第四章   迫りくる魔手





 聖地はとても自然の豊かな所だ。色とりどりの花や草木があふれ、降り注ぐ陽光を受けるとその美しさがさらに増すように見える。が、この日は朝からあいにくの曇り空が天上を覆っていた。太陽は全く顔をみせず、まだ昼にもなっていないのに、すでに夜明け前のような薄暗さである。
「最近、変なお天気……」
 厚い雲に覆われた空を、緑の守護聖である少年はため息混じりに仰いだ。このところ太陽の姿を見ていないように思うのは、きっと気のせいではないだろう。
「おや、マルセルではないですか」
 背後からかけられた声に、マルセルはそちらへと視線を転じる。
「あ、おはようございます、リュミエール様」
「おはよう。あなたも、お散歩ですか?」
 リュミエールは豊かな髪を揺らし、その穏やかな雰囲気にふさわしい声と表情で問うた。
 そんな彼につられてか、マルセルは花が咲くように笑ってみせる。
「はい、ついでにランディの部屋に飾るお花を摘もうと思って」
「それはいいことですね。きっとランディも喜んでくれますよ。気をつけていってらっしゃい」
「はい、ありがとうございます。リュミエール様も、お気をつけて!」
 一礼とともに、元気よく駆け去る背を見送り、リュミエールは歩き出した。が、数歩と進まぬうちに歩みをとめ、視線を周囲に走らせる。水色の双眸に映るものは、草木ぐらいのものだ。
「……気のせい、でしょうか……?」
 小さく独語すると、水の守護聖は再び足を動かし始める。
 彼が立ち去った後、奇妙なことが起こった。草木が、風も吹いていないのに揺れたのである。ザワリ、と不吉にも思える音を発して。それは、悪意あるものの嘲笑のようでもあった。




 マルセルは表情も明るく、花を摘んでいた。すでにその腕の中には、色鮮やかな花々があふれている。
「――!?」
 白い花を摘もうとして伸ばされた手が、急停止した。
 誰かが、自分を見ている――。
 緑の守護聖は辺りを見回した。視線の主らしきものの姿はどこにもないが、確かに何かが自分を見つめている。そんな気がしてならない。
「だっ、誰!? 誰かいるの……!?」
 発する声が、とても自分のものとは思えない。いまにも震えだしそうな足を叱咤して、マルセルは立ち上がった。
 ザワッ、と草木がどよめいた。
 すみれ色の瞳をした少年は、無意識のうちに一歩二歩と後退りする。本能に近い部分が「逃げろ」としきりに警告してくる。できるものならば、そうしたい。いますぐにでも、走ってこの場から逃走したい。だが、本能と意志に反して、足が思うように動かぬ。
 それは緑の守護聖の背後に、急速に迫っていた。血に飢えた鮫が、獲物と定めた相手に牙を剥くように。
「――!?」
 マルセルが振り返る。見開かれた双瞳に映る、禍々しい光。
 灰色の空の下、無数の花びらが飛散した。




