夜闇に溶けぬ絆となれ





 東方の寝所から太陽が顔を出し、地上をひろく照らし始める。春の気配がゆっくりと去りつつある中、夏のそれが音もなくやってきている。その日の朝も、眩いほどの陽光が朝靄の中に揺らぎ、大気は冷たく澄んでいた。
 青春学園男子テニス部の部室内に、継続的に流れる音がある。それはノートに字を記す際に発せられる音で、何やら機械的な響きさえ感じられる。室内には、他に人の姿はなく、音といえばそれだけであった。
 音を発しているのは、部内で一番の長身を誇る三年生――乾貞治だ。常にノートを持ち歩き、部員たちのあらゆるデータを収集することに余念がない。彼の弾き出す数値やデータは、部にとって貴重なものであることは事実だが、時に困ったことになるのも、また事実であった。
 書くべきことを書き終え、乾が一息吐いた時、部室の扉が開いた。
「おはようございます」
「あぁ、か。おはよう」
 部長である手塚、副部長である大石、海堂、河村、そして自分に続く、本日六人目の部員に、乾は薄く笑みを向けた。
 栗色の髪に青緑の双眸を持つ二年生は、自身のロッカーへと向かい、さっさと部活の準備を始める。上着のボタンをはずしながら、先輩の方へと視線を投げる。
「はやいんですね、乾先輩」
「ああ、今日は朝練の前に、どうしても整理したいデータがあってね」
 すでにジャージに着替えているのに、外に出ていないのは、データの整理をしていたからなのか。は胸中で納得する。
 乾は後輩がウェアに袖をとおすのを視界におさめ、ノートをぱらぱらとめくった。あるページの上から下までを、念入りに三度は読み返す。
「ふむ……
「はい?」
「そろそろ、お前の練習メニューをかえていこう。肩の方は、もうほとんど大丈夫なようだからね」
 青緑の双眸を持つ少年が、ついこの間まで肩を痛めていたことは、入部したばかりの一年生を除いて、ほぼ全部員が知っている。この三年生は持ち前のデータを活かして、肩を痛めた後輩のために、練習メニューを組んでくれていた。
「はい、担当医からは、ほぼ完治したとの通知ももらっています。乾先輩には、すっかりお世話になってしまって……」
 は恐縮したように、頭を下げた。肩や腕に負担をかけず、かといって、筋力が衰えることのないように――と、そんな細心の配慮がなされた練習メニューに、自分はどれほど助けられたことか。
「礼には及ばないさ。これも先輩の務めだ。だが、もしも恩に感じているのなら、ひとつ俺を助けてくれないか?」
 素直なことで知られる後輩だが、この時はすぐに返事をしなかった。は鮮やかな色の瞳に当惑の光をたたえ、軽く首を傾げた。
「助ける、ですか?」
 双瞳を覗かせない厚い眼鏡が、朝の光を鈍く弾く。部の頭脳ともいうべき三年生は、問いかけにはすぐに応えず、直接の関係はなさそうなことを口にする。
「俺のデータが間違いでなければ、、お前の家庭科の成績は『五』だったはずだな」
「は、はい……そうですが……?」
 青緑の双瞳に浮かぶ、当惑の光がますます強くなる。この時のは、先輩である少年の真意を掴みかねた。そんな後輩をよそに、乾はさらに話題をかえる。
「実は二日前から、うちの両親が親類の家にいってて、留守なんだ」
「じゃあ、いまは家にいらっしゃるのは、乾先輩おひとりですか?」
「そうなんだ。助けてほしいのは、実はそのことでね」
 両親が帰ってくるまで、後二日ほどあるのだが、家事に不慣れな自分では、それまで家を管理する自信がない。もしの都合があうのなら、家事を手伝ってくれるとありがたい……。
 事情を知ると、はあっさりと首を縦に振ってみせた。
「いいですよ。それぐらい、お安い御用です」
 まさか承諾されるとは思っていなかったのか、三年生である少年は驚いたようにを見やった。もっとも、厚い眼鏡のせいで、感情の動きなどは少々わかりにくかったが。
「いいのか? 部活とは、全く関係ないのだが……?」
 言い出したのは自分であるが、思わず尋ねてしまう。いくら栗色の髪の二年生が人が好いとはいえ、こんな突拍子もない頼みを引き受けてくれるとは驚きだ。
「はい、いつもお世話になっているお礼です。それに、僕、家事は好きですから」
「そうか……ありがたいよ、
 持つべきものは、よき後輩だな。乾は頭の片隅でそんなことを思った。
「どういたしまして。それじゃあ、放課後、一度家に帰って、それからお邪魔させてもらいますね」
「ああ、今日はうちに泊まるといい」
「はい、そうさせてもらいます」
 にっこりと笑って、は中途半端になっていた着替えを再開した。その後ろで、乾は再びノートを開き、何事かを書き連ねていった。



