(………どうしよう……)

 藤姫の館への帰り道。

 は、地の玄武である彼と一言も言葉を交わせずにいた。

 頬に布を当ててくれたことにはもう礼を言ったし、浄花のことも聞いたし、とあれこれ考える。

「――あっ、泰明さん、その左手…!」

 と、その刻は泰明の左手に巻かれた包帯が、赤く滲み始めているのに気づいた。

「さっきの戦いで傷がひどくなっちゃったんですね。治しますから手を…」

 見せて下さい――とは手を伸ばす、が。

「この程度の傷、問題ないと言った筈だ」

 泰明はまた、の治癒を断った。

「そんな、この程度って……」

 は言いながら表情を翳らせてゆく。

「だって…血が出てるのに……私なら治せるのに……私は、『空癒の少女』なのに……!」

 白い包帯の上に、赤く滲んでゆく泰明の手は、痛々しくて仕方ない。

「泰明さん、顔色一つ変えないけど、痛いでしょう?」

「……痛覚はある。だがそれだけのことだ」

「それだけじゃありません。痛みを感じるのはとても大事なことなんです。身体が悪い所を教えてくれてるんですから……生きている証です」

 泰明はの言葉を聞いても、ただ立ち止まって視線をよこすだけだった。

「どうして、治させてくれないんですか…? 泰明さんは私が『空癒の少女』だって言ったのに……そりゃ、私はちっとも役に立たないし、泰明さんに嫌われちゃってるのかもしれないけど……でも…!」

 堪えきれなくなった涙が、の藍色の双眸から零れ出す。

「そうではない」

 突然、泰明の言葉がすべり込む。

「私はお前に空癒の力を使ってもらう価値が無いのだ」

「え…?」

 どうゆうことか解らなくて、は顔を上げた。

「価値が無いって……そんなことあるわけないです。だって同じ…」


「私は――八葉とは本来、龍神の神子を守るための道具だ」


 ふいに遮られた言葉。

「え……!?」

 の顔から色が消える。

「そして今は、お前とを守るための道具でもある。道具である私に、気遣いは無用なのだ」

「そ…そんな…何を言ってるんですか…!?」

 あまりにも淡々とした言い様。

 何でもないことのような顔をしている泰明に、はようやく言葉を取り戻す。

「泰明さんは、八葉の皆さんは道具なんかじゃありません!」

「事実だ」

「違います! 絶対に、違います…! あかねちゃんやちゃんだって、絶対そう言います…!」

 そんな悲しい考えを持っていたなんて――知らなかった。

 涙が、止まらない。

 何か思うことでもあるのか否か――泰明は次々に涙を零すを見つめる。

「……確かに、他の者はそうなのかもしれぬ。だが、私はやはり道具なのだ」

「そんなっ…どうして…!?」

 は、俯きつつあった顔を上げて問おうとした。


「私は人ではないからだ」


 また、ふいに遮られた――答えられた、言葉。

「…え…」

 ――その瞬間、二人の周りを風が吹き抜け、樹々がざわめき始める。

「私は、人ではないのだ」

 泰明の口にした『真実』に、は涙の残る藍色の双眸を、ただ見開くことしか出来なかった。





 京の空も、都もすっかり夕映えに包まれた頃。

「どうした? 

 時見の少女と共に帰り道を歩いていた地の青龍は、ふと彼女が思案顔をしているのに気がついた。

「うん…たちの方は本当に大丈夫かなって、思って…」

「心配ねぇよ。セフルって奴はずる賢いけど案外つめが甘い奴だからな。それに何より、あっちには、イノリや詩紋、それに泰明がついているんだ。大丈夫さ」

「うん、そうだね」

 天真の明るい声に、は大きく安堵の吐息をつく。

「でも、本当によかった。間に合って」

 天真は「何がだ?」と不思議そうにを見やる。

「あ、そのね、前にも言ったけど、心配だったんだ。ちゃんと予知できるか」

「あの、葵祭の御阿礼…だっけ。それが邪魔されずにすんだのは、お前の予知のおかげだろ。もっと自信もてよ」

「天真くん……ありがとう」

 微笑んで礼を言う。

 彼の心遣いが、彼の言葉がとても嬉しかった。

「別に礼を言われるほどのことじゃないさ」

 天真はカラッと明るく笑うが、は「ううん」と首を振る。

「いいの。嬉しかったから言ったんだもの」

 正直な思いを口にしながら、しかし次の瞬間には、何故か彼女の表情は翳りが射していた。

「……でもね、この力は、本当に融通がきかないの。予知の力なんて持っていても、肝心な時に見えなきゃ、役に立たない……誰ひとり、救えない……」

 段々とその声は表情と同じようになってゆき――無意識の内に、の足が止まる。

……?」

 それに気づいた天真も、足を止めた。

 名を零されて、はハッと我に返る。

「あ、ううん、何でもないの。ごめんね……」

 苦笑するような、その表情を見た天真は、一瞬、時を止めた。

 こんな淋しそうなを、初めて見たからだ。

 ――どうしてやればいい?

