第七章   蒼銀の瞳の青年





 窓の外では、夜の闇をさらに厚く濃い雲が覆い、月や星の光もとどかない。数億にも及ぶ雨滴が空と大地を結び、時折雷龍の牙が閃いて、地上を不気味に照らし出した。
 宇宙の中心ともいうべき聖地の、女王謁見の間には、外の世界に負けぬほど暗い空気が満ちていた。皆が覇気を失い、表情を翳らせている。たとえ陽光が射し込もうとも、この場を明るく照らし出すことなど、到底不可能であろう。
「――して、マルセルとゼフェルの容態はどうなのだ?」
 問いかけるジュリアスの声には、いささかの揺らぎもないようであった。内心はともかく、いま守護聖を統べる立場にある彼が、動揺を表にだすわけにはいかない。
「あー、幸い、二人とも怪我の程度は軽いですよ。ただ、ランディ同様、身体が衰弱しています。当分の間は、安静にしている必要があるでしょう」
「そうか……」
 ルヴァの言葉に、初めてジュリアスの表情が動く。光の守護聖の安堵の吐息に、数人のそれが重なった。現在謁見の間には、光、闇、地の守護聖と、女王補佐官であるディアの姿がある。
 ディアは美しい容貌に翳りをたたえ、両の手を組み合わせる。
「それで、ランディたちは――?」
 真っ先に返ってきたのは、重い沈黙であった。ややあって、守護聖の長が応える。
「マルセルの身体を乗っとっていた何者かは、我らを時空の狭間に葬る、と言っていた。おそらく、あの黒い穴によって、どこか別の空間へと転送されたに違いない」
「そうですね。その可能性は、高いと思われます。いま王立研究院の方で調べてもらっていますから、じきにみつかるでしょう。大丈夫ですよ、ディア、ランディたちのことは、きっとあの鳥さんが助けてくれています」
 地の守護聖がどこまでも優しい声音で語を紡げば、青ざめていたディアの顔に、わずかに生色が戻ってくる。彼らの話にあった蒼銀の鳥は、何度もランディを助けていたという。ならば、今回もきっと――。
「――確かに、助けたな」
 それまでずっと沈黙していたクラヴィスが、半ば独り言のように呟いた。二人の守護聖と女王補佐官が、ほっと息を吐きかけ――続いた言葉に、表情を凍りつかせる。
「己の命とひきかえに――」
 驚愕の色をたたえた三対の双眸を一瞥し、闇の守護聖は瞑目した。あの状況下だ。おそらく自分だけであろう。あの時起こった全てを見ていたのは。

 予感が、したのだ。
 具体的な何かには結びつかない、漠然とした予感が。

 あれは、このことだったのか。

 ――あれほどの叫びを、心の全てをかけたような慟哭を、彼はいまだかつて聴いたことはない。





 ……漆黒の闇の中に、蒼銀色の光がたゆたう。
 ゆらゆらと、頼りなく、儚く揺れて。
『――やっと、逢えたね』
 聴いたことのないはずの「声」なのに、どこか懐かしい。
 ――今度は、俺が助けようと思ったんだ……。
 かの人は、何度も自分を支え、助けてくれた。時間がない、と言っていたのにも、かかわらず――。
 ――力になりたかった。何かしたかった。
 それなのに――。
『導けるのはここまでだ! さあ、いけ! その心を、未来へと繋げ!!』
 手を伸ばす。
 必死で、必死で手を伸ばした。腕がちぎれても構わない。どうか、どうか――!
 蒼銀色の光が、泡のように弾けて消える。
 ランディにできたのは、何もない闇に手を伸ばしたまま、声にならぬ声で叫ぶことだけだった……。





