『――やらせて下さい』
の若々しい頬から顎にかけて、大量の汗が滑り落ちている。それらの大半が脂汗だということを、この場にいる皆が知っていた。
『だが、これ以上やったら……!!』
『しばらくの間、テニスができなくなるよ。最悪の場合は――』
今後のことを考え、大石や不二たちが再三棄権するよう勧めた。その気持ちに感謝しつつも、は頑なに首を横に振り続けた。
――真っ直ぐに自分を見据えたその青緑の双眸を、俺はきっと忘れないだろう……。
その瞳にかけて
練習前、たいてい桃城と打ち合っているが、この日は海堂と試合をしていた。
バンダナを巻いた少年の右腕が、下から上へと大きく軌跡を描いた。ボールは急角度でコートへと飛び込んでいく。海堂の得意技のひとつである「スネイク」だ。は地を蹴った。コート内に風なき風を起こし、打球にあっさりと追いつく。白い手首が閃いたかと思うと、ボールはうなりを生じて海堂側のコートへと返った。海堂は走ったが、二瞬ほどの差で間に合わず、球はコートの外へと出てしまう。
「30―0!」
審判を務めている桃城の声が上がった。
いまのところが優勢であった。が、青緑の瞳をした少年の認識は、甘くなかった。体力のない自分では、この優勢がそう長く続かないことを知っているのだ。大きく息を吐き出すと、その口元に少しばかり自嘲めいた笑みが浮かんだ。バンダナを巻いた少年は親しい友人ではあるが、ひとりの選手としては、の苦手とするタイプであったのだ。
海堂は手の甲で汗を拭いつつ、ネットを挟んで反対側に立つ友人の姿を眺めやった。肩で息をしている。この時の彼の瞳は、現実ではない、過ぎし日の光景を映していた。
それは青学のルーキー・越前リョーマが入学してくる以前のこと。その月のランキング戦で、すでに一敗を喫していた海堂は、最後の対戦相手として、同じく一敗のとあたった。部内でも一、二を争う駿足を誇るは、スネイクを使う海堂にとっては、相性の悪い相手だ。通常ならば、負けるとまではいかなくとも、苦戦は必至であった。そう、通常ならば。
「ネット! 0―30!」
打ち返されたボールがネットに阻まれ、力なく地面を転がった。青緑の双眸を持つ少年は、上半身全体を使って呼吸をしている。ラケットを持つ右腕が力なく垂れ下がる。
あまりにも一方的な戦いであった。がまだ一ゲームもとれていないのに対し、海堂はすでに四ゲーム連取している。いくらが体力がないとはいえ、ほとんど自身のミスによってゲームを落としているのだ。彼の実力を考えれば、これは明らかに異常であった。
理由は海堂にもわかっていた。友人は、右肩を痛めているのだ――。
いつも穏やかな顔が、苦しげに歪められている。見かねた大石が試合を一時中断した。
「、これ以上は無理だ。ここまできて残念だろうが、棄権した方がいい」
駆け寄ってきた桃城も、心配そうにの顔を覗き込んだ。
「そうだぜ、。脂汗かいてるじゃねぇか。棄権しろ」
「棄権」という言葉に、はラケットを握る手に力を込めた。栗色の前髪の下で、青緑の双眸が強い光を放つ。
「大丈夫。まだやれるよ……いえ、やらせて下さい」
荒い息の下にささやかれた言葉に、大石と桃城は互いの顔を見合わせた。一歩下がって成り行きを眺めていた不二も、眉をひそめてみせる。
「だが、これ以上やったら……!!」
副部長が最後まで言い切れなかった部分を、不二がひとつ頷いて引き継いだ。
「しばらくの間、テニスができなくなるよ。最悪の場合は――」
――二度とラケットを振ることはできないかもしれない。
が、の態度は毅然としており、一片の動揺すらみせようとしなかった。
「ここで僕が棄権して、それでレギュラーになれたとしても、海堂が納得するとは思えません」
この言葉には、大石や不二、そして桃城も押し黙った。
傍に寄るに寄れず、話に耳を傾けていた海堂は、弾かれたようにの顔を見やった。その視線を感じ、青緑の双眸を持つ少年は、唇を微笑のかたちに歪めた。海堂という友人が、どれだけ努力をしているか知っているから。だからぶつけるのだ。本来の力には及ばずとも、いま自分の持てる力の全てを。そして彼には堂々とレギュラージャージを着てもらいたい。それが自分の望みだ。
桃城はため息をつくと、無言で天を仰いだ。視線を下ろし、親友の左肩に手をおく。
「……馬鹿だよ、お前……」
「……かもしれないね」
「だけど、嫌いじゃねぇよ、そういうの。やってこいよ、お前の納得のいくまで」
「――ありがとう」
は親友に笑いかけると、大石や不二に一礼して再びコートへと入った。青緑の瞳を真っ直ぐに海堂に向ける。
「待たせてごめんね、海堂。続きをやろうか」
バンダナを巻いた少年は、滅多に示すことのない動揺を、わずかに示した。スネイクを使って相手を走らせ、その体力を奪う自分の戦い方は、不調である友人にはあまりにも苛酷なものだ。かといって、手を抜くなどというのは、彼に対して失礼だろう。
海堂の心の内を読んだのか、青緑の双眸を持つ友人は、微笑して言った。
「遠慮はいらないよ、海堂。全力でいこう、お互いに」
「……ああ」
痛みをこらえてまでコートに立つの、その想いに、海堂は応えなければならなかった。
結果は6―2での負け。体力も精神力も限界以上のものをだし、試合を終えた時の彼は、立っているのがやっとのようであった。が、とても清々しい表情をしていた。
