――どこへ行こうとか、そんなことは考えなかった。

 まだこの世界で、慣れ親しんだ場所なんて、多くなかったから。

 そのうちのひとつを、抜け出して来たのだから。



 ――さらさらと、そよぐ風。

 揺れては微かな香りを零す、藤棚。

 時見の少女は、神楽岡と呼ばれる場所の一角で、蹲っていた。

「……ちゃん」

 聞き慣れているのに懐かしく思える声が、名を呼んだ。

 泣きはらした目のまま、顔を上げると――そこにはやはり、空癒の少女。

 の、ただひとりの親友。

「…………わたし……」

 何か言おうとするほどに、込み上げてくる涙。

「……うん。解ってるよ、私。解ってる」

 いつも自分に自信が持てない少女が、きっちりと言葉を結ぶ。

 見ると、彼女の藍色の瞳も、波がゆらゆらと揺れるように潤んでいた。

……っ! …――っ!!」

 何も言わなくても、彼女だけは解ってくれる。

 一緒に胸を痛めて、一緒に泣いてくれる。

 ――は、に抱きついて、泣いた。

 悔しくて、悲しくて、痛くて。

 親友の肩に顔を埋めるようにして、思い切り泣いた。

「……ごめんね、ちゃん。私、イノリくんを止めることができなかった。こうして、そばに居てあげることしか
できなくて……一緒に泣くことしかできなくて……ごめんね」

 は、の紺色の髪を撫でながら、ぽろぽろと涙を零す。

「でもね、ちゃんと一緒に居て、ちゃんの気持ちを解ってあげたいって思ってるのは変わらない。
私はいつだって、どんなことがあっても、ちゃんの味方だよ」

 楽しい刻は一緒に笑って、悲しい刻は一緒に泣いて――。

 いつでも気持ちを共有できる、理想の友達で居たいから。

ちゃんは絶対、ひとりじゃないからね」

 それはかつて、が救われた言葉。

 たとえ生まれ持った力が違っても、心までは孤独じゃないはずだから。

「――っ…………」

 空癒の少女の声が、優しい雨のように染み渡る。

 心に広がる灰色の空の雲間から、ほんの少し、光が見えた気がした。



(――時見の少女と、空癒の少女、か……)