 誰かのあたたかい手が、そっと自身のそれに重なる。同時に感じた、自身の頬を滑り落ちる冷たい雫――。
 重たい瞼をどうにか持ち上げ、ランディはそちらを見やった。
「――お兄ちゃん……大丈夫……?」
「……――……」
 無意識のうちに呟いた名は、一体誰のものだったのだろう。ランディ自身にもわからない。銀色の大きな瞳を瞬かせ、少女はにこりと微笑んだ。少年の手に重ねた、自身の小さなそれに力を込め、まるで歌うように言葉を紡ぐ。
「大丈夫、大丈夫だよ。どんなに悪い夢もね、精霊様がきっと追い払ってくれるから。だから――泣かないで」
 そこで初めて、風の守護聖である少年は自分が泣いていることに気づいた。瞬きするほどにこぼれる雫に、震える喉で深呼吸する。痛む腕を無理矢理動かし、目元を覆う。無性に笑ってやりたい気分だった。
 と、小さなぬくもりが離れる。少女が立ち上がったのが、気配でわかった。
「待っててね、いま兄様を呼んでくるから」
 ひょっとしたら、気を遣ってくれたのだろうか。少しだけずらした腕の下から見やれば、少女の小さな背中が扉の向こうに消えるところだった。パタパタと、軽やかな足音が遠ざかっていく。
 ――ここはどこなのだろうか。
 霞がかかった思考が、ようやく動き始める。見たことのない部屋、見知らぬ少女。身体の各所が痛むことからして、自分は怪我をしているのだろう。
 だが、どうして――?
 いつの間にか涙がとまり、かわりに頭が混乱し始める。疑問ばかりが脳裏をめぐり、何ひとつ答えがでてこない。
 と、そこへ小さくノックの音が聞こえた。静かに開かれた扉の向こうから、ひとりの青年が姿を現した。
「失礼するよ。妹から気がついたと聴いたのでね。大丈夫かい?」
 そう言って、穏やかに笑いかけたのは、蒼銀の瞳――。
 それまでどこかぼんやりとしていたランディの意識は、視界におさまった蒼銀色の輝きによって、急速に回復した。身体の中で、鼓動が一際大きく鳴る。
「――あ……っ」
 目に映る全てのものが遠のき、かわりに甦る凄惨な場面。自分をかばい、目の前で灼かれ、引き裂かれていった蒼銀の翼――。
『――導けるのは、ここまでだ!』
「あ、あ、あぁっ……!」
 呼吸が不規則に乱れ、冷たい汗が全身に噴き出す。たまらず上体を跳ね起こし、各所に走る痛みを無視して拳を握りしめた。きつくきつく、それこそ爪が皮膚を食い破るのではないかと思えるほどに。
「……俺はっ……!!」
 身体が、心が、軋むような音を立てる。
 痛かった。まるで身体の一部を抉り取られたように。
 痛くて、痛くて、どうにかなりそうだった。
「……俺はっ……俺のっ、せいで……あの人は……っ……!!」
 今度は俺が助ける――そう誓ったのに。
 それなのに、自分を救うために、『あの人』は――。
 眦に滲むものが、悔しさによるものなのか、それとも悲しみによるものなのかはわからない。が、どうしてもとめることができなかった。せめて、と必死で歯を食いしばり、嗚咽を押し殺して、呻くような声を発する。
 ――泣くことすら、いまの自分には許されない。
 そう、全ては、無力な自分のせいなのだから。
 口ばかりで何もできない、弱い自分。助けられるばかりで、助けることができない。そんな情けない自分が赦せない。
 と、あたたかなものが拳に降りてくる。
「――何があったのかは、私にはわからないし、訊くつもりもない」
 蒼銀の双眸を持つ青年は、かたく握りしめられた拳にのせた、自身の手にそっと力を込める。
「けれど、これだけは言わせてもらう。自分を追いつめるのはやめなさい。そんなことをしても、誰も喜ばないし、ましてやそれで戻ってくるものなど、何もありはしないのだから――」
 自分を責め、追いつめ、それで失った何かが戻ってくるのであれば、皆がそうするだろう。だが、現実はそれほど甘くはない。どれほどに悔い、嘆き、責め立てたところで、戻ることのないものは、決して戻ってこないのだ。ならば、必要以上に己を責め、追いつめたところで、何の意味もない。むしろそれで自身を損なうようなことになれば、何かをしたいと思った時に、何もできぬではないか。
 ランディはゆるゆると顔を上げた。いまだこぼれだす涙を拭いもせずに、自身を気遣うように覗き込んでくる青年を見やった。
 ――この人は、誰なのだろうか。
 いまさら、本当にいまさらだったが、風の守護聖である少年はそう思った。つい一瞬前まで、あれほど痛みを訴えていた心を、まるで癒すように語を紡ぐ青年。この、どこまでも深い双眸を持つ彼は、一体誰なのだろう。
 晴れわたった空を思わせる青の瞳が、しっかりと自身を映したことに気づき、青年は淡く微笑んだ。