 時刻は夕方五時を過ぎたところ。放課後の練習がなかったため、は朝言ったとおり一度家に戻り、泊まるための準備等をしてから、乾と合流した。そのまま彼に案内されて自宅までいき、家の中にあがらせてもらったものの、目の前にひろがる光景といったら、それこそ台風の「団体さん」が暴れ回っていった直後のようであった。
 手塚などとはまた違った意味で、あまり物事に動じないも、さすがに驚いたのか、ぽかんとした表情で立ち尽くしていた。言葉を失っている後輩の横で、乾が面目なさそうに頭を掻く。
「いや……何というか、一応片づける努力はしたんだが、どうにもうまくいかなくてな。どこからどう手をつけたものか、さっぱりわからないんだ」
 鮮やかな青緑の瞳を数回瞬かせ、はやっと乾を見上げた。
「えっと……ご両親がお出かけになったのは二日前で、お帰りになるのには、後二日ほどかかるんですよね?」
「ああ、たった二日でこれだからな。さすがに危機感を感じてね」
「……はぁ、お気持ちはわかりますよ、とても」
 は軽く息を吐き、吐いた分だけ吸い込んだ。自身に気合を入れるためだ。とりあえず荷物を乾の部屋――ここも散々な状態だ――に置かせてもらい、持ってきた水色のエプロンを身につける。
「まずは部屋を片づけてしまいましょうか。あぁ、乾先輩、夕飯はどうしますか?」
「俺は何でも構わないぞ。両親が置いていってくれた資金で、買える範囲ものならば、の好きにしてくれていい」
 栗色の髪の二年生は冷蔵庫の中を覗き込み、使える材料を確認する。幸い乾の母親が出発前に買い込んでくれたのか、なかなか種類は豊富であった。
「えーっと、じゃがいもにきゅうり、ニンジン……あとお豆腐もあるね」
 そこまで確認したところで、はたと青緑の瞳を持ち上げる。
「ちなみに、昨日の夕飯は何になさったんですか?」
「初日はカップラーメンだ」
「僕が訊いたのは、初日ではなく、昨日のことです」とは言わず、はわずかに首を傾げる仕草をした。
「部活の後に、カップラーメンだけじゃ、物足りなかったでしょうね。それで、昨日は何を?」
 重ねて昨日の夕飯のメニューを訊けば、何故か三年生である少年は口を閉ざした。たっぷり二十秒は沈黙した後、うつむき加減に呟いた。
「野菜汁だ」
「は?」
 一瞬、は自分の耳がおかしくなったのかと思った。大体、野菜汁は飲みものであって、食べるものではない。それを夕飯に「食べた」とは、一体どういうことなのだろうか。
 乾はずれてもいない眼鏡の位置をなおす。
「いや、カップラーメンを食べてもよかったんだが、さすがに毎日は、身体に悪いと思ってね。かといって、手持ちの材料で俺が作れるものもなく、仕方なく――」
「野菜汁だけ、ですか?」
「ああ。心配するな、栄養バランス的には問題ない」
 そういう問題じゃないだろう。さすがのも、そう言ってやりたくなった。母親似の顔を複雑そうに歪める後輩を見、乾は何やら遠く視線を投げる。
「自慢じゃないが、俺は家庭科の成績はそれほどよくないんだ」
 確かに、自慢になるようなことではないだろう。青緑の瞳をした少年は口に出しては何も言わず、冷蔵庫の中身を使ってできる献立を考えることにした。さらさらとメモ用紙に必要な材料を書き出すと、先輩に手渡す。
「じゃあ、乾先輩、僕は先にお掃除をしてしまいますから、これだけ買ってきてくれますか?」
「ああ、買い物は得意だよ。何といっても、数字が関わってくるからね」
 この少年の頭脳は、本当は機械じかけなのではなかろうか。他にこの会話を聴いている者がいれば、少なからずそう思ったことだろう。だが、は先輩の言葉を、どこまでも純粋に受け止めていた。くすりと笑みをこぼす。
「乾先輩なら、きっと効率よく買い物ができそうですね。それじゃあ、お願いします」
 乾が出ていくと、は室内の片づけを始めた。収納先がわからないものは一箇所にまとめ、あとのものは「ここだろうな」という場所にしまう。見た目の整理を終わらせ、掃除機をかけ、たまっていた食器を洗い終えたところで、この家の住人が戻ってくる。驚いたことに、何故か海堂の姿もあった。
「お帰りなさい、乾先輩。ご苦労様でした」
「ただいま、。家の中がすっかり見違えたよ、さすがだ」
「いいえ、大雑把ですみません。ところで、何で海堂が……?」
「あぁ、さっきそこで会ったんだ。何でも、俺の家にくる途中だったらしい」
 そうだろ、と視線を向ければ、海堂はふいと顔をそむけた。心なしか頬が赤いところを見ると、どうやら照れているようだ。
「そっか、昼休みにこのことは話したもんね。海堂、僕ひとりじゃ大変だと思って、わざわざきてくれたの? ありがとう」
「い、いや……俺は、別に、その、た、たまたま通りかかっただけで……」
 不器用な少年に、乾との口元が自然とほころぶ。海堂の場合、言葉よりも態度の方が、雄弁に物事を語ってくれることが多かったりするのである。
 乾家の臨時住人を新たにひとり加え、少年たちは夕飯の準備にとりかかることにした。



