ひとつの繋がり、ひとつの勇気





 部室に向かう途中のの視界の片隅に、それが映ったのは偶然であった。青緑の双眸を持つ少年は、思わず歩みを止める。
「いまのは、ひょっとして……」
 小首を傾げつつ呟くと、その人物の消えていった方向へ靴先を向けた。視線を周囲に投げかけながら、校舎裏までやってくる。
 見間違いだったのだろうか。そう思い始めた頃、一本の木の下に捜していた人物を認める。はねた茶色の頭髪に、右頬に絆創膏をはった少年だ。
「……英二先輩……?」
 菊丸英二は、三年生でテニス部レギュラー。いつも明るく、跳びはねる姿はまるで猫のようなのだが、この時は様子が違った。何をするでもなく、ただ木の幹に背をあずけ、うつむいている。
 は静かに歩み寄ると、これまた静かに声をかけた。
「部活に行かないんですか?」
 そこでようやく菊丸は後輩の存在に気づいたようだ。弾かれたように顔を上げる。一瞬瞳に光がよぎったのを、は見逃さない。先輩である少年は、自分ではない、別の誰かがくることを望んでいたのではないだろうか。
「……あ、……うん……何か行きたくないんだ」
「理由を、訊いてもいいですか……?」  
 はテニスバッグを肩から下ろしながら、菊丸の隣に立った。先輩に倣い、背中を木の幹にあてる。
「……大石とね、喧嘩しちゃったんだ」
 消え入りそうな声で、菊丸は言った。大石秀一郎はテニス部副部長で、菊丸とのダブルスコンビでは黄金ペアと呼ばれるほどだ。そんなコンビであるから、当然二人は仲がよい。からすれば、喧嘩したということ自体が、とても信じられない。
 いま思えば、喧嘩の理由は本当につまらないことであった。が、高ぶった感情を制御しきれず、菊丸は勢いに任せて思わず言ってしまった。
『――大石なんて大嫌いだ!』
 菊丸はその場に座り込むと、両膝を抱えた。抱えた膝に額を押しつける。
「……だから、部活にはいきたくない」
「――でも、後悔されているんでしょう? 自分の言ったことを」
「……!?」
 伏せられた顔の中で、菊丸の大きな瞳がさらに大きく見開かれた。
「英二先輩と大石先輩は、黄金ペアと呼ばれるほど、繋がりが強い。互いに互いの存在を、一番身近なものとしていたはずですよね。それが突然消えてしまうのは、とても……寂しいことです」
……?」
 不審そうに菊丸は顔を上げた。何だかが、自分のことではなく、彼自身のことを言っているように感じられたのだ。
 ザァッ、と音を立てて木々の葉が鳴った。風に吹き散らされた葉が、頭上から舞い降りてくる。木漏れ日を眩しそうに見上げ、は語を紡いだ。
「英二先輩、空には雲が必要なんですよ。快晴の空は真っ青で綺麗だけれど、どこか寂しそうだから……そして雲が在るためには、空が必要です」
 一呼吸おいて、さらに続ける。
「もう先輩には、ご自分がいま何をすべきか、わかっていらっしゃるんじゃないですか?」
 菊丸は応えない。その瞳は何かを映しているようで、何も映してはいなかった。わかってはいるのだ。どうすれば一番いいのか。が、不安なのも事実だ。大石は赦してくれるであろうか。
「……信じてみてはどうですか……?」

 ――黄金ペアと呼ばれるほどの繋がりを……。

 沈黙の精霊が降臨し、しばらくの間、音といえば、木々の揺れるそれだけであった。長いようで短い沈黙を破ったのは、菊丸の方が先であった。勢いよく立ち上がると、両の手で自身の頬を叩く。
「よしっ! 俺、大石に謝ってくる!」 
 そこでを振り返り、彼らしい笑顔で言う。
、ありがと! 何か勇気がでた!」
 は言葉ではなく、にっこりと笑ってみせることで応えた。菊丸はもう一度礼を言うと、走り出す。きっと大石のところにいくのだろう。
 その背を見送り、は空を振り仰いだ。
「……繋がり、か。何だか……逢いたくなったよ………――」
 独語の最後の部分は、風にかき消され、誰の耳にもとどくことはなかった。



 いつもより少々遅れて部室に入ったは、菊丸の歓迎を受けることになった。扉を開けた瞬間、半ば体当たりのような勢いで飛びつかれる。
ーっ!!」
「うわっ!?」
 菊丸の方が自身よりも背が高いのも手伝って、は大きくよろめいた。後方に倒れ込みそうになる。と、その背が何かにぶつかった。
「おっと!」  
 聞き慣れた声に、そちらへ視線をやれば、ちょうど桃城がやってきたところであった。倒れそうになっていた身体を支えられる。
「ありがとう、桃。ごめん」
「いいってことよ。それより、どうかしたんっスか?」
 言葉の後半は、に飛びついた三年生に向けられていた。菊丸は「ごめん、ごめん、つい」と謝ると、後輩から離れた。
「何でもない。、本当にありがと!」
「うまくいったみたいですね、英二先輩」
 ふと双眸を動かすと、少し離れた所から大石がこちらを見ていた。「ありがとう」という言葉を、浮かべた微笑に含んで。
「よっしゃあ、大石! 今日もガンガンいくぞぉー!!」
「よし! やるか、英二!」
 何やら張り切った様子で出ていく黄金ペアを見送ると、桃城は訳がわからない、という顔をする。
「何かあったのか? 英二先輩たち?」
「うーん、ちょっとね」
 青緑の双眸を持つ少年は、曖昧に笑って応えた。桃城はさらに訊きたそうではあったが、軽く肩をすくめただけで、それ以上は何も言わなかった。
「ねぇ、桃」
「ん?」
「繋がり、って、いいものだよね」
「はぁ? 何だよ? 急に?」
 不思議そうに問いかけてくる親友に、は小さく声を上げて笑う。
「ハハッ、ごめん、何でもないよ」

 窓の外の世界には、鮮やかな青空がひろがっており、そこには白い雲が寄りそっていた。



                    ――Fin――



 <あとがき> 

・菊丸くんに初挑戦してみました。彼の口調がまだよくわかっていないので、適当になっております。イメージを壊された方、すみません; 今回のくんには、相談役になってもらいました。笑っていることの多い彼ですが、抱えているものがないわけではないんだ、ということを、少しだけ書いてみたつもりです。
 まだ日常風景しか書いておりませんが、そのうちくん対誰かの試合風景に挑戦してみようかと思っています。
 ここまで読んで下さって、ありがとうございました。



      2003.4.17    風見野 里久