中山 恵一(日体大野球部OB同期5963会統括) 球歴・実績
◎ 直近近況 2020年11月 コロナ禍でのスポーツジムでのトレーニング
◎ 近況 日体大野球部OB同期5963会 5963会NEWS
日本体育大学体育学部体育学科 硬式野球部卒業
33の社会人野球交遊録 1
33の社会人野球交遊録 2
33の社会人野球交遊録 3
33の社会人野球交遊録 4
33の社会人野球交遊録 5
33の社会人野球交遊録 6
日本体育府大学野球部 熱いあの時館
学校法人 日本体育大学 日本体育大学
設置学校 日体幼稚園 日体柔整専門学校 日体桜華 浜松日体 日体大柏 日体大荏原
33の社会人野球とは? 日本体育大学野球部OB 中山恵一
○初めに・・・
現役を退いて×年になる。
部屋のガラスボードを整理した。序でに嘗てのユニフォーム グラブ スパイク 写真 記録 資料
データ etcを整理した出るわ出るわ 皮手袋だけでもバック一杯出てくるわ
そんな社会人野球での記憶‥私感を綴ってみました。
たかが社会人野球言うなれど、たしかにその上のプロがあるが、そこに活動しうる
選手はその社会人野球で仕事として成立しそして生活してるのであり、
それに見合う成果を当然の如く求められ、それを成し得るのが責務であり必死に
石にしがみついても・・・
華やかな部分とその裏には現場の選手の心情はこんな表現で表せるのではないかな。
そんな表裏の一遍を記してみました。
○頭を殴られるほど目が覚めた一言
ちょうど社会人野球3年目で東京のチーム時 自身が中心打者としてプレーしていたのだが
その頃の自分は打者としてそれなりの成績をあげられていたのではあるが、メンタル面の
コントロールが未熟な故、成績に波があった頃である
東京都春季大会の帰り、球場からバスへ乗り込む途中あるおじいちゃんに呼び止められた
年は70過ぎであろうか 私はまるで面識がない 選手の親族関係?会社関連?
まるで思い当たらない 移動バスに向かう所でほんの少し立ち話をした
正直、どこか体悪いのかな?そんな思わせる感じであったのを記憶してる
その老紳士はこう話してくれた『私は野球が好きでね 以前は良く観ていたのだけど
今は君の本塁打を観に足を運んでるんだ 君の本塁打で気持ちがスッキリしてね~
ありがとう』こんな短い会話だったが、その時 お礼も言えず只、只
自分が恥ずかしく頭を殴られたかのような衝撃を受けたのを憶えている
まったく関連者でない方に君を観に来てるんだ この言葉は重かった
それまで“俺が・俺が”だけで必死にチーム内の競争をしてきてやっとのおもいで掴んだ
正選手の座を 無性に恥ずかしくなった
東京都春季大会 東芝府中VSスリーボンド
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この日からである我が為でなくそこに観に来てる誰かを今日の試合足を運んで良かったね
と貴重な1日の中でふと感じてもらえたらと大げさであるが観に来てる方々も含めその時間を
共有してる以上、その時を少しでも満足幸福感を得てもらえればそんな思いで打席に立つようになった
思い上がりではなく素でそれぐらいの器量でと言い聞かせるように成らせてもらえたのである
今まで波があった打撃もその日の調子云々関係なく平常心で対投手と迎えられるように
なったのをあのおじいちゃんに教えてもらったのである あの短い言葉の中に・・・・
おのずと若年時は若さゆえに感情むき出しで体は動くが頭動かず 年齢が行くと頭は動くが
体が動かず、それを頭と体のバランスが取れることが成果への原点ではないかな
いつもこんな事を自身に言い聞かせていたのを思い出した
しかしどうしても勝てない 勝てない 自身の成績あげていてもやはり社会人は勝って何ぼである
