この気持ちはひとつのものだから





 青学男子テニス部は、厳しい練習を遅くまでしていることで知られている。そのため、部員たちが帰宅する頃は、太陽はかなり西に傾いていることが多い。が、この日は練習はなく、部員たちは久々に明るいうちに帰ることができそうであった。
 青緑の双眸を持つ少年が、書類を片手に歩いている。今度の生徒会に使われる資料を、生徒会室に提出しにいくところだ。少年――は生徒会の役員ではないのだが、今日はその役員が休みのため、かわりに提出しにいってほしい、と担任に頼まれたのである。
 目的の部屋の前で足をとめ、ノックをする。が、返事がない。誰もいないのであろうか。は内心で小首を傾げる。確か今日はテニス部部長にして、生徒会長である手塚国光がいるはずなのだが。
「――失礼します」
 少し考えてから、扉を開ける。誰もいないのであれば、書類と一緒に自分がきたことを書いたメモを残しておけばいいだろう。そう判断してのことだ。
「……あ……!」
 扉の向こうにあった光景に、は言葉を失った。一歩だけ室内に足を踏み入れると、後ろ手に扉を閉める。軽く眉をひそめ、意を決したように踏み出した。



 ゆっくりと開かれた視界に、最初に映り込んできたのは、机と床であった。手塚は自分のおかれている状況が呑み込めず、何度か瞬きをする。
「――起きたか? 手塚?」
 聞き慣れた声に顔を上げれば、テニス部の副部長・大石秀一郎が自分に微笑みかけていた。向かいの席に座し、自分が目を覚ますまで部活関連の書類の作成してくれていたようだ。
「……大石か」
 今日は部活のことで打ち合わせをする予定であったから、友人の姿が眼前にあることには驚かない。
「よく眠っていたな」
 疲れていたんだな、と大石はほろ苦い表情で言う。手塚はその真面目な性格と立場も手伝って、無理をする傾向がある。本人は弱音の類を全く吐かないが、それが大石には歯がゆい。たまには愚痴のひとつも言ってほしいし、頼ってくれればいいのに。そして何より、もっと自分の身体を大切にしてほしいものだ。そう思わずにはいられない。
 いつの間にか、眠っていたのか。手塚は小さく吐息をこぼした。傍に置いてある眼鏡を手にとり――そこで、自身の背に何かがかかっているに気づく。
「これは……?」
 誰かがかけてくれた、制服の上着であった。それも一枚ではない。全部で四枚ある。眼鏡をかけ、問いを含んだ視線を大石に向ける。
「俺がここにきた時は、もうかけてあったよ」 
「一体誰が……? それに生徒会資料の作成も終わっている。やりかけのはずだったのだが……?」
 テニス部の副部長はくすりと笑うと、指先で手塚の横を指し示した。
「その答えは、そこにある」
 手塚は友人の指先を追い、そちらへと瞳を向ける。そこには二本のお茶の缶と、メモが置いてあった。
「一本は俺が持ってきたんだけどね」という大石の声を聴きながら、メモ用紙を手にとる。そこに書かれている文字に視線を走らせ、生徒会長は微かに目元を緩めた。それだけで随分と穏やかな表情になる。滅多に表情を崩さない彼にしては、珍しいことであった。
「みんな気持ちは同じ、ってね」
 そう言って、大石は笑ってみせた。





