第四章 両刃の疾風‐かぜ‐
《前編》
――――気がつくと、周りは深い闇に覆われていた。
『――呪いだ』
闇の狭間から、低い嘲笑の声が響いてくる。
(い…痛い…!)
それは少女の身体に――頭にまで響き、苦痛をもたらした。
『その刻印は時と共に次第に広がる。やがて掌全体に広がったその刻は――時見の者よ。お前自身がその呪いに飲み込まれるであろう』
(この声は……!?)
少女は、その声に聞き覚えがあった。
『せいぜい足掻くのだな――』
(嫌…! 誰か…――!)
恐怖感に満ちた少女は闇の中でぎゅっと瞳を閉じた。
「――――……?」
少女――が瞳を開くと、そこはもう闇の中ではなかった。
まだ陽は射し込まぬ朝未きだが――ここは星の姫の館に宛われたの部屋だ。
「……夢…だったの…?」
額に薄らと滲んだ汗を拭おうとした時、ふとそこに誰かの気配を感じた。
そちらに視線を向けてみると――。
「………」
親友である少女が、横たわるのそばに居た。
少し疲れたように瞳を閉じ、微かな寝息を立てて眠っている。
(ずっと、居てくれたんだ……)
そう思って右手がの髪に触れるぐらい近づいた、その刻。
「あ……」
右手に白い包帯が巻かれていることに気づいた。
すると――!
「あっ、熱っ!!」
突然『それ』は目覚めた。
は右掌が爆発したように感じた。
巻かれている包帯が瞬時にちぎれていく…!
「……ん………ちゃん……――っ!?」
ただならないその気配にも目を覚ました。
――風が入り込む――!
「なっ!? 何…っ!? 何これ!?」
は何が起きたのか理解できず愕然とした。
四方八方から、部屋の御簾を突き抜けて風が激しく吹き込んでくる。
いや、それだけでは無かった。
――吹き込んでくる風の矛先が、の右掌なのだ…!
の右手は、もはやの言うことなど全く聞かない。
ただを翻弄し、荒れ狂う風を巻き起こし、辺りの物をどんどん吸い込んでいく…!
「いっ、嫌…! やめ…っ!!」
必死に右手を自分の左手で掴み、押さえようとするがその努力は無に帰される。
「ちゃ…!」
も何が起きているのか理解できなかったが、苦しむ親友を放っておくことなどできず、慌ててに駆け寄ろうとする――が。
強い力で腕を掴まれ、ぐいっと後ろへ引き戻された。
「え…!?」
誰なのかと胸中で呟くの瞳に映ったのは、鶯色の髪の青年――。
「下がっていろ」
に一瞥もくれず、ただそれだけ鋭く言い放ったのは泰明だった。
――泰明はこうなるであろうと予め予測をしており、刻印がと共に目覚めた刻のために部屋の外に控えていたのである。
「泰明…さん…?」
瞳を見開くが呟いた名を持つ陰陽師は、吹き荒れる風を呼び込むの右手を、彼女の後ろからぐっと掴んだ。
「やっ…泰明さん…!?」
は突然のことに驚く。
「泰明さんっ、放して下さい…!」
部屋中の物を吸い込もうとするこの異常な力が、彼にも及んでほしくないはそう叫んだ。
「黙っていろ」
しかし泰明から返ってきたのはそれだけだ。
「…この場凌ぎにしかならぬが、呪いを封じる。気を静めろ」
の右手を掴んだまま、左手で懐から一枚の札を取り出した。
気を静めろと言われてもこんな状況下でどうすればいいか解らないだが、取りあえず瞳を閉じる。
泰明は低い声で短く呪文を唱えると…。
「――――鎮守結界呪符!」
の右掌に――黒き刻印の上に鎮守の札を貼り付けた。
すると――の右掌から、風が止まる…。
「、包帯を」
札をの右掌に押さえたまま、泰明は後ろで呆然とするに言った。
「はっ、はい!」
ハッと我に返ったは、急いで替えの包帯を取り出す。
「……泰明さん…?」
段々と吐息が穏やかになっていくに名を呼ばれた泰明は、が持ってきた包帯での右掌を札ごと巻き付けていく。
と、そこへ――。
「失礼致します、殿…!」
「ちゃん、ちゃん、大丈夫!?」
この場での物音を聞きつけた頼久とあかねがの部屋に飛び込んできた。
「これは一体…!?」
まだ夜の明けきらない時刻だというのに、すでにいつもの武士装束姿の頼久は、の部屋内の荒れようを見て驚いた。
例え盗人が入ろうともここまでいかない。
大自然の力の内のひとつが暴走した結果である。
「泰明さん…! これがちゃんにかけられた呪いなの…!?」
あかねがそう問いかけた時、丁度泰明はの包帯を巻き終わり、最後の仕上げというようにぎゅっときつく結び目をつくった。
その瞬間、「うっ…!」との表情が硬くなる。
にとってそれは巻かれたと言うより縛られたも同然だった。
「……予測はしていた」
泰明は微かに乱れた息を整えるために一度だけ深呼吸をすると、静かに立ち上がる。
「取りあえず呪いは抑えた。だがこれは所詮、一時的な気休めに過ぎぬ。私に出来るのはこの程度だ」
普段自信に満ちあふれている泰明(無自覚)から零れた、おそらく初めての言葉にとは勿論、あかねと頼久の心に張り詰めたものが走った。