 ふたりの少女から少し離れた木立で、様子を見ていた天真が胸中でつぶやく。

 このふたりが親友同士として、この地に訪れたのは、中々よくできた運命なのかもしれない。

「――天真くん」

「えっ? ……?」

 少しぼぅっとしていると、いつの間にか空癒の少女が自分のそばに来ていた。

、大丈夫そうか?」

「うん、何とかね。私にできることは、精一杯やったつもり」

 そう言って、はやや淋しそうな顔をした。

「ねぇ、天真くん。ちゃんから、予知の力についての話、聴いてるよね?」

 と、いきなり表情を改めて問うてくる。

「あ、あぁ。って、何で知ってるんだ?」

 天真は少々たじろいでしまった。

 の親友ゆえ、彼女からそれを聴いたのだろうか。

 しかし、は「ううん、知ってたんじゃないよ」と、首を横に振る。

ちゃんがね、『天真くんって優しい人だね』って言ってたから。それに、さっきもイノリくんからかばって
くれてたから、何となくそうかなぁって思っただけ」

 ぽかんとする天真に気づかず、は「やっぱりそうだったんだ、よかった」と嬉しそうに両の手のひらを合わ
せた。

「……お前って、普段ぼけっとしてるくせに、妙なところで鋭いんだな」

 天真は、思ったことを正直に口にする。

「そうかな? あ、ちゃんのことに関してだから、かもしれない」

 一旦小首を傾げはしたものの、否定することはないだった。

「……天真くん、ちゃんのところに行ってあげてくれる?」

「――え?」

 本当は自分も、そのつもりで来ていたはずなのに。

 けれども、どこか自信が無かったのか、訊き返すかたちになってしまった。

「私は、館に残してきた皆さんに説明しに戻らないといけないの。ちゃん自身も、それを気にしてるから」

 あの場に集まった中で、の『力』と、それについて悩む『心』を知っていたのは、と天真だけだった。

 大分落ち着いてきたは、何も知らない皆がきっと戸惑っているだろうと、気にし始めたのだ。

「……あいつらしいな。いい奴だよ、ホント」

 自分が傷ついているのだから、周りを気遣うことはないのに。

 天真は苦笑するように笑った。

「うん! だから、それは私が代わりにやるの。それぐらいは役に立たなくちゃ」

 辛い心境にある親友の手伝いを、少しでも果たしたい。

 いつになく張り切った笑顔の空癒の少女に、天真はもう一度同じ笑みを浮かべた。

「お前もな、。いい奴だよ」

 彼女の胡桃色の髪をした頭を、ぽんと軽くたたいてやる。

 は「ありがとう」と言って、にこっと笑った。

「じゃぁ、天真くん。ちゃんのこと、お願いね。そばに居てあげて」

「ああ、わかった」

 任せとけ、とはまだ言えなかった。

 自分がこの少女ほど、を解ってやれてる自信が無かったから。

 でも、決意に似た確かな気持ちはある。

 力強い笑顔を見せて、天真は、星の姫の館へ帰っていく少女の背を見送った。




 時空の少女たちと、地の青龍が飛び出して行ったあとの、星の姫の館では――。

 地の白虎と玄武を除いた者たちには、どこか落ち着きがなかった。

 比較的平静を保っている天の青龍と白虎は、表情に不安な影を落としている。

 そして一番激しく落ち込んでいる様子の天の朱雀は、頭を抱え込むようにして座り込んでいた。

 地の朱雀と天の玄武が、その両隣に座っている。

 そんな八葉の面々を、やはり不安げな表情で、龍神の神子と星の姫も見守っていた。

「――殿…!」

 頼久の声に、皆が反応して視線を巡らせる。

 空癒の少女が、館の門から入ってこちらへ歩いて来た。

殿、殿は……?」

「神楽岡に居ます。大丈夫、天真くんが一緒に居てくれてますから」

 問いかけてきた頼久や、他の皆を安心させられるように、は穏やかな微笑みを浮かべた。

 その瞬間、冷たく凍えていた空気に、ふわりとあたたかな陽射しが舞い降りた。

、オレ……」

 ぽろっと、天の朱雀の声が零れる。

 が藍色の瞳を向けると、彼の顔は今にも泣きそうに見えた。

 淋しさを含んだような笑みで、小さく笑う。

「うん、解ってるよ、イノリくん。今から皆さんにお話しするから、聴いてね」

 イノリの胸中に渦巻く思いも、全部とは言い切れないけど解っている。

 それを解いてあげるためにも、まずはの『力』について、話さなければならない。

 イノリは、無言で頷いた。

「本当は、もっと前に……最初に話しておくべきだったのかもしれません。ちゃんの力のことも……私の
力のことも。もっと、ちゃんと」

 は皆の方へ向き直り、両手を胸の前で握りしめた。

「皆さんなら、解ってくれるはずなのに。私もちゃんも、無意識に持っていた恐怖感を捨てきれなかった
みたいです。ごめんなさい」

 少し泣きそうな顔で苦笑して、はぺこりと頭を下げる。

「恐怖感……ですか?」

 責めるつもりもなく、鷹通が訊き返した。

「はい。皆さんに対するものじゃありませんよ。そうじゃなくて……私とちゃんがお互いに出逢えるまで、
ずっと抱えてきたものです。私たちはそれまで、持って生まれた自分の『力』のことを誰にも話せずにいました。
『他の人が持っていない特別な力を持っている』っていう、それだけで……いつも好奇と非難の目を受けてきた
からです」

 その言葉と少女の淋しげな微笑みが、朱雀と玄武の八葉たちに、『あの刻』を思い出させた。

「容姿は普通…の、つもりですけど。普通の人と違う力を持っているために、ってところは、鬼の人たちと少し
似ているのかもしれませんね。人は、常識で理解できないものを、簡単には受け入れられないものですから」

