流れる時はゆるやかに……
境界線のない天上の世界に、光あふれる青の海がたゆたっている。そこからこぼれだした光は眩しいが、不快感はない。風に揺れる木々の音は耳に心地よく、木陰で休むのには、絶好の日和といえるだろう。
昼休みのにぎやかな空間を離れ、手塚は校舎の裏手に向かっていた。手には一冊の文庫本がある。生徒会や部活に忙殺されている日々の中、珍しくやってきた何の用もない時間を、ゆったりと過ごすつもりなのだ。
と、読書に適した場所を探していた手塚の足が、一本の木の前で止まった。いぶかしむような瞳が木に向けられる。何やら人の声が聞こえたような気がしたのだ。が、映るのは木だけで、人の姿はない。これが鳥などの動物の声ならば、手塚も気にしなかっただろうが、何となく木の根元へと歩み寄ってみる。
「……ね……ちょっと………」
どこからか、とぎれがちに声が降ってくる。やはり気のせいではなかった。そう思い、手塚は木の上をふり仰いだ。陽光を浴びて鮮やかに輝く緑の中に、小柄な少年がいた。危なげなく枝の上にのり、何やら鳥の巣に片手を伸ばしている。その姿に手塚は見覚えがあった。
「…………?」
小さな呟きであったが、聞こえたのだろう、少年が視線をこちらへと投げやってきた。手塚の姿を認めると、唇の前に細い指を立ててみせた。「どうかお静かに」と、その行動が語っている。了解した手塚は、黙ってひとつ頷く。
はテニス部部長に微笑みかけると、中断していた作業を再開した。伸ばされている手にはハンカチがあり、その中から小さな鳴き声がする。はハンカチで包んでいた雛を、そっと巣に戻してやると安堵したように微笑んだ。その様子を下から見ていた手塚は、全てを了解し、目元を緩ませた。
やるべきことを終えたは、身軽に枝から飛び降りた。とん、と小さな音を立てて着地すると、手塚に一礼してみせる。
「先ほどは失礼しました。鳥たちを警戒させたくなかったもので」
「いや、構わんさ。では、やはり巣から落ちていたのか?」
「はい、そうです。たまたま通りかかったら、雛が鳴いているのをみつけまして……」
あいにくと親鳥の姿も近くにない。かといって、そのまま放っておく気にもなれない。そこで人間の臭いが染みつかないようハンカチで雛を包み、巣へと連れていってやったのである。身の軽いには、木登りなど造作もないことだ。
青緑の双眸を持つ少年は手塚から少し離れて、ぱたぱたと制服をはたいた。
「手塚部長は、読書ですか?」
「ああ、珍しく時間があいているのでな」
「いつもお忙しいですからね、手塚部長は。お疲れ様です」
そこでテニス部部長は普段滅多なことでは崩さない表情を、穏やかなものにした。微かに笑ってみせる。
「ここには他に誰もいない。普通に喋ってくれて構わないぞ、」
学校内ではあまり使われることのない呼び名に、は一瞬きょとんとした顔をすると、二瞬目には嬉しそうに笑う。
「そう言ってくれると、嬉しいですよ、国光兄さん」
これまた学校内ではあまり使われない呼び名に、手塚はどこか照れたような顔をする。
が手塚と出逢ったのは、青学に入学する以前のことである。当時とある人物にテニスを教えてもらっていたは、その人物の紹介で手塚と知り合った。最初のうちこそ、二人は互いにどう接していいのかわからず、戸惑っていたものだ。が、は積極的に手塚に話しかけ、手塚も徐々にうち解けていき、いまでは兄弟のような関係を築いている。とはいえ、学校内では基本的に公私のけじめをつけ、先輩と後輩、あるいはテニス部の部長と部員という関係を崩すことはない。
だが、いまぐらいはいいだろう。二人ともそう思っていた。
「お前は何をしにここに?」
「国光兄さんと同じです。僕も、どこかでのんびりと本でも読もうと思って」
そう言って、は制服の上着のポケットから文庫本をとりだしてみせた。「普通に喋ってくれて構わない」と言われているのに、青緑の双眸を持つ少年の丁寧な態度と物言いは変わらない。が、傍で聞いている者がいれば、それまで敬意の念だけで構成されていた口調に、深い親しみが加わっていることを察したはずである。
そのまま二人は連れ立つかたちで歩き出す。しばらくは何でもない会話が続いたが、青緑の瞳を持つ少年は、ふと思い出したように手塚を見上げた。
「……腕の方は大丈夫ですか?」
「大丈夫だ。問題ない」
手塚は左腕を一瞥し、静かな口調で言い放った。は探るような視線で彼を見つめたが、口に出しては「そうですか」としか言わなかった。
と、今度は手塚の方が問いを発した。
「そういうお前こそ……どうなんだ? その……大丈夫なのか……?」
彼にしては少々歯切れが悪い。できればこのことには触れたくなかったが、そういうわけにもいかない、といった雰囲気だ。
「はい、完治しました。だから、兄さん、もうこのことは気にしないで下さい」
「しかし……」
まだ何か言いたそうな手塚に、は少しばかり強い口調で言った。
「兄さんに気にされると、僕も気にします。だから、気にしないで下さい。あれは断じて兄さんの責任ではありません」
手塚は少しの間を見つめ、やがて吐息とともに頷いた。
「……わかった」
「ありがとう、国光兄さん」
栗色の頭髪を揺らして、はにっこりと笑ってみせた。
「礼を言うのは、俺の方だ」
手塚は小さく微笑みかえしながら、胸中で呟いた。
一本の木の根元に腰を下ろすと、二人の少年はそれぞれの本を広げた。吹き抜ける風が頭髪を揺らし、頬を撫でていく。時折青緑の瞳をした少年が、語句の読み方や意味を問うぐらいで、それ以外は会話らしい会話はない。別に多くの言葉をかわさずとも、手塚もも互いの存在を確かに感じていたのだ。
どれぐらいしてからだろうか。手塚は自身の右肩が少しばかり重くなったのを感じた。視線だけをそちらに投げやり、穏やかな笑みを口元にたたえる。いつの間にやら、が自分に寄りかかって眠っているではないか。手塚は左手を伸ばすと、少年の手から本を抜きとり、自分の横に置く。
再び本へと視線を落とした彼であったが、二、三ページも読んだところで、何を思ったのか、本を閉じた。大きく息を吐き出すと、目を閉じる。瞼ごしにあたたかい光と風を感じつつ、手塚はやってきた睡魔へと意識を委ねた。
時は空をゆく雲のように、ゆるやかに流れていた……。
――Fin――
<あとがき>
・今回は手塚部長とのお話でした。手塚くんも少々難しかったので、ちゃんと書けているか心配です; お話の中にもありましたが、くんは手塚くんとは以前からの顔馴染みで、彼のことをお兄さんのように慕っているのです(^^) くんは色々と過去のある子で、上記のお話でも少しだけでています。それらは物語の中で少しずつ明かしていく予定ですので、よろしければおつきあい下さい。
ここまで読んで下さって、ありがとうございました。
2003.5.2 風見野 里久