「そんな……それじゃ…どうすれば…!?」
藍色の双眸を潤ませながら問うの言葉に泰明は暫し黙すると、
「こうなれば、お師匠に頼む他無い」
そう言ってきびすを返し、部屋を出るべく歩き出す。
「え…? 泰明さんのお師匠って…」
「確か…」
とが言いかけて顔を見合わせると、泰明がすっと立ち止まり振り返る。
「我が師は最高最強の陰陽師、安倍晴明様だ」
そう言われてとは再び顔を見合わせる。
確かに泰明はふたりに初めて名を名乗った刻、こう言った。
『私は地の玄武、安倍泰明。安倍晴明様を師に持つ陰陽師だ』、と――。
――朝靄が立ちこめる。
淡い陽射しと冷気が交うその中、龍神の神子と時見、空癒の少女両名は地の玄武の先立つ案内に何とか追いつきながら左京一条に建つそこへ到着した。
泰明の師匠、稀代の陰陽師――安倍晴明が住まう屋敷である…。
木目込み造りの門を通ると、ひとつの世界が開けたようだった。
屋敷や庭の造りが変わっているわけでは無いのだが、そう感じるほど独特な雰囲気に包まれているのである。
(あ……)
屋敷への歩み中、庭のとある場所が空癒の少女の瞳に止まった。
(あれは…――?)
――屋敷の中の長い廊下。
慣れた速さで歩く泰明と、後ろに続く少女達はその途中でひとりの青年に出逢う。
齢の頃は泰明よりも少し上だろうか。
漆黒の髪をしたその青年は白金色の双眸に泰明達を一度映すなり穏やかに微笑んだ。
「やぁお帰り、泰明。式神は届いたよ。今、準備を整えているところだ」
「そうか」
にこやかに話すその青年に、泰明は対照的無表情で答える。
「泰明さん、式神って…?」
青年の言葉の中でふと気になったことをあかねが尋ねた。
泰明の答えでは、こちらへ向かう前に事の次第を式神で伝えておいたとのことだった。
常に効率的な考えを持つ彼らしいことだ。
あかねがそう感心した刻、の視線が自然に青年へと向かい――丁度彼の視線ともぶつかった。
「あ、あの…!」
それにが少し慌てたような顔をすると、青年は再び微笑む。
「お初にお目にかかります。私は安倍晴明様の一族の端に連なる者で、名を安倍空明と申します」
柔らかな声で丁寧に自身を名乗った青年――空明は礼儀正しく一礼した。
「はっ、初めましてっ、元宮あかねです…! りゅ、龍神の神子です」
「お、同じく初めまして、星風寺です…! えっと、時見の少女…って呼ばれてます」
空明のあまりの丁寧さに驚きが入り混じって、わたわたと自己紹介するあかねと。
「よろしくお願い致します、あかね殿、殿」
その様子に空明はくすっと笑みを漏らした。
「ところで泰明」
と、唐突に空明は泰明の方へ振り返る。
「時見の少女殿は未来を予知する力をお持ちで、空癒の少女殿は人の傷を癒やす力をお持ちだと聞いたのだけれど…」
「そうだが」
何か? と訊き返すような顔をする泰明に、空明はこれまたにっこりと微笑んで、
「空癒の少女殿はご自分の姿を消す力までお持ちなのかい?」
後ろを振り向くよう促すべく、視線を向けて問うた。
とあかねが驚いて「えっ!?」と横を見ると、
「嘘っ、!?」
「ちゃん、いつの間に!?」
本当に空癒の少女の姿は、影も形も無かった。
今の今まで全然気づかなかったことに首を傾げる少女達。
――あかねももこの屋敷に入った時点からこの上なく緊張していたのだろう。
しかし泰明も気づかなかったとは、余程自然に居なくなったものと思われる。
泰明は微かに溜め息をつくと、
「…それは無い」
に自身の姿を消す力など無いと、顔をしかめて言った。
空明は「そうだよね」と微笑を繰り返す。
「探してくる。兄弟子、神子とを頼む」
「わかった、お任せ頂こう」
空明がそう答えたのを聞いて、泰明は元来た方を戻るべく歩いて行った…。
と、あかねとは時が止まったかのように呆然とする。
「すみませんが、式の準備がまだ整っていないのでそれまで別室でお待ち頂きたいのですが…よろしいですか?」
空明がそう尋ねるとようやくあかねとの停止状態が解けていく。
「は、はぁ…」
「それは構いませんが…」
しかし、やはり未だ呆然としているように見える。
「あの、何か気になることでも?」
空明は穏やかな表情は崩さないが、二人の少女の視線を一身に受けている故、少し戸惑うように訊いた。
「あ、ごめんなさい…!」
それに気づいたあかねとは同時に謝る。
空明が「いえ、お気になさらず」と答えると、二人の少女達は一度顔を見合わせて。
「今…『兄弟子』って聞こえたんですけど…」
おずおずとが疑問を口にした。
空明は一瞬、白金の瞳を瞬きさせるが、にっこりと微笑む。
「ええ、そうですよ。私は泰明の兄弟子をしております」
「そ、そうなんですか……!?」
あかねもも更なる驚きを隠せなかった。
(だって態度が…!!)
