第六章 時の黄昏、空の月影 《前編》
『――――』
(………誰?)
少女は、朧気に藍色の瞳を開く。
『――――……』
何かが聴こえる。
誰かの声のようにも感じる。
(……誰? 私を呼んでいるの…?)
ハッキリとしない意識の中。
おぼつかない足取りで、少女は声のする方へと歩き出した。
「――ん……?」
まだ夜の明けきらない、朝未き。
満ちつつある月が白く霞み始めた頃。
すでにいつもの武士装束姿の頼久は、紫苑色の双眸を掠めた光景に驚いた。
白い夜着姿の少女が、館の庭へ下りて――立ちこめる朝靄の中に消えていく。
「――殿…!?」
少女の髪の色を見て、よもやと思った頼久は咄嗟に後を追う。
館の門を飛び出し、辺りを見回すが――胡桃色の髪の少女の姿は、どこにも無かった。
部屋の周りから、ぱたぱたと忙しそうな足音が聴こえて、時見の少女は目を覚ます。
「藤姫…?」
部屋の御簾を上げて顔を出してみると、やはり足音の主は幼き星の姫だった。
「あ、様。起こしてしまって申し訳ありません」
「ううん、いいよ。それより、何かあったの?」
まだ朝早いこんな時刻に――と、そう思ったは訊ねる。
「はい、それが……様のお姿が見えないのです。様、ご存知ありませんか?」
「え、えぇ!?」
驚いたは、すぐさま隣りの部屋へと入る。
「っ……!?」
が、そこには本当に、親友の姿は無かった。
「何でも、外へ出て行かれるのを頼久が見たらしくて……」
「外ぉ!?」
「は、はい…! それで今、頼久が捜しに……あっ、様??」
藤姫の言葉を最後まで聞く前に、サーッと青ざめたは走り出していた。
「きゃ!?」
「うわっ!?」
と、その刻、は前から来る地の青龍――天真とぶつかってしまう。
「? どうしたんだよ?」
「て、天真くん! が……が居なくなっちゃったの!」
「なっ、何!?」
天真は青ざめたを見たのに加えて、告げられた言葉にも驚くしかなかった。
――――は、ひたすら声のする方へと歩いた。
ふわふわとした感覚。
きっとこれは夢に違いない、と思いながら、ただ進んだ。
やがて、ひとりの少女の姿が見えて、足を止める。
――長い黒髪に、薄紅色の衣を纏った少女。
「……あの……あなたが、私を呼んだの?」
むこうを向いている少女に、は恐る恐る声をかけてみた。
すると少女は――こちらを振り向くが、それだけだった。
何も言わず、少し悲しそうな顔をするだけ。
「あ……あの…?」
それ以上、何を言えばいいか判らず、戸惑う。
だが次の瞬間、少女は走り出し、白い朝靄の中へ消えていく――。
「あ、待って…!」
咄嗟に後を追おうとした――が。
「殿!」
突然、後ろから名を呼ばれた。
「え………?」
ゆっくりと振り向いてみる。
すると、向こうから、慌てて駆けてくる天の青龍が見えた。
「やはり殿…! 一体、どうなさったのですか? このような所まで……」
「え? え……??」
訳が解らないは、辺りを見回してみると――そこは、河原院の近くだった。
「私、その……女の子の声が聴こえて……」
「声…ですか? しかし殿、そのお姿で…」
「え? あっ…!?」
その刻、言われて初めては気がついた。
格好も夜着のままなら、足も素足のままだったのだ。
段々と足の裏から痛みが伝わってくる。
しかし、今の今までそのことに気づかない程、地面を歩く痛みも感じなかった。
「私……夢だと思って……」
ますます訳が解らなくなったは俯いていく。
「…とにかく、殿。館へ戻りましょう」
ややあって頼久がそう言うと、は「はい」と返事をして顔を上げた。
「どうぞ、私の背に」
と、頼久は突然地面に片膝を着き、豹柄の広い背をに向ける。
最初はその意味が解らず、「え?」と瞳を見開いただが、それが『おぶってくれる』ことを意味していると
