青緑の空に溺れる魚たち
「――そういえば、先輩、あれ、何ていう名前なんっスか?」
ハンバーガーを口に運びつつ、リョーマが問うた。問われた方は、後輩の言う「あれ」が何のことだかわからなかったようだ。軽く小首を傾げてみせる。
「さっきの試合で、俺から二ゲーム目を奪った時にみせた、あの技っスよ」
つい先ほどまで、とリョーマは非公式の試合を行っていた。結果は6―2で青緑の瞳をした少年の負けであったが、二ゲーム目をとる際に彼の使った技は、リョーマの目を見張らせたのである。
は「あぁ」とわかったような声を上げ、続いて小さく肩をすくめる。
「あれはね、実をいうと、僕の技じゃないんだ。ある人の得意技を見様見真似で打ってるだけ。名前もあるにはあるけれど、それを使っていいのか、よくわからないから、いまは保留にしといて」
もっと完璧に打てるようになってから、あるいは、別の名前が決まったら教えるから。そう言って、はテーブルの上にたまりつつあるゴミの一部を捨てにいく。
と、二個目のハンバーガーの、その最後の一欠片を飲み込んだ桃城が声を発する。
「越前、お前、結構ラッキーだぜ」
「何が?」
「は、さっき言ってたあれを使うことは滅多にねぇからな。俺だって、まだ数えるほどしか見たことねぇぜ」
「そうなんっスか?」
桃城とは同学年であり、親友同士でもある。よってリョーマとは、つきあいの長さも深さも違う。打ち合った回数は、当然リョーマよりも桃城の方が遥かに多い。それなのに、まだ数回というのは、正直驚きだ。
二年生レギュラーは、シェイクを片手に天井を軽く仰ぐ。
「何かさ、『僕には、まだまだ分不相応な技だから』とか言って、使おうとしねぇんだよなぁ。ランキング戦でも、一度も使ったことねぇし」
「……分不相応、って……ひょっとして、先輩って、自分の力がよくわかってないんじゃないっスか?」
青学のルーキーの口調は、半ば呆れ、半ば感歎を含んでいた。部員全員と戦ったことがあるわけではないが、レギュラーになったことがない二、三年で自分からゲームを奪った者はいない。先ほどの試合で、が初めてそれを成し遂げたのだ。
「そりゃいえてるな。は弱くねぇ。むしろ強い部類に入る。それなのに、本人ときたら、自分のことになると、途端に控えめで、鈍くなるからなぁ、あいつ」
がさがさと三個目のハンバーガーの包みが解かれ、食欲をそそる香りが満ちる。
「自信過剰よりは、遥かにマシだけどね」
「よく言うぜ。この生意気ルーキーが」
そう言って、桃城は片手を伸ばすと、小さな後輩の額を指先で弾いた。
「痛っ!? ――痛いっスよ」
うっすらと赤くなった額に手をあて、リョーマは憮然とした顔をする。先輩なら、こんなことしないのに。そう思ったところで、ひとつの疑問が浮かんだ。
「そういえば、桃先輩と先輩が話すようになったきっかけって、何だったんスか?」
「ん? 何だよ、急に?」
「いや、先輩と桃先輩って、性格とかあんまり共通点ないし……それに先輩は、海堂先輩とも仲がいいんでしょ?」
桃城とが親友同士であることは、本人たちも明言しており、周知の事実だ。海堂はその照れ屋な性格から口にこそしないが、のことを友人だと思っているのは間違いない。では、桃城と海堂は、というと、ライバルであると同時に犬猿の仲でもある。
「普通に考えれば、変な構図っスよ」
「まあ、それは俺も思わなくはなかったけどよ。そういや、まだ一年の頃、不二先輩も、似たようなこと訊いてきたな」
「不二先輩が?」
「ああ、やっぱりお前と似たような感想を抱いたんだろうな」
そこで語を区切ると、二年生レギュラーはハンバーガーを口に運ぶ。
「俺とが出逢ったのは、テニス部に入部したその日、しかもマムシと喧嘩している時だった。大石先輩に叱られて、一旦はおさまったんだけどよ、すぐに再発してな」
互いの襟元を掴みあい、まさに一触即発という時、偶然がやってきたのだという。この時桃城は彼のことは知らなかったが、海堂は知っていた。同じクラスであったのだから、不思議ではないが。
「海堂くん!? 何やっているの!?」
慌てて駆け寄ってくると、は海堂と桃城を何とか引きはがした。二人の間に立ち、怒気にあふれる顔を交互に見やる。
「喧嘩はやめて。怪我でもしたら、どうするの!?」
「邪魔すんじゃねぇ、」
鋭い双眸をさらに鋭くさせ、海堂は低い声で言い放った。桃城も視線は海堂に固定させたまま、苛立った声を上げる。
「そうだ。お前には関係ねぇだろ。あっちいってろ!」
は青緑の双眸を眇め、大きく息を吐いた。そして驚くべきことを口にする。
「わかったよ。そんなに怒りをぶつける相手がほしいのなら、僕がそれになるよ」
思いもかけない発言に、桃城も海堂も一瞬怒りを忘れて互いの顔を見あわせた。はどこか寂しそうな微笑みを浮かべて、ゆっくりと、目の前にいる少年たちの怒気を和らげるように語を紡いだ。
「何で喧嘩しているのか、僕は知らない。僕のやっていることは、余計なお世話なんだと思うよ。でもね、やっぱり、友だちと、これから一緒に部活をやっていく人が喧嘩しているのを見るは、悲しいから。――僕を殴っていいよ。そのかわり、この場はそれでおさめてね」
リョーマは手にしたシェイクを飲むことも忘れ、瞬きする。