会社は利益を生まないものに対し公の場〔都市対抗〕に出なければ意味がないのである
私も中心打者として責任の重さで肝機能障害になるほどであった
でもあのおじいちゃんの言葉は私を十分救ってくれたのである
そんな折、静岡のチームに移籍話があり社会人野球では移籍は大変難しい時代で、苦慮したものだ
移籍先は若い選手ばかりだが、しかしながらスキルの高い選手ばかりで十分に勝算はあった
なにより自身が素で一緒に、苦しいときも隠さず泥だらけになって一から練習しようと強く感じたものだ
よく私よりスキルの高い若手らから『絶対しぶとく一本は打つよな 何でや~』と言われたが、そんな時
前出のおじいちゃんの話をする 小生意気な大西崇之(中日ドラゴンズ-読売ジャイアンツ-読売ジャイアンツコーチ)
初め若手はポッカ~ンとしてるだけだったが何しろ感謝の気持ちだよ そんな言葉を相談してくる若手らには話した
ものだ 本当に鏡を見ているようでなぜか笑えてきたものだ あの若手らも今や30代やしな~
私は公式戦では自然にオーバーアクションになった なぜか?本塁打などの時、特にドームなど
それにより観客の反響により 更に相手へのプレッシャーがかかるのは然り、勝利の確立条件を
少しでもあげる為であるが、しかしながら本音は観に来てくれてる方に感謝の意を心から表現
したいが為の行動であった 多くの社会人野球の中心選手が打って当たり前、抑えて当たり前のような
そんな空気の中で成果を要求されているだろうがもっと嬉しいときは嬉しいと悔しいときは悔しいと
素で対応しなければフラストレーションで自分自身が可哀想である
もっと自身の解放をおのずと成果が自然と近づいてきてくれるものだ
日刊スポーツPDF
2003.7
2015.5YouTube動画追加
2015.5新聞記事追加
○この一本が分かれ道(別れ道)
野球の現場にいると必ず辞めていくメンバーで“あいつ素晴らしいかったのに”こんな言葉をよく耳にした
こんな場面は社会人のみならず中学、高校、大学野球の現場でもである
しかし、どんな形だろうがその与えられた環境の中で結果を残して何ぼである
ノンプロの中で痛いほど感じたものだ みんなに同様に同じルールの中で競うのであるから
その機会が無いというならば自身にてグランドの中に落ちているチャンスを当然の事ながら
掴まなければならないのである 掴んで何ぼなのであると思う
這い上がってくる個々の集合体だからこそ強いチームを育むのは勿論の事、その中に阿吽の呼吸
というものが存在してくると強く教えられ学んだものだ
私にもこの打席というのがある
社会人2年目初春、開幕公式試合・愛媛松山での四国大会(日本生命戦)で得点は3-2 9回裏二死一塁の
場面、打者はベテランの中心選手有国さん(次期監督)の場面で当時、監督より代打を言い渡された
ベテランの選手にとってはこんな屈辱はなかっただろうと思う ベンチに戻る際、バットを投げつけていたのを
今でもはっきり憶えている そんな中、打席に向かいなぜか無心で落ち着いていたのを記憶している
長いインターバルの中 牽制後の初球 弾いた打球は左翼席へ代打サヨナラ本塁打にて
優勝候補、日本生命を降すことになった この初春、開幕試合の打席で、もし凡退していればと思うと
間違いなく、その流れを変えられず選手生命はその年オフにでも絶たれていたのではないかと思う
この打席からその後、レギュラーとしてそして4番打者として働かせていただいたが、
この運が、このめぐり合わせこそが自分を開かせていただけたそんな打席であった
四国大会 日本生命VSスリーボンド
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その打席を演出したのが5年後、移籍の件でも積極的に声をかけてくれ
