第五章  心の雫、ひとひら 《前編》





 ――今日も美しき都に、清々しい陽光が差し込む。

 森の樹々と川のせせらぎが、そよいでくる風と共に謳歌する朝。

 星の姫の館に元気よくやって来た天の朱雀である少年は、まず庭にひょっこり顔を出してみると、大きく伸びをしている空癒の少女を見つけた。

「よう、!」

 声をかけると、彼女も「あ、おはよう、イノリくん」と挨拶を返す。

「もう身体とか大丈夫なのか?」

 は一昨日、深手を負った天の青龍を治癒した際に輸血を施し、そのために体調ダウンしていたのだ。

「うん、大丈夫だよ。ありがとう」

「そっか、そりゃよかったぜ」

 昨日は殆ど起きられなかったがいつものように微笑んだのを見て、イノリも安堵して明るく笑顔を見せた。

「そういやぁ、他の奴らはどうしたんだ?」

「私もまだ会ってないの。あかねちゃんの所じゃないかな」

 の言葉に「そうだな」と答えたイノリは、彼女と共に龍神の神子の部屋が見える庭へと回った。



 とイノリが思った通り、あかねの部屋が見えるそこには天真と詩紋、そしてが居た。

 駆け寄って行くと、気がついた天真や詩紋はイノリと挨拶を交わし、に「もう起きて大丈夫?」と尋ねる。

 が昨日親身に面倒を見てくれた親友に「うん、平気だよ」と答えると、イノリは天真が妙な顔つきをしているのに気づいた。

「どうしたんだよ、天真?」

「いや……あれだよ」

 天真が指し示した方向――彼や詩紋、が視線を向ける方を、イノリとも辿ってみる。

 すると、そこ――龍神の神子の部屋では、あかねと藤姫、そして地の玄武・安倍泰明が何やら話をしている様子だった。

「あれ…って、泰明のことか?」

「泰明さんがどうかしたの?」

 イノリとは『あれ』の該当するものが判っても、何をそんなに神妙な顔つきで視線を送る必要があるのかが判らないため、尋ねてみる。

「あのね、実は昨日……」

 の話は、イノリが仕事のため来られなかった、が床に伏していた昨日に遡った。




 ――静かな朝を突然響き始めた轟音が遮る。

 轟音の発生源は、剣神社と呼ばれる場所の近くだった。

! さっき言ってた怨霊ってこいつらなのか!?」

 目の前を飛び交う黒き塊の如き霊を双眸に映した地の青龍は、後ろにかばった時見の少女に向かって問うた。

「うん! 怨霊かは正確には判らないけどっ、でも何とかしないと…!」

 時見の少女――は朝方予知した光景を思い出しながら答えた。

さんっ、天真先輩! 何だかどんどん増えてるみたいだよ!」

 先程よりも勢いを増してくるそれに気づいた地の朱雀が叫ぶ。

「早いとこ片づけなきゃやばそうだな! ――!」

さん!」

 前に立ち並ぶ天真と詩紋に頷き返し、は若葉色の瞳を閉じて五行の力を送る――!

『しびれちまいな! 神鳴縛!!』

 先ずは、すばしっこい怨霊達の動きを天真の激しい雷が封じ込める。

『大地よ目覚めろ! 地来撃!』

 そしてすかさず詩紋の攻撃、地の塊が怨霊の上から降りそそぎ、縛られたままの怨霊達は消滅していく――。

「ふぅ…。何だったんだろうね、あれ…」

「判らないけど……でもよかった。何とか防げて」

 詩紋の言葉にハッキリとは答えられなかったが、予知した時に見えた事態にならずに済み、はほっと安堵した。



 ――朝方、は夢現の中で見た。

 自身の右掌に刻まれた痕の原因になった、あの黒き塊に似たものが剣神社に大量発生し、そして――――!

 と、慌てて館を飛び出そうとしたところ、それを見つけた天真と詩紋(同じ場所に住む故)が共に来てくれたのである。

 普段なら相方と朝稽古をしている天真だったが、当の相方が未だ本調子ではなく…。

 ひとりで稽古をし、それを詩紋が見ている時の出来事だった。



「防げて…って、あいつらが現れたのを見たんじゃないのか?」

 怨霊の出現を予知したのだと思っていた天真が問いかける。

「うん、それだけじゃなくて、その後にね……――っ!?」

 が答えかけた刻だった。

 天真と詩紋の後ろで黒い影が蠢く――!?

