第六章 時の黄昏、空の月影 《中編》
――――もうじき地上と空が夜明けを迎える刻限。
遙か昔に京の都から追われた一族の集落が受ける陽射しは、どこか仄暗い。
特別な祭壇が設けられたその場所は、尚更日の光とは無縁だった。
「――いかがでしょう? お館様」
艶やかな美貌を自慢とする鬼の女が、心酔する首領を前に傅いている。
憎き八葉と龍神の神子、そして時空の少女たちを陥れるために考えた『奇策』を、たった今告げたばかりだ。
白き仮面をつけた鬼の首領は、薄い笑みを口元に貼りつける。
「……それが本当に出来たのであれば、中々に面白い策ではあるな」
アクラムが落としたその言葉に、シリンは表情を狂喜させた。
「お任せ下さい、アクラム様! このシリン、必ずや成功させてみせます」
「……よかろう。行くがいい」
「はい! どうぞお任せを」
アクラムからもらえる言葉や命令は、どんなことでも嬉しかった。
いつも以上に意気揚々として、シリンは鬼の首領の前を立ち去っていく。
と、アクラムは、彼女と入れかわるように現れた気配の名を呼んだ。
「――レイ。何用だ?」
暗き洞窟の岩陰から、その細身な姿が炎の灯りに照らし出される。
それは、薄茶色の髪と空色の瞳を持つ鬼の少年だった。
「今の……シリンは、京へ向かったのですか?」
「そうだ。新たに思いついた奇策を成し遂げにな」
首領のその言い方は、どこかわざとらしいような最もらしい言い回しだと、そう思いながらレイはシリンの
去った方を見て押し黙る。
すると、アクラムの低く冷たい声が響いた。
「どんな策かは、聴いていたな、レイ」
その瞬間、レイは空色の双眸を首領に弾き返す。
「シリンは特に大きな力も無ければ、成果もあげられぬが、その高慢さと非情さ、敵への執着心は我ら一族
ならではのものと言える。――レイ。お前はその逆だ」
鬼の首領の表情から、いつのまにか完全に笑みが消えていた。
「お前の持つ霊力は、私とイクティダールに次ぐもの……しかし、肝心なところでお前は非情になりきれぬ。
よもや忘れたわけではあるまいな? 京の民が、お前とその家族に何をしたのかを――」
「当然です」
遮るかのように、レイの返答は早かった。
「それは勿論……忘れることなど、決してありません」
空色の瞳に哀しげな色を宿し、自身の拳を強く握りしめる。
――白き仮面の下の唇が、再び笑みを象った。
「……ならば、よい。のうのうと生きている京の民を決して許してはならぬ。我ら一族が受けた屈辱、必ずや
思い知らせてやるのだ」
「…………はい。お館様」
拳の力をゆっくりと解き、薄茶色の髪を持つ鬼の少年は、若き首領に深々と傅いた。
前々から準備されていた『葵祭』という行事が、上賀茂神社で行われるこの日。
昨日まで色々と大変だったからと、星の姫や天の玄武、天地の白虎などの「出かけてはどうか」という勧め
を受けて。
龍神の神子と時空の少女たちは数人の八葉を連れて、上賀茂神社へ出向いた――ところまではよかった
のだが……。
「ホントに今日は、いい天気だね。こうやって外を歩くなんて久しぶり」
降りそそぐ光を全身に浴びて、あかねは心地よさげに新緑の瞳を閉じる。
「たまには、あかねちゃんも息抜きしなきゃね」
が微笑ってそう言うと、あかねは「ありがと、ちゃん」と明るい笑顔を返した。
そんな二人と同様、穏やかな笑みを浮かべていた――だが、突然ぴたりと足を止める。
「ちゃん? どうしたの?」
隣りを歩いていたのですぐに気づいた空癒の少女が問うと、同行していた年若い八葉たちも、何だどうした
と集まってくる。
ちなみに今日の同行者は、天真とイノリと詩紋、そして頼久である。
吸い込まれるように消える景色と引き換えに、吹き込まれて見えてくる世界。
そこには市場で賑わう人々と、そして――――。
「――――…………ちゃん、ちゃん!」
時見の少女は、ハッと我に返った。
若葉色の瞳を見開くと、両隣りには心配そうな少女たちが居る。
「――頼久さん! イノリくんッ!!」
はいきなり、天の理に属する八葉を振り返った。
「は、はい!」
「うわっ、何だよ??」
頼久は驚きつつもすぐに返事をしたが、イノリはつい昨日のこともあって半ば怯えたような反応になる。
「今日って、どこかで市場とか開いてます!?」
天真や詩紋、あかねやがぽかんとする中、時見の少女はすごい剣幕で風と火の八葉を問いつめる。
「市場……ですか?」
やや後ずさるような姿勢で、頼久が紫苑色の双眸を瞬かせる。
「あ、あぁ、それなら今日、オレの家の近くにある東の市で……?」
