第五章  心の雫、ひとひら 《後編》





 ――元気良く響いてくる下駄の足音。

 剣神社近くで、よく知る二つの人影を見つけた天の朱雀は走る勢いを一層上げる。

「詩紋っ、!」

 二つの人影――それは相方である地の朱雀と、空癒の少女だった。

「悪ぃ、待たしちまったか…って、うわっ、!? どうしたんだ!?」

 二人の元に駆け寄ってきたイノリは、悲しそうに俯くを見るなり驚いた。



 空の勾玉が伏見稲荷に現れると判った今朝方。

 星の姫の館には、天地の朱雀と玄武の内、地の理に属する二人――詩紋と泰明しか集まらなかった。

 鷹通が運んできた永泉からの伝言によると、彼は今日、どうしても抜けられない寺での行事がある故、来られないとのことだった。

 イノリも鍛冶師見習いとしての仕事があるのだが、すぐ終わるので伏見稲荷への道中にある剣神社で落ち合おうと……地の玄武である陰陽師の式神によってそのような連絡手段がとられたのである。



 そうして来てみれば、空癒の少女が今にも泣き出しそうな顔をしていたのだ。

(まさか詩紋が…!?)

 イノリは一瞬そう思ったが、この心優しい相方に限ってそれは無いと振り払う。

 現に、俯くの傍らで心配そうに気遣っているその姿があるのだ。

「一体何があったんだよ?」

 イノリが歩み寄りながら尋ねると、「あ…おはよう、イノリくん…」とはようやく顔を上げた。

 だが話す気になれない程悲しいのか、再び俯いてしまう。

 訳が判らなくて顔をしかめるイノリに、詩紋は代わりに説明することにした。

「あのね、イノリくん、実は……」

 そう言いながら詩紋は青い双眸を剣神社の方へ向ける。

 イノリも自らの赤い双眸をそちらへやると――。

「…泰明?」

 剣神社の前で祓いの式を行っている陰陽師の姿が、あった。

 ――詩紋の話では。

 こちらへ向かう途中、は泰明が左手の甲に白い包帯を巻いているのに気づいた。

 尋ねてみると藤姫の館へ訪れる道中に発生した小規模な怨霊を退治した際に、誤って作ってしまった傷だ、と答えられた。

 なので早速は治癒をしようとしたのだが…。

「これしきの傷、お前の力で治さねばならぬ程の問題ではない」

 と、きっぱり断られたのだ。

 が「え…」と呟き、詩紋がぎょっと驚くのにも構わず、

「剣神社に微弱な邪気が漂っているので祓ってくる。お前達はここで待て」

 泰明は先日幽魔が発生した名残りと思われる微かな邪気を感じ取り、そちらへと歩んで行った――ということだった。

 更に詩紋は天真や、あかねから昨日の出来事(泰明の言葉でが傷ついたこと)を聞いていたので、それもイノリに話す。

「あいつ……に言われたこと、まるっきり理解してねぇじゃんか」

 確かに『必要ない』と言わなければいいという問題ではない、と詩紋も思う。

「……私、泰明さんに嫌われちゃってるのかな…」

 がぽつりと零した呟きに、天地の朱雀は『えぇっ?』と声を重ならせた。

「そっ、そうゆうわけじゃないと思うけど…!」

 慌てながら詩紋が言ったが、の表情は晴れない。

(泰明さんは、私が『空癒の少女』だって言った……幽魔のことは危険だから、私は私に出来ることをすればいいって……でも……泰明さんは、それすら必要としてくれない……)