「天真くん! 詩紋くん! 後ろっ!!」

 咄嗟には叫んだ。

「なっ、何ッ!?」

 まだ終わっていなかったのか、と天真は厳しい表情で向き直る。

 そして詩紋も振り向いたその刻、黒き影だった怨霊は膨れ上がって分散し、詩紋とに向かって飛来する――!

「危ないっ、さん!!」

 怨霊の矛先が判った詩紋は、の前にその小さき身を投げ出す――!

「詩紋くん!?」

 ――時見の少女が、地の朱雀の名を叫んだ刻。

 詩紋は強く目を瞑り、天真は急ぎ二人の前に身を割り込ませようとする――が、それを成したのは天真ではなかった。

 詩紋の顔のすぐそばで、橙から黄色に薄れる羽根が揺れる。

「やっ……泰明さん…!?」

 をかばう詩紋の前に立ち、怨霊に背をさらしたのは――地の玄武だった。

「今日こそ逃さぬ、怨霊」

 泰明は苦痛の表情すら浮かべず、首飾りの羽根を掴んで呪文を唱え、結界を張る。

 怨霊達が動く自由を奪われるや否や、は今だ、と感じ取って皆の前に走り出す。

「みんなっ、下がってて!」

 そして右手首の腕輪を外した。

 巻き起こる風が怨霊達を捕らえ、翻弄し――抗わせることなく、が翳した右掌に吸い込まれていく…!

