いざな
          第三章   誘いの翼





 ――闇の淵が眼前に迫る。
(くっ……!)
 ランディは何とか腕の戒めを解こうとするが、そうすればするほど、鎖は腕にきつく食い込んでくる。痛みに顔をしかめながらも抵抗する少年を、それは嘲った。
『アキラメロ。ムダナアガキハヨセ』
 無論、あきらめろ、と言われて黙って従うようなランディではない。彼は揺るぎない意志を込めて叫んだ。
(俺はあきらめないぞ! お前なんかに負けてたまるか!)
 それは唸り声を上げた。気の弱い者が聴けば、恐怖に身体を震わせそうな声である。だが、風の守護聖である少年は眉ひとつ動かさず、毅然とした態度はわずかな揺らぎもみせない。これがかえって、それを怒りを増幅させた。
 それにとって、ランディのような存在は、不愉快極まりないものであった。どんなに困難な状況にあろうとも、決して希望を捨てない……そんな命の存在など、決して許してはおけない。もっと恐怖に怯え、絶望に心を満たしながら、自分とひとつになる。それこそが、自分の望みなのだから。
 突然のことである。ランディを引っ張る力が一気に強くなる。いままでは手を抜いていたのではないか、と思わせるほどに。
(――あっ!?)
 ランディはたまらず転倒した。そのまま身体はひきずられ、ついには右腕が闇の淵に突入してしまう。
 ――ダメなのか……!?
 少年の心に初めて絶望がよぎった、まさにその瞬間、その声はとどいた。



 ――ランディ……!!



 どこからともなく舞い降りてきた声に、ランディは聴き覚えがあった。
 自分は独りではない、と教えてくれる人たち。
 喧嘩やすれ違いはあれど、心の中で認めあった大切な仲間たちの声――。
(――みんなっ!)
 風の守護聖である少年の中で、何かが弾けた。生まれ始めていた絶望が吹き飛び、全身が熱くなり、自分の中に在る大きな力が外へとあふれ出す。青き光が闇を切り裂き、吹き荒れる風が腕を戒めていた鎖を砕いた。
 風のサクリア――!!
 言葉にできぬほど恐ろしい叫喚が、大気を、辺りを覆う闇そのものを震わせた。聖なる力を受け、闇が苦痛にのたうちまわっているような錯覚さえ起こさせる。
 淡い青き光に全身を包まれた少年は、ゆっくりと立ち上がった。先ほどまであれほど感じていた寒さも、重圧も、痛みさえも嘘のように消えている。自身の中で力強く脈打つ力が、それらをはねのけてしまったようだ。
 と、深刻な憎悪に染まった怒号が、ランディの全身を叩いた。
『赦サン! 赦サンゾ!!』
 ランディは反射的に周囲に視線を走らせ、声がどこから発せられたのか確かめようとしたが、闇の中にそれの姿は見えない。
『――死ネ!』
(うわぁぁっ!)
 闇そのものが蠢き、濁流となって少年の身体を呑み込んだ。黒き光が青のそれを貪り、喰らい尽くしていく。それは「痛み」などという生易しい感覚ではない。心が引き裂かれるような、五体がちぎられるような、生まれて初めて味わった「苦痛」であった。
 青の光が消え、ランディの意識は、さらに光とどかぬ場所へと沈んでいった……。



「……!?」
 皆が眼を閉じている中、ひとりだけそれを覆う幕をはね上げた者がいた。闇の守護聖である。彼だけが感じとったのだ。もうひとつの呼び声――負の力と対極の存在が、ランディの心の中へと飛び込んでいったことを。
「――風を、誘うか……」
 クラヴィスの声は、あまりにも小さく、他の守護聖たちの耳にはとどかなかった。



 ……ランディは深淵の中にいた。
 何も見えない。
 何も聞こえない。
 感じられるものが何ひとつなく、まるで意識だけが、虚空を漂っているようだ。
 自分は一体どうなってしまったのだろうか。
 せっかく仲間たちが、自分を助けようとしてくれたのに……。