 そんな疑問を、自分自身に投げかける。

 まだ自分は、この少女が抱えているものを、知らない。

 理解していない。

 だが――無理に聞き出そうとは思わない。

「……別に、謝ることはねぇだろ。俺にそんな気ぃ遣うなって」

 言ってから、少しだけ歩く天真。

 はゆっくりと顔を上げる。

「……

 彼女の名を呼んでから、再び立ち止まる。

 しばらく彼の言葉の続きを待っていたは、「なに?」と小さく尋ねた。

「その……上手く言えねぇけど……あんまり、ひとりで無茶するなよ」

「え?」

「俺でよければ話を聞いてやることぐらい出来るし、俺に話しづらかったら、あかねとかとか、藤姫とか居るだろ?」

「天真くん……?」

 大きな若葉色の双眸で見つめてくるに、天真は口調が早くなっていく。

「だからその、ひとりで抱え込んで欲しくねぇって言うか…! とにかく、ひとりで悩むなよっ」

 彼なりに色々と考えたのだろう。

 言い方は多少荒っぽくなっても、その優しさは解る。

 無理には聞かず、でも心配してくれている彼。

「天真くん……」

 の表情に、光が戻ってくる。

「天真くん!」

 中々こちらを向いてくれない天真の名を、呼ぶ。

「え?」

 と、振り向いた天真に届いたのは――。

「天真くんってすごく優しいんだね、ありがとう!」

 嬉しそうに輝くの笑顔で。

「べっ、別にそんなんじゃねぇよ!」

 それを見た天真の頬は、夕映えに包まれた京の空や、彼の髪や瞳と同じような色にほんのりと染まっていた。

「早く帰ろうぜ!」

 無邪気な笑顔の不意打ち。

 それに耐えられなくなった天真は、逸る鼓動を誤魔化すかのように言って、早足に歩み始める。

「あ、待ってよ、天真くん!」

 地の青龍の複雑な思いに気づかぬまま、は慌てて彼の元へ走り出した。





 ――どれほどの時が流れただろう。

 その間、二人の耳を占めていたのは、風の音だけだった。

「………どうゆう…ことですか…?」

 ようやくが訊き返す。

「私は、人から生まれたのではない。お師匠である晴明様の術によって生まれたのだ」

 そう答えた泰明の声は、特にいつもと変わらなかった。

 は「晴明様の術…?」と、呟くように繰り返し、

「――だから、『道具』なんですか…? だから、治癒の『必要』も無いんですか?」

 悲しそうな顔をして問うた。

 泰明は、「そうだ」と簡単に答える。

「神子やお前達を守り、京を救うための道具だ。いずれは壊れ、塵となる身……それが私の『事実』で、私の『宿命』だ。治癒してもらう価値など無い」

 ――泰明の琥珀と翡翠の瞳に、一筋の翳り。

 は、暫く言葉を失って――小さな吐息を零した。

「……泰明さんは、いつも正しいけど……それは、違うと思います」

 ゆっくりと首を横に振る

「何が違うのだ?」

 滅多に変わらない泰明の表情が、怪訝そうに変わった。

「たとえ生まれ方が他の人と違っていても、あなたは『泰明』さんという、この世でたったひとりのかけがえのない、大切な『命』なんです」

 いつもは弱々しさを秘めた藍色の瞳。

 だがこの刻は、曇りのない夜空のように澄んでいた。

「理由がそれだけなら、私はやっぱり、泰明さんの治癒を諦めるわけにはいきません」

 真っ直ぐ見つめ返してくるに、泰明は暫し黙する。

「……不思議なことを言うのだな、お前は」

「不思議、じゃありません。『事実』ですよ」

 ぽろっと零れてきた言葉に、小さく笑う

 だがすぐに表情を改めて、泰明のそばに歩み寄る。

「傷…治させて下さい、泰明さん」

 そして、懇願するような瞳で見上げた。

 泰明は微かに眉をひそめて押し黙る。

(――そういえばこの娘は、鬼の傷をも癒やしてしまうのだったな……)

 やがて、小さな溜め息が零れた。

「……わかった」

 了承の言葉と共に差し出された手。

 の表情が一気に輝き出す。

「泰明さん…!! ありがとうございます…!」

 流れる涙の理由が、嬉しさ故に変わる。

「…何故、礼を言うのだ?」

 治してもらうのは自分で、治してやる立場のが礼を言ったのが理解できなかったらしい。

「え? えっと、だって、解ってくれたから…! いっぱいお願いしちゃったのを受け入れてくれたんですし…! それに、初めて泰明さんに必要としてもらえたみたいで、嬉しかったんです」

 自分でも何だかよくわからなくなりながら、それでもは心底嬉しそうに微笑んだ。

 泰明の左手の包帯をそっと解き、自身の手を静かに重ねる。

(――不思議な娘だ)