 時刻は、が生徒会室にやってきたところまでさかのぼる。
 室内に足を踏み入れた少年を出迎えたのは、机に伏せるようにして眠る、生徒会長の姿であった。は足音ひとつさせずに机の側に歩み寄る。
 作成中の生徒会用資料の束に、部活の練習メニュー表や練習試合の日程、そしてその組み合わせ表……色々なものが手塚の周囲を埋め尽くしている。
「こんなにたくさんのものを、たったひとりでやっていらしたのか……」 
 胸中で呟くと、は手に持っていた書類を机の上に置いた。上着のボタンをはずし、すばやく脱ぐとそっと手塚の身体にかける。眠っている手塚の顔には、疲労の色が見え隠れしていた。
「……いつもお疲れ様です、国光兄さん」
 ささやくように言うと、彼特有の優しい笑みを口元に刻む。そして自分の持ってきた書類を持ち、やはり物音ひとつ立てずに部屋を出た。
 足早に教室に戻ると、桃城が待っていた。普段登下校はほとんど一緒であったから、この日もを待ってくれていたのだ。親友が提出しにいったはずの書類をまだ持っているのを見、いぶかしげな顔をする。
、資料は渡せなかったのか? それにお前、上着はどうしたんだよ?」
「そのことなんだけどね、桃、せっかく待っててくれてたのに、ごめんね。やっぱり、先に帰っていいよ」
「はぁ? どうしたんだよ? 何かあったのか?」
「うん、それが――」
「あ、いたいたっ! 桃! !!」
 青緑の瞳を持つ少年の言葉を遮って、元気な声が教室に飛び込んできた。三年の菊丸英二である。その背後にはやはり三年の不二周助もいる。菊丸は弾むような足どりでやってくると、手近にいたの背に飛びつく。
「うわっ!?」
 その勢いに押され、バランスを崩しかけたであったが、何とかもちなおす。小さく安堵の吐息をつき、自身の背後を見やった。
 問いかけを発したのは、彼ではなく桃城である。
「英二先輩、どうかしたんっスか?」
「今日は部活がないじゃん。だからさあ、どっか寄っていかない?」
 右頬に絆創膏をはった少年はいかにも、ご機嫌、といった様子だ。後輩である少年から離れると、彼が上着を着ていないことに気づいたようだ。小首を傾げる。
「にゃ? ? まだ帰らないの?」
「はい、そのつもりです」
「その手に持っているの、生徒会の書類だよね。提出するだけじゃないの?」
 と、これは不二である。
 青緑の双眸を持つ少年は、手にしている書類に視線を落とした。そして静かな口調で語った。自分が生徒会室で見た、疲れて眠っている手塚のこと、束になった生徒会と部活関連の書類のこと、上着をかけてきたこと、そして自分がこれからしようと思っていること……誰も口をはさむことなく、黙っての話に耳を傾ける。
 話を聴き終えた不二は、いつも浮かべている笑みに少々苦いものを混ぜた。
「……手塚らしい、といえば、手塚らしいんだけどね」
「水臭いじゃん、手塚。大変なら、そう言ってくれれば、いつでも手伝うのに!」
 机に腰かけた菊丸は、少しばかりふてくされた表情で天井を仰いだ。
「本当っスよね。でもあの人は、そういうこと言いそうにないっスけど」
 何やらしみじみとした様子で桃城も頷いた。隣にいる親友を瞳に映す。
「で、お前は部長の手伝いをするつもりなんだな?」
 桃城の双眸に映る自身を見、は大きく頷いた。兄のように慕っている人物が、疲れて眠っているのだ。とてもこのまま黙って帰る気にはなれない。幸いは、生徒会の助っ人役でちょこちょこ手伝いをしているため、資料の作成等ならできる。彼はそのことを口にした。
「部活関連のものを勝手にいじるわけにはいかないけれど、生徒会の資料づくりなら、何度かやっているからできると思うしね。だから、悪いけれど――」
「先に帰れ、なんて言う気じゃないだろうなぁ?」
 黒髪の少年は片手をのばすと、の栗色の頭髪をかきまわした。桃城の友人は、軽く眉をひそめたものの、手を振り払うようなことはしなかった。いぶかしげな視線を向ける。
「全く、お前も水臭いぜ、
 今度は菊丸の手が、青緑の双眸を持つ少年の背を叩く。
「そういうこと!」
「僕らも手伝うよ」
 いつも浮かべている笑みをさらに深くして、不二が頷いてみせた。は驚いたように不二を見、それから菊丸、桃城と視線をめぐらせる。皆が自分と同じ気持ちであることを感じとると、口元をほころばせた。
 菊丸が片腕を振り上げた。手塚を助けるという気持ちも勿論あるが、彼が目を覚ますまでに生徒会の仕事を終わらせておいて、驚かせてやろうというそれも強いのだ。
「よぉーし! テニス部のチームワークの見せ所だっ!!」
 話が決まると、四人のテニス部員は素早く会話をかわした。まず場所だが、生徒会室でやれば、手塚を起こしてしまうことになるので、作業は二年八組でやる。必要なものは、と不二で運び出す。そのことについては、右頬に絆創膏をはった少年が、いぶかしげな顔をした。
「何で二人だけ? みんなで運んだ方がはやくない? それに俺、手塚の寝顔を見てみたい!」
 表情と口調からして、真意が後者にあるのは明らかだ。好奇心には勝てない、というやつであろう。不二は青緑の双眸を持つ後輩と顔を見合わせ、それから友人に問いかけた。
「英二、手塚に気づかれずに、静かに動く自信ある?」
「……にゃいかも……」 
 ややあってから、菊丸は答えた。は隣にいる親友に視線を転じる。
「そういうわけだから、桃もここで待っていてね」
「……了解」
 桃城も残念そうではあったが、疲れている部長を起こすのは忍びない、とでも思ったのだろうか、素直に頷いた。
 一組の先輩と後輩が連れ立つかたちで生徒会室にやってくると、生徒会長はまだ眠っていた。あれから起きた気配もない。
「……よっぽど疲れていたんだろうね」
 不二は小声で呟くと、かけたままになっている手塚の眼鏡をそっとはずした。起こしてしまうかとも思ったが、テニス部の部長は身じろぎすらしない。淡い色の頭髪をした少年はに負けず劣らずの白い指先を、自身の上着のボタンにかける。
「不二先輩……?」
 気づいたが先輩である少年を見やった。不二は唇の前に人差し指を立ててみせると、上着を脱いで手塚にかけた。二人は微笑をかわしあう。
「じゃあ、いこうか」
「はい」
 作りかけの生徒会資料を持って、二人のテニス部員は生徒会室をあとにした。
 大まかな指示をがだし、菊丸と桃城が下書きを作る。そして不二が清書していく。全ての指示を終えた時点で、も清書を手伝い、菊丸と桃城も下書きを終えたら、同じく不二を手伝う……といった手順で、四人はにぎやかに作業を進めた。
「あぁー! 終わったー!!」
 清書の最後の一文字を書き終わり、右頬に絆創膏をはった少年は大きく伸びをした。横でシャーペンを動かす友人を見やる。
「不二は? 終わった?」
「うん、こっちもいま終わったよ」
 そこへ先に清書を終え、飲み物を買いにいっていた二年生たちが帰ってくる。
「ご苦労さんです」
「お二人とも、お疲れ様でした。はい、どうぞ」
 二人の三年生は、それぞれ礼を言って、飲み物を受けとる。買いにいっていた少年たちは、手近にある椅子に腰を下ろした。示し合わせたように四人は缶を軽く掲げ、乾杯の仕草をする。
「後はこれを生徒会室に持っていくだけだね」
 三分の一程の量を飲んだところで、不二は積み重ねた書類を眺めやった。慣れていないというのもあるだろうが、四人でもなかなか大変な作業であった。これをひとりでこなそうとしていた手塚に、呆れとも感心ともつかぬ思いを抱く。 
「持っていく時は、俺も一緒にいく!」
「俺もいきたいっス」
 先ほど留守番役だった二人が、口々に同行を申し出た。一瞬、不二とは視線を交錯させた。
「だってさ、それはみんなで持っていきたいじゃん」
 菊丸の指先が、誰も手をつけていないお茶の缶を指し示した。他の三人の瞳も缶を映す。外見上は何の変哲もないただのお茶だが、そうではない。この場にいる四人の気持ちが込められているのだから。  
「そうですね。僕たちの気持ち、みんなで持っていきましょうか」
 はにっこりと笑うと言葉を紡いだ。テニス部に入部してよかった、と実感するのは、こんな時だ。
「決まりだね」
 不二の言葉に、他の三人は大きく頷いた。
 生徒会室の扉の前に立ち、四人の少年は視線を交わしあった。ここから先は、少しの物音も立ててはいけない。手塚の寝顔がどうした、などと騒ぐなどもってのほかだ。そのことを無言のうちに確認しあうと、不二がドアノブに手をかけた。慎重に扉を開ける。
 不二が音もなく室内に滑り込むと、それにが続いた。菊丸は緊張した面もちで、桃城は大きく深呼吸すると、扉をくぐる。幸い手塚が起き出す気配はない。テニス部員たちは、手に持っていた資料とお茶の缶、そしてメモを手塚の傍に置いた。
 と、菊丸と桃城が示し合わせたように、上着を脱ぎ始めた。すでに部長の身体にかけられた、二枚の上着の上に自分たちのそれを重ねる。二人の少年たちは一瞬目をあわせると、唇の端をつり上げた。
「おやすみ、手塚」
「お疲れっス、手塚部長」
「ゆっくり休みなよ、手塚」
「おやすみなさい、手塚部長」 
 菊丸、桃城、不二、そしての順に、ささやくように言葉を投げかけると、四人は生徒会室を出ていった。