 ――その後、あかねと藤姫に促されて。

 彼女たちと八葉は、部屋の中で、空癒の少女から話を聴くことになった。





「……私、この力、嫌い」

 ぽつりと、しかし憎しみにも思える声で、が言った。

「――えっ……?」

 とりあえず、少女の隣りに腰を下ろしていた天真。

 何をどう言って慰めてやろうという、具体的なことを考えていなかったので、一瞬戸惑ってしまう。

 どうしたものかと思ったが、とりあえず――訊くことにする。

「何が……嫌いなんだ?」

 今までにも大体のことは聴いたけれど、何がどう嫌いなのか。

 何が、そこまでに影を背負わせているのかを、まだ聴いていなかったから。

「……いつだって、私のことなんかお構いなしなんだもの。時も、場所も……心も」

 涙ぐんだ若葉色の瞳を前に向けたまま、は思いを紡ぎ始めた。

「――小さい頃にね。私の力のことを知っても、怖がらずに居てくれた、男の子の友達が居たの」

 は、胸の底にしまい込んだ記憶を手繰り寄せていく。

「でも、十歳くらいの時……彼と遊んだ日に、私、帽子を風に飛ばされちゃって。場所が工事現場だったし、
私はもういいやって諦めて、お互いに家に帰ったんだけど。彼はそのあとで、帽子を取りに行ってくれたら
しいの」

 の表情と口調は、懐かしい思い出を語るものから、苦く辛いものへ変わる。

「その刻……彼は倒れてきた鉄材に、足を挟まれてしまった」

「――っ!?」

 の虚無的な声に、天真の息が喉の奥に吸い込まれる。

「命までは失ってない。でも、彼の人生と未来は、大きく変わってしまった」

 ――五体満足で生まれたはずの少年は、両方の足の自由を失った。


「私は…………何も見なかった」


 音もなく、一筋の涙が少女の頬を伝った。

「その時、私のことを理解してくれる唯一の人だったのに、私、何も見えなくて! 事が起こった後で、彼がそう
なったって聴いて、すごく、ショックだった……!! 私が予知できなかったから、助けられなかったんだって
思うと、私……っ!!」

