風の海、光の空
心地よい風が、空と大地の間を駆け抜ける。空からあふれだす光と、自然特有の安堵感を含んだ息吹は、その中に身をおくものたちを癒してくれるようだ。
空が高く、果てしない。陽光が最もあたたかい昼休み、の姿は屋上にあった。は何をするでもなく、風を全身に浴び、その心地よさに目を細めた。
「――気持ちのいい風……」
吐息混じりに呟いた声も、大気の流れにのって、彼方へと運ばれていく。よく晴れた日や心地よい風が吹く日には、は決まって屋上へと足を運ぶ。空に近く、遮るもののないこの場所は、空と風を感じるのには、絶好の場所といえるだろう。
は青緑の双眸に幕を下ろすと、しばらくの間、風の声に耳を傾けていた。と、扉の開閉音がそれに混ざった。幕を上げ、そちらを見やれば、よく知った人物がやってきたところであった。
「お先に失礼してます、手塚部長」
「か……」
手塚は屋上にいたのがだけであることに安堵したのか、若干穏やかな表情になる。青緑の瞳をした後輩の隣までくると、フェンスに背を預けて座った。空を仰ぐように、深い吐息をこぼす。
尊敬する先輩の、その端整な横顔を、は軽く眉をひそめて覗き込んだ。
「……何だ?」
気づいた手塚が、いぶかしげな視線を向けると、はそれを気遣わしげに受け止めた。
「お疲れなのではありませんか?」
手塚は「そうか?」とばかりにわずかに首を傾げた。青緑の双眸を持つ少年は、さらに眉をひそめてみせる。目の前にいる先輩の顔には、疲労の色が見えるのだが、本人は気づいていないらしい。
「……少し疲れた顔をされてますよ。どうか無理はなさらないで、僕に手伝えることがあれば、いつでも声をかけて下さいね」
弟のように思っている少年の真摯な眼差しを受け、手塚は双眸を伏せて薄く笑った。
「……すまない」
は微笑で応える。
風が二人の頭髪を揺らし、頬を撫でていく。
「――いい風だな……」
「本当に……」
青緑の双眸を持つ少年は、蒼穹の一角に目をとめた。何者にも縛られず、自由に風の海を泳ぎわたる翼が、そこにはあった。
「……羨ましいな……」
その呟きはとても小さなものであったが、羨望の底に微かに混じる悲哀の念を、隠しきれていなかった。
テニス部部長はを見、それからその視線を追って空を仰いだ。
「……鳥、か」
それ以上は何も言わない。いや、言えなかった。後輩である少年が、何故鳥を羨ましいと思うのか、その理由を少しとはいえ知っているだけに、何を言っていいのか、正直わからない。こういう時、大石や不二ならば、何か言えるのだろうが。そう思うと、手塚は内心で嘆息せずにはいられない。
「……不二先輩にも、似たようなことを言ったことがあります。すると先輩は『たとえ翼はなくても、心は空を、風を感じているよ』と言ってくれて……確かに、そのとおりだと思います。でも――」
はほとんどささやくように、風に言葉をのせる。
「――いつか……あの場所へいきたい………」
ふいに頭部にあたたかな重みを感じた。双眸を地上へと引き戻す。映ったのは、自分の頭に手をのせ、空を見上げる手塚の横顔だった。
「――俺に黙っていくなよ、」
こちらを見ようともせずに言い放たれた言葉。冷たい印象を与えがちだが、その中には確かな優しさと、あたたかさがある。は微かに笑みを浮かべて言った。
「……しませんよ、そんなこと」
「……俺は、たいしたことはしてやれない。だが、一緒にいてやることはできる」
「ありがとうございます、国光兄さん。大丈夫です。たった独りにならない限り、僕は、ここにいます」
「そうか」と、手塚の返答は短い。だが、に向けられたその顔は、わずかに微笑んでいた。
テニス部の部長は、多弁な方ではない。大石や不二といった、三年のレギュラー陣やの前でならば、そこそこ話すものの、それでも多いとはいえないだろう。ぽつりぽつりと途切れがちな会話が続き、ついには完全に途切れた。
さして気にもしていなかったであったが、ふと視線を横に移動させると、手塚は眠っていた。滅多に見られない、実に穏やかな寝顔だ。頭髪が大気の流れにのって、静かに揺れている。
「……やっぱり、疲れていたんですね」
青緑の瞳をした少年は、少しばかり苦い笑みを浮かべたようであった。
以前にも似たようなことがあった。その時は、の方から先に眠っていた。そして目が覚めると隣で眠る手塚の姿があって、何だか奇妙に安心したのを憶えている。
「――ゆっくり休んで下さいね、国光兄さん……」
はふわりと笑うと、風の声を聴きながら、双眸を閉ざした。
その後、というのは、が眠りについて間もない頃のことである。手塚を捜して、大石が屋上へとやってくる。視界の上半分を埋め尽くす青さに目を奪われながらも、大石は目的の人物を認めた。近くまで歩み寄り、そこでが一緒であることに気づく。手塚が手前にいるために、見えなかったのだ。互いの身体に寄りかかるように眠っている。
「……やれやれ、二人揃って」
気持ちよさそうに眠る友人と後輩を見、大石は思わず笑みをこぼした。そこで気づいたように周囲を見回し、何を思ったのか、小走りで屋上を出ていく。
再びテニス部副部長の姿が屋上に現れたのは、五分ほどしてからのことだ。軽く肩を上下させつつ、手にしていたものを手塚の身体にかける。「SEIGAKU」の文字の入った、レギュラージャージだ。の方には、自身の上着をかけてやる。今日は気温も高い方であるから、これぐらいで充分であろう。本当はちゃんとしたものをかけてやりたいのだが、これぐらいしかすぐに使えるものがなかったのだ。
「おやすみ、手塚、」
大石は小さく笑いかけると、足音を立てないようにその場を離れる。
彼が屋上を去るのとほぼ同時に、風にその身を任せていた鳥は、光の満ちる蒼穹の彼方へと吸い込まれていった――。
――Fin――
<あとがき>
・DVDの十七巻を見て、何だか無性に手塚くんとのお話が書きたくなったので、書いてしまいました。跡部くんとの試合の時のお話もあるのですが、こちらは「お疲れ様」ということで、お休みしてもらいました。
くん、またも寝ています; この子は少々寂しがり屋さんなので、誰か(特に気を許した相手)が傍にいると、安心してしまうのです。実は夢の中に出てくるくんも、よく誰かと眠っています。それがあまりに気持ちよさそうなので、風見野は心底羨ましいです(とはいえ、自分も寝ているのですけれど;)。よく晴れた、風が気持ちのいい日にのんびりとお昼寝……最高ですね。
ここまで読んで下さって、ありがとうございました。
2003.5.27 風見野 里久