 藍色の双眸に映ゆる悲しみの色。

 の思う『それ』とは、彼女の持つ『治癒』の力――彼女に『出来ること』だ。

 なのに、彼はよく『それ』を受け入れない。

 今までも出逢った当初以外は、誰かの口添えがあって初めて治癒させてくれたのだ。

 ひとりでは聞き入れてもらえたことはない…。

「来たのか、イノリ」

 と、そこへ、祓いを終えた泰明が天の朱雀を琥珀と翡翠の瞳に映し、やってきた。

「来たのかじゃねぇだろ、泰明!」

 平然といつもの態度をした泰明に、振り返りながらイノリは呆れ顔をした。

「お前、昨日に怒られたばっかなんだろ? どうゆうつもりなんだよ!?」

 イノリは問い質すように強い眼差しと声を向ける。

「……どうゆうつもり、とは?」

 しかし――返ってきたのはそんな言葉だった。

 イノリは思わず「はぁ!?」と間の抜けた声を出す。

「質問の意味がわからない」

「〜〜〜ッ! 泰明っ、お前なぁっ!! 自覚すらねぇのか!? を見りゃ一目瞭然だろぉが!?」

 現代語で言う『キレた』イノリは握り締めた拳を震わせた。

「イノリくん! いいの!」

 ところが突然、がイノリのその腕に掴まって、止めに入る。

「いいって…何言ってんだよ、!?」

 驚いたイノリは理解できないような顔をして問う。

 が、は泣きそうな顔のまま瞳を閉じ、首を横に振るばかり…。

(――泰明さんは、いつも正しい。正しいことしか言わない。だから、きっと…これは私の我が儘で、お節介なんだ…!)

 天地の朱雀が困惑に満ちる中、はようやく顔を上げて。

「…ごめんなさい、もう大丈夫。伏見稲荷に行きましょう」

 無理矢理に微笑んでみせた。

 何だか納得のいかない朱雀の少年達だが、ここはの思う通りにしてやるのがいいかもしれないと思い(続けると泣きそうだから)、渋々頷く。

 泰明は何が起こったのか理解できないような顔をして、その場を見つめていた。





「では、私はこれで失礼致します」

 伝言を済ませた鷹通が藤姫の館の門でそう言い、天真が「気ぃつけて帰れよ」と言葉をかけた刻だった。

(――!? これは…!?)

 天真の隣りに居る時見の少女の、予知の力が発動した。

 この都に住まう貴族と思われる者たちが集う場所に、黒き怨霊が現れる――!

(あっ…! 幽魔があんなに…!!)

 と、今度は違う場面が浮かび上がる。

 親友である少女と三人の八葉が向かった伏見稲荷。

 ――黒き怨霊達がそこにも発生する――!

「た、大変!!」

 現の世界に戻ってきたは、咄嗟に叫んだ。

『え?』

 帰ろうとしていた鷹通、隣りに立つ天真は同時に声を出し、を見やる。

「幽魔が現れるの! でも場所が、どこか判らない…!」

「落ち着いて下さい、殿。そこはどんな場所でしたか?」

 鷹通の鎮めんとする声に、落ち着きを取り戻したは予知した時の場所を思い出す。

「えっと……梅の花が咲いてて…貴族みたいな人達が大勢集まってて…!」

 にはそれぐらいしか上手く言葉が見つからない。

 だが、天の白虎にとってはそれだけで充分な情報だった。

「それはおそらく随心院でしょう。近々行われる葵祭という行事の準備、御阿礼のため、今日そこに多くの貴族が集まっているのです」

 鷹通は「永泉様が来られないのも、そのためなのです」とも付け足した。

「じゃぁ、早速退治に出掛けるか!」

「あ、待って天真くん…! 実はそこだけじゃなくて、と泰明さん達が向かった場所にも出るみたいなの!」

「何だって!?」

 は「どうしよう…!!」と表情を翳らせる。

「……取りあえず、私達は随心院へ行きましょう」

 ややあって、鷹通は穏やかだが冷静に言葉を紡いだ。

「…そうだな。達の方には泰明やイノリ、詩紋が居るんだ。さっさと随心院の方を片づけて駆けつける――ってことにしようぜ、

 親友達が心配で堪らないだが、「うん…!」と表情を改めて頷き、天真と鷹通と共に随心院へと向かった。





 ――空癒の少女と天地の朱雀、そして地の玄武の四人が伏見稲荷に辿り着く。

 によると、今回はどうやら伏見稲荷の中に在るらしいので、彼らは境内へと入っていく。

 そこには、数人の参列者が訪れているようだった。

 と、突然泰明が無言で立ち止まる。

「泰明さん? どうかしたんですか?」

 それに気づいた詩紋が振り返って尋ねた刻、「なっ、何だこれ!?」と真っ先に境内の中に辿り着いたイノリが声を上げた。

「どうしたの!?」

 を先頭に詩紋や泰明もそこへ走る。

 すると――境内中に黒き怨霊達があふれ返っていた――!