 悲しみの結晶が、再びあふれ出す。

 隠していた心の破片が、言葉と涙になって止まらない。

「見えてれば、助けに行けたのに! どうして、こんな大事な刻に、見せてくれなかったのって! そう、思って
……!!」

 は幼い頃から、力が働くたびに、『誰かが見せてくれているもの』なのではないかと思うようになった。

 けれどもそれは、今から考えれば――目に見えないそれを恨むことができるから、かもしれない。

 その方が、何となく楽になれるから。

 怒りと悲しみを、ぶつけられる対象ができるから。

「いつも勝手なことばっかり! 大事な刻に見せてくれないくせに、見ず知らずの人が何かに襲われたり、殺さ
れたり、そんなのばっかり見せてくる刻もあるし!」

 枷がはずれたように、が吐き出す思い。

 天真は黙って聴いていた。

「そんなのだけ見せられても、私……どうにもできないことの方が多いから。責任ばっかり、感じちゃって……
――夢に見るの」

「夢?」

「私が助けられなかった人たちが、私を恨んで、責めてくる夢」

 短く訊き返した天真を見ずに、は身体が恐怖で震えるのを感じる。

 ――黄泉の国を彷徨う亡者のように。

 身体のあちこちを赤く染め上げた人間たちが、「なぜ助けてくれなかったんだ」と、恨むように迫ってくる夢。

 それは、の責任感と罪悪感が、無意識に見せているものなのかもしれない。

 が、本人には、そんなことを知る由もなかった。

「……さっき、イノリくんに責められた刻、それを思い出しちゃった」

 天真が、「あ……」と、思い返す。


『何でオレの仲間のことは、助けてくれなかったんだよ!?』


 怒りをぶつけてくるイノリに重なって。

 夢に出てきたような者たちが、一斉に覆い被さってくるように感じた。

「イノリくんの言いたいこととか、気持ちは解るよ。でも、私に言われても……私は……私にだって、どうしようも
なかったのよ……ッ!!」

 必死に隠していた古傷が、切り裂かれて、悲鳴を上げる。

 は両手で顔を覆い、嗚咽を漏らし、再び泣いた。


『……だから、正直言うと不安なの。さっき鷹通さんに頼まれた幽魔の予知も、ちゃんと出来るかどうか……!』


『……でもね、この力は、本当に融通がきかないの。予知の力なんて持っていても、肝心な時に見えなきゃ、
役に立たない……誰ひとり、救えない……』


 あの刻からは、恐怖と悲しみが隣り合わせである思いを、天真の前で零していた。


『肝心な時に使えなきゃ、そんな力、ただの役立たずじゃねぇか!!』


 そして、誰ひとり救えない。

 ――そんなこと、


『そんなことっ! 言われなくても、私が一番よく解ってるわよ!!』


「…………

 地の青龍が、蹲って泣く少女の名を呼んだ瞬間。

 空を切る藤風が、ふたりの間を吹き抜けた。





「……殿も、殿も、そのお力を持つゆえに、たくさんの痛みを抱えておられたのですね」

 空癒の少女から語られた、時見の少女の過去。

 長い沈黙を破ったのは、痛々しそうに言う天の玄武の声だった。

 は慌てるように、「私なんか、ちゃんの辛さに比べたら、全然大したことないですけど」と、両手を振る。

「でも……やっぱり、助けてあげられなかった刻の後悔は、もう二度としたくないって思います」

 その手をぎゅっと握り、表情を引き締めた。

 ――よみがえるのは、幼い頃に出会った、救えなかった子犬の記憶。

 人前で力を使うのを恐れて、迷っている間に消えてしまった、小さな命の灯。

 たとえ自分が何と言われようと、どう思われようと、比べられるものではなかったはずなのに。

「――オレ……」

 再び訪れた沈黙のあとに、イノリの声が零れた。

「さっき、と天真が、を追いかけた後……あかねや詩紋や、友雅に言われたんだ」



「ひどいよ、イノリくん! いくら何でも、ちゃんが可哀想だよ…!!」

「そうだよ、あんな……ちゃんを、あからさまに傷つける言い方しなくたって……!」

 大きな双眸を潤ませながら、あかねと詩紋がたたみかけた。

「そ、そんなこと言われたって、オレは……」

 自分にも事情があって――でも、気がつけば、それだけで。

「……やれやれ。君の怒りは最もだが、その矛先を向けるべき相手を、間違えてしまったのではないか?
イノリ」

 自分でも戸惑っているような天の朱雀に、友雅が言葉をかけた。


「――悪いのは、殿かい?」


 その刻、改めて自分の失敗に気がついた。

「そうだよ。悪いのは怨霊と、それを操ってる鬼なのにっ、オレは……っ!!」

 ――を傷つけるつもりなんて、無かったのに。

の刻だって、そうだ。オレ、自分の怒りでいっぱいになって、お前の事情とか全然考えないで……!!」

 怒りをぶつけた刻、イノリには、イノリの理由があった。

 ――けれども。


『そんなことっ! 言われなくても、私が一番よく解ってるわよ!!』


『……もう、後悔したくないの……!』


 時見と空癒の力を、生まれながらに持っている彼女たちは。

 それぞれが、やはり、ひとりの少女だった。

「……ごめん、。本当に、ごめんな」

 もう一度、イノリはに謝る。

 あの刻よりも、更に彼女の痛みを感じたから。

 そして、彼女の親友を傷つけてしまったことをも、含んでいたのかもしれない。

「私なら……いいんだよ、イノリくん。ちゃんと、もう謝ってもらったし」

 それよりも、と親友のことを思った刻、は苦笑するように笑った。

ちゃんのことは……こっちに来てからは、かなり順調に予知できてたからね。予知できないことは無いん
だって、信じこんじゃったんだよね?」

 こくりと深く頷くイノリ。

 おそらく、他の八葉や少女たちも同様の思いだろう。

 そのおかげで、も、予知に関するすべてを話すキッカケが掴めなかった。

「それは、最初に説明してなかった私たちも悪かったから……いいよ。でも、絶対にちゃんと、ちゃんに
謝ってね。やっぱり、言っちゃいけないことって、あるから。だから、絶対に……それだけは、お願いね」

