第一章   遠き空よりの来訪者





 見上げた空は、秋という季節特有の色をみせている。

 澄んで美しいと思う反面で、どこか物悲しい、憂いを含んだ色――星風寺は、それが決して嫌いなわけではない。
が、独りで眺めていると、自分まで寂しいような気分になることだけは、少々いただけないのであった。

 簀子(すのこ)に座って、ただ空を眺め始めてから、もうどのぐらいだろうか。紫姫が用意してくれた白湯も、とうに飲んで
しまった。何となくため息をつきたい衝動にかられ、が軽く息を吸い込んだ時、廊の向こうから近づいてくる気配に気づく。

「――イサトくん……?」

 この屋敷の中で、どたどたと足音も高く歩く者は、そう多くはない。角を曲がって現れたのは、やはり予想どおりの人物だ。

「ん? 何だ、。何してんだよ、こんな所で?」

 イサトが小首を傾げたのも、無理はないだろう。今日のようなよい天気の日は、いつもの時見の少女ならば、率先して京を
探索しているはずだ。それが物忌みでもないのに、たったひとりで簀子(すのこ)に座して、一体何をしているのだろうか。

「あぁ、イサトくん。こんにちは、なら、頼忠さんたちと出かけてるけど」

「知ってる。ここに来る途中で会ったからな。オレは、お前に会いにきたんだよ」

 僧兵見習の少年は腕を組み、どこか憮然とした表情をする。まるで自分が――空癒の少女である雫月以外には、
興味がないような物言いをされるのは、少なからず不本意だ。確かに、彼女には特別な想いを抱いてはいるが、のこと
とて、大切な存在だと思っているのだから。

 は若葉色の双瞳を瞬かせる。そして、何かを思いあたった様子でほろ苦く笑った。

「……ごめん。嫌な言い方しちゃったね。ずっとここにいたから、ちょっと気分が滅入っているみたい。きてくれて、ありがとう」

「……まあ、いいけどさ。で、何やってるんだ? それに、ずっとここにいた、って……」

 視線を上げて、周囲をぐるりと見回してみるが、特にかわったものはない。イサトがますます腑に落ちない表情をすれば、
紺の髪の少女は軽く首を傾けた。

「―――何かがくる……はず……たぶん」

 言葉が紡がれるにつれて、首の傾斜が急になり、声が小さくなってゆく。終いには「どう思う」とばかりに、上目遣いに見られ、
天の朱雀は、胡乱な眼をした。

「……オレに訊くなよ。っていうか、何なんだよ、それ」

 の隣に腰を下ろして片胡座をかき、そこに肘をついて顎をのせる。

「何か視えた、ってことなのか?」

「うーん、それが、はっきりしないのよねぇ。でも、何故か、今日はここにいなきゃいけない気がして――!?」

 言いさしてたところで、若葉色の瞳が瞠られた。一瞬遅れて、イサトもそれに気づく。傍らに置いていた錫杖を掴み、庭に
飛び降りる。

 ――何か、くる。

 時見の少女が左腕を横にひろげれば、掌に白銀の煌めきが生じた。それは長く伸びて、弓を形づくる。専用の武器
『蒼穹』である。

 屋敷の上空で不可視の力が弾け、黒い塊が庭先に落下した。同時に、何か別の気配が急速に遠ざかってゆく。

「……何だ、ありゃ?」

「さぁ、はやすぎて、さすがに視えなかった……」

 心から首を傾げた二人は、とりあえず落下してきたものの傍に近寄ってみる。それは一見、子供のようであった。が、尖った耳と、
くるぶしのあたりに生えた小さな羽根が、子供が徒人ではないことを教えてくる。

 どうやら気絶しているらしい子供を見下ろし、イサトは怪訝に呟いた。

が待ってたのって、このガキか?」

「どうだろう? でも、この子、見たところ人間じゃないよね。かといって、怨霊の類にしては、邪気も感じない。ひょっとして、精霊とか
神仙かも……?」

「本人に訊いてみれば、わかるだろ。――おい、坊主、大丈夫か?」

 天の朱雀は子供を抱え起こし、ひたひたと頬を叩き始める。ちょうどイサトと向かいあうかたちで膝を落としたは、ざっと子供
の身体を見回したところ、特に怪我らしい怪我はない。よくよく観察してみれば、子供は紫姫よりは年上だが、彰紋よりは年下の、
一二、三歳ほどと思われた。

 と、睫が震え、子供がかすかに身じろいだ。やがてゆっくりと持ち上がった瞼の下からは、黒曜石に似た瞳がその色を覗かせる。

「……っ……我は……!?」

 二度、三度と瞬きを繰り返したかと思うと、子供は両眼を見開いた。イサトの腕から逃れ、大きく間合をとる。幼い顔の中で、眦が
つりあがった。

「何者だ、貴様らは!? 怪しい奴め!」

 とイサトは、思わず互いの顔を見あわせる。先に動いたのは、僧兵見習の少年であった。持っていた錫杖をに預け、
自分は拳を固めて子供の傍に歩み寄ると、あちらが口を開くよりもはやく、その頭を小突く。

 ――ごん!