 刻印がすべての怨霊を呑み込むと、は素早く腕輪をはめた。

「ふぅ……もう残ってない!?」

 封印を戻し、一息ついたが皆に訊く。

「いっ、いや…!?」

「も、もういないよ、多分…!」

 それぞれの刻印の力を改めて見たり、初めて目の当たりにしたため少々呆然としていた天真と詩紋は我に返る。

 先日片づけたの部屋の状態が脳裏に蘇り、何故ああなったのかその理由が何となく解った気がした。

「あっ、泰明さん! 大丈夫ですか!?」

「このくらい、どうということはない」

 かばってくれた泰明に詩紋が慌てて問うと、相変わらずな声と表情が返ってきた。

「ん? あれ、永泉じゃねぇか」

 するとそこへ、懸命に走ってくる法親王の少年に天真が気がつく。

 皆が視線を持っていくと、丁度永泉は足を止めた。

「み、皆さん……あの、やはり怨霊が現れたのでしょうか?」

 激しくなってしまった呼吸を整えながら尋ねる永泉。

「ああ。何か黒い小せぇのがいっぱい出てきやがった」

さんが予知してくれたおかげで、何とか大事にならずに済んだんですよ」

 天真の後で答えた詩紋が「そうだよね?」と言うような表情を向けるとは「うん…」と頷いた。

「大事…ですか?」

、予知した時に何が見えた?」

 天地の玄武に尋ねられたは、今朝方見たことを説明することにした。

「はい……最初はあの黒い怨霊がたくさんこの辺りに現れたんです。そうしたらその後、京の町中に散らばって、人に――人の身体の中に入り込んだんです…!」

「何だって!?」

「人の身体の中に…!?」

 天真と詩紋が驚きの声を出した後、天地の玄武は顔(片や視線のみ)を見合わせる。

「見えたのはそこまでだったけど、何だか私が受けた呪いと似てたから、私…もう居ても立ってもいられなくなって…!」

 天真が「それであんなに焦ってたのか」と、館を飛び出そうとした刻のを思い出して言った。

「やっぱり…鬼の一族の仕業なんでしょうか…?」

 不安げに俯いて呟いた詩紋に、泰明は「そのようだ」と告げる。

が受けた呪いと同じものかは判らぬが……神子に知らせる必要がありそうだ」

「そうですね。――あ、あの、泰明殿…」

 永泉は素直に頷いた後、何かに気づいたような顔をしてから遠慮がちに相方の名を呼ぶ。

「お怪我をなさっておいでのようですが……大丈夫なのですか?」

「さっき訊いた刻は『このくらい、どうということもない』って言ってたぜ?」

 泰明の代わりに天真が代弁するが、永泉の表情は晴れない。

「あ…あの、ですが…これは『このくらい』というものではないと思うのですが…!」

 ハッキリとは言わないが未だ泰明の身を案じる永泉に、や天真、詩紋は顔を見合わせて泰明の後ろへ――攻撃を受けた彼の背へ回る。


 すると――陰陽の太極を思わせる装束の背は、真っ赤に染まっていた。


「泰明さん!? すごい怪我ですよ!?」

「これのどこが『このくらい』なんですか!?」

「どうってこと大ありじゃねぇか!!」

 それを見た途端、詩紋、、天真は平然とした怪我人に向かって叫ぶ。

「早く帰ってに…!」

 天真が治癒の力を持つ少女の名を言いかける、が。

「必要ない」

 ――泰明は鋭くそれを遮った。

 あまりにも早い反応と低い声に皆は一瞬「え…?」と漏らす。

「この程度の傷、お師匠の薬ですぐに回復する」

 それだけ紡ぐと泰明はきびすを返した。

「私はもうお師匠の屋敷へ戻る。神子にそう伝えてくれ」

 そして歩き出した泰明に永泉が慌てて声をかける。

「泰明殿、先程の件も私が神子にお伝え致しますので…!」

「…わかった。任せる」

 相方の言葉に一瞬だけ横顔を向けて答え、泰明は立ち去って行った…。




「――と、いうわけなの」

 の話を聞き終えたとイノリ、そして昨日の当事者達は再び神子の部屋に居る陰陽師の青年をそれぞれの双眸に映す。

 しゃんと伸ばされた背筋、一点の迷いも無い顔つき、微かに聴こえてくる淡々と紡がれる声――どこからどう見ても普段の彼と変わらない。

「そりゃ怪我した時点でも平然としてたが、昨日の今日だってのにケロッとして出て来やがって…」

「あれって一日で治るような怪我じゃなかったよね」

「うん。いくら晴明様の薬があるからってねぇ…」

 天真と詩紋、は顔を見合わせてそれぞれ言葉を零した。

 天真によれば、泰明がここへ来た時に「昨日の怪我は大丈夫なのか?」と尋ねたのだが、「問題ない」とやはりいつもの口癖が返ってきたので、それ以上は訊けなかったとのことだ。

「お前ら何ごちゃごちゃ言ってんだよ。そんなの直接やってみりゃ判るだろ?」

 じれったくて見てられないというように言ったイノリは、ずんずんとあかねの部屋の方へと歩いていく。

 皆、何をするつもりなのだろうかと顔を見合わせると、丁度泰明があかねの部屋から出て来た。

 その無駄のない動きはやはり普段と変わらない証に思える。

「……イノリ?」

 泰明はやって来るイノリの存在に気づくが、彼の考えていることまでは見抜けなかった。

 そのまま自分の後ろへと回るイノリを見送る。

 と、突如。


 ドンッ――!