 懇願を込めて、空癒の少女はイノリの手の甲に、両手を重ねた。

「……ああ」

 ここまで自分の心を導いてくれた少女に、イノリは今日初めての笑みを浮かべる。

 それは、が安心できる天の朱雀の表情だった。





「…………

 少年が名を呼んだ瞬間、空を切る藤風が吹き抜けた。

 時見の少女は、膝を抱えて蹲り、泣いている。

 ――天真は、そっとの背に手を置いた。

「ごめんな、今までずっと辛い思いをさせて」

 その言葉にはハッとして、「そんな、天真くんが謝ることなんて……!」と、涙の残る顔を上げる。

 真面目な彼女がそんな反応を返してくることぐらい、大体想像がついていた。

「まぁ、聴けって」

 微かな笑みを含んで言われ、は言葉をしまう。

「こんなことになるなら、変な遠慮なんかしないで、全部、聴き出しておけばよかったのかもしれないな」

 少し後悔しているような声。

 だがすぐに、それはどこかへ追いやった。

「なぁ、

 名を呼ばれた少女が、若葉色の瞳を瞬きさせる。

「一人一人の力なんて、たかが知れてる。どんな力でも。だから、全部の人を救おうとするなんて、無理だ」

 それまで横顔を向けていた天真は、時見の少女に優しい眼差しを向けた。

「でも、が救えた人も居るだろ?」

 それは、自分や仲間も含まれた真実だ。

「確かに失われた命はもう戻らない。でも、償いって言うか……お前が悪いわけじゃないから、言葉がちょっと
違うけど、何かの形で取り戻すことはできると思うんだ」

 ひょっとしたらこれは、妹のことで自分を責めていた、天真と似たような境遇なのかもしれない。

「だからさ、頑張ろうぜ?」

 ――それが、一番言いたかった言葉。

「天真くん……っ!」

 両手を口元に当てたの瞳が、また涙ぐむ。


『僕なら、大丈夫。ちゃんが、責任を感じることは無いんだよ』


 助けてあげられなかったのに、『彼』はそう言って微笑んでくれた。

「なぜ助けてくれなかった」と責めてくる者だけでは、なかった。

 それがの記憶と胸の中によみがえり、苦しいほどあたたかい涙が零れる。

「もしまた夢の中で、恨み言や文句言ってくる奴がいたら、俺も一緒に怒られてやるからさ!」

 再び泣き出したに、慌てた天真が言い募る。

 それが、悲しみの涙ではないことは、何となく解ってはいても。

「な? ……?」

「う……うん……うん……ッ!」

 こくこくと頷きながらも、は顔を上げられない。

 天真の優しさが嬉しくて、涙が止まらないから。

 いつまでも泣き止まない少女を前に、地の青龍は夕陽色の髪の頭を掻いて。

 そっと――左腕で、の肩を抱き寄せる。

「自分の力に負けるなよ。――俺も居るから」

 もう片方の腕も回して、浅葱色の衣の背を優しくたたいてやる。

 自分でも意外と思えるほど、素直に言えた。

「…………うん。ありがとう……天真くん」

 泣きながら生まれる微笑み。

 抱きしめてくれる彼の胸元に、はきゅっとしがみついて、頬を寄せた。





 時見の少女が地の青龍と共に、土御門殿へ戻ってきた刻。

 その門の周辺をうろうろと歩き回っている、ひとりの少年が見えた。

「イノリくん……?」

 がつぶやいた名を持つ、天の朱雀だ。

「――っ、! 天真!」

 帰って来たふたりに気づいたイノリが、その名を叫んで振り向く。

 時見の少女たちの帰りを、落ち着けずに待っていた。

 心配で、早く謝りたくて。

! オレっ、その……っ!!」

 時見の少女の前まで駆け寄ってきて、しかし一旦、言葉に詰まってしまう。

 が、若葉色の双眸を瞬かせる中。

「――ごめん!!」

 もつれた糸を解き、一番言いたかったこと、言わなければならない言葉を選んだ。

 同時に、勢いよく頭も下げる。

から全部聴いた! オレ、お前の事情も気持ちも考えないで、自分の怒りだけで、お前を傷つけちまった。
本っ当にごめん! 悪かった!!」

