第五章   喪失の予感





 灰色の空にもかかわらず、夢の守護聖は陽気な鼻歌を風にのせていた。たとえどんな状況であろうとも、心の余裕を失ってはならない。オリヴィエは常にそれを心がけ、実践しているつもりだ。もっとも、そのせいで彼のことを知らぬ者からは「緊張感が足りない」と眉をしかめられることもあるが、本人は気にしていない。
「あら?」
 前方を見慣れた人物が歩いていた。豊かな水色の髪を風に遊ばせながら、視線を左右に走らせ、何かを探している風情だ。
「リュミちゃん、どうしたの?」
 声をかけられたことで、初めてオリヴィエの存在に気づいたのだろう。リュミエールは驚いたように振り返った。
「あぁ、オリヴィエ……」
 水の守護聖の表情には、沈鬱なものがたゆたっている。無論、それを見逃すようなオリヴィエではない。
「一体どうしたのさ? さっきから何か探しているみたいだったけれど、気になることでもあるの?」
「オリヴィエ、あの、マルセルを見かけませんでしたか?」
「マルセル? いいや、今日は見かけていないけれど……あの子がどうかしたの?」
 リュミエールは、自分が感じた奇妙な気配について語った。そして最後に、自身の考えをつけ加える。
「どうも胸騒ぎがするのです。そして、それがマルセルに関わっているような、そんな気がしてなりません。わたくしの杞憂であれば、よいのですが……」
 執務を行おうにも、まるで集中できない。ならば最年少の守護聖の無事な姿を見て、自身を安心させようと捜しているのだが、どこにもいない。胸中に凝る不安は、だんだんとその面積をひろげていくばかりだ。
 オリヴィエはダーク・ブルーの瞳をわずかに眇め、思案顔になった。同じ守護聖として長い間つきあってきた身である。目の前にいる友人がこういったことを言う時は、何かしらあるのだ。
「わかった。マルセルのことは、私も注意してみるから、そんな顔しなさんな。ね?」
 明るい笑顔につられたように、リュミエールはわずかに肩の力を抜く。
「ありがとう、オリヴィエ」
「やーね、改まっちゃって。私たちは同じ守護聖じゃない。他人じゃないのよ」
「そうでしたね」
 ようやくリュミエールは笑った。見る者の心を和ませる、あたたかい笑顔だ。それを見、夢の守護聖は口元に微笑をたたえた。
「やっと笑ったね。やっぱり、あんたはそうしてた方がいいよ」
「そうでしょうか」
「そうよ」
 不安は不安を、焦りは焦りを呼ぶ。現実に起こってほしくないことは、そうなるなと願うほどに起こるものだ。ならば、何が起こっても大丈夫だ、と笑っていた方がいい。いまは臥せっている、あの勇気を運ぶ風を司る少年のように。
「そうですね。わたくしも、ランディを見習わなければ。――話を聴いて下さって、ありがとうございます、オリヴィエ」
 丁寧に一礼し、リュミエールは歩き出した。先ほどまでは背中ごしにも感じられた、あの暗い翳りが消えている。
 それを一安心した様子で見送り、夢の守護聖は独語した。
「さーてと、本当は遊びにいくつもりだったけど……まぁ、いいか。問題の坊やでも、捜しにいくとしますかね」