気づいた途端、慌て始めた。
「そっ、そんな…! いいですよ、頼久さん、悪いですから…!」
「ですが、そのままで帰るのには、無理があるのではありませんか?」
そう返されて、は「うっ…」と言葉に詰まる。
先程から素足の裏がじんじんと痛んでしょうがない。
このまま我慢して帰ることは出来るかもしれないが、それでは大分時間が掛かってしまうだろうし――人目
も増えてくる。
結局、頼久に迷惑をかけてしまうのは変わらない。
「……すみません」
やがては心底すまなさそうな顔をして、ぺこんと頭を下げた。
「いえ、お気になさらず」
頼久は微かな笑みを浮かべて答えた。
その穏やかな声色に、は少し安堵して、おずおずと頼久の背に掴まる。
すると、彼は何の苦もなく、をおぶって立ち上がった。
ぐんと高くなる視界。
特に何も言わず、頼久は歩き出す。
「……あの、頼久さん」
「はい」
暫しの沈黙の後、が頼久に呼びかけた。
「本当に……ごめんなさい。重く…ないですか?」
やはりおずおずとしたの声。
頼久は一瞬驚いたような顔をしたが、やがて和らいだものに変わる。
「そのようなことはありません、殿。ご無事でよかった」
「頼久さん……」
暖かくて優しいその言葉に、は「ありがとうございます…」と、嬉しそうな笑みで答えた。
安堵の気持ちとほのかな眠気が押し寄せて、頼久の広い背にそっと寄りかかる。
(……大きくて、あったかい……お兄さんが居たら…こんな感じなのかな……?)
朧気な意識の中でそんなことを思いながら、は睡魔と温かい頼久の背に、身を委ねてしまった――。
丸い月が白く薄れ、代わりに朝の光が目映さを増してきた頃。
空癒の少女が居なくなってしまったと、藤姫の館ではちょっとした騒ぎになっていた。
彼女の親友である時見の少女と、地の青龍や朱雀、龍神の神子が屋敷内を捜しても、その姿は見つから
なかったのだ。
「やっぱり私も、外へ捜しに行ってくる!」
居ても立ってもいられなくなったは、自分も捜しに行くことを決意し、くるっときびすを返す。
「あ、待てよ、! 俺も行くぜ!」
天真も同行しようと彼女の後に続いた。
「どこへ行く?」
が、その刻突然二人の前に、琥珀と翡翠の瞳を持つ、地の玄武が現れた。
「うわぁっ!?」
「きゃ!? 泰明さん!?」
二人にとっては、振り向いた途端に彼がそこに居たのだから、驚くのも無理はない。
「いつから居たんだよ!?」
「先程からだ」
「なら声かけろって!!」
またしてもやられた、と悔しそうな顔をする天真。
泰明は先程の問いはもういいのか、違う問いを口にする。
「はどうした?」
『えっ……!?』
その言葉に、皆は少なからず驚いて顔を見合わせた。
「そ、それが……居なくなっちゃったんです。だから、今から捜しに行こうと思って…!」
が必死に答えると、泰明は「――そうか」と、特に驚きを見せることはなかったが、何かを考え込むよう
な表情になった。
「あ、あの、泰明さん。ちゃんに何かあったか、判るんですか?」
天真との後ろから、背の小さな詩紋が訊いてみる。
「――いや。何が起きたかを説明することは出来ない。ただ、の気が、急に途絶えたのを感じた」
「気が、途絶えたって……消えたってことですか!?」
「どうゆうことだよ!?」
泰明の零した不吉な言葉。
は不安を煽られ、同様の天真も訊き直した。
「判らぬ。だが、少しの間だけだ。今はもう常と変わらない」
そう言いながら、後ろを振り返る泰明。
皆もそれに続いて視線を向けてみる。
すると、その先には――空癒の少女をおぶって帰って来た、天の青龍の姿があった。
「よ、頼久!?」
「!?」
天真とが、互いの相方の名を呼び、駆け寄る。
「頼久さん、は……!?」