 ――不思議な人だ。
 あたたかな湯気の立ちのぼるカップを手に、ランディはぼんやりとその青年を眺めやった。ベッドの側にある椅子に腰かけ、同じようにカップを手にしている青年は、年の頃は二十代前半というところだろうか。蒼みがかかった頭髪に、鮮やかな蒼銀の瞳。すらりとした長身には無駄がなく、それは立ち振る舞いも同様だ。
「少しは、落ち着いたかい?」
「え? あ、あぁ、はい」
 我に返ったように、風の守護聖である少年は頷いてみせる。いくらまだ思考がうまくまわっていないとはいえ、出逢ったばかりの人物をじっと見つめてしまうとは、失礼だったかもしれない。
「す、すみません……!」
 視線を青年からはずし、顔をうつむかせる。自然と覗き込むかたちになったカップの中に、ひどく頼りない表情をした自身が映っているのを認める。
 ――俺は、一体何をやっているんだろう……?
 力になりたかった人を救えず、助けてくれた人を不快にさせて。自分が他者より優れていると思ったことはないが、この時ほど情けなく思ったこともなかった。
「――キミは、何か謝るようなことをしたのかい?」
 微笑を含んだ声音に、ランディは思わず視線を持ち上げる。そこにあるのは、「不快」などとは無縁の、それどころか優しさと労りに満ちた顔であった。
「少なくとも、私には心当たりはないが。むしろ――キミの事情も、抱えているものも知らずに、好き勝手なことを言ってしまった私の方こそ、謝るべきだ。――すまない」
 真摯な口調で頭を下げられ、ランディは慌てた。
「そんな、謝らないで下さい! あなたは、何も悪くないです。むしろ、俺の方が……助けてもらったみたいなのに、お礼も言わずに、勝手に混乱して――すみませんでした。それと、ありがとうございます」
 背筋を正し、きっちりと礼を施す。たったそれだけの動作で、身体のあちらこちらが鈍く痛んだが、それは伏せた顔の中に隠した。
 蒼銀の双眸を持つ青年は、口の端に笑みをこぼす。
「それこそ、謝ってもらうようなことでもなければ、礼を言われるほどのことでもないんだが……堂々めぐりになるからやめようか」
 そこでカップを傾け、ココアを一口呑む。最初はコーヒーを淹れようとしたのだが、怪我人の身体にはあまりよくないだろうと思い直し、ココアにしたのである。
「とにかく、そんなに気にすることはない。困った時は、お互い様さ」
 穏やかな微笑みが、見る者の心を落ち着かせる。リュミエールやルヴァともまた違った、優しく、器のひろさを窺わせる笑顔だ。青の瞳をした少年はカップに口をつけながら、思わず表情を緩ませる。
 ふと青年が安堵したように息を吐く。
「……よかった。もう、大丈夫のようだね」
「え?」
「気を悪くしないでほしいが、さっきまでのキミは、本当に抜け殻のような感じだったから――心配したよ」
 ランディは今度こそ、恥じ入ったように双瞳を伏せた。本当に、自分は何をやっているのだろう。自分のことばかりに手一杯で、向けられた心にまるで気づきもしないで。こんなことで誰かを助けようなどと、よくも考えたものである。
 と、蒼の髪の青年は片手を伸ばし、少年のやや癖のある髪を撫でた。
「仕方ないさ。色々と大変な目に遭ったんだ。誰だって、自分自身で手一杯な時はある。恥じる必要なんて、どこにもない」
 どこまでも優しい声音だった。髪を撫でてくれる手は、幼い頃によく差し伸べられたそれに似ている。優しくて、あたたかい。
 ――本当に、不思議な人だ。
 改めてそう思い、ランディは目の前にいる青年を見やった。全てを見透かすような台詞も、彼の双眸を見れば、納得してしまう。この眼差しの前には、きっとどんな偽りも誤魔化しも通用しない。ただ真実のみを見通す――そんな気がした。
「あぁ、そういえば、まだお互いに名前も知らなかったな。私は、ユレン。もしよかったら、キミの名前を教えてくれないかい?」
「あ、すみません、忘れてました。俺は、ランディといいます」