 地の守護聖の私邸と執務室は、あらゆる種類の書物であふれかえっている、本の森のような場所である。この日、ゼフェルが足を運んだのは私邸の方で、もうだいぶ陽が傾いていた。といっても、雲に遮られていて、地上にいる者からは太陽の正確な位置はわからない。
「なあ、ルヴァ、話があんだけどよぉ」
 地の守護聖は何かの本を読んでいたが、反応があった。
「はいはい、何ですかー?」
 紅玉の瞳をした少年は扉に背を預け、少し考えてから話し始める。
「……マルセルのことなんだ」
「ええ、ええー」
「ランディの所から帰る途中に、オレ、あいつに会ったんだ……」
「そうですかー」
 普段のゼフェルならば、すぐに気づいたであろう。が、この時の彼は、彼なりに思い悩んでおり、それに気づくだけの心理的な余裕もない。故に彼は、さらに語を続けた。
「あいつ……変だった。うまく言えねぇんだけれど、何か、その、ヒトがかわった、っていうか……」
「そうですかー、それは大変ですねー」
「…………」
 そこに至って、ようやくゼフェルは気づいた。胡乱げな眼差しを地の守護聖に送り、さりげなさそうな口調で言う。
「なあ、ルヴァ」
「あー、何ですか?」
「話、聴いてねぇだろ?」
「ええ、そうですねぇ」
「…………」
 血が沸騰しそうになる瞬間とは、こういう場合をいうのかもしれない。顔中の筋肉が音を立ててひきつり、鋼の守護聖である少年は込み上げてくる衝動を必死で抑えねばならなかった。たっぷり五秒間黙り込んでから、絨毯を踏み鳴らしてルヴァの方へと近寄っていく。そして彼の正面に立つと、勢いよく本をとり上げた。
「おい! おっさん!!」
「わわっ!? あ、あぁ、び、びっくりしましたぁ……!? あー、いまいいところだったのに……って、おや、ゼフェル、いつからいたんですか?」
 という具合に、この守護聖は自他ともに認める読書家だが、本を読んでいる間は、他のことがまるで眼中にない。つまり、先ほどのゼフェルの話など、右から左へと綺麗に流されて、彼の頭にはほんのわずかも残されていないのである。
 鋼の守護聖は大きく深呼吸し、怒気を身体の外へと追い出す。本当ならば、やってられるか馬鹿馬鹿しい、と帰るところなのだが、それはしない。それだけ彼は、緑の守護聖である少年のことで、危機感にも似たものを覚えていた。
「あー、一体どうしたんですか?」
 ルヴァは立ち上がるが、その視線はやや宙を泳いでいる。目の前にいる少年が怒っていることぐらい、さすがの彼にもわかる。
「……ったく、仕方ねぇ、もう一度話してやるよ」
「あぁー、ありがとう、ゼフェル」
 ゼフェルが怒って出ていってしまうのではないか。そう考えていたルヴァは、安堵の吐息を洩らした。
「……確かに、マルセルらしくありませんねぇ」
 話を聴き終えた地の守護聖は、その表情を深刻なものにして呟いた。机の上では、自分と年若い守護聖のために用意した茶が、冷めるに任されている。
「そう思うだろ。オレもあの後、マルセルを捜してみたんだが、あいつ、どこにもいねぇんだ。私邸にも、執務室にも」
「ランディの所はどうです?」
「いってみた。でも、きてねぇ、って。とにかく――何かイヤな感じがするんだよ」
 もっとも、単なる勘にすぎないが。どことも知れぬ虚空に視線をすえ、紅玉の双眸を持つ少年は言う。だが、この少年の勘は、とてもよく当たる。それはルヴァだけでなく、他の守護聖も認めていることでもある。
「あー、知らせてくれて、ありがとう、ゼフェル」
「礼を言われるようなことはしてねぇよ。ただ、気になっただけだ」
 ゼフェルは少しばかり照れたように笑う。面と向かって礼を言われた時、素直にそれを受けとれる者と、照れる者がいるが、彼の場合は後者であった。
 帰途、ゼフェルは何気なく紅玉の双眸を空に向けた。そこにはランディの部屋で見た、蒼っぽい色をした鳥がいる。
「あいつ、まだいたのか。還る場所がねぇのかな……」
 ――翼がほしい。
 そう思ったことが、何度あるだろうか。すきあらば、聖地を抜け出そうとする彼にとって、翼は憧れのものだ。鳥や翼は自由の象徴とされているから。
 だが、とこの時のゼフェルは思った。
 あの鳥は、確かに美しく他のどんなそれよりも気高く見える。が、同時にどこか寂しげだ。仲間も、還る場所もなく、自分の居場所すら定まっていないものが、本当に自由といえるのだろうか――。
 少年の思いをよそに、鳥は深さを増す空の彼方へと、その姿を溶け込ませていった。
 ――逢魔が刻。





 リュミエールは、公園の噴水にひとり腰を下ろしていた。手にしていた竪琴をつま弾くでもなく、黙然と足元を見つめている。
 オリヴィエと別れてから、思いあたる場所をまわってみたが、とうとう緑の守護聖である少年をみつけることはできなかった。それが、重く胸をふさいでくる。
「こんなことではいけない、と、わかっているのですけれどね……」
 悪い考えは、それを現実に呼び込む。そう夢の守護聖に言われたばかりではないか。水の守護聖の白く細い指が、竪琴の弦を軽く弾いた。余韻が大気の奥に消えると、再び静寂が訪れる。
 と、間近で鳥の鳴声がした。
「――!?」
 驚いてそちらに視線をめぐらせれば、いつからそこにいたのか、彼のちょうど隣に、蒼い鳥がいた。よくよく目を凝らせば、ほのかに全身が輝いて見える。
「……いつの間に」
 水色の双瞳を見開く守護聖に、鳥はその美しい両翼をひろげ、ひとつ鳴いてみせる。
 いかに守護聖といえども、リュミエールに鳥の言葉を理解する能力はない。が、何故かこの時の彼には、眼前にいる鳥が何を言っているのか、わかった気がした。視線を竪琴へと落とす。
「これを……弾いてほしいのですか……?」
 そのとおり、とばかりに、鳥が小さく声を上げる。その美しく澄んだ鳴声が、リュミエールが抱いていた不安を、彼方へと運び去ったようであった。水の守護聖である青年は嬉しそうに微笑む。
「いいですよ。珍しい方が聴きにいらしてくれて、わたくしも嬉しいです。では、ご要望にお応えして――」
 流麗な調べが、大気を静かに揺らし始める。夜色に染まりつつある公園を、竪琴のやわらかな音色が染み入るように、ゆっくりと不可視の手で包み込んでいく。
 竪琴をつま弾きつつ、奏者は聴者を見やった。いや、相手は人ではなく、鳥であるから「聴鳥」とでもいうべきなのかもしれないが。ともかく、見れば見るほど、美しい鳥であった。賢さを宿した瞳に、ほのかに輝く蒼く優美な身体。
 ――故郷の海に似ているのかもしれない……。
 リュミエールの出身は、海洋惑星――海に囲まれた星だ。うっとりと調べに聴き入っている感のある鳥は、その海を思わせた。胸中にあたたかいものが満ちていく。
 本当に、不思議な鳥だ。
 水の守護聖は手を動かしつつ、瞼を落とした。閉ざされた視界の向こうに、懐かしい故郷の海を、彼は見たような気がした。