帰って来た親友が、頼久の背で瞳を閉ざしているのを見たが、不安げに訊ねる。
「大丈夫です。眠っておられるだけですので。お怪我もありません」
軽く横目で空癒の少女を見やった頼久の言葉が、にようやく安堵を与えた。
落ち着いてよく見てみると、は静かな寝息をたてている。
「眠ってるって……呑気な奴だなぁ」
この場の空気がやっと和らぎ、天真は気の抜けたような笑みを零した。
が、皆の安堵を破って、真剣な表情の泰明が、頼久とのそばへ歩み寄る。
そして何かを探るように、少女の額に手を当てた。
「……頼久。何があったか話せ」
暫く無言だった泰明が、天の青龍に言う。
頼久は「はい」と返事をして、を見つけた経緯を説明した。
まず、が部屋から庭へ出たのを見て、その後、声をかける間もなく、朝靄の中に消えてしまったこと。
それに驚いて、屋敷中を捜し回った後、藤姫に告げて外へ飛び出した。
「はどこに居た?」
「河原院の近くです」
『か、河原院!?』
その答えに驚いたのは、泰明ではなかった。
「そ、そんなところまで……!?」
「こんな格好のまま……!?」
「しかも、裸足で……!?」
「寝ぼけてたにしても、ちょっとおかしいんじゃねぇか?」
詩紋、、あかね、そして天真が、半ば唖然として言葉を零した。
河原院は、藤姫の館からさほど遠い場所ではない。
が、夜着姿で、しかも素足のままそこまで行ってしまうというのは――。
「殿は、誰かの――少女の声が聴こえた気がしたと、おっしゃっていました。夢だと思っていたとも……」
泰明が「夢?」と、短く訊き返す。
「はい。私が見つけて声をかけるまで、現実だということも、道を歩く刻の足の痛さも、感じられていなかった
ようでした」
それが何より、不思議で仕方なかった。
頼久の声が空気に溶けた後、皆は再び、空癒の少女を見た。
「それってまるで、夢遊病みたいだね……」
心配そうに、あかねが呟く。
「って、そうなのか? ?」
「……ううん。多分、なかったと思う。私は聞いたことない」
とは中学に入ってからのつき合いだが、過去も含めて、彼女が夢遊病にかかったことがあるなどとは、
今まで一度も聞いたことがなかった。
「でも夢遊病って、精神的なことが原因でなっちゃったりするんでしょう? こっちに来てから色々あったし……
ちゃん、疲れが溜まっちゃったのかもしれないよ」
詩紋の言葉は、誰にも否定できるものではない。
と、頼久、泰明、藤姫が『夢遊病』という初めて聴いた言葉に、内心首を傾げていたことに、現代の世界から
来た少年少女たちは気づかなかった。
「とにかく、ちゃんを部屋で休ませなくちゃ」
あかねがそう言うと、は「うん」と頷いて、ハッとする。
「頼久さん、すみません、いつまでもおぶってもらったままで…!」
「いえ、大丈夫です。お部屋まで、このまま運びしましょう」
和らいだ微笑を浮かべて、頼久はあかねやと共に、の部屋へと歩き出した。
「あの、頼久さん」
「はい」
「を見つけてくれて、ありがとうございました」
「いえ、殿」
彼の返す言葉は少ないが、その表情はとても穏やかだった。
「ん? どこ行くんだよ、泰明?」
頼久と少女達が館の中へ入っていくのを見届けた後、ひとり門の方へ歩き出した泰明に、天真が問いかける。
「館の結界を強めてくる」
ぴたりと足を止めた泰明が、端麗な横顔だけを向けた。
「え? それって…?」
「何だよ、やっぱり何かあるのか?」
単なる夢遊病まがいのものではなかったのか。
詩紋と天真が、心理の読めない泰明に、問うた。
「……判らぬ。だが、に何かの『名残り』があった。悪しきものか判別出来ぬほど、微弱なものだが……
いずれにしろ、何者かがに接触してきたのは確かだ。油断は出来ない。要らぬ問題は断つまでだ」