――確かに開かれているが、それが何なのだろうか。
未だびくびくする天の朱雀の様子など気にもとめず、は自身と同じ世界から来た友人たちへと向き直った。
「悪いけど、目的地変更するよ」
詳しい説明は走りながらするから、と言い放った時見の少女を、皆は追いかけるかたちで走り出した。
皆が辿り着いた場所は、確かにが予知の初めに見た光景だった。
一見和やかな、そこそこに賑わう市場。
店も客も、主に庶民の人々が集まっている。
「どうやら、まだ何も起きてないみたいだね……」
最後の方に到着した地の朱雀が、両膝に手を置いて肩を上下させながら言う。
「おい、! どこだ!? どこに現れるんだ、その怨霊は!?」
『その市場に、怨霊が現れるのが見えたの。そこにいる人たちが襲われちゃう!』
風のように走る少女から、告げられた予知の内容。
――昨日の今日である。
イノリは落ち着いていられるはずもない。
「待って、確か――」
が若葉色の双眸を巡らせる。
いつも以上に自分の中で緊迫していることは判っていた。
ただでさえ、気まぐれでやっかいな力。
しかも昨日は何も見えず――何も出来なかった。
が、今日はどうにか幸いにも先手を取れたのだから、この機会を無駄にしたくない。
「怨霊だって? 何を言ってるんだい、イノリ」
と、その刻、イノリの大声に驚いた中年の女性が、不思議そうに話しかけてきた。
野菜の類を売っている彼女は、どうやらイノリの顔見知りらしい。
「おばちゃん! 何か問題は起こってねぇか!?」
「あぁ、今日は平和なもんだよ。それに、いい瓜が安く仕入れられてねぇ。大盛況さ」
「瓜?? って、今それどころじゃ……」
その瓜を一つ手にとって上機嫌に話す女性に、イノリはやや気を抜かれてしまう。
と、隣りからひょっこりと顔を覗かせた詩紋が、「あれ?」と小首を傾げた。
「あの、何だかその瓜、色が変じゃありませんか?」
確か瓜の皮は、スイカよりも薄い緑色だったと思っていた。
しかしこの店に並んでいる瓜のどれもが、栗のような茶色に黒縞模様をしているのだ。
それとも、この世界――京の瓜はこれが普通なのかな、と地の朱雀である少年は胸中でつぶやいてみる。
「あぁ、変わってて面白いだろう?」
――そうでもなかったらしい。
茶色い瓜をぺちぺちと叩きながら、店の女性は大らかに笑ってみせた。
「面白いって、そんな呑気な……」
店から少し離れて立っている天真は呆れたように苦笑し、小声で言った。
食材は新鮮第一が常識の現代人には理解しがたい。
それはまぁ、置いておいて――と、天真が思考を本来の目的に切り替えようとするが、
「……何だか、何かを思い出しそうな色だね」
ぽつりとつぶやいたの言葉に流されてしまった。
「そうだね。言われてみれば、何かに似てる気がする。でも……う〜ん、何だろう」
あかねもこくこくと頷いてから、頭を悩ませ始める。
「おい、まだ続くのかよ、瓜の話」
瓜を見に来たわけじゃないぞ、と天真は背の低い少女たちに釘を刺す。
「だって、今にも動き出しそう」
「はぁ??」
の言葉に、天真は心の底から抜けた声を出した。
「ねぇ、ちゃん。あれ……大丈夫かな」
思いのほか空癒の少女は真剣だった。
市場中を凝視して、予知の中で怨霊が現れた風景を探していた親友に呼びかける。
「え? ――ッ!?」
の声にが振り返り――その若葉色の瞳を見開いた。
「?」
マジで何かあるのか、と地の青龍の頭を複雑な疑問がよぎる。
は思いきり、天地の朱雀に向かって声を放った。
「イノリくん、詩紋くん!! そのおばさんとそこから離れて!! それは――っ!?」
「あっ、わかった! ウリ坊に似てるんだ!」
――時見の少女と、龍神の神子の声の交差。
その瞬間だった。
『をのれ! 見破られたり!』
奇妙な声がしたかと思うと――女性が持っていたものを含む店に並んでいた瓜が、ごろりと転がり出す。
そして、まるで目のように小さな赤い光を放ち、宙に向かって一斉に飛び上がった。
「うわっ!? 何だぁ!?」
「イノリくんっ、早く離れなきゃ!!」
「おぉ、そうだった!」
相方の少年に言われてハッとしたイノリが、「おばちゃんも早く!!」と、店の女性の手を引っ張ってその場
を離れる。
「一体何なんだい、あれは……?」
腰を抜かす思いだった女性は、顔見知りの少年のおかげで何とか逃げることができた。
女性を避難させた天地の朱雀、そして周りの人々を同じく退避させた八葉と少女たちが、ほぼ同時に出現
した妖(あやかし)を見上げる。
店に並べられていた小さな茶色い瓜たちが、次々と飛び上がり――市場の上空で大きな塊となっていく。