「……まさか、それで桃先輩たち、先輩を殴ったとか?」
もしそうだとしたら最低だ、とばりの口調である。
「お前なぁ、そんなわけねぇだろぉ!」
いくら頭に血がのぼっていたとしても、そこまで理性を失ってはいない。桃城と海堂は、どちらからともなく、握りしめていた拳を解いた。そして、二人は揃って青緑の双眸を持つ少年に謝った。何だか、とても悪いことをしたような気がしたのだ。
「おかしかったのは、その次の日だ」
翌日の昼休み、が海堂を連れて桃城のクラスにやってきた。昨日の「お詫びとお礼を兼ねて」弁当を作ってきたから、一緒に食べようというのだ。「お礼」にしろ「お詫び」しろ、桃城には何のことだか見当もつかなかった。それは海堂も同様だったようだが。
「が言うには、礼は、昨日の自分の勝手なお願いをきいてくれたから。それで、詫びの方は、俺たちの喧嘩に無関係な自分がでしゃばっちまったから、だとさ」
青学のルーキーの顔に笑みがこぼれる。
「先輩らしいっスね」
「お前もそう思うだろ。とまあ、始まりはこんな感じで、俺がと話すようになったのは、それからだな。それにしても、あの時の弁当はうまかったなぁ、特に唐揚げが絶品だったぜ。たまらねぇなぁ、たまらねぇよ」
「……よーくわかりましたよ。要するに、桃先輩は先輩に餌付けされたんっスね」
リョーマの琥珀の瞳が、呆れたような色をおびる。
「そうそう……って、おい!? ヒトを動物園の猿みたく言うんじゃねぇっての!!」
「はいはい」と、リョーマは投げやりに応える。と、そこで気づいたように周囲を見回す。話に夢中になって、話題の人物の存在をすっかり忘れていた。青緑の瞳をした先輩の姿は、どこにもない。
「……先輩がいない」
「なっ!?」
幸せそうにフライドポテトを頬張っていた二年生レギュラーは、口の中のものを慌てて飲み込むと忙しく双瞳を動かす。確かに親友の姿はどこにもない。先に帰った、などという考えは、桃城の脳裏にはない。鞄は置いたままであるし、何より、は黙って先に帰るような真似はしない。だとしたら――。
「……!?」
少々顔色を変えて、半ば腰を浮かせる。リョーマはそんな先輩の姿を、少しばかり驚いたように見上げた。桃城が真剣にとり乱すところなど、滅多に見たことがない。彼が生半可な気持ちで、を親友として遇しているわけではないことがよくわかる。
「どうしたの? 桃?」
聞き慣れた声は、桃城の背後から響いてきた。二年生レギュラーはそちらへと視線を転じ、不思議そうに自分を見やってくる親友の姿を認める。安堵の吐息を洩らすと同時に、指先での白い額を弾いた。
「痛っ!?」
「ばーかっ、お前の姿が見えないから、心配したんじゃねぇか」
「そうだったの。ごめんね、二人とも。心配かけちゃって」
苦みを含んだ笑みで応え、は持っていたトレイを差し出した。その上にはハンバーガーとフライドポテトがいくつかのっている。
「はい、そろそろ足りなくなるんじゃないかと思って」
「おっ! サンキュー! さっすが、気が利くじゃん!」
先ほどまでの真剣な様子など、もはやどこにもない。少年らしい笑みをこぼして、桃城はトレイを受けとった。
はリョーマの隣に腰かける。
「リョーマくんも、遠慮しなくていいからね」
「はい。ところで、先輩、今度俺にも弁当作ってきて下さいよ」
「え? どうしたの? 急に?」
としては、当然の問いである。向かい側の席で、桃城が軽く笑って先ほどの話をしてくれた。得心のいったは、快く了承した。
「僕なんかの作るものでよければ、喜んで。明日はちょっと無理だけど、近いうちに作ってくるよ。何か、リクエストはある?」
フライドポテトをつまみあげた状態のまま、リョーマは軽く考え込んだ。油を含んだポテトの香りが鼻先をくすぐる。
「……特にはないっスね。あ、でも、できれば、和風にしてほしいけど」
「、俺は唐揚げがいい」
桃城が身をのり出せば、青学のルーキーはじろりと琥珀の瞳を動かした。どこか皮肉っぽいものが口調に込められる。
「何でそこで、桃先輩がリクエストしてくるんっスか?」
「いいじゃねぇか、別に」
「よくない」
「まあまあ、二人とも、それくらいにして。多めに作ってくるから、みんなで食べようよ。リョーマくんも、それでいいでしょう?」
青緑の瞳をした先輩に笑顔を向けられ、リョーマは押し黙った。内心で、先輩のこの笑顔は無敵かもしれない、と思いながら。
「無敵の笑顔」をみせる少年は、にぎやかになるであろう近い将来の昼休みを想像して、嬉しそうな笑みを口元に、楽しそうな光を青緑の双眸にたゆたわせていた。
――Fin――
<あとがき>
・『コートを駆ける疾風となれ』の後のお話です。今回は、桃くんとくんの出逢いや、彼とリョーマくんから見たくんを語ってもらいました。そのせいでくん、あまり出番がありませんでしたね; すみません; 余談ですが、桃くんもリョーマくんも育ち盛りですから、くんのお財布が少々心配だったりします(^−^;)
前半で話題になっていた、くんの技のことですが、それはいずれお話(試合)の中でとりあげようと思っています。
ここまで読んで下さって、ありがとうございました。
2003.8.31 風見野 里久