 既に取り憑かれてしまったのか、参列者の人々はその場に屈み込んでいる。

 が愕然として「ゆ、幽魔がこんなにたくさん…!?」と両手を口元に当てた。

「…何だ、もう来たのか」

 聞き慣れた少年声が聴こえて、皆はそちらへ視線をやる。

 そこには、この幽魔出現の原因と思われる鬼の少年・セフルが居た。

「セフル! まさか君がこの人達を…!?」

 詩紋は未だ、鬼であるセフルと完全に敵対する決意が固まっていない。

 信じてあげたいという思いがあるのに、こんなことをされると、また揺らいでしまう。

 だがセフルには、詩紋の気持ちなど知る由もなかった。

「ああ、そうさ。お前達がここへ向かうらしいと判ったからね。先回りさせてもらったってわけさ」

「ふざけんなよ! 何でオレ達を待ち伏せするのにこんなことする必要があるんだ!?」

「少し考えればわかるだろう? お前達が素直に勾玉を渡してくれるわけ無いから、こうやって交換条件の材料を作ってるんじゃないか。『こいつらを助けたければ、勾玉を渡せ』ってね」

 全く悪びれない顔で言うセフルにイノリは「何だと!?」と表情を更に険しくした。

「早く取り憑かれた人達を元に戻さないと…!」

「待て、詩紋。先ずは飛び回る幽魔を祓うのだ。でなければまた新たな幽魔が取り憑いて堂々巡りとなる」

 冷静さを欠かない泰明に、詩紋は「は、はい!」と返事をした。

 それぞれ戦闘態勢となり、宙を飛び舞う幽魔を滅していく。

 が、数瞬もしない内に、

「なっ…何やってんだよッ!?」

 あらぬ方向を向いたイノリの叫びが上がった。

『え…!?』

 詩紋と、そして無言の泰明がそちらを見やると――。

 幽魔に取り憑かれた人々が、自ら持っていたらしい小刀で命を絶とうとしている。

「何をするんですか!?」

「やめて下さい!」

 イノリと共に、詩紋とも人々を止めに入った。

 その間にも、泰明は幽魔を祓うが、後から続々と増えてくる。

「やめろよっ! 何でこんなこと…!?」

 ひとりの女性から小刀を奪い取ったイノリは、悔しそうな表情を刻んだ。

 セフルは嘲笑するように口を開く。

「そいつら、生きるのが辛いんだってさ。ま、こんな所に神頼みになんか来てるぐらいだからな」

『なっ――!?』

 天地の朱雀、空癒の少女の時が、凍りついたように一瞬止まる。

 しかし、すぐにイノリの表情は怒りへと変わった。

「お前が……お前が怨霊を取り憑かせたせいだろうッ!?」

 イノリの燃えたぎる赤い双眸にも、セフルはまったく屈せずに「ああ、そうだよ」と笑って答える。

「僕に怒ってる余裕なんか無いんじゃないのかい? そうしてる間にも、幽魔はどんどん増えるんだからな」

 確かに泰明しかまともに祓っていない現状、幽魔が圧倒的に増えていた。

 だが、命を絶とうとしている人々を放っておくことなど出来るはずがない。

「ちくしょうっ…!!」

 とにかく、命を奪う物を取り上げなければとイノリは急く。

 詩紋が小刀を手から外そうとした女性のそばでは、その子供と思われる幼い男の子が泣きわめいていた。

 と、泣いている子供に幽魔が迫る――!

「あっ、危ない!!」

 それに気づいた詩紋は、咄嗟にその子供を抱きしめて庇った。

「うっ――!?」

 詩紋の幼げな背に、黒い塊の幽魔が入り込む――。

「詩紋っ!?」

 イノリは相方である少年の名を叫んだ。

「詩紋くんっ、大丈夫!?」

 が慌てて駆け寄ると――詩紋は大きな青い双眸から、ぽたぽたと大粒の涙を零し始めた。

「――僕……セフルや鬼の人達のこと…戦う以外にも方法があるんじゃないかって、ちゃんと話し合えば、理解し合えるんじゃないかって思ってるのに……やっぱり駄目なのかな……無駄なのかな……」

 胸の底に沈めた思いがあふれ返って、詩紋は両手で顔を覆った。

 が驚いて「し、詩紋くん…」と彼の名を零す。

「ハッ、やっぱりな。僕達の気持ちが解るとか言っておいて、結局は駄目だって思ってるんじゃないか」

 セフルが心底馬鹿にするように言った。

 その言い草に、は「なっ……」と双眸を見開いて振り返る。

「人間なんて所詮、本当の思いを偽って生きてる愚か者なのさ。幽魔が取り憑いたおかげで本心を解放できたんだ。そいつら、死にたいって言ってるんだから、望み通り死なせてやった方がいいんじゃないのか? そうすれば苦しまずに済むだろう?」

 未だ人々を止めるのに必死なイノリに向かって、セフルは嘲笑った。

「て、てめぇッ…!!」

 イノリは完全に怒りに身を任せ、声を上げようとした。

 だが、彼の前を空癒の少女が静かに歩いてゆく。

「…ん? 何だお前…」

 近づいてくるに気づいたセフルは、特に何の身構えもしなかった。

 この少女はセフルを恐怖させる力など持っていないからだ。

 が、次の瞬間。


 パァンッ――!