 その鳥は、空の、とても高い場所を飛翔していた。
「……鳥……?」
 ベッドの上で上半身を起こしていたランディは、天空を駆ける翼を認める。色は蒼だろうか。はっきりとはわからない。小鳥と呼ぶには少々大きく、灰色の空に、蒼い翼がひときわ鮮やかに浮かび上がっている。
「まさか、あの人、ってことはないよな……」
 先日自分を救ってくれた、あの蒼銀色の鳥――視界におさまる鳥は、どこかそれを彷彿とさせる。が、あれは自分の心の中で出逢った姿であるから、現実の中でも鳥の姿であるとは限らない。とはいえ、「人」と分類される存在だという確証もないわけであるから、ひょっとしたら本当に「鳥」なのかもしれぬ。
「何であれ、俺の決意はかわらないけれど」
 人であろうが、鳥であろうが、意志の疎通さえできれば問題はない。種族の違いなど、この少年にとってはとるに足らないものでしかないのだ。
 と、窓の外を見つめたまま、物思いにふけっている彼を不審に思ったのだろう。「近くまできていたついでに寄った」少年が、声を投げかける。
「どうしたんだよ? また呼び声か?」
 風の守護聖が我に返ったように視線を転じれば、心配そうな色を宿した紅玉の双眸とぶつかる。
 ランディが負の力に襲われてから、すでに二日が経過していた。彼自身が思うよりも心身の消耗は激しく、昨日までは上体を起こすのにも一苦労であった。だが、この日はまだ調子はよい方で、もう二、三日もすれば、自由に歩き回れるぐらいにはなるであろう、と彼は考えている。
「いや、そうじゃないよ。ほら、あの鳥を見ていたんだ」
「鳥?」
 ゼフェルは窓の側に寄り、軽く身を乗り出す。
「あ、本当だ。綺麗な鳥だな」
「ああ、あんな鳥、俺は見たことないよ。ゼフェルはどう?」
「オレもだぜ。あんな鳥が聖地にいたなんてなぁ」
 鋼の守護聖である少年は感歎の声を洩らした。普段はあまり意識していないが、聖地は自然の宝庫である。ある時ふと目をやれば、思いがけない発見があるものだ。もっとも、それは聖地に限らず、あらゆることにいえるが。
 ランディは我知らず、唇の端に笑みを浮かべる。
「マルセルが見たら、喜ぶだろうな」
「違ぇねぇや」
 と、そこで気づいたように、ゼフェルはこの場にはいない守護聖の話を持ち出す。
「そういや、マルセルの奴、今日はまだきてねぇみたいだな」
「あ、そういえば……」
 昨日まで何回も訪れていた少年は、この日はまだ顔をみせていない。ランディは途端に落ち着かないものを感じ、再び窓の外を見やった。今度は下方にひろがる地上を。
 と、控え目に扉が叩かれた。
「はい! どうぞ!」
 ランディの声を受けて、扉が開く。二人はてっきり件の少年かと思ったのだが、そうではなかった。顔を覗かせたのは、頭部をターバンで包んだ青年である。
「何だ、ルヴァかよ」
 予想がはずれた、とばかりに、鋼の守護聖は肩をすくめてみせる。
 聴き方によっては、少々失礼な台詞であったが、ルヴァは気分を害した様子はない。ただ不思議そうに首を傾げただけで。
「は? あー、どうかしたんですかぁ?」
「すみません、ルヴァ様。俺たち、てっきりマルセルだと思ったもので……」
 何故自分が謝っているのだろうか。ランディは脳裏の片隅で疑問には思ったものの、とりあえずそう言っておいた。
「マルセル? 今日はまだきていないんですか?」
 風と鋼の守護聖は、同時に首を縦に振る。
「そうですかぁ。あ、でも、ひょっとしたら、お散歩がてら花でも摘みにいっているのかもしれませんよぉ」
「そうかもしれませんね」
「あいつなら、やってそうだな」
 ルヴァの考えに同意を示しつつも、この時のランディは胸中に何か凝るものを感じていた。もっとも、自分の勘にそれほど自信があるわけではないから、表には出さなかったが。
「と、そろそろオレは帰らせてもらうぜ。一眠りしてぇんだ」
「一眠り?」
 青の瞳を瞬かせ、風の守護聖は鸚鵡返しに尋ねる。
「オレは文明人なんでな。常に自己の可能性を追求し、磨きをかけているんだ。時間の制約なんて、関係ねぇんだよ。じゃーな」
 視線は正面に向けたまま、鋼の守護聖である少年は肩ごしに手をひらめかせ、部屋から出ていった。
「……要するに、徹夜した、ってことか。それならそうと、はっきり言えばいいのに……」
 早寝早起きを心がけている少年は、やや呆れたように「文明人」の消えていった扉を眺めやる。
 と、地の守護聖が困ったように歎息した。
「あぁー、いけませんねぇ。成長期には、充分な睡眠が必要だと、前にも言ったような気がするんですけれどねぇ」
 気がする、ではなく、事実彼は言っていた。それも、ほんの数日前に。
 蒼き鳥は、灰色の空をゆっくりと飛んでいる――。