かつ再度、同じユニフォームを着ることになる岡嶋博治監督(中日ドラゴンズ-阪急ブレーブス-国鉄スワローズ-
東映フライヤーズ-サンケイアトムズヤクルトコーチ)である
なにしろ勝負に対する真似のできない程の執念があるし読みカンに関しては驚かさせられたものだ
恩師・岡嶋監督には心底、鍛えてもらった 感謝の思いは何ものにも代え難い貴重な時を共有させて頂いたのは
宝物である 他から見ればこんな小さな出来事であるが私にとってはこの一打席、このめぐり合わせ運命こそが大きく
左右する分かれ道(別れ道)であったと確信している
余談な話しだがここ球場の横は競輪場と言うことでそれらしき観客がバックネット裏からだみ声が
かかる 試合後、そんなオッサンが握手を求めてきた“ありがとう ありがとう”後から聞いたのだが
そういう場所がら賭け事をしていたらしく勿論、レートはわかる通り、いわゆる大穴をこの本塁打が
呼び込んだらしい 多分、このオッサンも今宵は旨い酒であったろう
選手のタイプは大きく分けるとセンスのある者、センスの無い者、私は胸を張って後者であるが
しかしながら、その差を量でカバーしたことは自負している
後は技術は変わらなければその他の部分 メンタル関連のコントロール・分析に関しては
遮二無二 学び吸収したのを憶えている
単に下手だから人より数をこなしただけであるが、それでもこの世界ではやれたのではないかな
そんな多くの方とのめぐりあわせが私を育ててくれたのはいうまでもない
この一本というよりもこの出来事はある意味大きな分かれ道になったのではないかな・・・そんな出来事は
移籍し1月合流し順調に調整が続き静岡浜岡キャンプにて私の希望で早出打ち込みを十分にし
その際、打撃投手を毎回、勤めてくれたのがコーチ・野口勝治さん(中日ドラゴンズ) 強烈に学ばせてもらったのが
年は50半ば、しかしながらコースにしかっりと投げわけ最終日まで私の打ち込みにお付き合いしてくれた
その投球数たるは一般の方であればこんな真似は絶対にできないのではないかな?
プロとしての重さを強く学ばせて頂いたものだ
キャンプ最終 対トヨタ自動車にもおかげで二本塁打と順調な調整が進む中、対東海理化戦で
一塁捕手間のフライで同移籍した新谷捕手とぶつかり左膝靭帯損傷にその痛みが引かない
何処の西洋医学処方しても快方に向かわず、しかしながら自身の立場を痛感しているが故、簡単に
戦線離脱することができない。ましてや移籍をし会社からは十分な報酬を頂いてるにも関わらず
その当時のマネージャーが本音を溢した“同一般社員の3倍なのだから”それは私も痛いほど伝わっているし
自身が何よりその報酬に見合う個人的な成績は勿論、成果(都市対抗)をつかんで始めて評価に値すると
自身に言い聞かせていたし成果が出るまでは黙って邁進しようと心に決めていたものだ
当然の如く、勝って何ぼであるしいろんな改革は勝って耳を傾けてくれた時とそれまでは黙して
成果を出すんだと自身に言い聞かせていたもんだ
しかし、膝の痛みは抜けない。当然、東洋医学(針・灸・整体)等は個人的に体質があうのだがまったく
腫れ痛みがとれずにいたそんな中、顧問・江藤慎一さん(中日ドラゴンズ-ロッテオリオンズ-大洋ホエールズ-
太平洋クラブライオンズ監督-プロ野球名球会)が選手時代世話になったと言う方を紹介してくれ
新潟長岡に飛びお会いした いわゆる気功である 私は藁をも掴む思いで治療してもらい、只、手を添えるだけ
たしかに、非常に熱くなってくるしまいには痛いほどであった なぜか?今でも不思議であるが何と
その後、一週間もたたずに痛みが嘘のように抜けてしまったのである