淡々とした説明を終えると、泰明は琥珀と翡翠の瞳を前に戻し、その場を離れた。
拭いきれない不安と、一抹の恐怖を感じる天真と詩紋。
こんな風に始まった今日は、しかしまだ嵐を越えていなかった。
やがてが目を覚ましたのは、正午間近になった頃だった。
「――……ん……」
薄らと、藍色の瞳が開かれる。
「あ、、起きた?」
「ちゃん、大丈夫?」
一気に、光と空気と色彩があふれ出す。
そしてそばに居たのは、時見の少女と龍神の神子。
「ちゃん……あかねちゃん……」
ふたりの少女の名をつぶやいて、はゆっくりと上半身を起き上がらせた。
「……あれ……私……」
まだ意識がハッキリしていないのか、俯くようにして右手を顔に当てる。
「、本当に大丈夫? 何があったか憶えてる?」
胡桃色の髪が流れて、空癒の少女の顔が上がる。
彼女は親友から、先程の経緯を聴くこととなった。
白く霞んでいた月が、完全に青い空へと溶けた頃。
いつもよりも大きく早く、下駄の音を響かせて、星の姫の館へと走る少年が居た。
「頼久さん!!」
日課である剣の稽古を終え、館の庭で軽く会話をしていた天地の青龍、そして地の朱雀のもとへ、少女の
声が飛び込んできた。
何事かと視線を巡らせてみると、声の主はこちらへ走ってくる空癒の少女だった。
一応着替えを済ませ、萌葱色の狩衣に身を包んでいる。
その後ろから、時見の少女と龍神の神子も慌てて追いかけてきていた。
「殿……?」
「どうしたんだよ? そんなに息切らして」
天地の青龍が、驚いた様子で訊ねる。
「そ、その、ごめんなさい、私……! 私、あのまま寝ちゃって……!!」
息を整えるのも忘れて、必死に謝る。
自分で自分が信じられない、といった心境である。
今朝方の話だと悟った頼久は、やがて表情を和らげた。
「どうかお気になさらず、殿。お疲れだったのでしょう? 日頃の戦いと、それで負った我々の傷を癒やして
下さったのですから」
特に自分がそうであると――大きな傷を負い、それを献身的に治癒してもらったと。
頼久は痛感しているからこそ、を責める気など毛頭なかった。
「頼久さん……」
天の青龍の穏やかな応えをもらいつつも、は「でも…!」と戸惑う。
「こいつがいいって言ってるんだから、いいじゃねぇか、」
自分とさほど歳の変わらない割には、背の小さな空癒の少女の頭を、天真がぽんと軽くたたいた。
は、「う〜…」と、しばらく悶々としていたが――。
「……本当にごめんなさい、頼久さん」
もう一度謝り、ぺこりと頭を下げた。
「お気持ちだけで充分です、殿」
苦笑するような微笑を浮かべる頼久。
「……ありがとうございます」
もう一つ言いたかったそれを、もようやく微笑んで紡いだ。
その様子を見守っていた龍神の神子と時見の少女も、「よかったね」というように、笑顔を零していた。
――そんな、和やかに見える空気を。
「っ!!」
ひとりの少年の、悲しいほど激しい声が貫いた。
名を呼ばれた少女と共に皆が振り返ると、そこに居たのは天の朱雀。
その表情は険しく、今にも怒りで爆発しそうだ。
「イノリくん……? ど、どうしたの?」
訳が解らず、は訊ねた。
「お前……何で……ッ!?」
息を乱しているが、それを整えようともしないイノリ。
言葉を紡ごうとするが、同時にあふれてくる思いが絡んで邪魔をする。
「お前、何でここに居るんだ!? 何でそんな平気にしてるんだよ!?」
とにかく腹立たしくて、悲しかった。
今のイノリは、純粋すぎるひとりの少年でしかなかった。
「え、え? あの、ちょっと…!?」
順序も何もあったものではない。
「ちょっと待て、イノリ。落ち着けよ」
戸惑うをかばうように、天真が割り込んだ。
「イノリくん、一体どうしたの?」