 許してもらえるかなんて、考えていなかった。

 ただ、謝りたかった。

「……うん。私も、ごめんね」

 優しい風の音に似た声。

 それは、ちっとも予想していないことだった。

 ぽかんとするように、「え……?」と、顔を上げるイノリ。

 彼には、どこにの謝まる必要があるのか解らない。

「な、何で、が謝るんだよ?」

「だって、イノリくんの言うことも気持ちも、本当は解るから。私の方こそ、自分の力のこと、ちゃんと説明して
おけばよかったんだもの。だから、ごめんね」

……」

 とにかく謝らなければ、と、それだけで頭がいっぱいだったイノリ。

 こんな風に言われるとは思っていなかったので、何と言葉を返したらいいのか判らない。

「まっ、これからはもっと周りを見る目を養って、思慮深くなることだな、イノリ」

 どうしたものかと悩ませているイノリの頭を、天真はやたら楽しげに、ぽんぽんとたたいた。

「なっ! んなこと、天真にだけは言われたくねぇよ!!」

 地の青龍の声の調子や仕草が、癇に障ったイノリは、彼の手を思い切り振り払う。

「おい、『天真にだけは』って、どうゆう意味だよ!?」

「そのまんまだ! 天真のどこが『思慮深い』ってんだ!?」

「何だとぉ!?」

 年若く、血気盛んな地の青龍と天の朱雀は、そのまま取っ組み合いになりそうになるが、

「やめないか、二人とも!」

 いつのまにか兄的存在と化している天の青龍に、止められた。

 よく見れば、門の近くで待っていたのは、イノリだけではなかったようだ。

 外へ出ていたのは彼だけだが、八葉の面々も、中に入ったすぐの場所に居た。

「――イノリくんっ」

 と、その直後、名を呼ばれた天の朱雀。

 やけに明るい声色を訝しく思いながら振り返ると、そこに居たのは空癒の少女だった。

ちゃんと、仲直りできてよかったね」

「お、おぉ……?」

 にっこりと微笑んでいるだが。

(なんか、怒ってねぇ?)

 なぜかイノリには、それが先程までの優しいだけの笑みではない気がした。

「さっきまでは、ちゃんとイノリくんが落ち着くまでと思って、黙ってたけど。私からも言っておくね」

 は、ずいっと赤い髪の少年に詰め寄って。


「今度、ちゃんを理不尽な理由で泣かしたら、許さないから」


 笑顔から真顔に変わり、彼の顔の前で、ぴっと人差し指を立て、言い切った。

「な、ど、どうするってんだよ?」

 無論、今後『を理不尽な理由で泣かす』つもりなど無いのだが。

 普段からより、この少女は明らかに弱々しく見えるので、訊いてやりたくなった。

 するとは、すっと一歩ほど下がり、

「――その次、怪我した刻、みてらっしゃい」

 それだけ言って、きびすを返した。

「え……えぇぇぇっ!?」

 まるで混乱したような声を出すイノリ。

 天真や詩紋、永泉も驚いて双眸を見開いていた。

「行こ、ちゃん」

 はそんな面々に気づかず、あかねと藤姫が居る方へと親友を促す。

「み、みてらっしゃいって、どうゆうことだ!? どうするつもりなんだ!?」

 半ば硬直していたイノリは、我に返ったあと、仲間の元へ駆け戻っていた。

「治してくれねぇってことか?」

「それは……違うのではないでしょうか?」

 天真の言葉に、永泉が遠慮がちに首を傾げる。

「そうだね。ちゃんは、どんな人の、どんな小さな傷でもほっとけないって言ってたから」

 詩紋がそう言うと、天真は「じゃぁ……」と、考えを巡らせて。

「ってことは……――あれか?」

『あれって?』

 朱雀の少年たちの声が重なる。

「手当てっていうか、治してはくれるんだけど……すげぇ痛くされるとか」

『――っ!?』

 年若い八葉たちは、一斉に息を呑んだ。

「昔、ケンカでケガして帰った時、母さんや妹にやられたことがあるんだよ。母さんは包帯をやたら強く、ぎゅー
っと縛ってきたり、妹は絆創膏を思いっ切り、バシッと貼ってきやがったり」