 家事に不慣れな者というのは、大体にして包丁を扱うのは苦手としているはずである。見ている方がはらはらするぐらい、おぼつかない手つきで包丁を握り、ゆっくりと手を動かしていく……そんなものであるはずだ。が、世の中には例外というものが、何にでも、どんなことにでも存在する。
 じゃがいもの皮を、慣れた手つきでするすると剥く。彼ほどはやくはないが、包丁を持つ手はしっかりとした海堂。そして、包丁を持つ手がかなりおぼつかないくせに、動かすスピードだけは異様にはやい乾……彼には、も海堂も、別の意味ではらはらさせられた。
、海堂、俺は包丁の天才かもしれないぞ」
「え?」
 白い手を動かすのやめ、は青緑の瞳をそちらに向ける。海堂もそちらを見やり、自身の思考回路がショートする音を聞いたような気がした。
「見てくれ、見事な立方体だろう。形もサイズも、申し分ない」
「よくそんなに綺麗に作れましたね」
 が無意味に感心する横で、海堂は頭痛でも感じたような顔をする。
「何でじゃがいもの皮を剥いてて、立方体が完成するんっスか。しかも掌サイズ」
 彼の表情と口調からして、言わずにはいられない、といった風情である。確かに、初めは自分たちの握り拳ほどの大きさのあったじゃがいもが、皮を剥いでいったら、最後は掌サイズの立方体になっていた――などという光景を見れば、彼でなくとも、何か言ってやりたくなるだろう。
「細かいことは気にするな、海堂」
「……ちっとも細かくないっス」
 その後も、キャベツを千切りにしようとすれば、
「千切りって、千本に切ることじゃないのか?」
 と真顔で訊かれ、肉を炒めるように頼めば、冷凍庫でガチガチに凍りついたそれを、止める間もなく、油をひいたフライパンに放り込まれた。果ては、卵を割るのに力加減がきかず、握りつぶす始末。とうとう見かねた二年生レギュラーが、乾を現役から半ば強制的に退かせ、下働きにまわしたのも、無理もないことであった。
 と、こんな騒ぎがあったのにもかかわらず、食卓に並べられた料理は実においしそうであった。ポテトコロッケにキャベツの千切り、ポテトサラダ、豆腐とあげの味噌汁……これらのほぼ九割が、と海堂の努力の結晶である。
 三人のテニス部員は、揃って掌をあわせた。
『いただきます』
 時刻は七時半。遅くもなく、はやくもない微妙な時間帯だが、あれだけのことがあったにしては上出来であろう。料理の方も、少年たちの舌を満足させるのには、充分すぎるほどの味であった。



