勇気をこの手に





 スポーツショップから、二人の少年が紙袋を手に出てくる。ともに同じ学生服を着ており、中学生のように思われる。ひとりは細身の少年で、もうひとりは連れに比べてかなり背が高い。同じ年頃の少年の平均身長を、遥かに上回っているだろう。容貌に共通点こそ少ないが、二人ともおとなしそうな顔をしており、親しげに言葉をかわす様子は、仲のよい兄弟のように見えなくもない。
 背の高い方の少年、河村が連れの方を見やった。
、あとは何を買えばいいの?」
「えっと、あとは薬局にいって、消毒や傷薬の調達ですね」
「最近、救急箱の中身の減りがはやくなったなぁ」
 と、テニス部副部長が洩らしていたのを思い出し、は複雑そうに顔を歪める。
「あははっ、みんな無茶ばっかりするからなぁ」
 河村はどこか苦く笑った。自分にも心当たりがあることなので、あまり大きなことは言えない。
 部内で使用する備品の買い出しは、マネージャーを含めた部員たちが交代で行う。この日は、三年生レギュラー・河村と、が当番であった。
 買うのはテニスボールなどのスポーツ用品や、消毒や傷薬などの薬品関係が主なので、まとめ買いすると結構な重量になる。河村のように力のある部員が一緒なのは、のように小柄な者にはありがたい話である。
 と、河村が急停止した。穏やかな表情の中に、少しばかり厳しいものを含み、あらぬ方向を見つめている。
「……河村先輩?」
 先輩に倣って歩みをとめたは、不審そうにその顔を見上げた。身長差がかなりあるので、見上げるのも一苦労だったりする。河村の顔から瞳をはずし、その視線を追ってみるが、特に注目すべきものはないように思われる。
「あの、河村先――」
「ごめん! っ!」
 再度呼びかけようとした後輩の声を打ち消し、河村は持っていた紙袋を半ば押しつける。は紙袋を落としこそしなかったが、驚きを隠せない。一体何が「ごめん」で、三年生レギュラーは何をする気なのだろうか。
、買い物は任せた! 俺、ちょっと急用を思い出したから!」
 河村は走り出しながら、肩ごしに言葉を投げる。
「え? あの、河村先輩!?」
「本当にごめん!!」
 事情が全く呑み込めていない少年を置き去りにし、三年生レギュラーは一瞬まで見据えていた方角へ走り去った。残された青緑の双眸を持つ二年生は、わずかな逡巡の後、河村を追いかけることにした。荷物は増えているが、その快速はさほど落ちていない。
 河村の様子は、尋常ではなかった。本当にただ急用を思い出しただけならばよいが、別に理由があった場合が困る。は紙袋の中身を落とさぬよう気をつけながら、先輩の消えていった方へ急いだ。