 淡い碧の光を放ち始める空癒の少女を見つめる地の玄武は、そんなことを思いながら。

 やはり、ただ黙っていた。





 泰明とが藤姫の館に帰り着くと、すでに帰って来ていた天真とに出会った。

「――っ…!?」

 しかし突然、を見たの表情が愕然とする。

「え? ちゃん?」

 どうしたの――と、問おうとしたの肩を、いきなりが掴む。

「その目は? そのほっぺたは? 一体どうしたの!? 何があったの!?」

 凄まじい勢いで尋ねられる。

 どうやら、泣いたことと頬を打たれたことがバレたようだ。

「誰に泣かされたの!? 誰にぶたれたの!? !?」

 大事な親友の痛々しい顔を見たの心には、揺るぎない怒りが生まれていた。

 だがは「え、えっと、あの…!」と戸惑うばかりだ。

「あの、でもね、私が先に叩いちゃったからおあいこなの!」

 あまつさえ、それはの問いの答えになっていなかった。

 案の定、は「はぁ?」と理解不能な顔をする。

 この親友は、いつも相手を庇おうとして変な答え方をするくせがあるから、中々話が進まない。

「泰明さんっ、一体何があったんですか? 何でのほっぺたがこんなになってるんですか?」

 こっちに訊いた方が早い、と思ったは、泰明に問うた。

「怨霊・幽魔を操った鬼の頬をが打ち、憤った鬼に打ち返されたのだ」

「…怨霊・幽魔を操った鬼…?」

 そう繰り返したに、泰明はこの日あったことを簡単に説明する。


 ――ややあって。

「……それってやっぱりその鬼が悪いんじゃない〜〜〜っ!!」

 その鬼、すなわちセフルのことを聞いたは叫んだ。

「何ていうの!? その鬼の男の子って! レイじゃないよね?」

「う、うん。えっと…セフル…だけど……どうして?」

 セフルの名を告げながら尋ねたに、は両手を握って答える。

「決まってるでしょ!? 今度そのセフルに逢った刻にお返ししてやるのよ!!」

「え、えぇ!?」

 すでに決意した様子のに、は驚いて瞳を丸くする。

 そんな光景を後ろで見ていた天真は「すげー…」と零し、泰明は静かに沈黙していた。

「ところで、。泣いちゃった理由もその刻のことだけなの?」

 とても鋭いは、と共に帰って来た泰明の方をちらりと見て問うた。

 は「えっ…?」と内心ドキッとしたが…。

「うん。それだけだよ」

 にこーっと笑って頷いた。

 ――泰明は、解ってくれたのだから。

 しかし、は一筋の汗を頬に伝わせて考え込む。

 がこの笑顔をするのは、大抵何かを隠している刻だ。

「……本当に?」

「うん。ほんと、ほんと」

 念を押すようなに、にこにこと答えながらは泰明の方へ歩み寄っていく。

「泰明さん、送ってくれてありがとうございました」

 礼を言いつつ、帰りを促すよう彼の背を押す。

「……私のことは言わなくていいのか?」

 に押されるまま歩き出しながら、問いかける泰明。

 やっぱり――と、は思う。

 正直な彼は、今にも『の涙が自分のせいでもあること』を言いそうだったのだ。

「いいんです。ちゃんと解ってくれたんですから」

 それに――もしも言ってしまえば、泰明には後が無いのだ。

 は懸命になって泰明の背を押していった。

「うーん……やっぱり何かあったんじゃないかなぁ…泰明さんと」

 何だか納得しきれない

 それは天真も同じようだった。

 あれだけ不自然に明るいの笑顔を見れば、当たり前かもしれない。

「かもな。でも、昨日ほどじゃねぇんだろ」

 館の外へ歩いていく泰明とを見て、天真が言った。

 もそれを見て、確かに…と思う。

 昨日もはハッキリ言い出したりしなかったが、泰明を見上げることすら出来なかったのだ。

「そうだと…いいんだけど。を泣かした人は、私、許さないんだから」

 強い意志を込めて言うに、

「はは……すげぇな」

 と、笑いつつ、自分も気をつけようと思う天真だった。





 ――人は、色々な思いを抱えているから。

 正の感情も、負の感情も。

 語り尽くせない気持ちを、悩みを抱いて生きているから。

 少しずつ、解り合おう。


 まず零れた思いは、涙によく似た心の雫。

 この刻、ひとひら、静かに舞い降りた――――。





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 《あとがき》
 凄まじい時間を掛けてしまったこの後編…;(イクティダールさんのせいです/笑)
 さて、ようやく泰明さんと様の恋愛イベント1段階を起こすことが出来ましたv
 とは言うものの、「恋愛?」と思える展開してますね;
 泰明さんに、やっとこ『不思議な存在』として認識されるようになったぐらいで;
 そりゃぁ、彼の秘密についても話してもらえましたけどね。
 天真くん&様は1.5段階を迎えていると言うのに(笑)
 まぁでもこれは、お相手の性格による問題ですね(←診断ぶった開き直り)
 基本的に、天真くん&様は『通常恋愛』。
 泰明さん&様は『急展開恋愛』にしようと思っています(苦笑)
 これもお相手の性質によるものですね; どうかご了承下さいませ;
 恋愛に限らず、物語的にもこの先の展開はすごいことになってしまうのですが…
 あ、気が遠退いてしまいますね、すみません;
 その分、天真くんと泰明さんをはじめ、八葉の皆さんと絆は深まっていくので、
 どうかお付き合い下さいね…;

              written by 羽柴水帆