やっと、満足いく状態で臨めたのが日本選手権予選である。対大昭和製紙との対戦で運良く二本塁打
と勝利に貢献できた試合で帰りの移動バスの中での出来事である
どうにか仕事ができた安堵感の中、おもむろに研究材料の試合経過ビデオが流れていた
勝利を決定づける自身の駄目押し本塁打が流れた時である
忘れられない出来事である若手選手が一斉に拍手が起こった 私にとって信じられなかった
東京のチームではありえない事である どこのチームもそうであるがこんな事で一喜一憂する事は
まずないだろう まして個人の打撃に対してである
途中、私だけ移動バスを降り自家用車にて自身のマンションに向かう際、自身の打撃の事でなく
打撃結果の事はどうでもよかった。。。。。
只、只、若手選手らの自然に起きた拍手がたまらなく嬉しくなり感激のあまり胸が一杯になった事を
忘れられないしこんなムードが底上げになっていったのではないかな
人は何事に感動し心を動かされるものなのか‥
私にはどんな何事よりも十分な出来事であったのはいうまでもない
その時の自然で純粋な空間・時間を貴重に思えている
創部したてのチームは敗戦という苦渋を何度も味わいその悔しさから選手等は純粋に勝つ喜びを
求めていたのである
この創部からの若手選手等と必ず、必ず、喜び合えるようにと心に刻んだ思いを鮮明に記憶している
報知新聞PDF
そう間違いなく沸々と着実に一歩一歩、確かめながら若手選手等の目の色が変わり始めてきたのを
“やれるのかな”から“やるんだ”に各々自らの道を切り開くために・・・
掲げた目的に向かい姿勢が行動が全てにおいて整然と研ぎ澄まされていくさまが目に焼き付いて離れない
必ず 必ず勝つんだ そんな雰囲気が充満しつつある事を全身で受け止め始めていたのを鮮明に記憶している
そしてそのみんなの強いエネルギーが・思いが翌年、代表権を掴み取る成果へと結実したのである
あのみんなの笑顔笑顔を忘れることはないだろう
素晴らしい確固不抜な瞬間に立ち会えた事を幸せに思う
第65回都市対抗野球 ヤオハンジャパンVSいすゞ自動車(1994年7月24日)
3番大西崇之(亜細亜大中退-ヤオハン-中日ドラゴンズ-読売巨人-同コーチ
7番石黒丈士(スリーボンド-平安高校コーチ) 投手コーチ/野口勝治(明電舎-中日ドラゴンズ)
監督/岡嶋博治(中日-阪急-産経-東映-ヤクルトコーチ) 顧問/江藤慎一(中日-ロッテ-大洋-太平洋監督-ロッテ・名球会)
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2003.7
2015.4YouTube動画追加
2015.5新聞記事追加
2016.4文面追記 YouTube動画追加
○納会が意味するもの
社会人野球の全日程終了後、何処の企業チームも行うと思うが必ず納会が行われる
いわゆる世間一般で言う忘年会のようなものなのだが大体の日程は当日、地方の宿に移動をし、宴会飲みまくり
翌日ゴルフコンペ等を行うのが何処も一緒ではないかな
選手・スタッフ・会社役員・関連が列席しチーム内表彰をかね翌年の更なる躍進健闘を
誓うのであるが、厳しい苦言を聞かなくてはならない場でもあるのである。
しかし、この納会としょうするもの単にその年の労をねぎらい楽しむものだけではなくその年、現役を退く者の
送別会でもあるのである
その年、現役を退くものにとっては複雑な心境であり学生のように3年・4年で退くという区切りがあるのでは無く
単に野球が好きだから・・毎日、一生懸命だから・・・皆無と言わないが選手でいる限り成績が全てではないかな
いわゆる戦力外または自ら限界・個人的な理由によって退く時がくるのだが、殆どの者が前者ではないか
選手生活が長ければそれに愛着があり自らユニフォームを脱ぐ者は皆無ではないかな?