「何だ? 合体か!?」
天真の言う通りだった。
合体した塊は幾度か伸縮をくり返し――やがて象られたのは、漆黒色の瘴気を纏う巨大なイノシシの
化け物だった。
「殿、見えたのはあれですか?」
「は、はい! そうです」
刀を抜いて構えた頼久の問いに、は一呼吸遅れたようであった。
――実は彼女が見たのは、小さな塊が大きなイノシシになる場面だけだった。
ゆえにその小さな塊たちが、また幽魔ではないかと心配だったのだ。
が、まさかそれが『瓜』に化けていたものだとは思わなかった。
すでに市場ではなくなった、荒らされた地上に化け物が降り立つ。
黒と茶色の入り混じった毛並みを持つ巨大なそれが、怪物じみた咆哮を上げた。
地獄の業火を思わせる色の双眸が、ぎらぎらと憎悪にたぎる。
「あれも……怨霊なの?」
人々を退避させ終えて戻ってきた少女のひとり、が眉をひそめて言う。
「そうに決まってる! じゃなかったら何だっていうんだ!? 戦うしかねぇだろ!!」
下駄の音を高らかに響かせて、イノリが彼女の横を走り抜けた。
吹きつける瘴気の風に、彼の装束や青と黄のバンダナの先がはためく。
「こんなところにまで出てきやがって! うまく化けて忍び込んだつもりでいたんだろうが、そうはいかねぇぜ。
鬼の企みは、オレたちが全部ぶっ潰してやる!!」
天の朱雀の言葉を宣戦布告と認めたのか、イノシシの『怨霊』が再び奇声を上げた。
「よし、行くぞ!!」
天真の目にも闘志の火がついた。
八葉の中でも攻撃力では上位を誇る天地の青龍、そして天の朱雀が前線に躍り出る。
三人の真ん中に立つ、頼久の構え直された剣の切っ先が煌めいた。
と、イノシシが巨体を走らせ始めたのはほぼ同時だった。
「なっ、危ねぇっ!」
天真の叫びと共に、彼とイノリが左右に分かれて飛ぶように避ける。
頼久はというと、そのまま走る足を止めなかった。
地鳴りと共に迫り来る脅威、けれども切れ長の紫苑の瞳は揺るがない。
――守るべき少女たちのため、今ここで自分が避けるわけにはいかなかった。
『頼久っ!!』
雷と火の八葉である少年たちの声が重なる。
二人は同時に兵、闘の印を結び、それぞれの気の塊をイノシシの足元に打ち出した。
だがそれは突進する猪(シシ)にとっては児戯にも等しく、一瞬の足止めにはなったものの、その巨体を完全
に停止させるには至らない。
至らないが頼久はその瞬間を好機とし、利き足に力を込めて思い切り大地を蹴り上げる。
まるで大気中の風が彼を手助けしたかのように、天の青龍の長身が宙へ舞い上がった。
イノシシの上を行くことに成功していた頼久は、翔(かけ)た空で身を反転させる。
彼の頭上に大地、足の下に天空が広がった刻。
『怨霊』の通り抜け様、天の青龍自らの気で包んだ刃を、その黒茶の毛並みの身体に走らせた。
背を斬られた痛みに化け物は悲鳴を上げ、その大きな四肢が地面に沈む。
頼久の剣が切り裂いた跡はまるで轍のごとく、漆黒の瘴気をも割いていく。
「っしゃぁ!!」
『怨霊』に痛手を加えられたことに、まず喜んだのは天の朱雀だった。
それを成した張本人――風の八葉は、颯爽と地上へ降り立つのみであった。
「やったな、頼久!」
駆け寄って声をかけてきた相方の少年に、しかし頼久は「まだだ」とだけ言い、その身を『怨霊』の方へと
振り向かせる。
イノシシのくぐもった怒声が響いていたからだ。
まだ倒したわけではない――天真もそれに気づいた刻、黒茶の巨大な猪(シシ)が双方に牙のある大口を
開き、咆哮と共に炎を吐き出した。
「みんな下がって!!」
猪(シシ)の怪物の前に居るのは、もう攻撃力の高い三人の八葉ではなかった。
三人の少女と地の朱雀――その中から、浅葱色の影(すがた)が飛び出す。
若葉色の双眸が意志を宿し、右手首で黄金に輝く輪を外した。
封印を解かれた黒き痕はたちまち風を呼び込み、時見の少女――の右手へと、すべての炎を集める。
「くっ……!」
熱い――でも、それだけだ。
「ちゃん!?」
「大丈夫、任せて!」
親友の声に背中のまま応えた。
確かに炎の勢いは凄まじい。
弄ばれる紺色の髪、飛び散る火の粉。
顔と何より差し出す右手が熱い。
けれども幸い、炎は掌に触れる寸前に、刻印に吸収されているから直の火傷よりは軽く済んでいる。
そう自分に言い聞かせて、吹きつけられる熱気に耐えた。
「!」
少女の名を叫ぶ天真と同様に、頼久とイノリもこちらへ駆ける。
と、放たれた火焔のすべてを吸い込んだかに見えたその刻――炎の風の最後に、猪の纏う瘴気が混ざった。
(まずい――っ!?)