まるで逆――と思ったのだが、それはさすがに心の中にとどめておいた二人だった…。
――朝の涼しい微風が吹き抜ける。
そんな優しい風に胡桃色の髪を靡かせながら、少女――はふと足を止めた。
彼女の前には白い蕾をつけた沢山の花が、在る。
(……綺麗…)
微風にゆれる可憐な白き蕾の花を藍の瞳に映し、胸中で呟く。
と、その刻――。
「どうなさったんですか?」
風にまぎれて、少年の声が聴こえた。
「え……?」
が振り返ると、そこには――ひとりの少年が居た。
――彼は、一瞬見惚れる程の綺麗な青い瞳をしていた。
雨上がりの空を映す水面のような青い瞳――。
「……あ、あの…えっと…!」
ようやくは我に返った。
今まで庭の白い花や、少年の瞳の美しさに見惚れていたが、気がつけばもあかねも、泰明も居ない。
彼らから勝手に離れ、こんな所にひとりで居れば怪しまれるのも当然だ。
「わ、私…あの、雫月っていいます…! えっと…!」
取りあえず名乗るがここにいる説明をどうしようかと頭を悩ませる。
すると、少年は――にこっと微笑み、
「殿ですか。僕は安倍楼明と申します」
薄茶色の髪をした頭をぺこっと下げた。
「た…たかあきくん…?」
が確認するように訊くと、少年――楼明は「はい」と頷く。
「私……あの、安倍泰明さんってわかる? その人や友達と一緒に来たんだけど…」
「泰明兄様と? ――ああ、ではあなたが空癒の少女の殿なんですね」
のぎこちない説明を聞きながら、楼明はぽん、と軽く手を打った。
「泰明…あにさま?」
「あ、僕、安倍晴明様の弟子なんです。僕の方が泰明兄様より弟子になったのは先なんですけど、歳は僕の方が下なのでそう呼んでいるんです」
楼明は未だ不思議そうな顔をしているに、心底嬉しそうに話した。
「ですが、泰明兄様と一緒に参られたあなたが…どうしてここに、ひとりでおられるんですか?」
「う、うん……途中までは一緒だったんだけど、そこの花がとても綺麗だったから見とれちゃってたの」
少し恥ずかしげに「そうしてたらはぐれちゃったみたい…!」と話すを、楼明は大きな水色の瞳でじっと見つめる。
「……この花ですか?」
そしてのすぐそばに在る白き花を指して尋ねた。
「うん。蕾だし名前も判らないけど……綺麗で、何だか懐かしい感じがして…」
そう答えながら花に笑顔を向けるを、楼明は暫し驚いたように見つめる――が。
「……これは月見草っていうんですよ。夕方に咲くんです」
次の瞬間には先程と同じ少年らしい表情に戻っていた。
「へぇ…これが月見草? 名前は知ってたけど実際に見たこと無かったの」
が嬉しそうに表情をほころばせた――その刻。
「ここにいたのか、」
聞き覚えのある低い声が響いた。
「や、泰明さん……!」
は心臓が跳ね上がるのを感じて振り返る。
するとそこには毎度無表情の地の玄武が佇んでいた。
「泰明兄様!」
半ば硬直状態のとはうって変わった明るさで、楼明は泰明の元へ駆け寄っていく。
「お前が見つけてくれたのか、楼明」
「はい…と言うより、初めから殿はここにいらして、そこを僕がたまたま通りかかっただけですけど」
にこにこと微笑みながらの楼明に「そうか」と答えると、泰明は琥珀と翡翠の瞳をに向ける。
「あ、あの、ごめんなさい…! 勝手なことしてご迷惑おかけしちゃって…!」
それと視線がぶつかったは慌てて謝り、頭を下げた。
泰明が何かを言おうとするが、それより早く楼明が「兄様」と呼ぶ。
「殿が、あの月見草を見て懐かしい感じがするっておっしゃったんだ」
そして先程あったことを話した。
「……、本当にそう感じたのか?」
すると泰明の表情に一滴の驚きが浮かび上がる。
「は、はい……月見草を見るのは初めてなのに、何となくそう思って…」
おかげではぐれちゃいましたけど…と、続けるだが、おそらくその辺は泰明の耳に届いていない。
「……わかった。あとでお師匠に伝えておく」
泰明のその言葉には不思議そうな顔をするが、楼明はしっかりと頷いた。
「では行くぞ、。神子とも待っている」
「は、はい…!」
ようやく当初の目的を思い出し、は慌てて頷く。
「それでは殿、僕はここで失礼します。またお会いできるといいですね」
「うん。色々とありがとう、楼明くん」
そう言って泰明の後を追うに楼明は明るく手を振って見送った。