 イノリは両手で泰明の背を力一杯、押した。

 押した、と言うより突き飛ばしたと言った方が正しいかもしれない。

『なっ……ッ!?』

 押した張本人と押された本人以外の目撃者の心に稲妻が駆け抜ける。

 サ――ッと血の気が引いていくような気にさえなった。

 突然の不測の事態にがっくりと片膝をついた泰明は、暫しの沈黙のあと、ゆっくりと振り返り、

「………何をする」

 この上なく強い冷気を秘めた琥珀と翡翠の視線をイノリへと向けた。

「お前、やっぱ痛いんじゃん?」

 しかしイノリの態度のあっさりしたこと。

 怖いもの知らずな彼の言った『直接やってみりゃ判る』とはこういうことだった。

「おーい、! やっぱり治ってねぇぞ!」

「えっ!? あっ、えっと…!」

 は気まずい雰囲気と未だ変わらぬままよこされた泰明の視線に、どう答えたらいいかわからず戸惑う。

 が、泰明の怪我を治さねばと思い、「はい…!」と頷いて駆け寄った。





 穏やかな中に引き締まったものを表情に秘めた天の白虎は、星の姫の館を訪れた際、丁度天の青龍である武士と出会った。

「頼久、怪我の方はもうよいのですか?」

「はい。ご心配をおかけ致しました」

 律儀に謝ってくる頼久に鷹通は気にしないよう伝えると、彼と共に神子の部屋へと向かう。

「あ、鷹通さん!」

「頼久!」

 やって来た二人に気がついた詩紋とイノリがそれぞれの名を口にした。

 そして先程の鷹通と同様、頼久に怪我の具合を尋ねる。

 すると、まだ本調子ではないが、回復した早々左大臣家に仕える武士としての仕事を終えてきたという。

 朱雀の少年達や、あかねはさすがだとは思ったが、治ったばかりで無茶ではないかと心配になった。

「ところで、皆さんお揃いですか?」

 大体集まっているその場を見回して、鷹通が問いかける。

「友雅さんと永泉さんは、まだ来てませんよ」

「泰明は来てるが、今は別室で治療中だ」

「治療中…とはどういうことですか?」

 の言った二人のことならともかく、天真の言った『治療中』というのがわからなくて、鷹通は訊き返した。



 ――碧色の光がゆっくりとおさまる。

「……はい、これでいいですよ」

 地の玄武の背に負われていた傷を癒やし終えたは藍色の双眸を開いて微笑んだ。

「…すまない」

 装束を元に戻しながら一言、紡ぐ泰明。

 その言い回しは前に火傷を治された際とほぼ同じような感じだった。

「気にしないで下さい。……あの、泰明さん。これからも、怪我をしたらちゃんと言って下さいね」

 ちゃんと治しますから――と、そう続けるを色の異なった瞳に映した泰明が何も答えぬままでいると…。

「泰明殿?」

 庭の方から天の白虎である青年に名を呼ばれた。

「あ…鷹通さん、おはようございます」

 挨拶してきたに、鷹通は穏やかに挨拶を返してから、泰明に視線を戻す。

「お怪我をなさっていたそうですね。昨日お会いした刻は気づけませんでしたが、大丈夫なのですか?」

「問題ない」

 瞬時に返ってきた答えと、横に居る空癒の少女を見て、「そのようですね」と鷹通は穏やかに微笑んだ。

「調べはついたのか?」

 そんな鷹通とはうって変わった冷めた声で泰明は問う。

 鷹通も表情を改めた。

「ええ。やはり昨日伺った通り――泰明殿と永泉様のお考え通りだったようです。怨霊・幽魔とその被害についてを、今、神子殿や皆に話して来ました。殿に『予知』のお願いも…」

 ――確か泰明は昨日、怪我したあと安倍晴明邸に帰った筈だったが、それなのに鷹通に会いに行ったのだろうか…と、話を聞きながら考えていたは、ふと出てきた親友の名に「え?」と反応した。