 ――死んだのかな、俺……。

 少年の心が深い絶望感に囚われ、強烈な睡魔が襲ってくる。だが、ランディはもう抵抗する気になれない。何もかもが、どうでもよく思えてくる。

 ――このまま……眠ってしまいたい……。

 そうすれば、きっとラクになれる――全てから解放されるのだ。意識の欠片が闇と同化する刹那――。


『――負の力にとりこまれるな!』


 聴いたことのない、だが、奇妙な懐かしさを感じる「声」が、ランディの心に飛び込んでくる。黒一色に染まっていた視界がわずかに開け、風の守護聖である少年は見た。自身を護るように立つ、「声」の主の姿を。
 ――微笑んだ。
 それはランディの方を見、微笑んだように見えた。だが、それも一瞬のことで、正面へと向き直ると両手を掲げた。そこからあふれだした蒼銀色の閃光が、闇を切り裂く。本日二度目の、凄まじい叫喚が大気を震わせる。
『オノレ……!! 名……キ…メッ……!!』
 再び幕の下りた視界の向こうで、ランディはそれの呪詛の声を聞いたような気がした。
 ……どれぐらいしてからだろうか。
「……あ、あれ……!?」
 気がつくと、風の守護聖である少年は、光の中に立っていた。二、三度瞳を瞬かせ、慌てて周囲を見回す。そこはもう闇の世界ではなかった。周辺にはあたたかい空気が満ち、頭上からは蒼い光の粒子が雪のように降ってくる。
『――やっと、逢えたね』
 蒼い雪に混じって、聴き覚えのある「声」が舞い降りてくる。心に直接語りかけてくる「声」に、左右に動かされていた少年の瞳が一箇所に固定された。晴れわたった空を思わせる青い瞳には、蒼銀色に輝く鳥が映っている。
「あの……あなたが、俺を助けてくれたんですか?」
『いや、奴を撃退したのは、キミだよ。それとキミの仲間だ』
「俺は何もしてないです。みんなとあなたがいてくれなければ、俺がこうしてここにいることはなかったと思います。あなたは、一体……?」
 ランディの問いかけに、鳥は困ったように首を傾げる。返答までにはやや間があった。
『遥かなる昔から、奴と因縁関係にある者……奴と戦う者だ』
「その『奴』というのは?」
『――正確なところはわかっていない。だが、恐ろしい存在だ。全ての滅びを望み、あらゆる希望を喰らい尽くす、絶望の化身……』
 答える「声」に、緊張感と危機感の双方が含まれる。鳥が宙で姿勢を正し、つられるようにランディも表情を引き締めた。
「絶望の、化身……」
 呟く喉の奥が乾いている。自分は先ほど、その恐ろしさを身をもって知ったばかりだ。そしてそれが望むのは、聖地の、全ての滅び――。
 脳裏に壊滅した聖地の姿が浮かび、風の守護聖である少年は身体をひとつ震わせた。
 ――あれが本気になれば、できないことはない。
 自分自身の考えに戦慄し、冷たくなっていく指先を誤魔化すように握りしめた時、蒼の光に混じって天上から『声』が降ってきた。



 ――ランディ……!!



 暗い思考を振り払うように、ランディは頭上を仰ぎ見た。
「――みんなの声がっ!?」
 蒼銀色の鳥が、小さく鳴声を上げる。雰囲気からして、どうやら笑ったようである。
『もういった方がいい。仲間がキミの還りを待っている』
「いく、って、いっても、どうすれば……!」
『大丈夫、任せてくれ』
 鳥が両翼をひろげようとすると、青い瞳の少年が何かに気づいたように声を発した。
「あ、あのっ!」
 ひろげようとした翼を一旦たたみ、蒼銀の鳥は視線に無言の問いを含んで投げやる。鳥の双眸に映る自身を見据え、ランディは確信にも似た思いを口にした。
「――あなたなんでしょう? 俺を呼んでいたのは――応えてくれ、って、呼びかけていたのは――」
 返ってきたのは沈黙であった。否定もされなければ、肯定もされない。鳥がわずかに瞳を伏せ、重い口を開いたのは、ややあってからだ。
『――……すまない。だが、これだけは信じてほしい。キミをこんな目に遭わせるつもりなどなかったんだ……』
「言われなくとも、わかっていますよ」
 少年は風がはためくように笑ってみせる。
「あなたが悪い人じゃないってこと、俺は初めからわかっていました」
 これは紛れもない彼の本心であった。呼び声に何の悪意も感じられなかったからこそ、彼はそれに心を委ねようとしたのだ。結果的に『奴』も呼び込んでしまうことになったが、それはあくまで結果である。目の前にいる存在のせいだとは、欠片も思っていない。
「それに何より、あなたは俺を助けてくれたじゃないですか。だから、そんなに気にしないで下さい。俺は風の守護聖・ランディといいます。今度は、俺があなたの力になります」
『――ありがとう、ランディ。さあ、戻るんだ。キミを待つ、キミのことを大切に想ってくれている人たちの元へ!』
 今度こそ、蒼銀の鳥は両翼をひろげた。ランディの身体が青き光に包まれる。と、そこで少年はもう一度気づいたように声を上げた。
「あ、待って! あなたは――!?」
 あなたは誰ですか――?
 俺はあなたの力になりたい。けれども、あなたの名前すら知らないんだ――。
 続くはずだった言葉は宙に溶け、勇気を運ぶ風は光となって、天高く昇っていく。高く青く軌跡を描き、同色の粒子を降らせながら。
『――ランディ、元気で……』
 残された鳥は頭上を仰いで呟いた。短い言葉に、深い深い想いが込められている。彼の少年が残していった心地よい風が、蒼銀の羽を静かにそよがせていた……。