 食器の後片づけやら、それぞれ宿題やらをすませた頃には、すでに時計の針は就寝に適した時刻を指し示していた。自分だけベッドで眠るのは申し訳ないと、乾は三人でリビングで眠ることを提案した。が、基本的に、先輩には礼儀正しい二年生たちである。乾は自分の部屋のベッドで寝るように勧めたのだが、彼はそれをよしとしなかった。
 十分ほどの間、先輩と後輩による押し問答が展開されたが、十分後にはリビングに乾家の現住人が集合していた。灯りが消され、室内に闇が落ちる。耳が痛くなるほどの静寂が、睡魔を呼び寄せるのに一役買ってくれそうであった。
 ……どれぐらいたってからだろうか。闇の中に、乾のささやきが洩れる。
「――、起きているか?」
 小さなささやきであったが、は鮮やかな色の瞳を開けた。海堂をはばかって、できるかぎり音量を下げて問いかける。
「はい……どうかしましたか?」
「…………」
 乾は応えない。闇の中からは、かすかな困惑の気配が伝わってくる。
「乾先輩?」
 不審そうに呼びかければ、乾は遠慮がちに問いを発した。
「……、本当に右腕は大丈夫なのか?」
「え? 肩は完治しましたよ?」
「いや、そうじゃない。今朝、お前が着替えている時に――」
「乾先輩……っ!」
 ――遮られた言葉。室内に漂う空気が、緊張と鋭さをおびる。先輩が何を言わんとしているのか、栗色の髪の二年生にはわかっていた。だからこそ、少々無礼を承知で語を遮ったのである。
「……腕は、もう大丈夫です。痛みも、何もありません。でも、そのことは、どうか他のみんなには、内緒にしておいて下さい。いまは――」

 ――いまは、まだ触れてほしくはない。

「そうか……わかったよ」
 乾はそっと息を吐いた。するとは、口調を穏やかなものにして言う。
「……すみません……」
「気にするな。誰にだって、触れられたくない部分はあるものだろ」
 大気が再びやわらかなものとなる。夜闇の中でかわされた会話は、壁の方を向いて掛け布団にくるまっていた海堂の耳にも、本人の意志とは関係なく滑り込んでいた。
「俺には……関係ねぇことだ」
 二年生レギュラーは胸中で呟き、寝たふりを決め込んだ。きつく両眼を閉ざす。別に咎められたわけでもないのに――何故か、聴いてはいけないことを聴いてしまったような、そんな気がしたからだ。
 ――自分には、何の関係もない。
 そう思うのに、気がつけば、海堂は友人の名を呼んでいた。
「おい……
「海堂? キミも、起きてたんだ……」
 驚きよりも、気まずさのたゆたう声が、細く大気を揺らした。がどんな顔をしているのか、海堂には夜闇の中でもはっきりと想像できた。きっと、整った顔を辛そうに歪めているに違いない。
「――いまは……何も聴かなかったことにしといてやる。だがな、あんまり無理すんじゃねぇぞ……お前に何かあると、桃城の野郎たちがうるせぇからな」
 それだけだ、と自分でも愛想のない口調だと思うそれで、やはり壁の方を向いたまま言い放った。言い放つと、二年生レギュラーは、室内が暗くてよかった、と心底思った。きっといまの自分の顔は、これ以上にないくらい、上気しているだろうから。
 三人もいるせいで少々狭く感じる空間に、沈黙の帳が降りる。
 ややあってから、青緑の瞳をした二年生の唇が動いた。
「――ありがとう」
 友人からの返事はなかった。照れ隠しのために、わざと黙り込んでいるのだろう。そんなところが、とても海堂らしいとは思う。
 と、てっきり眠ったかと思っていた乾が、ぽつりと呟いた。
「全く、いい奴らだよ、お前たちは」
 一瞬、先輩が何を言い出したのか、海堂ももわからなかった。それぞれの体勢を保ったまま、心の眼だけを見かわす。


「その真っ直ぐで、優しい心のまま、俺たちのあとを継いでくれよ」


 いつもならば、淡々と響くはずの声が、不思議とあたたかい。


 海堂は何も言わない。
 も何も言わない。

 ――けれども。

 乾の言葉が、二人の二年生の心に、一抹の寂しさを抱かせたのは間違いなかった。



 ――夜は静かに深くなっていく……。






                    ――Fin――



 <あとがき>

・今回のお話は、乾くんが中心でした。タカさん同様、普段あまり書いていない人なので、口調も性格もかなり適当となっております; イメージを壊された方、すみません;
 第一部の中でも、一番不思議な内容のお話だったと、自分でも思います(^^;) 前半はやたらとギャグっぽいくせに、最後の最後で少々シリアスに、と差が大きいです。乾くんは家庭科があまり得意そうではないなぁ、とか思っていたら、何故か上記のような展開となったのですが……これは得意じゃないとかいう問題を、遥かに超えていますね; 特に料理が; 
 最後はくんのことを絡めつつ、夏が終わった後のことを示唆しています。乾くんに限らず、現三年生はあれだけ個性の強い人たちですから、いなくなったらきっと寂しいでしょうね。海堂くんとかも、はっきりとは口にしないでしょうけれど、心のどこかで寂しさを感じたりするのではないでしょうか。
 ここまで読んで下さって、ありがとうございました。



                                       2004.10.8    風見野 里久