 青緑の瞳をした後輩と別れた河村は、人気のない寂れた通りで、野卑な怒声に出くわした。
「ふざけんじゃねぇ!」
 柄の悪い三人の若者が、小学生らしい、ひとりの男の子をとり囲んでいる。先ほど河村が目にしたのは、この四人であり、男の子がこの通りに連れ込まれたようなので、もしやと思ったのだ。どうやら、彼の勘は当たっていたらしい。
「ヒト様にぶつかっておいて、『ごめん』ですませる気かよ?」
「ご、ごめんなさい……!!」
「だからぁ、それだけじゃダメだ、って言ってんだろぉ?」
 子供は怯えたように表情を歪ませる。
 三年生レギュラーはひとつ深呼吸し、慎重な足どりで四人に近づいた。
「やめて下さい」
 一応相手が年長者なので、礼儀を守って声をかける。もしこの場に、某マネージャーの兄がいれば、しかつめらしい顔で言ったことだろう。礼儀などというものは、相手を見て守れ、と。いま彼の目の前にいるのは、敬意を払う必要など、露ほどもない連中であったのだから。
 男たちは揃って首をめぐらせた。自分たちよりも上背のある河村に、一瞬怯んだようだが、彼がひとりであることに気づき、すぐに居丈高な態度をとり戻す。自分たちよりも立場が弱いとわかれば、いくらでも強気になれるのだ。このあたりはいかにも小物である。
「何だよ、兄ちゃん?」
「俺たちに何か用かよ?」
 若者たちの剣呑な口調は、三年生レギュラーには当然ながら、何の感銘も与えなかった。河村は普段は温厚そうな表情をひきしめ、男たちを睨みつける。
「大の男が、そんな小さな子に絡むなんて、みっともないです。やめて下さい」
 言葉こそ丁寧だが、底には怒りと嫌悪の感情がある。男たちは本格的に河村に向き直り、わざとらしく指の関節を鳴らす。
「てめぇには関係ねぇだろ」
「そうだぜ。かっこつけてんじゃねぇ!」
「痛い目にあいてぇのか!?」
 河村は怯まない。
「かっこつけてなんかいない! あんたたちが、あんまり情けないことをしてるから――!!」
 礼儀を捨てて声を張り上げたが、強制的に中断させられた。若者のうちのひとりが、河村に殴りかかったのである。
 三年生レギュラーはとっさに後退し、拳に空を打たせる。視界の隅に硬直した体の子供を認め、声を上げた。
「キミ! いまのうちに――!?」
 逃げろ、と叫ぼうとして、河村の身体を衝撃が襲った。左頬から顎にかけてのあたりに、一発くらったのである。大きく上体を泳がせながらも、続く二発目をかわす。
 男の子の方は、というと、途中までしか発せられなかったが、河村の言いたかったことがわかったようだ。小さな身体を翻した。が、すかさず伸びた男の腕が、子供の後ろ襟を掴んだ。
「何逃げようとしてんだよ!? このガキ!!」
 怒声とともに拳を振り上げる。
「やめろっ!!」
 河村は眼前にいる二人を突き飛ばし、子供を掴む手を払いのける。そのまま男の子の身体を抱き込むようにして、若者たちに自身の身体をさらした。
「――お兄ちゃんっ……!?」
 男の子の悲鳴じみた声が上がる。河村はやってくる衝撃を覚悟し、きつく両眼を閉ざした。せめてこの子だけは、無傷ですませたい。
「先輩っ!?」
 衝撃のかわりに、聴き慣れた声が三年生レギュラーの耳を叩いた。反射的に瞳をめぐらし、栗色の髪の後輩の姿を認める。
「――っ、どうして……!?」
 思わず叫びそうになった名を辛うじて呑み込み、河村は信じられぬものを見るかのように瞠目した。どうして自分を追ってきてしまったのだろうか。を巻き込みたくなかったから、ひとりでここまでやってきたのに。
 男たちは新たな闖入者に驚き、その容姿を見て、内心でせせら笑った。は河村に比べれば、上背もなく、見るからにやわな身体つきである。無力で脆弱な後輩が、安っぽい正義感にかられ、先輩を助けにきたのだろう。若者たちはそう判断したが、その見解の大部分が間違っていたことを、数分後には思い知ることになる。
 ひとり目の男が、に向けて拳を突き出す。青緑の双眸を持つ少年は荷物を放り出し、しゃがみ込んでそれをかわす。間髪入れずに地面に片手をついて、右足を跳ね上げた。足首のあたりをしたたか蹴られ、若者は絶叫とともに横転した。
 河村は呆気にとられたように、その光景を見ていた。が、すぐさま我に返り、男の子を見下ろした。
「キミ、大丈夫かい?」
「う、うん……!」
「よかった……じゃあ、はやく逃げるんだ。後ろを振り返っちゃダメだよ」
 子供は一瞬ためらったようだが、二瞬目には大きく頷いた。三年生レギュラーは男の子に軽く笑いかけ、小さな背を大通りの方角へと押しやった。
「――ありがとう!」
 小さくささやき、男の子は駆けだした。言われたとおり、振り返る気配はない。
 河村はひとまず息を吐き、視線を転じた。その先で、彼の後輩は残る二人の攻撃を、身軽にかわしていた。元々身の軽い少年だが、その無駄のない動きは、何らかの修練を積んだ者のようだ。自身も空手歴六年である河村は、そう見てとった。
「このガキ!」
「ふざけやがって!」
 に向け、前後から二人が飛びかかった。栗色の髪の少年は挟撃されるかたちとなったが、少しも慌てなかった。身体を開きつつ横に移動させ、前方から突進してきた男の背を、流れる勢いのままに押してやった。
 異音に続く、濁った悲鳴。正面衝突の上に、前からきた者は額を、後ろからきた者は鼻柱を、それぞれ味方に強打され、その場にうずくまった。
「お、おぼえてろぉー!!」
 冷たく眇められた青緑の瞳に、面上を一撫でされ、三人は転がるように逃げ出した。は細い肩を小さくすくめる。月並みすぎる台詞は、彼の心に欠片ほどもひっかからなかった。