 天真の脳裏には、懐かしくも痛々しい思い出がよみがえっていた。

「そうすれば、次からはもっと気をつけるだろうと思って、って言ってたけどよ。でも、マジで痛かったぞ、あれは」

 母や妹のその思いは、天真にとって嬉しくもあるが複雑なものだった。

 それを聴いて、早くもサーッと青ざめるイノリの横で、詩紋は何とか笑顔を保つ。

ちゃんが空癒の力を使う刻は、もっと、違うように見えるけど……」

 彼女の手から放たれる碧い光に包まれて、癒やされる。

 とても、それは痛むようには見えない。

「……他にも、方法があるのでしょうか……?」

 やはり遠慮がちな永泉の声に、「他って、どんな方法だよ?」と、普段なら訊き返してやるところだが。

 天真もイノリも青ざめて、乾いた笑いをするしかなかった。

「……姫君たちの麗しき友情、か。微笑ましい上に、頼もしいねぇ」

 すべてを見守っていた者の一人である友雅が、楽しそうでいて大らかな笑みを浮かべる。

 もう二人――終始無表情だった泰明と、どこか複雑に見える面持ちの頼久は、特に言葉を零さなかった。



 屋敷の縁側からやや離れた、池のほとり。

 に促されるまま歩いていくと、この地で友人となった少女たちが駆け寄ってきた。

ちゃん、もう大丈夫?」

 あかねが、心配そうな新緑の瞳で問うてくる。

「うん……もう平気! ありがとう」

 少し恥ずかしそうに笑う

様……」

 龍神の神子である少女の傍らには、幼き星の姫の姿もある。

 庭の中とはいえ、彼女が屋外へ出るのは、実に珍しいことだった。

 それほど、時見の少女のことが心配だったのだろう。

「心配かけてごめんね…! でも、本当に大丈夫だよ。だから、安心して、藤姫」

 幼い彼女の顔が、今にも泣きそうに見えたは、少し慌てて言った。

 藤姫は、ほぅっと小さな吐息をつく。

「……お怪我などはなくて、ようございました。様も、様も」

 ふと自分の名が紡がれ、は「え?」と、藍の瞳を瞬かせた。

「本当に、今日はどうなってしまうのかと思いましたわ」

 が行方不明になるという朝から始まり、昼間はこの騒ぎが起こった。

『ご、ごめんね、藤姫……!!』

 は、揃って平謝り状態になった。

「謝って頂くことはありませんわ、様、様」

 小さく微笑した藤姫はそう言うと、大きな双眸を神子へ向ける。

 それを受けたあかねは、ひとつ頷いて。

ちゃん、ちゃん。あのね、これからは、何かあったら、遠慮なく私たちに言ってね」

『え……?』

 可愛らしい顔立ちの中に、確かな真剣さを帯びた神子が居た。

「もちろん、言いたくないことまで無理に、じゃないよ。でも、どうしても辛くなったり、苦しくなったら、できるだけ
言ってほしいんだ。私も藤姫も、ちゃんとちゃんの助けになりたいの。ね? 藤姫」

「はい。神子様のおっしゃる通りです。私も、お手伝いさせて頂きます」

 あどけない星の姫の声は、凛としている。

「あかねちゃん……」

「藤姫……」

 彼女たちがそんなにまで思ってくれていたなんて、も、知らなかった。

「私も藤姫も、ちゃんもちゃんも、持ってる力や使命はちょっとずつ違うけど。でも、目指してる目標は
同じ『仲間』で、せっかく出逢えた『友達』だもん!」

「あかねちゃん……!」

 感涙という名の雫が、の若葉色の双眸からあふれる。

 ふと隣りの親友を見やれば、元から泣き虫の彼女も、やはり泣いていた。

 しかし、その表情は嬉しそうに微笑んでいる。

 時見と空癒の少女たちは、涙の笑顔を、一度見合わせて。

「ありがとう、あかねちゃん、藤姫!」

「あかねちゃんと藤姫も、私たちを頼ってね。私たちも、ふたりを手伝いたいから!」

 手を取り合う少女たちは、かけがえのない友達となっていた。



『……姫君たちの麗しき友情、か。微笑ましい上に、頼もしいねぇ』

(――確かに。そうですね、友雅殿)