 竪琴の音が聞こえたような気がして、ランディは上体を起こした。窓から見える外は暗さを増し、どこか禍々しくも見える。と、そこまで考えたところで、少年は苦笑混じりに頭を振った。先日の一件以来、ことあるごとに暗い思考にはまり込んでしまう。
「しっかりしろ。俺は勇気を運ぶ風の守護聖。不安にとりつかれてどうする」
 心の中で己を叱咤し、ランディは再び横になろうとした。が――。
『――ラ……ディ……』
「――!? この声はっ……!?」
 風の守護聖は弾かれたように周囲を見回した。だが、最初の呼びかけ以降は単なる音としてしか、耳に入ってこない。どうすればいい。焦れたように唇を噛み――ふと、心にある考えが浮かぶ。無駄かもしれないが、やってみる価値は充分にあるように思われた。
 ランディは背筋を正すと、鮮やかな色の瞳に幕をおろす。大きく深呼吸し、心を鎮め、精神を集中させる。細く、鋭く、どんな些細なことも逃さないように。
 ――彼の声は、心にとどくもの。ならば、心で受け止めればいいのではないか。
 そう考えたのだが、どうやら当たっていたらしい。それまでただの音であったものが、確かな言葉へと結ばれていく。
『……ランディ……聴こえるかい……?』
「はい、聴こえます。あなたの声が」
 少年の唇が、無意識のうちにほころぶ。何度聴いても、不思議な声だ。優しく、あたたかく、それでいて懐かしい。
『よかった……実は、奴が、こちらへきている』
「奴がっ!?」
 笑みが消し飛ぶのは、一瞬であった。ついこの間自分を襲った存在。全ての滅びを望む憎悪の塊のようなそれ――戦慄の波が背筋を駆け下りる。
 はやく皆に知らせなければ――。
 もはや呑気に寝てなどいられない。あれの恐ろしさは、自分が誰よりも知っている。
「くっ……!!」
 ベッドから降り立った途端、両の膝が砕け、青の瞳した少年はたまらず絨毯の上に崩れ落ちた。柔らかい感触が頬を打つ。
「しっかりしてくれよ……! 俺の身体……!!」
 震える腕で上体を起こし、壁づたいに必死で立ち上がる。たったそれだけの動作だというのに、息が上がり始める。いまにも足から力が抜けそうだった。
『頑張れ……ランディ……!』
 鉛のように重い身体が少し軽くなる。あたたかな腕が、自分の身体を支えてくれているような気がした。すぐ傍に、目にこそ映らないが、確かに誰かがいる。
「――ありがとう……」
 本当に、あなたには助けられてばかりだ。
 晴れわたった空を思わせる青い双眸の奥に、蒼銀の輝きが鮮やかに甦っていた。