「――ランディ、か……」
 風の守護聖である少年は、軽く掌をかためた。先ほど自身の爪で傷つけてしまった手には、新しく包帯が巻かれている。
 ――この人は……。
 瞳の色が似ているから、そう思うだけなのかもしれない。だが、眼前にいる青年は、『あの人』を、あの蒼銀の鳥を思わせる。『あの人』の死を信じたくない、自分の都合のよい思い込みなのかもしれないけれども。
「あ、あの、ユレンさん――」
 確かめたい。もしも、もしも、彼が『あの人』ならば――。
 わずかに身を乗り出す少年を、ユレンは片手をあげて制した。
「まあ、待ってくれ、ランディ。キミも、色々と訊きたいことや、確かめたいことがあるんだろうが、彼が帰ってきてからの方がいいだろう」
「彼?」
「ああ、いま妹が呼びにいっている。キミより数日はやく目が覚めてね、身体も大分回復したから、軽く散歩に――あぁ、帰ってきたようだ」
 少し待っていてくれ。サイドテーブルにカップをおき、ユレンは席を立った。
 自分以外にも、誰かここにいるのだろうか。ランディは当然ながら疑問に思ったが、答えを与えられるまでさほど時間はかからなかった。扉が開かれ、蒼銀の瞳の青年に続くように入ってきたのは――。
「リュミエール様……っ!?」
 声の大きさが、そのまま彼の驚きの深さを表している。が、自身の状態を無視してのことだったため、息が詰まるような痛みを覚えて、思わず顔をしかめる。
「あぁ、いけません、ランディ。あなたは怪我人なのです。安静にしていなくては……」
 リュミエールは慌てた様子でベッドの側に駆け寄り、思わず上体を折った若い守護聖の身体を支え起こしてやる。咎める言葉を口にしながらも、壊れ物を扱うかのように繊細な手つきだ。
「……は、はい、すみません……でも、驚きました。まさか、まさかリュミエール様がいらっしゃるなんて……」
「わたくしもですよ。ですが、あなたをひとりにしなくてすんで、よかったとも思っています――心配しましたよ……」
 女性とも見紛う秀麗な容貌に、心からの安堵と喜びをのせる守護聖に、ランディは素直な感情の動きを覚えた。傷に障らない程度に頭を下げ、笑いかける。
「ありがとうございます、リュミエール様。ご心配をおかけして、すみません」
 そんなことはいい、と水色の髪の青年は頭を振ってみせる。ランディよりも先に目を覚まし、昏々と眠る彼を見た時は、正直生きた心地がしなかった。だが、いま彼はこうして起き上がり、笑いかけてくれている。それだけで充分だ。
 と、そこでリュミエールは、ユレンの存在を思い出したようであった。微笑ましげに会話を眺めていた青年に、丁寧に一礼してみせる。
「ありがとうございます、ユレン。本当に、あなたにはお世話になりっぱなしで」
「そんなことはお気になさらず。先ほど彼にも言いましたが、困った時はお互い様です。それに、大変なのは、これからではないかと――」
 言葉遣いが改まっていることに気づいたのは、水と風の守護聖のどちらが先であっただろうか。
「この星は、外への連絡手段及び交通のそれも一切ございません。つまり、あなた方が聖地にお戻りになるのは、容易ではないということです」
「聖地」という言葉に、二人は少なからず反応した。ランディなどは、思わず鮮やかな色の瞳をリュミエールに向けたほどである。自分が眠っている間に、そこまで話したのだろうか。
「そこまでは話していません」
 無言の問いに、水色の髪の青年もまた無言で応えた。
 声なきやりとりをどう思ったのか。ユレンは恭しい仕草で、その場に拝跪した。蒼い髪がさらりと頬に落ちかかる。
「――改めてご挨拶申し上げます。私は、『名も無き民』が長・ユレンと申します。このような状況ですが、我ら一族は、守護聖様方を歓迎いたします」
 文字どおり、声もない二人の守護聖を映し、蒼銀の双眸が透きとおるような笑みをたたえた。



                           ……To be continued.