 先程の相方の言葉を思い出し、鷹通は胸中でつぶやいた。

 彼女たちの深まる友情は、京を護る使命を果たす上で、何よりの力となるはずだから。

「――殿」

 穏やかな気持ちで見守っていた天の白虎は、折を見て、時見の少女に呼びかけた。

「はい? 何ですか? 鷹通さん」

「少し、よろしいでしょうか?」

 その言葉は、何かしら『話がある』という意味だろう。

「は、はい……」

 どうしたんだろう、と胸中で思いながら。

 は鷹通と共に少し、庭を歩くことになった。



「お話中に、すみませんでした」

「いえ、大丈夫です。とあかねちゃんと藤姫との、大切な話はもう済みましたから」

 嬉しそうに笑うを見て、鷹通も「そうですか」と言って微笑んだ。

殿、実は……」

 しかしすぐさま、彼の表情が憂いを帯びる。

「私は、あなたに謝らなければなりません」

「え……?」

 何のことなのか判らなくて、は、俯く鷹通と一緒に立ち止まった。

「私は先日、怨霊・幽魔の予知を、あなたにお願いしてしまいました」

 天の白虎が、隣りに立つ時見の少女に向き直る。

 ――それを頼んだ刻、彼女の表情がどこか曇ったような気はした。

「あなたの持つ『時見の力』が、あなたの自由にならないのだということを、知らなかったとしても。私は、あなた
を追いつめるようなことを……本当に、申し訳ありませんでした」

 ――結局、その真意に気づけず、また知ろうともしなかったのだから。

 イノリとは違った形で、彼女を傷つけたのと同じだ。

 そのイノリが、怒りの矛先をに向けたのも、自分が彼女に『予知を頼んだ』から、というのが大きな要因に
なったのだと思う。

 後悔の念にとらわれている鷹通は、心の底から謝罪をした。

「そ、そんな、鷹通さん、謝らないで下さい! 私たちが、ちゃんと話してなかったのも悪いんです。鷹通さんは
知らなかったんだから、仕方ないですよ」

 その真面目な性格と同じように、彼は責任感も人一倍強いらしい。

 は、慌てて両手をぱたぱたと振った。

「しかし……」

 知らなかったから、とは言え、それを知るために訊くことだって出来たはずだ。

 と、生真面目な青年は、簡単に納得するわけにはいかなかった。

 ――彼女を気遣うあまり、訊ねるその機会を掴めなかっただけなのだが。

「それに……。確かに、頼まれた刻は、ちゃんとできるかどうか不安になりましたけど。でも、それだけじゃな
かったんです」

 少し恥ずかしそうに見える表情で、が両手を重ね合わせる。

「こんな私の力でも、必要としてくれたことが、嬉しかったんです」

 そして、淡い微笑みを浮かべた。

「私もも、今まで『力』を使ったことで、感謝されたり、必要としてもらえたことって……無かったから。皆さん
に出逢えて、よかった」

 自分たちの持つ『力』は、何だかんだ言っても、自身の一部だから。

 それを認めてもらえるのは、自分の存在そのものを認めてもらえたのと同じに思えた。

殿……」

 時見の少女の思いを聴いた鷹通は、少なからず驚いたようだった。

「色々とご心配おかけしちゃって、すみません。私なら、もう大丈夫です。鷹通さんも、そのことで、もう自分を
責めないで下さいね」

 ――この少女の心は、どこまでしなやかなのだろう。

殿……ありがとうございます」

 時見の少女の言葉と笑顔が、鷹通の心をあたたかく包む。

 強いわだかまりとなっていた罪悪感が溶けて。

 天の白虎に、陽光の如きあたたかな微笑をよみがえらせた。




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 《あとがき》
 物語的には、よーやく2/3に突入しました。夢幻時空草紙第六章。の、前編です(汗)
 って、なっがーい! ひょっとしたらこれ、前中後編になるかもです(滝汗)
 長らくお待たせした上、文章もこんなにだらだらと長くなって申し訳ないです(TT)
 今回の六章は、様も様も、すっっごく大変なことばっかり起きます;
 前編では、様は心の傷をえぐられてしまったし(苦笑)
 様は、突発性夢遊疾患(何だそれ/呆)、つまり夢遊病の症状が始まりました;
 そういえば夢遊病って、正式には夢中遊行症というらしいです(調べちゃった/笑)
 恋愛面では、天真くんと様の2段階が起きたり♪ こうやって、このふたりはお互いを
 支え合っていくのですねーv
 って、何げに、鷹通さんの様に対する想いも上がってるような?(笑)
 あと、女の子たちとの友情も深めてみましたv
 次の話で、泰明さんと様の1.5段階も起きますけど。
 起こるのは恋愛イベントだけじゃなくて; 時空の少女に命の危険が迫ります(××)
 鬼出さなきゃ、鬼…(頭痛い/苦笑) よろしければ、今後もおつき合い下さいませ;

                        written by 羽柴水帆