イノシシを取り巻く漆黒の靄が『瘴気』であり、それがどんなものなのかを正確には知らないだったが、
この刻は直感でそう思った。
炎を吸い込み終えると同時に、すぐさま掌を閉じ、腕輪をはめる。
自身の攻撃がすべて呑み込まれたことに腹を立てた猪の化け物は、再び突進し始めた。
「――危ない、ちゃん!」
それは、『怨霊』の突進のことだけではなかった。
彼――地の朱雀も、が炎と一緒に少しだけ吸い込んでしまったものが『瘴気』で、どんな影響をもたらす
ものかを知らないはずだったが、同じように危機を感じたのかもしれない。
時見の少女が刻印を閉じた瞬間、詩紋が彼女たちを守るように立っていた。
蹌踉けそうになった親友を受け止めた空癒の少女は、まだ幼さの残る背中へ声を放つ。
「詩紋くん!」
「うん、今度は僕が頑張る番だ!」
八葉の最年少である地の朱雀は、しかしその心に確かな勇気を持っていた。
は藍色の瞳を閉じて、龍神の神子から分け与えられた能力(ちから)を使う。
詩紋の身に五行の力が満ちあふれた。
『天地よ、震えろ。泰山鳴動!!』
青い瞳が見開かれ、声と力が同時に放出される。
その震動は、猪が突進と共に起こしていた地鳴りを遥かに上回った。
地の朱雀に従う大地は、彼の髪と同じ色に輝きながら怪物の巨体を押し留め、その動きを完全に封じ込んだ。
今だ、と思ったあかねの瞳に、こちらへ駆けてくる天の青龍が映る。
「頼久さん、お願い!」
その声を頼久が聞き漏らすことは有り得なかった。
「お任せを、神子殿!!」
勇ましき声を返す天の青龍に、龍神の神子はその身に交う龍脈の力を送り出した。
清らかなる光を受け、頼久が再び空へと跳躍する。
大地の捕縛から逃れられないイノシシが、唐紅の双眸だけを向けた。
『この太刀は破邪の風。神技一刀!!』
蒼い髪の武士は渾身の力で、銀色に閃く剣を振り下ろす。
鎌鼬にも似た天の青龍必殺の一撃をまともにくらい、異形の猪はついにその巨体を砕かれた。
苦痛の奇声が空を裂いて轟く。
猪を纏っていた漆黒の瘴気は薄れ、その身は三つに分断された。
「……おっし、今度こそやったな!」
「さすが頼久だぜ!」
猪の『怨霊』が地に伏したのを確かに見た天真とイノリが、揃ってガッツポーズを決めた。
頼久は安堵の息を一つつくと、彼よりもっと大きな吐息をこぼしている地の朱雀に声をかけた。
「よくやったな、詩紋」
「え?」
その声も表情も、いつもより穏やかだったから、詩紋は余計に驚いて目を丸くする。
「お前が、あの猪の動きを止めてくれたことは大きかった」
「その、僕、夢中で……。でも、僕の力が役に立てたならよかった。嬉しいです!」
詩紋はやや戸惑ったものの、やがては本当に嬉しそうな笑顔をみせるのだった。
「ちゃん、大丈夫? 火傷してない?」
「あ、うん、多分……火傷まではいってないみたい」
に言われて、は軽く微笑いながら掌を見せてみる。
「え、これ、違うの?」
「だって……何か違わない?」
自分の手のことなのだが、は何だか他人事みたいな言い方をしてしまった。
今はまだ小さな黒き刻印の周りに――やはり黒い靄のような染みが散らばっている。
確かに火傷ならもっと傷が膨れあがるものだが、これは肌の下から浮かんでいるような痕なのだ。
だからも、火傷ではないと言った。
――妙な痛みを感じるのも確かではあるけれど。
ちくちくするというか、小さなしびれのような痛み。
(まさか――)
考えたくはなくても考えずにはいられない恐怖が、の頭をよぎる。
「……とにかく治してみるね」
それ以外何も言わず、空癒の少女は親友の右掌を自身の両手で包んだ。