 あの後、というのは、若者たちが逃げ出してからである。二人のテニス部員は、薬局にいって目的の物を手早く買い、一旦公園のベンチで身体を休めることにした。買ったばかりの薬が、早速役に立ちそうだ。
 は水道でハンカチを濡らしてくると、先輩に差し出した。
「ありがとう、
 河村は力なく笑い、軽く腫れた左頬にハンカチをあてる。若干熱をもっていた頬が冷やされ、思わず吐息がこぼれる。
「大丈夫ですか? 河村先輩?」
 瞳に心配そうな光をたたえ、は河村の隣に腰を下ろした。
「うん、大丈夫だよ。ごめん、何か情けないよな、俺」
「え……?」
 河村は視線を地面に落とし、自嘲めいた笑みを口元にはりつかせる。眼前にいる後輩がきてくれなければ、いま頃自分はどうなっていたかもわからぬ。飛び出していったのは自分なのに、結局助けてもらう羽目になって……一体何がしたかったのやら。
「大事な部分はに任せちゃって……本当なら、俺がしなきゃいけないのに。危険な役目を後輩にさせちゃうなんて、先輩失格だよ。かっこ悪いな……」
 恥じ入ったようにうつむく河村に投げかけられたのは、罵声でも嘲笑でもなかった。微笑混じりのあたたかい声が、後輩である少年の唇から紡ぎ出される。
「失格なんかじゃありません。河村先輩、とてもかっこよかったですよ」
 それは形式だけの言葉でも、通り一遍の慰めでもなかった。予想もしていなかった反応に、三年生レギュラーは顔を上げる。
「何も相手に向かっていくことだけが、勇気じゃありません。何かのために身体を張ることだって、立派な勇気です」
 よどみのない口調で言い、青緑の瞳をした二年生はくすりと笑みをこぼした。
「まあ、これはある人の受け売りですが。でも、僕もそのとおりだと思いますよ。勇気は一種類じゃありません」
 あの時河村は、自身の身も顧みず、若者たちに背をさらした。子供を抱き込んだ状態では、ろくな抵抗もできず、やられたい放題になっていただろうに。目の前にいる先輩の示した、そんな勇気を、は誇らしく思う。
「でも、あの時は、ただ夢中で――とっさのことだったから……!」
 恥ずかしさを一変させ、今度は照れたように、河村は若々しい頬を上気させる。
 夢中でも何でも、行動に移れるところが凄い、とは思う。多少状況は違っても、とっさに身体が動いた、という話はよく聞くが、実際はとっさに動けない者の方が多いのではないだろうか。
 その後も三年生レギュラーは「の方がかっこよかったよ」とか「次に同じようなことがあったら、動けないかも」と、早口で語を並べ立てていたが、やがて笑った。
「……でも、ありがとう」
 短い言葉だったが、深い深い思いが込められているのがわかる。
「ところで、は強いんだね。さっきの動きを見てて思ったけど、空手か何か習ってたのか?」
「別に何かの道場に通っているとか、そういうわけではないです。その、さっきの言葉を言っていた人に、鍛えてもらっているんです」
 最近は部活があるので、そちらの時間は少なくなったが、幸か不幸か実践には事欠かない日々である。元々騒動やら事件に巻き込まれやすい上に、家庭の事情やらも加わって、平穏とはいえそうもない中学校生活だ。別にが好戦的というわけではない。彼は無用な争いは全く好まないが、どういうわけか、それの方から近寄ってくるのである。そうなると、望む望まぬに関わらず、応戦しないわけにはいかない。
「お前は向かっていく勇気が旺盛だから、時々心配になる」
 彼はそう言って、どこか困ったように笑っていたものだ。
「向かっていく勇気があっても、それに見合う力がなければ、返り討ちにあうだけですからね」
「……それは、去年のことを言ってるのかい?」