毎年、翌年の選手が秋には確定し会社が許す登録枠にあわせ監督はじめスタッフが個々に
戦力外を言い渡すのだ 私の知ってる選手の中では来シーズンの選手若返りにより十分な成績を納めながら
通告を受けそのままその場で会社を後にした者もいるぐらいである
通告を言い渡す監督スタッフも酷な務めであるが強い組織を形成するには当然の流れでもあるのである
しかし、親しい者が通告を受けるのはきついものがある 本人も覚悟はしていても小さい頃から物心つくかつかない
頃から始めた野球をその場で取り上げられるのである 自身がその年調子がよくいい一年だったとしても
素直に喜べない自分がそこにはあったのを痛烈に記憶している
ユニフォームを脱がざるおえない大半の者が納会時(送別会)その無念さ故、送別の弁が嗚咽で言葉にならず
辛い場面を何度も見てきた その無念さは自身の成績対しのものでありユニフォームへの愛着からの心情が
ひしひしと伝わってきたものだ まさに表裏一体、明日はわが身なのである
この短い選手生活をどのように自身の人生として謳歌しきれるか満足であったものにできうるのかそんな事を考えながら勅旨したものである
しかし、その情を自身の中で消化しなくては翌年のシーズン等あったものでない
互いに腹を割って競った者達である たしかに何か穴が空いてしまった感である
現実を直視しその無念さを受けとめそれを自身のパワーに変えていかなければとてもやり切れない思いであるし
そうしなければ共倒れになってしまうぐらいである
何も大げさでなく社会人チーム所属の者は多かれ少なかれこんな心境ではないかな
納会と聞くとその年、満足いく成果をあげた者と退かなければならない者と何とも不思議な光景があり
それぞれの人生が凝縮描写されるそんな一時であった
毎日新聞PDF
2003.8
2015.5新聞記事追加
○職業としての社会人野球
社会人野球の年間試合数は60~80試合ぐらいでトーナメント方式の大会が多いがこんなものではないかな
都市対抗、日本選手権、スポニチの三大大会の他 登録県春季・秋季、リーグ戦、地方全国大会 地方主催大会
など企業チームで10前後にエントリーする形がほとんどではないかな
当時の企業のチーム運営費は○億円と聞かされていましたが...
勿論、会社側も選手として招くのであり、対象の選手に対し慎重に調査を行うものである。ある企業チームは
健康診断の結果で採用を見送るところもあり悔やんでた話を聞いたものです
只、一般入社し野球が好きだからでは当然、部に所属不可であり、野球そのものの評価が最重要なのである
最も企業によっては選手時の貢献度によりその後、現役後の昇進に関連してくる企業も存在しています
又、私の当時は野球部卒の形の選手が多くいたのですが今ではそれも必ず大学卒業者対象の方向になり
もしも認められても給料が高卒扱いなどの形で評価する企業が大半になり大学側も授業出席 卒業するように
練習枠を制限してるところが今では大半に変わってきました
給料区分も名目の中に貢献度により手当てが支給されている形であり、遠征費ならびに道具関係も会社より支給され
いますが、ここのところは企業により違いがありますが、私の場合は十分に道具関連には困りませんでしたね。
年明け本格的に始動し徹底的に体力強化に時間が割かれます私が1年目、合流したのが、2月でそのまま
キャンプに移行し大学卒業式も出られない形でした。先ず、一週間で走りこみの為、両足の皮が全てめくれ大学時とは
非にならないほど張り詰めた感を痛烈に記憶してますし、当初、ついていけるのか不安になったのが正直な心境でした