そこからあふれる碧の光。
――と、彼女の首飾りにつけられた月見草が、同時に仄かな光を放ったのに気づいたのはだけだった。
「……あれ?」
ふいに零れた龍神の神子の声。
「どうした? あかね?」
イノリが頭の後ろで両手を組んだまま訊ねる。
「えっと……あの怨霊、消えてないみたい……だよ?」
気まずそうに、小さく引きつった笑みを浮かべながら、あかねはそれに向かって指をさした。
皆がぎょっと目を見開き、揃ってくるりと振り返る。
するとそこに在ったのは――イノシシの残骸でもなかった。
――黒く煤けた丸っこい塊が三つ。
地に伏せたままの身体から、灰色の煙を立ちのぼらせている。
ほぼ廃墟とかしたその場所で、沈黙の風が流れた。
「……イノリくん、あれ、何だろうね?」
「オレに訊くなよ」
「じゃぁ、天真先輩?」
「俺にも訊くな。あんなもんが判る奴が居るとしたら、泰明ぐらいなもんだろ」
八葉の少年たちの会話。
やはり自分も判らない頼久だが、幽魔ではないようだ、とは思った。
今までに出現してきたものに比べて数が少ないし、大きさも勝っている。
しかも、その形はまるで――。
「ひょっとして……ウリ坊に戻っちゃったとか?」
神子のその声に、三つの煤けた塊がぴくっと反応した。
むくり、とそれらは起きあがったようだった。
「……こうなっては仕方がないウリ!」
「残る手段は、特攻あるのみウリか」
「もとよりそれが、我ら一族の誇りであるウリ!」
『…………ウリ??』
朱雀の少年たちの、何とも言えない声が重なる。
その黒い生物たちから聞こえてきたのは、そういえばイノシシが出現する前に聴いた奇妙な声だった。
「おい、何だあいつら!?」
何やらただならぬ――というか、妙な危機感を覚えた天真が叫ぶ。
が、すべてはもう遅かった。
『ウリ――――っ!!』
皆が本気で身構えるよりも早く、三つの塊――三匹のウリ坊たちが『特攻』を始めた。
『えぇぇ――――ッ!?』
何が何だか解らないままの皆の声が、大いに空へ響き渡る。
と、三匹のウリ坊は、あろうことか三人の少女に向かってそれぞれ進路を定めた。
「嘘っ、ちょっと待っ……!?」
「ダメだ! あかねちゃん、、逃げて!!」
親友の言葉を遮るかたちで、咄嗟に判断したが叫んだ。
少女たちはほぼ同時に走り出す羽目になった。
「何でー!?」
あかねが心の底からの思いを空気へ放つ。
逃げ回る少女たちを、もちろん八葉が放っておくわけはなかった。
――が、逃げる方も追う方も、ちょこまかと動き回るので目標が定まらない。
「あぁもう! じっとしろー!!」
耐えられずにイノリが叫んだのは、誰にとなく――全員に向かってのものだった。
「神子殿!!」
機に恵まれた頼久が横からすくい上げるように、あかねを抱え上げた。
「よっし、今だ!」
天の朱雀はその辺に転がっていた大根――おそらく市場の売り物だったであろうものを掴み、神子に
向かって走っていたウリ坊を叩いた。
ぽこんッ、という小気味の良い音。
するといとも簡単に、あかねを追いかけていたウリ坊はひっくり返って目を回した。
「あ……ありがとう、頼久さん、イノリくん」
「ふー、何とか一匹片づいたか」
と安堵したのも束の間、イノリはハッとして周りを見回す。
「とは!?」
彼がいくら赤い瞳をこらしても、映るはずの姿が映らない。
それもそのはず、だった。
「あの……走っていっちゃった……ウリ坊と一緒に」
困惑したように告げる詩紋。
嵐の去ったかのような――実際、色んな意味での嵐が去ったあとの廃墟。
何とももの悲しく、空しい風が吹き抜けた。