そして交わされた、左手での握手――の右腕は、もう挙がらなかった……。
「ゲーム・アンド・マッチ! ウォンバイ海堂! 6―4!!」
は大きく肩を上下させながら、汗だらけの顔をほころばせた。
「やっぱり強いね、海堂は」
「いや、お前にもう少し体力があったら、俺もやばかった」
汗こそかいているものの、涼しい顔をした海堂は、正直な感想を述べた。するとにタオルを渡した桃城が、意外そうな顔をする。
「やけに素直じゃねぇか」
「うるせぇ……」
心なしか照れたように言うと、バンダナを巻いた少年は二人に背を向けた。半分以上自分の表情を隠すためだ。そのままクーラーボックスの方へ歩いていく。
桃城は何やら意味ありげな視線でライバルの背を見やったが、口に出したのは別のことだ。汗を拭いている友人に顔を向ける。
「それにしても、、持久力上がってきたんじゃねぇの?」
「そうかな……? 結局、最後までもたなかったけれど……」
「あの体力馬鹿を、基準にすんなって!!」
「体力馬鹿」呼ばわりされた海堂の、その怒気をはらんだ瞳が、肩ごしに桃城を射抜いた。が、射抜かれた本人は平然としたものだ。むしろ挑発的な笑みさえ浮かべている。
喧嘩が始まる。コート内にいた誰もがそう思った。が、今回は海堂からひいた。身体をかがめ、クーラーボックスからドリンクをとりだす。
「……」
「ん? っと……!」
海堂の方へ視線を転じるのとほぼ同時に、ドリンクが放り投げられてくる。はそれを両の手で受けとると、わずかに首を傾げた。
「水分補給しとけ。脱水症状になるぞ」
低い、そっけない声で言い放つと、海堂は自分のドリンクに口をつけた。少々わかりにくいが、口調にも態度にも自分に対する気遣いが含まれているのを、青緑の双眸を持つ少年は察する。
「ありがとう、海堂」
どこかおかしそうに、だが、にこりと微笑んで、はドリンクを飲み始める。
親友の傍で桃城は数瞬の間ぽかんとした表情をしていたが、やがて我に返ったように空を見上げた。
「……明日は雨だな、きっと」
他人に気を遣うことなど滅多にないライバルが、妙に素直な上に、相手の体調に気を配っている。これはきっと何かが起こる前触れに違いない。
バンダナを巻いた少年の手の中で、ドリンクの容器がみしりと嫌な音を立てた。
「さっきから喧嘩売ってんのか!? この野郎!?」
「あぁ!? てめぇが柄でもねぇことばっかしてっから、いけねぇんだろうが!? 明日雨だったら責任とれ!」
「何で俺が、明日の天気の責任をとらなきゃいけねぇんだ! このタコ!」
「うるせぇ! このマムシッ!!」
一度は持ち直していた状態が、一気に破局を迎えてしまった。何でこうなるのかな、とは内心で小首を傾げる。が、喧嘩をする友人たちを放っておくわけにもいかず、何か言おうと口を開きかけた。
と、そこへやってくる気配に気づく。その人物の姿を見た少年は、慌てて場所を譲った。
「やめろ!」
のものではない、鋭く切りつけるような声が響きわたった。
喧嘩をしていた二人の少年の動きが、ぴたりと止まった。一分ほどの間彫像のように固まっていたかと思うと、ゆっくりと首をめぐらす。二対の瞳には、二人の想像どおりの人物が映った。
手塚の双眸が、鋭く眇められる。その表情にふさわしい声が、短く言い放つ。
「二〇周だ」
『はいっ!!』
敬礼でもしそうな雰囲気で応えると、桃城と海堂はにラケットを預け、コートを出ていこうとする。
と、何を思ったのか、海堂が青緑の双眸を持つ友人を振り返った。
「おい、」
三本のラケットを抱えたは、瞳に無言の問いをのせて友人を見返す。
「……いや……その………」
いま自分は、他校の生徒からも畏敬の眼差しを向けられる、青学のレギュラージャージを着ている。だが、ひょっとしたら、これは目の前にいる友人が着ていたかもしれない。
「また……試合してくれるか………?」
「うん、僕でよければいいよ」
海堂は唇の端に微笑の欠片をこぼすと、コートを出ていった。
彼の選択と行動に応えるために。
いつも自分を真っ直ぐに見つめてくる、その瞳に恥じることのないように。
――自分のテニスをしてみせる。
――Fin――
<あとがき>
・今回は海堂くんを中心にもってきました。何だかとても難しかったです; イメージを壊された方、すみません; 桃くんと喧嘩をしている時は、それほど難しいとは思わないのですが、彼個人にスポットを当てると途端に書きにくくなるから不思議です(^−^;) くん対海堂くんの試合。当時くんは、とある理由で右肩を痛めてまして、本当はプレイをするのは辛い状態でした。そんな状態でも、海堂くんとあたるまで一敗しかしていないというのは、変に思われるかもしれません。が、彼が決して弱い選手ではないということが、わかって頂けるのではないでしょうか。ちなみにいまはもう完治しているので、問題ありません。
海堂くんは、くんのことを親友のように思ってはいるのですが、照れくさいので言いません。ですが、それはくんもわかっています(^^) 彼らと桃くんをあわせた二年生三人は、これからも何かと出てくると思いますので、よろしくお願いします。
ここまで読んで下さって、ありがとうございました。
2003.5.10 風見野 里久