当然、仕事として野球に取り組むのですから、甘ったるい感覚は吹っ飛んでいきましたね
スポニチ大会(3月開催 社会人では球春を意味する)で幕開けの為、参加する企業チームは当然始動は更に早くなります
前年、成績が良くてもつまずけばその年にでも戦力外を言い渡される為、選手たちは年頭から必死なわけです
現役選手のサイクルは早く、平均でどうかな 何処も4年ぐらいではないかな
私は31歳まで現役でしたが多くの同期が一人、又一人とオフ時に現役を退く連絡を受け寂しい思いをしたのを
憶えています。みんながやはりその現役時に愛着を持ち真剣に取組んでいたからこそ、その無念さを痛烈に
感じたものです。その上がっていく同僚が口々に“お前は一年でも長くやれよ”と短い言葉ですが云わんとすることが
ヒシヒシと伝わり今一度、自身を見直し奮い立たせ厳しく言い聞かせていた事を思い出します
いつかは誰しもその現役から退くのですが今でも多くの同僚と会って酒を飲むのも一生の付き合い
になるのですからその同僚たちと共有した時間は貴重な一時であり個々の人間形成に大きな影響力を及ばしたのは
言うまでもありません
勿論、職業ですからその存在意義いわゆる成果を見出さなければなりません。とりわけ社会人では個人的な
成績は勿論ですが、チームとして公の場に出て初めて評価されるものです、ここがジレンマに陥るところですが
勝って何ぼなのです。勝てば官軍負ければ賊軍そのものでありあらゆる社員から小言は絶えず耳に入ってくるものです
これを一つで受け止めていたら一溜まりもありません自身の中でいくつも引き出しを作ることである意味、封印すること
に努めたものです。何しろメンタル面の修練は絶対必要であり誰しもが自身事になると冷静な判断が鈍るものです
それは自身がかわいいが為の自主防衛の一つであり野球に置き換えればこんなに練習したのに、こんなに練習してるのに
好結果がでない なぜ?こんな形で自らをネガティブ思考になり多くの選手が現役を上がる要因になっていたのではないかな
私自身、第三者的な部分で自分を評価するよう努めたものです。第三者的に自身を見れれば自身への過剰な思い入れ
は無く冷静に対処できるものです。逆に成績不振の自身を情けなくて笑い飛ばせたものです
ある名門企業チームに勝った時、その名門チームの会社応援席から個人名で罵声が飛んでいた光景にはさすがに
同情しましたが、彼らも同じ境遇の中、心中察するものを感じられたものです
関東選抜リーグ戦 日本通運VSスリーボンド
日本通運/投手・新井(駒沢大) 二塁手・宮下(東海大) 三塁手・乗松(日体大) 左翼・橋爪(日体大) 右翼・難波(東海大)
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仕事としてチーム内の競争も熾烈なものです。きれいな華やかな部分以外のダークな部分は存在します
いろんな意味で淘汰され個々で掴みとらなければならないのです
能書きではなく結果を出せばいいのです 最もシンプルなものなのです
私の場合、未熟な部分を練習で補う形でしたが体は正直です25歳ぐらいから悲鳴を上げ始めいわゆる椎間板ヘルニアです
ここで私は名医と出会えたのが運でした 当時、岡嶋監督が親交があった多くのプロ球団診察顧問だった片山整形の
矢橋院長先生(故人)を紹介してくれ椎間板ヘルニアは当時、手術すればリハビリを兼ねて一ヶ月は係る時代です現在は一日で
退院できるなんて考えられない時でした医学の進歩には本当に驚かされますが、プロでも肘などメスを入れることが
まだタブーな時です 今ではプロ村田選手の一例から桑田選手などメスを入れるのが常になりましたが.....