 テニス部の部長と副部長は、お茶の缶を傾ける。手塚にみせてもらったメモを見ながら、大石は口元をほころばせた。そこには四種類の筆跡によって、次のように書かれている。
『手塚はいつも無理をしすぎなんだよ。もっと自分を大事にしなきゃダメだよ』
『水臭いよ! 俺たちはいつでも力になるんだからね!!』
『もっと頼ってくれてOKです。猫の手ぐらいにはなりますよ!』
『あなたの周囲には、あなたの支えになりたいと思っている人がたくさんいます。それを忘れないで下さいね』
 筆跡からして、おそらく上から順に不二、菊丸、桃城、そしてであろう。どれもこれも自分が言いたいと思っていた言葉ばかりだ。
「なあ、手塚」
「ん?」
 手塚はお茶の缶を持つ手をおろし、大石を見やった。何も言わないが、その瞳に問いかけが含まれている。大石はそんな友人の双眸を、しばしの間見据えたかと思うと、ふっと口元に笑みを浮かべた。
「――たまには、お前の背負っているものを、俺たちにも背負わせてくれ」
「………」
 手塚は無言で双眸を伏せた。が、その表情はいつになく穏やかなものだ。お茶の缶、出来上がった資料、上着、メモ、そして目の前にいる友人の存在……自分の中に何かあたたかいものがあふれてくるのがわかる。
「――頼む」
「ああ、任せてくれ」
 大石は嬉しそうに、にっこりと笑ってみせた。
 手塚の傍らには、彼自身の手によって綺麗に畳まれた上着が、四枚置かれている。