 ゼフェルがそちらの方角へと足を向けたのは、ほんの偶然にすぎない。しかし、これから起こることを思えば、これも目に見えない何かの導きであったのかもしれぬ。
 一面にひろがる花々の中に、細い身体が埋もれている。
 ゼフェルは自分の目に映っている光景が、すぐには理解できなかった。
「――マルセルッ!?」
 乾いた叫びが、口から洩れる。自身の叫びに弾かれたように、倒れている少年に駆け寄ると、彼の身体を抱き起こした。
「おい! マルセル! しっかりしろよ! 目を開けやがれ!!」
 いささか乱暴に身体を揺すり、顔と声の双方を蒼白にして呼びかける。すると、緑の守護聖である少年はかすかに身じろぎし、小さく呻き声を発した。瞳を覆う幕が、ゆるゆると持ち上がる。
 ゼフェルは全身で安堵の吐息をついた。
「気がついたか。ったく、心配させんじゃねぇよ」
 狼狽していた自分の様子を悟られたくなくて、ややぶっきらぼうな口調で言う。しかし、肝心のマルセルからは、何の反応も返ってこない。それがどうにも、不吉な印象を与えてくる。
「どうしたんだよ……? どっか悪いのか?」
 再三の呼びかけには応えず、マルセルはゆっくりと立ち上がった。
「おい、マルセル?」
「……大丈夫。何でもないよ……」
 抑揚に欠ける口調で言い放ち、マルセルは鋼の守護聖の顔を見もせずに歩き出す。ひどく緩慢な、まるで幽鬼のような足どりに、ゼフェルは不安を禁じ得ない。と、緑の守護聖の足が、彼が摘みとってきたらしい花を無造作に踏みつける。
「――!? おい、マルセルッ!?」
 ゼフェルは紅玉の双眸を瞠り、慌てて友人の追いかけた。いくら摘みとったものとはいえ、花を踏みつけるなど、緑の守護聖である少年の性格からは考えられないことだ。
「何か用?」
 すみれ色の瞳が、肩ごしに投げかけられてくる。その色が輝きを失い、どこかよどんで見えるのは、ゼフェルの気のせいだろうか。
「な、何って、お前……!」
「用がないのなら、僕はいくよ」
 冷然と言い捨てると、マルセルは再び歩き出した。
「マルセル……?」
 追うに追えず、紅玉の双瞳をした少年はその場に立ち尽くした。そしてゆっくりと背後を振り返り、大地に視線を落とす。無惨に踏みにじられた花々に、彼は自身の胸に黒雲が満ちてくるのを感じていた。




 ジュリアスの執務室は、ひとりの訪問者を迎えていた。炎の守護聖はいくつかの連絡事項を伝えると、最後にまだ若い仲間の話を持ち出す。
「――政務に関する報告は以上です。それとランディの方ですが、先ほど様子をみてきましたが、回復は順調のようです」
「そうか。ならばよい。ご苦労であったな、オスカー」
「いいえ、とんでもありません」
 オスカーは小さく頭を振ると、尊敬する守護聖に一礼して退出しようとした。と、その背にジュリアスは声をかける。
「――オスカー」
「はい? 何でしょうか?」
 オスカーは歩みをとめ、身体ごと守護聖の長に向き直るが、呼び止めたはずの本人は机上で手を組んだまま、何も言おうとはしない。鋭く光る碧眼が、虚空を睨むように見つめている。
 何か失礼なことをしてしまったのだろうか。炎は守護聖は内心で慌てたが、そうではなかった。
「そなた、今回の一件、どう思う?」
「と、言われますと?」
「終わったと思うか?」
 そこまでで、オスカーはジュリアスの言わんとしていることに気づいた。
 女王の力で護られているはずの聖地を、しかも守護聖を襲うほどの力の主が、このままひきさがるとは思えない。再度何らかのかたちで襲撃してくるのではないか。それがまたランディになるか、それとも他の守護聖になるか、あるいは女王や聖地になるかはわからないが。
「可能性はあります。王立研究院からの報告にも、負の力がその勢力を拡大しつつある、とありましたから」
 光の守護聖はひとつ頷いた。
「そなたも、そう思うか。私も同感だ」
「では、聖地の警備を厳重にするよう、早速手配いたしましょう」
「うむ、頼むぞ」
「はっ!」
 一段と表情をひきしめて礼を施し、オスカーは今度こそ退出した。
 守護聖の長は、誰もいなくなった執務室で、ひとり思案の海に沈んだ。




 マルセルという名の少年は、森の中を独り歩いていた。ふと視界に黄色のかわいらしい花がおさまる。少年は足をとめ、花の前に片膝をついた。
「……きれい……」
 片手を伸ばし、そっと撫でるように花弁に触れた。さわやかな風が、金の髪をそよがせる。
 ――まさにその瞬間であった。
 少年の掌が動き、音を立てて花を握り潰す。先ほどまで「マルセル」と呼ばれていた少年の顔は、もはやそこにはない。
「――忌々しい風……」
 手の中にある残骸を投げ捨てると、彼はその場を立ち去った。
 草木や花々が風に揺れ、声なき声を上げる。もしもそれを聴くことができる者がいたならば、彼らの深い悲しみを感じとったであろう。



                  ……To be continued.