 言ってから、「しまった」と河村は思った。の手がとまる。白い手に消毒薬を持たせたまま、青緑の瞳は物思いに沈んだかに見えた。が、それも数瞬のことで、は河村の手の甲にできた擦り傷に、消毒薬を染みこませた綿をそっと触れさせた。
「……そう、ですね。それだけじゃないですけれど……護りたいもの、貫きたい信念があるのなら、ある程度の力も必要だ――そう言われました」
 力を持てば、どこかしらでヒトの悪意を買う。だが、それは仕方のないことだ。誰を恨むこともせず、誰からも憎まれることもない……そんな生き方は、人の世では無理な話である。また仮にそんな人生が送れるとしても、それに自分の意志が存在するとは到底思えぬ。はまだほんの少年でしかないが、そのことをすでに知っていた。
「……そうだね……うん、わかる気がするよ。さっきみたいなことがあると……」
 そこで河村は、何かに気づいたように表情を動かした。
「だったら、俺もやっぱり、向かっていく勇気を持たなきゃいけないね。にばかり立ち向かわせるわけにはいかないよ。先輩としても、人としても」
 は青緑の瞳を瞬かせ、次の瞬間には笑いだした。三年生レギュラーは怒ることなく、きょとんとした顔で後輩を見つめる。
「……すみません。でも、河村先輩は、そのままでもいいですよ。無理に別の勇気を持つことなんてありません。だって、河村先輩のような方がいればこそ、僕のような者は安心して、相手に向かっていくことができるんですから」
 皆が皆、相手に立ち向かう勇気の持ち主であれば、護りたいものや信念が置き去りにされてしまうだろう。そんな時、たったひとりでも、それらの前に立って両手をひろげる者がいてくれれば安心だ。
 手当を終えると、二人のテニス部員は学校へと足を向けた。河村は右手の甲に絆創膏、左頬には湿布という出で立ちであるから、仲間たちは皆驚くだろう。事情はどうあれ、喧嘩をしたことにかわりはないから、おそらく手塚はグラウンドを走るよう命じるはずだ。だが、二人とも自分たちの行いを悔いてはいない。あの局面で子供を見捨てることに比べれば、グランドを走ることぐらい安いものである。
 さっきの話だけど、と帰路の途中で思い出したように、河村は語を紡いだ。
「もしもの時は、俺はの前に立つよ。必要があれば、向かっていく。の勇気に、俺は俺なりの勇気で応えてみせるから。――って、これじゃあ、何だか保険みたいだね」
「そうですね。でも、とても頼もしい保険ですよ」
 一呼吸おいて、ひと組の先輩と後輩は、互いの瞳を見かわして笑いあった。



                      ――Fin――



 <あとがき>

・今回のお話は、タカさんを中心にしてみました。普段あまり書いていないだけに、口調とかが把握できておらず、適当になってます。イメージを壊された方、すみません; タカさんを中心にもってくると、どうも「勇気」とか「優しさ」についてが多くなるような気がします。それはやっぱり、タカさんがそういう人だからでしょうね。大石くんもそうですが、彼もくんと性格や口調に似ている部分があるので、一気に書いてると時折混乱します(^^;) まあ、くんは基本的に先輩には丁寧に話しますから、それでわかりますけれどね。ちなみに、お話の中にでてきた「去年のこと」というのは、手塚くんや海堂くんとのお話の中で少しだけ触れています。本格的にとりあげられるのは、もうしばらく先の予定です。
 ここまで読んで下さって、ありがとうございました。



                                  2004.3.20    風見野 里久