 自分の私邸まであと少し、という所で、それはゼフェルの前に現れた。
「マルセルじゃねぇか。お前、いままでどこにいってたんだよ……!?」
 捜したんだぜ。怒気と、それを上回る安堵を口調に混ぜて、ゼフェルは言った。
 すみれ色の瞳がゆらりと動き、鋼の守護聖を映す。それを受けた瞬間、紅玉の双眸を持つ少年は何故かぞっとした。
「……どうしたの? ゼフェル?」
「い、いや……」
 おかしい。これは本当に、自分の知っている「マルセル」なのだろうか。ゼフェルの脳裏で、直感とも本能ともつかぬ何かが、警鐘を鳴らし始めている。
「――お前、本当に、マルセルか……!?」
 マルセルは淡い金の髪を揺らした。唇を笑みのかたちに歪める。
「何を言っているの? 僕は、マルセルだよ」
「……違う。てめぇは、マルセルじゃねぇ!」
 ゼフェルは頭を振って叫んだ。
 違う。違う、違う。これは、自分の知っている「マルセル」ではない――!
 顔も声も、表面的には何ひとつおかしな部分はない。だがそれでも、目の前にいる少年は「マルセル」ではないのだ。
「おかしなことを言うね。僕がマルセルじゃなかったら、何だっていうの」
 マルセルはゆっくりと歩を進める。それにあわせて、鋼の守護聖である少年は一歩、二歩と後退していく。認めたくはないが、本能に近い部分が恐怖を感じている。目の前にいる少年の中に、何かがいる。とてつもなく強大で、恐ろしいものが――。
「変だよ、ゼフェル。どうしちゃったのさ」
 金の髪の少年は優しい声を発した。が、ゼフェルは気づいていた。その中に含まれた、静かな狂気に。
「うるせーっ! マルセルに、何をしやがった!?」
 ――ザワリッ、と大気が鳴る。
 それはもはや、正体を隠そうとはしなかった。浮かべられていた少年の顔が消え去り、無限の悪意と嘲笑がそこを支配する。
「……意外に鋭いんだね、鋼の守護聖。でもね、知らない方が身のため、って、ことも世の中にはあるんだよ」
 それまで「マルセル」であった存在は、右手を閃かせた。闇よりも深い、漆黒の光が放たれる。
「うわっ!?」
 避けることもかなわず、鋼の守護聖の身体が吹き飛んだ。そのまま後方にあった木の幹に叩きつけられ、一瞬息が詰まる。
「……かはっ……っ、や、やりやがったな……!!」
 激しく咳き込みながらも、紅玉に宿る光は消えない。亀裂の走った木の幹に手をつき、ゼフェルは何とか立ち上がる。
 いまにも掴みかからんとする少年の、その血気を諫めるように、マルセルの姿をしたそれは、優しい笑顔をつくった。
「あぁ、忘れちゃダメだよ。僕は、『マルセル』だということを」
 打たれたように、ゼフェルの動きがとまる。それを見てとった「マルセル」は、口元に浮かべていた笑みをさらに深くした。
「――馬鹿な奴。こんな身体に構わず攻撃すればいいものを」
 そこで一旦語を区切り、それは顔を歪めた。おぞましい悪意と深刻な憎悪が塗りたくられる。中身が違うだけで、これほどまでに人はかわれるのか、とゼフェルに限らず、見る者全てがそう思ったことだろう。
「優しさ、友情、思いやり、愛……馬鹿馬鹿しい。そんなものが、一体何の役に立つ? 吐き気がするよ。まあ、そういった足枷を持ってくれていた方が、僕も色々とやりやすいのだけれど」
 肩に落ちかかる髪を無造作に払い、「マルセル」は狂気を含んだ優しい笑顔と声をつくりだす。
「彼も、キミみたいに優しいのかな? あの、忌々しい風を司る守護聖は――」
「――!?」
 紅玉の瞳が見開かれ、鋼の守護聖である少年は自身の血の気がひいていく音を聞いた。
「てっ、てめぇっ、まさかランディを……!?」
「察しのとおり、殺してやるよ! 今度こそ、確実にね!」
「やらせるかよ!」
 鋼の守護聖は地を蹴った。いまランディは満足に動くこともできない。襲われれば、ひとたまりもないだろう。それに、彼に「マルセル」を攻撃できるとは思えない。
 ――こいつは、ここで食い止めなければ。
 普段は決して音にしない気持ち。どんなに喧嘩することがあっても、意見があわないことがあっても、それでも、彼は大切な仲間だから――。
「馬鹿がっ!」
「緑の守護聖」は大きく跳びすさり、両腕を薙ぎ払う。爆発する力の渦が、辺り一帯を呑み込んで弾けた。





 闇に包まれた部屋の中で、クラヴィスは黙然と水晶球と対峙していた。
「――!?」
 紫水晶の双眸が、わずかに瞠られる。間髪入れず、水晶球から赤黒い光があふれだし、部屋全体を埋め尽くした。闇の守護聖は思わず顔の前に手をかざす。
「……後手にまわったか……!」
 舌打ちせんばかりに低く呟き、クラヴィスは立ち上がった。
 ――予感が、した。
 何の、と問われても、答えることはできない。それほどに漠然とした予感。

 だが、後になって彼は思うのだ。
 あれは、このことだったのか――と。

 ひとつの心に刻まれた、哀しい痛みとともに。




                     ……To be continued.