 なかなかよい音がした。あれは痛いだろう、と若葉色の双眸を持つ少女は内心で思う。

「――っつ……! 貴様、何をするかぁ!?」

 よほど痛かったのだろう。黒曜の瞳に大粒の涙を浮かべ、子供が吠え立てた。対するイサトは、半ばふんぞり返るように腕を組む。

「あのな、ヒト様の家の庭にいきなり降ってきて、『怪しい奴め』とは何だ! いまこの場で、真実怪しい奴といったら、お前だろう!?」

「ぐっ……し、しかし、だからといって、いきなり殴ることはなかろう!」

「躾だよ。し・つ・け!」

「度をこえた躾は、ただの暴力だというのを知らんのか、貴様は!?」

「お前みたいなガキに、躾の仕方をとやかく言われる筋合いはねぇ!」

 ぎゃおぎゃおと舌戦を展開する二人を見、は思わず歎息した。両手に武器を携えた自分が、何とも馬鹿らしく思えてくる。
それにしても、いくら見た目が幼くとも、明らかに徒人ではない以上、外見と中身が同じとは限らぬ。よって「ガキ」と表現するのは、
いかがなものだろうか。

 少し考えてから、愛用の弓をおさめたは、ふいに静かになったのを感じとって振り返った。どうやら舌が疲れてしまった
らしい。見知らぬ子供と、イサトは睨みあったまま肩で息をしていた。それでも空中で激突している視線が、無色の火花を散らしている。

「――ねえ、キミ、何か追っかけてたよね。あれ、何? 気配からして、いいものではないでしょう。怨霊や妖の類じゃない?」

 割り込んできた少女を見やる子供の視線は、甚だ非友好的であった。小馬鹿にしたような目つきをする。

「ふん、そんなこと、何でお前なぞに話さねばならん。人間の小娘の出る幕ではない、ひっこんでおれ」

「そうはいっても、私は、キミがここにくることを知っていた。何か意味があると思うのだけれどね」

 鮮やかな若葉色の双眸に、思慮深い光が浮かぶ。こちらの世界にきてからというもの、直感力が異常に強くなり、それに幾度となく
助けられてきている。あまり融通のきかぬ予知の力よりも、ある意味でよほど頼りになる。その勘が告げるのだ。

 ――あれを追え、と。

 あまりにもはやすぎて視覚的に捉えるのは不可能であったが、一瞬感じた気配は悪しきもの。だが、それだけではなかった気が
する。そう、何か、何か持っていたのではないだろうか。そう口にすれば、子供は警戒心を露わにした。

「……お前、いや、お前たち、本当に人間か?」

 時見の少女が何か言うよりもはやく、天の朱雀の拳が再び鳴る。

 ――ごごん!

 またもいい音である。子供は声もなく頭を抱えた。

「明らかに徒人じゃないお前が言うな! 確かにオレたちは、ちょいと普通の連中とは違う。だがな、この力を悪いことに使ったことは、
一度だってねぇし、これからもねぇよ!」

「……ヒトを殴るくせに」

 鈍痛を訴える頭部を抱え、子供は半眼になる。が、高い位置から見下ろしてくる双眸がきらりと輝けば、慌てて首を横に振ってみせた。

「いえ……何でもありません」

「よろしい。――じゃあ、さっきの質問に答えろよ。それから、お前は何者だ?」

 心からふんぞり返るイサトを横目に、紺の髪の少女は笑いを堪える表情をする。「明らかに徒人じゃない」子供よりも、「ちょいと普通の
連中とは違う」友人の方が、どう見えても頭が高いことがおかしかったのである。

 子供は地面に胡座をかくと、何やら気まずそうな面持ちで応える。

「……我は、熊野におわす、とある神にお仕えする白雉(はくち)だ。そちらの娘の言うとおり、妖を追ってこの地まできた」

 二対の双眸が交錯する。口を開いたのは、の方だ。

「それじゃあ、あなたは神仙に近い存在?」

「お前たちの言葉でいうならば、そうなる」

 ――それなのに先ほどの扱いは何だ。罰当たりめ。

 子供の、黒曜石に似た瞳が、無言の唸りを発している気がするのは、おそらくの気のせいではあるまい。が、罰当たりとされる
少年の方は、というと、こちらはまるで頓着した様子もない。軽く首を傾けて、自身の抱く疑問の昇華にかかる。

「で、はるばる熊野から追ってきた妖っていうのは、一体何をやらかしたんだ?」

「…………我らの宝である霊珠を奪い去ったのだ。あれには、自己の能力を高める作用がある。悪しきものが手にすれば、恐ろしい災い
となるだろう」

 イサトもも、告げられた内容を理解するのにたっぷり一拍の間を要した。弾かれたように見上げた空には、もはや妖の形はおろか、
影もない。

「――これってやっぱ……」

「まずいよねぇ……」

 途方に暮れた風情で天空を仰ぐ人の子たちを、子供――白雉は交互に眺めやる。黒曜石の双瞳には、いささか頼りない光が
たゆたっていることに、この時の少年少女は気づかなかった。



                       ……To be continued.





                    出逢うことで、かえられるものがある。