 菊丸が歩きながら、両手を後頭部で組む。その表情は、まるでいたずらが成功した子供のようである。
「にゃはは、手塚、きっとびっくりしてるだろうなぁ」
「だろうね。ついでに、僕たちの気持ちも、少しは伝わってくれてると、嬉しいんだけれど……」
 不二の口調には、少しばかり苦いものが混ざっている。自分たちの部の部長が、忠告等を素直にきいてくれることがあまりないのは、すでに何度も経験済みだ。困ったものだ、とばかりに小さく頭を振る。
 すると桃城が明るい声を上げた。
「大丈夫っスよ、不二先輩! きっと伝わってますって!」
「俺もそう思う! それに今頃は、大石も一緒にいるはずだから、きっとうまくフォローしてくれてるよ」
「そうだね」
 三人の会話を黙って聴いていたは、微笑を口元に刻んだ。と、何かを思いついたような顔をする。
「あの、皆さん、これから軽く何か食べにいきませんか?」
「お、いいねぇ。ちょうど腹が減ってきてたんだよなぁ、俺」
 友人の提案に、桃城が真っ先にのった。予想どおりの反応に、が思わず笑みをこぼすと、その身体に右頬に絆創膏をはった少年が飛びついた。まるで自分の存在を忘れないで、と言わんばかりだ。
「俺もいく! 不二はどうする?」
「勿論、僕もいくよ」
「そうこなくっちゃ!」
 そう言って、菊丸は今度は同学年の友人の身体に飛びついた。誰からともなく笑いが洩れだし、いつしか四人の間で笑い声が弾ける。
 上着を着ていない四人の少年の上半身を、西方へと帰る途中の陽が、鮮やかな落日色に染め上げていた。



                     ――Fin――



 <あとがき>

・今回は、手塚くんにたまには休んでほしいと思い、上記のようなお話にしてみました。彼はああいう性格の人ですから、多少無理なことでも、表情ひとつ変えることなくこなしてしまうのでしょうね(^−^;) ですが、周りにいる者にとっては、心配でならないと思うのです。だから、「無理はしないで、たまには頼って」とみんなの口から言って、あるいは文字にして残してもらいました。
 ここまで読んで下さって、ありがとうございました。



                                  2003.5.11    風見野 里久