬ。だが、を含めた異界よりきた少女たちは、くるくると表情や感情
が動き、ちょっとした仕草も生き生きとしていて、大変好ましい。

 京職である青年が気分を害していないと知り、はほっと胸を撫で下ろす。

「……本当にすみません、鐘の音を聴いていたら、何だか百年前の世界を思い出してしまって……」

「そうか……東寺は、百年前にも存在していたからな」

 勝真は気遣わしげな眼差しを空癒の少女に注ぎ、その心情を思いやる。異界より訪れた少女たちの運命は、
本来あった道からはずれてしまった。誰にも、龍神にでさえ予測できなかった運命の流転――それは、あまり
にも過酷なものだ。

「……大丈夫だ。必ず還れる。還してやる。それまでは、すまないが、俺たちで我慢してくれ」

 無駄のない、ひきしまった腕が伸びて、の、その胡桃色の頭髪を撫でる。いつもならば、剥き出しになっ
た腕からは寒々しい印象を受けるのだが、この時はとてもあたたかく感じられた。

「そんな、我慢だなんて……私も、ちゃんも、花梨ちゃんも、勝真さんたちに逢えてよかったと思ってます。
本当に、本当にそう思ってます」

 じわりと熱をおびそうになった瞳を、瞬きを繰り返して誤魔化し、空癒の少女は笑う。泣き笑いにも見える
表情であったが、紡ぐ言葉に偽りはない。

「――そうか」

 勝真は破顔し、それからふと気づいた様子で周囲を見まわした。

「ところで、、ひとりなのか?」

 これはひとりで、ここまできたのか、という意味であったのだが、問われた少女は別の意味で受けとった
らしい。少しばかり困ったように微笑む。

「はい。すみません、ちゃんは、今日は気になることがあるからって、お屋敷でお留守番しているんです」

 返答までには間があった。地の青龍は思わず瞬きし、苦笑めいたものを若々しい顔に滲ませる。

「違う、違う。誰かと一緒にここにきたんじゃないのか? まさか、独りで出歩いていたわけじゃないだろうな?」

「あぁ、そういう意味ですか。いえ、頼忠さんと一緒にきたんですけれど……」

 藍の双眸が意味ありげに動き、それを追って勝真は視線を転じた。少し離れた場所で、武士らしき者が三人
集まり、何やら揉めているようだ。いや、正確にいうならば、揉めている二人を、天の青龍である源頼忠がなだ
めているというところだろう。睨みあう二人の武士は、それぞれ腰におびた得物に手をかけており、まさに一触
即発だ。

「……なるほど。さすがにあれは、放っておけないか」

「はい……二人のうちのひとりは、頼忠さんのお知り合いらしくて……」

「相手の方は、名は知らないが、顔に見覚えがある。某かの貴族に使える武士だ。刃傷沙汰になれば、互い
に面倒なことになるのは目に見えている、か……」

 京職の青年の口調には、肩をすくめるような気配がある。正直にいえば、どこぞの貴族やら武士やらがどう
なろうと知ったことではないのだが、仲間が絡んでしまっている以上、無視するわけにはいかぬ。仕方なく足を
踏み出しかけた時、ざわりと皮膚が粟立った。

「――!?」

「な、何っ……!?」

 勝真と同じものを感じとり、は身体を硬くする。視界の隅で、頼忠もまた何事かを察知したらしい。三人が
反射的に空を仰ぎ見れば、澄んだ青を禍々しい黒影がよぎる。猛々しい、耳障りな鳴号が轟き、邪気が炸裂した。

「ダメ――っ!」

 空癒の少女はとっさに両腕をひろげ、結界を創生したが、即席の防壁は再び轟いた鳴号にたやすく粉砕された。
自身の力と相手のそれをもろに受け、声にならぬ悲鳴を発する少女の肢体を引き寄せると、勝真は胡桃色の頭を
胸元に抱え込んだ。

 ――風が吼える。

 徒人には、前触れもなく刃風(はかぜ)が見舞ったように感じられたことだろう。生じた危険な突風は、参拝に
訪れていた人々を容赦なく薙ぎ倒し、衣や肌を切り裂いた。悲鳴と怒号が飛びかい、そこに鮮烈な飛沫が重なる。

 と、目を開けていることも困難な嵐の中で、地の青龍は自分たちに向けて突進してくる黒影を認めた。

「――っ、寄るなっ!!」

 一閃の気合が青き雷を呼び、黒影を弾き飛ばす。もんどりうったそれは空中で体勢を整えると、呪詛めいた
鳴声を発して彼方へと飛び去っていった。残されたのは、巨大な爪痕の刻まれた大地と、数えきれぬほどの
負傷者たちだけだ。

「あれは……一体……」

 半ば茫然と呟く勝真の衣は裂け、薄くではあるが、四肢に朱の線が走っている。の結界が少なからず
威力を削いでいてくれねば、いま頃はもっとひどいことになっていたであろう。

「勝真! 殿!」

 いささか青ざめた面持ちで駆け寄ってくる頼忠の顔に、鮮やかな紅が筋を描いている。乱れた頭髪のせいで
よく見えないが、額のどこかが裂けたのだろう。

「大丈夫か……!?」

は気を失っているだけだ。どちらかといえば、お前の方が大丈夫じゃないだろう、頼忠」

 勝真が半ば呆れたような声の調子で言えば、言われた方は、首を横に振ってみせた。腕を持ち上げて無造作
に顔面を拭う。

「たいした傷ではない。そういうお前はどうなのだ?」

「俺もたいしたことはない。のおかげだ」

 腕の中でぐったりとしている少女を見下ろし、地の青龍は目元を緩める。頬にかかる胡桃色の頭髪を払い、
両腕で抱え上げる。どこかで休ませてやらなければ。

 と、武士の青年は視線を転じた。

「……我々がいながら、とんだ失態だ」

 負傷者たちの間から、苦鳴や泣き叫ぶ声が響きわたる。のどかな秋の情景が一転して、惨憺たる有様だ。
空癒の少女のような治癒の力などを持たぬ天地の青龍では、彼らの傷を治してやることもできぬ。

「全くだな」

 笑いもせずに応じた勝真は、ふと何かを思い出した風情で友人を見やる。

「頼忠、お前の眼には、どう視えた」

「何がだ」とは言わず、天の青龍は思案顔になった。再び鼻筋をつたってきた熱い液体を拭い、言葉を選ぶ。

「……鳥……いや、翼の生えた獣に視えた。何にせよ、初めて視る相手だ」

「――それだけじゃない。奴は、俺の攻撃を受けはしたが、ほとんど効いていないようだった」

 無言の眼差しを横顔に受けながら、地の青龍は語調に警戒心を含ませる。

「ただの怨霊の類じゃない。――厄介なことになりそうだ……」

 二人の青年は素知らぬ青さを誇る天空を、険しい表情で睨めつけた。





                   ……To be continued.






          この身を盾に、心を剣(つるぎ)に。――護りたいと願うから。