岡嶋監督の指示で先生のところに出向くと多くの患者さんで待合室は溢れていますがすぐに婦長より診療室に通され
診療してもらい、先生曰く“社会人で手術していたらクビになってしまうからな”と言いながら見たことも無い
巨大な注射器で付き添いの婦長に専門用語で赤・白と指示し直接、患部にあらゆる角度で液を注入するのだが
針を刺した状態で角度をかえ注入するものだから笑いが出るぐらいの痛みが前進に走ったものだ
多分、麻酔の一種 モルヒネ?かなと思うのだが一日もたつと不思議と痛みが忽然と引いたものだ
しかし後から通常、来院すると番号札を渡され2時間程度待つものだそうだ
ある時来院し番号札を持たない私に患者さんが話してくれたのである。常に多くの患者さんに対し後ろ髪惹かれる
思いであり、矢橋先生には配慮頂き、長く現役を続けられた事に本当に感謝している
現在、社会人野球で活躍する選手誰しもがどこかしら大なり小なり故障を持ちグランドにたっているのが現状であろうが
是非とも、個々の為、自身が選んだ道を存分に謳歌していただける事を心から願っている
2003.9
2015.5YouTube動画追加
○都市対抗・補強選手として4番を任されるという事 その覚悟
文面追加
第66回都市対抗 河合楽器VS日本IBM野洲(1995年7月26日)
2番中逵清匡(拓殖大-拓殖大前監督) 3番長谷部一彦(中央大) 4番中山恵一(日体大-スリーボンド) 5番清水達也(中央大-中央大監督)
遊撃手/盛隆章(亜細亜大-浜松大前監督) 投手コーチ/平田幸夫(中央大-中央大コーチ-柳川高校前監督)
監督/村瀬耕次(中京大-中京大前監督) コーチ/西原忠善(中央大-酒田南前監督-武相高監督) コーチ/新田紀之(亜細亜大-加藤学園前監督
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2016.4YouTube動画追加
○恩師・岡嶋博治監督からの教え
文面追加
都市対抗静岡予選代表決定戦/河合楽器戦 2本塁打を放つ恩師・岡嶋博治監督と一緒にプレイするのは今大会が最後となってしまった
○伊東スタジアム(鍛錬の地)
伊東温泉 伊豆伊東駅近辺の野球場 両翼90m、センター120m
1979年 巨人軍が下位低迷の打開策の一環として同所で厳しいトレーニングを全選手に課した
「地獄の伊東キャンプ」は今でも野球ファンの語り草とされているが東映フライヤーズ(現北海道日本ハムファイターズ)
などもキャンプを行った地である その後、ヤオハン所有となりヤオハン野球部専用球場として利用され創部3年目にて
全国都市対抗にでるなど在籍した選手個々が鍛錬の地として思い深い練習場でもある
突然の会社更生法適用により閉鎖され本年になり「伊東スタジアム」の取り壊し作業が本格的に始まり工期は予定より
遅れているが、来年末には介護老人保健施設(温泉)となる
取り壊し作業が本格化する直前、よく晴れた9月下旬に旅行がてら立ち寄り当時、ここはホテルも併設されてた関係
源泉がありすでにボーリング作業か進められており フィールドの砂はめくれ バックスクリーンも撤去され
当時の面影は消え失せ あとは生まれ変わるのを待つのみそんな状態でした
しかしながらここでの数々の思い愛着ある球場のひとつである
野球場 他社野球場などオープン試合などで行くと選手がいなくてもそのグランドにある空気 凛としたものが平然と
存在し心地よく伝わってくるものだ そこに集えし選手の思い何か野球場に足を踏み入れると心に芯が通る思いを
感じていたのを憶えている 公式戦の会場となる野球場 控え室 グランドに出るまでの通路 それぞれその球場の
持つ独特の雰囲気が宿っているのを感じる何とも言葉では表現できない緊張感が忘れられないな
グランドを見ればまずそのチームの礎を感じ取れるものです
私にとって球場とは神聖なものであり私に限らず野球人はそのグランドを丹念に大切に整備をしたものだ
またその球場にて集えた事を今でも感謝の思いは決して忘れられないな
2004.9撮
2004.11
□選手現役後
○企業・野球界での経験を学校教育・保健体育科教員として高校野球指導において
学校法人・日本体育大学の同経営傘下にある
[日体大荏原(東京)保健体育科教員として]日体大荏高校野球部助監督
文面追加
日体大荏原高校VS岩倉高校 東東京大会準々決勝(高校野球選手権大会予選 神宮第二球場)1983年7月
日体大荏原野球部OB 日体大野球部OB・中山恵一
2018.9YouTube動画追加
○原点はNITTAI 日本体育大学野球部
文面追加
関連NEWS(2011.6.17~6.19)
日本体育大学野球場前(日体大野球部同期面々)
左から萩原通之 高橋泰志 古城隆利(日体大監督・後輩) 中村大伸 久芳修平 狭間善徳 池田隆 中山恵一
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