 クラヴィスは瞼を持ち上げた。紫水晶の双眸が眠る少年を映し、そして他の者たちへと向けられる。
「……もうよい。終わった」
 それはささやくというよりも、大きく吐き出した息の間に言葉を滑り込ませた、といった方が正しいかもしれない。
 七人の守護聖がそれぞれの色彩豊かな瞳をみせる。守護聖たちは皆が同じ所で生まれたわけではなく、出身地は実に様々だ。故に頭髪や瞳の色は一見同じでも微妙に濃さが違うなど、多彩極まりない。
 マルセルは夢から醒めたような表情を、二度ほど瞬きをして追い払った。
「ランディはっ!?」
 クラヴィスは口元にかすかだが笑みを浮かべる。
「案ずるな……」
「それでは……!!」
『ランディ!』
 リュミエールが瞳を輝かせれば、ゼフェルとマルセルが同時に身を乗り出し、友人の顔を覗き込んだ。
 時間にすれば、ほんのわずか数分でしかなかったであろう。だが、この時はその数分が永遠にも似た重みと長さをもって、室内を満たしていた。
「息をするのも苦しくて、何だか時の流れが僕の全身にのしかかってきているような感じがしました」
 とは、後にマルセルがルヴァに語った台詞である。
 晴れわたった空を思わせる青の双眸が、ゆっくりと開かれる。目覚めた少年は、何度か瞬きを繰り返した後、視線を移動させた。そこには懐かしくさえ思える者たちがいる。彼らの面上を一通り撫でると、口の端をほころばせた。
「…………どうやら……戻ってこれたみたいだな……」
 半ば独り言のように呟かれた語を合図に、守護聖たちは一斉に息を吐き出す。
 ――よかった。本当に。
 言葉にならぬ喜びと安堵が、全員の胸中を満たしていく。
「……ラ……ラン……っ!」
 込み上げてくる嗚咽に声が震え、緑の守護聖である少年の言葉は、中途半端なものになってしまう。すみれ色の双瞳が揺れ、眦に光るものが滲み出す。
「マルセル……?」
 一体どうしたのだろうか。まだ完全には覚醒していない頭では、自分がどれほどの心配を皆にかけていたかなど、思いやる余裕がない。ランディはいぶかしむように若々しい顔を歪めた。するとマルセルは堪えきれなくなったのか、彼の身体に半ば抱きついた。
「ランディ――ッ! よかった、本当に、本当によかった! あぁ、ランディッ……!」
 縋りついてくる少年の体温が、ランディの意識をゆるやかに覚醒させる。
 ――あぁ、こんなにも心配をかけてしまったのか。
 先ほどまで自分がおかれていた状況はとても大変なものだったが、それは彼らにとっても同様だったのだろう。そう思うと、途端に申し訳ない思いがしてくる。
「――ごめん、マルセル……ただいま」
 大粒の涙をこぼす少年の、その柔らかな金の髪をあやすように梳いてやる。と、マルセルはわずかに顔を上げ、泣き笑いにも似た顔で言った。
「……おかえり、なさい……」
 涙の混じった言葉に、何事かを言うべく口を開きかけたランディであったが、それは突然はね上がった別の声によってさえぎられる。
「ランディ! てめぇーっ!」
「ゼ、ゼフェル?」
「散々迷惑かけやがって! この大馬鹿野郎がっ! てめぇなんか、てめぇなんか……!」
 声を上げたものの、たちまちゼフェルは言葉に詰まった。緑の守護聖のように自分の気持ちを素直にあらわすことのできない少年は、口調に怒気を込めながらも、紅玉の瞳に涙をたたえている。
 そんな彼の隠された気持ちを察し、青の双眸を持つ少年は口元に笑みを飾った。
「ごめん、ゼフェル。お前の声も、ちゃんと聴こえたよ」
 彼の声だけではない。ここにいる全員の声が。それが自分を導いてくれた。
「そ、そうかよ。よかったじゃねぇか!」
 鋼の守護聖は表情を隠すためか、顔を背けた。泣いているのか、照れているのか。おそらくは両方であろう。
 それまで年若い守護聖たちを見守っていたルヴァは、彼らのやりとりが落ち着くのを待って口を開いた。
「あぁ、何にしてもよかったですねぇ。ランディ、よく頑張りましたね」
 ルヴァは長身をかがめると、風の守護聖の髪をそっと撫でる。紡がれる口調にふさわしく、その仕草はとても優しい。それがどうにもくすぐったいような気がして、ランディは照れたように目を細めた。
「ありがとうございます、ルヴァ様」
「お帰りなさい、ランディ」
 と、これはリュミエールである。にこりと微笑むと、その優しい雰囲気がさらに増してみえた。
「一時はどうなるかと思ったけれど、あんたが無事に戻ってきてくれて、ホントによかった」
 オリヴィエが器用に片目を閉じてみせる。口調も態度も軽いが、その目に宿る光はどこまでも真摯なものだ。
 彼の横でオスカーは唇の端をつり上げ、炎を思わせる紅い髪をかき上げた。あらゆる動作が絵になる、というべきか。彼を慕う女性たちが見れば、さぞ歓声を上げたであろう仕草だ。
「今回ばかりは、さすがの俺もヒヤヒヤしたが……やるじゃないか、ランディ」
 光の守護聖もひとつ頷き、微笑む。
「ランディ、よく還ってきたな」
 普段は鋭く輝いている碧眼も、この時ばかりは優しげだ。
 皆がそれぞれの思いを音にする中で、ただひとり闇の守護聖だけは無言であった。が、その口元にたゆたう微笑から、彼も他の守護聖たち同様にランディの帰還を喜んでいることがわかる。
 晴れわたった空を思わせる青の瞳をした少年は、仲間たちの顔を改めて見回し、いまの自分の想いを言葉に込めた。ありきたりなものになってしまうことが、もどかしかったけれども。
「本当に……ありがとうございました――」
 そこで力尽きたように、瞼が落ちる。闇に吸い込まれていく自身を感じながらも、ランディの心は不思議なほど凪いでいた。今度の闇は、先ほどとは違う。とてもあたたかく、それでいて優しい。これにならば、身を、心を委ねても大丈夫だ。
 ――今度は、俺があなたの力になる……。
 意識の最後の一欠片で、自分を包み込む蒼銀色の光を見、彼は笑った。
「ランディ……!?」
 マルセルは顔を歪め、心配そうに友人の顔を覗き込む。と、その肩に地の守護聖の手がおかれた。
「あー、心配はいりませんよ、マルセル。疲れたんでしょう、眠らせておあげなさい」
「はい、ルヴァ様。――お疲れ様、ランディ」
 ジュリアスが一同を促し、今日のところは皆それぞれの私邸に帰ることになった。ただルヴァだけは、何があるともわからないということで、今夜はランディにつきそう。
 これに反応を示したのが、年若い二人の守護聖である。マルセルが直線的に、ゼフェルが曲線的に「自分もつきそう」と申し出たが、彼は笑って頭を振る。
「成長期には、充分な睡眠も必要ですよー」
 と、いかにもルヴァらしいと思える台詞とともに、地の守護聖は二人を帰らせたのであった。