いくら怒りっぽい性分とはいえ、何の理由もなくそうなるはずがない。
詩紋は、相方の少年を宥めるようにしながら訊いた。
「どうもこうもねぇよ! 今朝、町の方で――!!」
皆は、ようやく事の次第を聴けるかに思えた。
が、その言葉のかけらと、イノリの様子を見て――は、嫌な予感を感じ始める。
「お待ちなさい、イノリ」
館の門の方から、真摯な声が響いた。
皆が視線を巡らせてみると、声の主である鷹通、そして友雅と永泉が来ていた。
館の結界の強化を終え、一度はそこを退出したはずの泰明も、いつのまにか戻ってきている。
「殿を責めるのは、筋違いというものですよ」
イノリのそばまで歩み寄って、鷹通が彼の肩に手を置く。
「君の気持ちも解るが……まぁ、そういうことだね。少し落ち着きなさい」
友雅は、淡く苦笑するような表情を浮かべた。
今のイノリでは、自分の感情混じりで、事実が正確に伝わるか判らない。
「あ、あの、皆さん、これは……?」
そう問いたかったのは、だけでなく、あかねや、詩紋、泰明、天地の青龍も同じだった。
「実は、今朝方のことなのですが……京の町に、また怨霊・幽魔が現れたのです」
『――ッ!?』
永泉の答えを聴いた瞬間、この場の空気に戦慄が走った。
そしては、イノリのことも含めて、ようやくすべてを理解した。
事の処理に当たった天地の白虎。
事が終わった後の現場を見た、イノリと永泉によると。
今日の明け方、羅城門跡と桂の間辺りで、怨霊・幽魔が出現し、その被害は町の民にも及んだ、ということ
だった。
幸い死者は出なかったようだが、建物の崩壊や、負傷者といった被害は免れなかった。
幽魔が出現してから消失するまでの時間は、ほんの数分だったらしい。
おかげで、知らせを聴いたイノリや天地の白虎、出現を感知した永泉が駆けつけても、間に合わなかった。
天の玄武同様、実は泰明も感知していたのだが、の気が途絶えたのを感じた瞬間、それは消えてしま
ったのである。
何らかの関連があるのだろうか――と、泰明がひとり、考えを巡らせていると。
「――どうゆうことだよ、!?」
皆が事情を理解するまで、必死に耐えていたイノリが、思いを吐き出した。
「今回のこと、予知できなかったのかよ!?」
それは、本人以外、誰しもが胸中の端で思ったことだった。
「……ごめん。今回のことは、私、何も見てない。見えなかった」
少し俯き、無表情とも思えるそれで、ゆっくりと首を横に振る。
時見の力を持つ少女は、素直にそう答えるしかなかった。
「……何でだよ、何で見えなかったんだよ!? お前、『時見の少女』なんだろう!? 何か起こる前に、それ
を見て、教えてくれるんじゃなかったのかよ!? 今までだって、何度もやってくれたじゃねぇか!」
――頼久のこと、のこと、他にもたくさん。
時には自分の身を省みずに、最悪の未来から事態を救ってくれた。
だから、信じられたのに。
信じていたからこそ、裏切られたようで、悲しかった。
「この間だって……貴族たちのことは、助けたくせに。何で……!?」
唇を噛みしめて、拳を握りしめる。
つい先日、葵祭の御阿礼という行事のために、貴族たちが集まっていた随心院でのことを、は予知する
ことができた。
そのおかげで、天真や鷹通、現地に居た友雅と共に奮闘し、大した被害を出さずに済んだのである。
ところが、が予知できなかった今回の事件の被害者は――庶民と言われる人々で、イノリの仲間である
存在だった。
ゆえに彼の怒りもひとしお、というやつなのだ。
「何でオレの仲間のことは、助けてくれなかったんだよ!?」
イノリは、大きな赤い双眸に、怒りと悲しみの両方を浮かばせる。
(あ……――)
まずい、と思ったは、身体の芯が凍りつくように感じた。