 突然、張り上がった音が、伏見稲荷の境内に響いた。





「――っ?」

 その刻、天の玄武はふと立ち止まった。

 楝色の双眸をあらぬ方向に向ける。

「永泉様、どうなさったのですか?」

 同じ寺の修行僧に問われた永泉は、ハッと気がついて「いえ、何でもありません」と答えた。

(今のは――)

 再び歩き出しながら、永泉は胸中で呟く。

 今、確かに感じ取った気は、空癒の少女のものだ。

 ――深い悲しみと、静かな怒り。

 また泰明と何かあったのだろうかと、そうも思ったが、おそらく違うと頭を振る。

 今日、は泰明や天地の朱雀と共に、空の勾玉を得に行っている。

殿……)

 何が起こったのか――判らない永泉は、ただ彼女の無事を祈りつつ、名を呟いた。





 時見の少女が地の青龍、天の白虎と共に随心院へ辿り着いた時には、すでに黒き怨霊達があふれ返っていた。

「友雅さん!」

 その刻は、随心院の中に地の白虎の姿を発見した。

 名を叫ぶと、友雅もこちらの存在に気づく。

「これは丁度いいところに。取りあえず、戦いの術を持たない貴族の者達は避難させたのだが、私ひとりでは少し厄介かと思っていたのでね」

 友雅はいつもの調子で「これで楽が出来そうだ」と付け足した。

 天真が「何言ってんだよ!」とつっこむ傍らで、鷹通は「殿がここに幽魔が出現すると予知して下さったのです」と説明する。

「ああ、さすがだね、時見の少女殿」

 友雅に感謝の微笑を向けられて、は「いえ、あの、間に合ってよかったです…!」と少々慌てた。

 と、突然、天真がの前に立つ。

 天地の白虎も、いつの間にか真剣な表情で天真の横に並んでいた。

 そんな彼らの様子や、ただならない気配を感じたは息を飲む。

 すると――幽魔が飛び交うその狭間から、ひとりの男性が姿を現した。

「やはり来たか、八葉と時見の少女よ」

 その長身の男性を、は初めて見た。

「イクティダール…っ!!」

 天真が強い視線を向けて言う。

「イクティダール…? あの人も、鬼…なの?」

 そう呟いたに、鷹通は「そうです」と頷いた。

「どうやら時見の少女が予知してきたようだが、こことは別の場所にも幽魔が出現しているのは知っているか?」

 イクティダールの言葉に、は一瞬「え?」と驚く。

「ああ、こいつがちゃんと予知したぜ。だがあっちには俺達の仲間が行ってるからな。先にこっちを片づけようってことにしたんだ!」

 の前に立つ天真が、代弁するように答えた。

 イクティダールは「そうか…」と呟くと、切れ長の双眸をこちらへ向けた。

「私はここで行われる御阿礼を妨害するよう、お館様より命を受けた。邪魔だてするなら容赦はしない」

 振り上げた片手から、黒き怨霊達を解き放つ――!

「こっちだって負けるわけにはいかねぇよ!!」

 天真がの前へ、白虎の二人はそれぞれ彼女の両脇に立ち、怨霊退治を開始する。

 地の青龍と白虎は印を結んだ両腕、天の白虎は小刀から気を放った。

 くるりときびすを返したは右手の封印を解き、幽魔をものともせず吸い込む。

 そうして八葉と時見の少女は、先ず自分達の周りに居た怨霊を退治し終えた。

「よしっ!」

 天真が攻撃の範囲を広げようと走り出した、その刻だった。

 突然幽魔の一体が天真に迫る。

「何っ!?」

 横から来たそれに天真は気づくが、幽魔の動きは速すぎた。

「天真くん!!」

 今まさに怨霊の直撃を受けそうな天真を見たが、彼の名を叫ぶ――。