 クラヴィスとリュミエールは、雨はあがったものの、いまだすっきりとしない空の下を歩いていた。二人の私邸は同じ方向にあるため、自然とこの組み合わせとなるのだ。
 先に話しかけたのは、やはりというべきか、リュミエールの方であった。
「お疲れ様でした、クラヴィス様」
「……私は何もしておらぬ。あれ自身の力によるものだ……」
「そうでしょうか? あの時、クラヴィス様の助言がなければ、ランディを救うことはできなかったと、わたくしは思います」
 クラヴィスは応えない。が、水の守護聖は特に気にした様子もなく、穏やかな微笑を口の端にのせた。
 と、闇の守護聖が正面を見据えたまま、口を開いた。
「リュミエール……」
「はい?」
「……まだ、何も終わってはおらぬ。これはただの始まりにすぎない……」
「クラヴィス様……?」
 まるで予言めいた、それでいて何らかの確信を得ているような口調に、リュミエールは秀麗な顔を曇らせた。隣を歩く人物は、一体何をどこまで知っているのであろうか。
 クラヴィスは長い黒髪を背へと払い、小さく歎息した。
「面倒なことだが……これからが本当の戦いとなろう。お前も、気をつけるのだな」
 それだけ言うと、クラヴィスは口を閉ざし、何も言おうとしない。おそらく、問い質しても無駄であろう。
 リュミエールは眉をひそめて、闇の守護聖の沈黙の横顔を見つめた。そして雨のあがった天空を見上げる。重くのしかかってくるような、灰色の空だ。視線の先にあるものが、再び雷雨を招くのか、それとも蒼天となるのか、この時の彼に知る術はなかった……。



                                  ……To be continued.