天の朱雀の瞳が、自分に向けられた『あの刻』と同じものだった。
「いい加減にしろよ、イノリ! もうそれぐらいでいいだろ!?」
イノリの怒声を黙って浴びるを、地の青龍が改めてかばう。
時見の力――予知というものが、彼女の意志ではどうにもならないことを、天真は知っていた。
「いいわけねぇよ!! オレの仲間は、命までは落とさなかったものの、ケガもしたし、住むところを失くした奴
だっているんだぞ!」
極端な話、貴族という身分の者だったら、今住む家を失くしても、次に住む場所が決まるまで、その財力で
何とかなったりする。
しかし、食べるもの、着るもの、眠るところ――生活に困りながら、時には病と闘いながら生きている民に
とっては、大きな打撃だった。
「いくら先の未来が見えるって言ったって、こんな大事な時に……っ!!」
悔しそうに俯くイノリが、打ち震える拳を握りしめる。
このままだと、きっと彼は――言ってしまう。
ハッとしたが、「イノリくんっ、駄目!!」と、彼の腕にしがみついた。
次に出てくる彼の言葉を、止めたかった。
彼に、言ってほしくなかった。
けれども、その想いは天の朱雀に届かなかった。
「肝心な時に使えなきゃ、そんな力、ただの役立たずじゃねぇか!!」
その瞬間、ざわりと音を立てた風が、すぐに、ぴたりとやんだ気がした。
「――イノリ!!」
暴れる波を砕く岸壁のように。
地の白虎の声が、燃えさかるイノリの意識の炎を鎮めた。
「……っ」
天の朱雀は、ようやく我に返る。
高ぶる感情に任せて、歯止めの利かなくなった思いをすべて吐き出してしまった。
ふと、自分の腕にしがみついている空癒の少女に、改めて気づく。
はイノリの腕に顔を埋めて、儚く震えていた。
――心が痛くて、悲しい。
今にも、双眸から涙が零れそうだった。
(痛いのは……悲しいのは、ちゃんなのに)
本来言葉を向けられたのは、の親友――時見の少女である、。
少女は浅葱色の狩衣に包んだ身を、やはり震わせていた。
天真が、呼びかけようとした刻、
「――……そんなこと……」
紺色の前髪で表情が隠れていた少女から、声が零れる。
「そんなことっ! 言われなくても、私が一番よく解ってるわよ!!」
それは、涙と一緒に、ずっと胸の奥底にしまい込んでいた『思い』だった。
「私だって、できるものなら予知したかったわよ! 助けたかったわよ!」
は、イノリの言いたいことは理解できた。
しかしだからと言って、納得することはできなかった。
「だけど、仕方ないじゃない!! 今まで一度だって、私の意志で働いてくれたことは無いんだから! 私の
意志で、どうにかできるわけじゃないんだから! こんな力、欲しかったわけじゃないわ!!」
ぼろっと大粒の雫を瞳から零し、思いを投げつけて。
時見の少女はきびすを返し、走り出した。
「っ!!」
「ちゃん!!」
天真とが、少女の名を叫んだ。
同時に、後を追いかけるべく、天真は地を蹴る。
も追おうとしたが、残された皆――特に、戸惑いの表情で立ち尽くすイノリを見て、一旦足を止めた。
「ごめんなさい、皆さん! ちょっと待ってて下さい!」
――今、この刻がきっと、話すべき刻なのだ。
八葉と神子、星の姫に、時見の力を持つ親友のことを。
けれども今は、彼女を追わなくてはいけない。
「あぁ、私たちのことは心配いらない。まずは行ってあげなさい、殿」
最年長の八葉である地の白虎は、そんな空癒の少女の思いを解っていた。
「はい!」
感謝の思いを声と笑みに込めて、は、前後を気遣いながら走る天真の後を追う。
「……私たちは、待っていることが出来るのだから、ね」
のことについて聴くのは、が戻って来てからで充分だ。
やや憂いを含んだ表情で、友雅は唇を噛みしめる天の朱雀を見やった。