「私は友雅殿にお伝えするためにも内裏に戻ります。仕事もありますので」

「わかった」

 が『?』マークを飛び交わせている中、話を終えた鷹通は己が務める内裏の治部省へと帰って行った…。

「あの…泰明さん、怨霊……幽魔って何ですか?」

 おずおずとが訊いてみると、泰明は彼女を双眸に捕らえたまま何かを考え込むように沈黙する。

 そんな泰明の態度には更に戸惑ってしまう――が、暫しして泰明は口を開いた。

「……幽魔は最近出現するようになった怨霊だ。私と永泉が初めて察知した日、イノリと共にお前も河原院の近くで遭遇した」

「あ…あの黒くて小さくて、いっぱいいた…あれですね」

 の言葉に「そうだ」と答え、泰明は続ける。

「幽魔は人に取り憑く。人の中の負の感情に取り憑きそれを増幅させ、その人間の精神を喰い尽くす」

「そ……そんな…ことが…」

 泰明はまるで書いてあるものをただ読み上げるように淡々と語るが、は身体が震え出すのを感じた。

「お師匠の書により、幽魔の名と存在を知っていた私は昨日、京で幽魔の被害が出ていないかを鷹通に問うたのだ」

 そしてその結果――幽魔の被害は出ていたようだった…。

「人の負の感情って……悲しいとか、辛いとか…そうゆう気持ちですよね」

 両肩を微かに震わせて言うに、泰明は「そうなのだろう」と答える。

「そういった感情に取り憑き増やし、やがてはその人間を破滅させる」

 初めから終わりまで、説明の間、泰明の表情は凪いだままだった。

「そんな……そんなの…ひどい…!」

 俯いて静かに怒りを表すを、泰明は黙って見つめる。

「泰明さん、私にも協力させて…」

「必要ない」

 の言葉を泰明はハッキリと遮り、言い切った。

「え…」

「これに関してはの助力を得て我々が調査、対処する。お前はお前に出来ることをすればいい」

「…私に…出来ること…?」

「お前は空癒の少女だ」


 ――その刻、の中で何かが割れる音が響いた。


「……そう…ですね。私は、空の勾玉を見つけることと、治癒すること……それでしか、みんなの役に立てないですよね」

「そうは言ってない」

「いいんです。じゃあ、私、失礼します」

 泰明の、無表情ながらも言われた言葉を振り切って。

 は不自然な、無理矢理な笑顔を見せて、泰明の前から走り去っていった。

「………」

 無言のままの背を見送り、やがてそれが見えなくなっても、泰明はその場で沈黙して同じ方向を見つめていた。







「あれ…?」

 ふと、はある人物がいないことに気がついた。

 怨霊・幽魔の話を聞き終えた天地の朱雀は京の町の見回りに行き、頼久は主である神子に「今日はこれ以上無茶しちゃ駄目です」と言われて休養中なのだが…。

「天真くん、どこ行ったんだろう…?」

 地の青龍の姿が見えないのだ。

 鷹通から話を聞いていた刻は確かに居たが――と、その刻。

(――あ…!)

 時見の力により、の頭の中にある情景が浮かぶ。

(ここって将軍塚…? あ、天真くん!)

 それは地の青龍が、京全体を見おろせる丘に佇んでいる光景だった。

(天真くん、将軍塚に行ったの?)

 と、がそう思った次の瞬間、突然黒き怨霊・幽魔が現れる――!?

(あっ! 危ない、天真くん――――!!)

 双眸を開き、現実に返ったは慌てて走り出し、将軍塚へと向かう――。





 ――天の白虎である青年は内裏へ向かう途中、ふと人の声が途切れたその人気の無い場所で、足を止めて溜め息を漏らした。

「どうしたんだい、鷹通? 何かお悩み事かな」

 そこを通り掛かった地の白虎が、生真面目な顔立ちを俯かせた相方に声をかける。

「友雅殿、丁度良かった。お話があるのですが…」

 顔を上げていつもの穏やかさに戻った鷹通から話された内容は、先程皆の耳にも入った怨霊・幽魔のことだった。

「そうか……では、この事は私から帝にご報告しておこう」

「お願いします」

「ところで鷹通。それが、こんな所で立ち止まって溜め息をついた理由だったのかい?」

 すかさずそう尋ねられた鷹通は「え、ええ…」と少し戸惑って頷く。

「……まったく無関係とも言えませんからね。実は…殿のことなのです。怨霊・幽魔の予知をお願いした刻、一瞬、殿の表情が曇られたような気がして……私の思い過ごしだと良いのですが…」

 初めは「ふぅん…」と真顔をしていた友雅だったが、

「君もようやく女性の些細な変化を見抜けるようになったのだねぇ…」

 すぐにそれは崩れ、からかうような表情になる。

「友雅殿っ、私は真剣に殿を心配しているんです」

 真っ直ぐな瞳をしてくる鷹通に、友雅は「わかってるよ」と軽く笑って答える。

「用が済んだら藤姫の館へ行く予定だから、その時に様子をお伺いしてみよう」

 そう言って去っていく友雅に、鷹通は「お願い致します」と呟き、その背を見送った。






 藤姫の館を飛び出した空癒の少女の姿は、東寺の近くに在った。

 何故そこまで来たかと言うと、泰明にああ言われたために『自分に出来ること=治癒』、『今治癒が必要な人=まだ治りきっていない頼久』、『空の勾玉を持つ永泉やイノリが居てくれれば』という結論に達したからである。

 二人の八葉がどこに居るか判らないが、どうしても館から――泰明の前から逃げたくて、前にイノリが案内してくれたこの辺りまでやって来たのだ。

「……ふぅ…あんな態度しちゃって、泰明さんに悪いことしちゃったかなぁ…」

 道端で小さく咲く花を、しゃがんで見つめながらは呟く。

「…でも……泰明さん、あんな言い方するんだもの……!」

 ――泰明はに、他にも出来ることがあるだろう、という風に言ったつもりなのかもしれない。

 だがには、それしか出来ないという風に聞き取れてしまったのだ。

 そして……。

『――必要ない――』

 あの言の葉が、の心に深く突き刺さる。

(……私の、力って……!)

 己が持つ力に、は今まで以上に疑問と不満を抱いた……。



「おや? あれは…殿ではないか」

 ――丁度その刻、鷹通と別れてその場所を通り掛かった友雅が、道端にしゃがみ込んでいるを発見した。

「やぁ、空癒の君。ご機嫌麗…しくないみたいだね。何かあったのかな?」

 の顔を覗き込んで、友雅は尋ねる。

「え? あ、友雅さん…!?」

 いつの間にかそばに来ていた友雅に、は驚いて立ち上がる。

「ごめんなさい、何でもないんです」

「何でもない…という顔ではなかったように見えたけどねぇ」

 ――この人の前では、隠し事なんて出来ないかもしれない――。

 そう思いながら、しかし泰明のことを言うわけにはいかない気がしたは、ここへ来た本来の理由を思い出す。

「えっと、あの……よ、頼久さんがまだ完全に治ったわけじゃないみたいなんです…! それで、頼久さんを治癒するのに、勾玉を持ってる永泉さんやイノリくんも一緒に居てくれるといいかなと思ってここまで来たんですけど…!」

「ふぅん…。確かに、永泉様なら今この東寺にいらっしゃると思うが、何ならお呼びして来ようか…――ん? おや、泰明殿」

 言いかけて、友雅は向こうから来る泰明に気がついた。

「え…!?」

 驚いて振り向く

 すると本当に泰明がこちらに歩いてくる。

「あ…あの、友雅さん。いいです、私、自分で永泉さん探しに行きます! それじゃ…!」

 まるで逃げるように、は友雅の前からも走り去ってしまった。

 走っていくを見ても特に歩くペースを変えずに、泰明は先程までがいた場所まで来ると、立ち止まる。

「………」

 そして、また沈黙しての走り去った方向を見つめた。

「おやおや。どうやら原因は君のようだね、泰明殿」

「何のことだ」

殿のことだよ。随分とふさぎ込んでおられたが…。先程の君に対しての態度といい、何かあったのではないかな?」

 友雅の言葉に、泰明はまた少し無言になると、

「……別に。怨霊・幽魔の件に協力を申し出てきたので断っただけだ」

 いつもの感情こもらぬ声で答えた。

「断った?」

「ああ。必要がなかった」

「……まさか、そう言ったのかい?」

「言った。必要ないものは、必要ない」

 有無を言わさぬ物言いでそれだけ言うと、泰明は怨霊・幽魔がよく出没する南東――巽の方角を見据える。

「怨霊・幽魔は他の怨霊と比べて不明点が多い。これに下手に関わるのは危険だ。だからやめさせた」

 ああ、成る程……と、友雅は納得しかけたが、ふと気になったことを泰明に尋ねる。

「…泰明殿、それは言ったかい? その、理由の辺りを」

「言ってない。必要がなかった」

 泰明のそのあっさりとした態度に、さすがの友雅も溜め息をついてしまった。

「必要大ありだよ、一番大事なところじゃないか…。まったく、言うべきことと言わざるべきことが逆だよ、泰明殿…」

「そうなのか?」

「そうだろう。それに『必要ない』など、誰もが言われて嬉しい言葉ではないと思うよ。特にあのくらいの年頃の少女には…ね」

「………そうか」

「ところで、泰明殿。殿に謝りに来たのではなさそうだが、どうしてここに?」

をひとりで行かせるのは危険だと思ったのだ」

「成る程…ね。なら、追ってあげなさい。そしてなぜ必要ないと言ったかを説明してあげるといい。ついでに謝ることもお勧めするよ。それでは、私はこれで」

「………」

 軽く手を振って去っていく友雅を一瞥して、泰明はの後を追うべく歩き出した。