それはアゼル・ラグナに関する一連の事件と騒動が、ひとまず落ち着いた、ある日のことだった。
熟睡していても、何かの拍子にふっと目を覚ますことがある。
この時のカール・リヒテン・シュバルツがそうだった。まだ太陽が東方の寝所から顔を出す数時間前、カールは何とはなしに目を開けた。ぼやけていた視界がはっきりした時、彼はギョッとし、思わず声を上げそうになった。
「――!?」
カールの目の前には、彼の弟・トーマの姿があった。いや、それだけなら、彼もここまで驚くことはなかっただろう。彼が驚いた理由は別にあった。そのトーマの姿が、兄の知っている十九歳のそれではなく、どう見ても十歳ぐらいのそれだったのだ。
自分は夢を見ているのだろうか。
軽い眩暈を覚えたカールは、そう思わずにはいられなかった。が、残念ながら現実であると理解すると、深い深いため息をつく。
通常の数時間前に起きだすはめになった彼は、ある場所に電話をかけた。つい先日までの事件と騒動の重要人物にして、九年ぶりに再会をはたした幼馴染みのもとへと。
早朝というよりも夜中に近い時間帯に、アゼルはたたき起こされることとなった。が、彼は怒りもせず「すぐに行く」と言い、実際十五分もしないうちにシュバルツ家へとやってきた。
「……ひょっとして、トーマ……?」
「ああ、ひょっとしなくても、そうだろうな」
コーヒーの入ったカップを口元に運びつつ、カールは頷いた。
アゼルは、兄のベッドの中で気持ちよさそうに眠る少年を見つめる。さすがにこれにはアゼルも驚いただろう、などと考えながら、カールは友人の様子を見るとはなしに見ていた。
「かわいい寝顔だね」
「……!!」
カールは口の中に含んでいたコーヒーを、あやうく吐き出すところだった。
それを気配で察したのだろう。アゼルが碧水の双眸を彼に向け、小首を傾げる。
「どうしたの?」
「……いや…お前、他に言うべきことはないのか?」
「え……?」
アゼルはきょとんとした顔をし、そのまま沈黙した。ややあって何かに気づいたように手を打つ。
「何があったんだい?」
「……普通、先にそれを訊かないか?」
「世の中例外はつきものだよ」
「その最たる者がお前だ」
と、胸中で呟くと、カールはコーヒーを差し出した。
「あ、ありがとう。で、何があったんだい? 俺の記憶が間違ってなければ、トーマは今十九歳のはずだけど?」
コーヒーの湯気を顎に受けながら、カールは頷いた。
「ああ、俺もそう思っていたさ。ついさっきまではな」
アゼルはカップを両手で包み込むように持つ。少しばかり童顔なこの青年が、このような仕草をすると、さらに幼さが増して見えた。
「その様子だと、原因もわかってないようだね」
「御名答だ」
さて、どうしたものか、とばかりに二人はカップを傾ける。カールはもとより、アゼルもにこやかな表情の下で忙しく思案をめぐらせていた。
半分ほど飲み終えたところで、アゼルが口を開く。
「まぁ、とりあえず、トーマを俺の家で一時預かればいいんだよね?」
「そうしてくれるか?」
「そのつもりで呼んだんでしょう?」
「まあな。すまない」
「気にしないで。お安い御用だよ」
アゼルは出会った頃と、何ら変わらない笑顔で応じた。カールも微笑してみせる。いろいろあったが、この碧水の瞳を持つ青年が笑顔を取り戻してくれたことが、何よりも嬉しかった。それを再確認したカールだった。
昼近くなった頃に、トーマは目を覚ました。翡翠の双眸に映った天井は、兄の部屋のものではなかった。一瞬恐怖を感じたが、よくよく周囲を見やれば、見知った部屋だ。以前この家には泊まりにきたこともある。
トーマはベッドから降りると、少し大きいスリッパに、小さな足をいれた。ぱたぱたと音をたてながら階段を降りていく。
と、その音を聞きつけたのだろう。アゼルがキッチンの方から姿を現した。
「……!?」
トーマは小さな足を急停止させた。それもそのはず。トーマの知っているアゼルは、まだ十五歳なのだ。が、目の前にいるのは二十歳以上の大人ではないか。
一体どうして? ここはアゼルさんのおうちじゃないの?
するとアゼルが何かに気づいたような表情をする。身体を屈め、混乱気味の少年に、優しく声をかけた。
「トーマ、怖がらなくてもいいよ」
「……アゼルさん…じゃ、ないんですか?」
「アゼルだよ」
トーマは大きな瞳をさらに見開いて、アゼルの顔を見つめた。
自分の知っている彼の面影を見出そうとしているのかもしれない。
「本当に、アゼルさん?」
「わかってくれたかな?」
アゼルがにっこり笑う。その笑顔に、トーマは見覚えがあった。彼は笑顔になると、アゼルの身体に跳びついた。
「アゼルさんっ!!」
いきなりのことにバランスを崩したアゼルだったが、見事に体勢を立て直すと、トーマの身体を抱き上げる。
「でも、アゼルさん、どうして急に大きくなっちゃったんですか?」
「う〜ん、いろいろとあってね」
アゼルは曖昧な表情で応えた。さすがに「俺が大きくなったんじゃなくて、キミが小さくなったんだよ」とは言えなかった。そんなことを言えば混乱させるだけだ。今は自分がアゼルだと認めてもらえただけでよしとしよう。シュバルツ兄弟の幼馴染みはそう結論づけるのだった。
と、トーマがキョロキョロと首をめぐらした。その表情はどこか寂しげだ。
「ん? どうしたんだい?」
「兄さん……やっぱり、いませんよね」
「あぁ、カールなら――」
アゼルの言葉を遮って、玄関のベルが鳴る。彼はトーマをそっとおろすと、軽やかな足音とともに、そちらへと向かう。トーマも好奇心から、これまたぱたぱたと彼の後を追った。
隠れてそっと様子を窺えば、アゼルが玄関で誰かと話している。
彼の陰で見えないが、わずかに見える服はどうも軍服のようだった。
軍人さんかな、と首を傾げていると、アゼルが手招きする。トーマの存在に気づいていたようだ。
「おいで、トーマ」
少年はそろそろと出ていくと、アゼルの足にしがみついた。
「トーマ、怖がらなくてもいいよ」
本日二度目の台詞をアゼルは口にした。そしていたずらっぽい笑みを口元に浮かべる。
「この人が誰かわかるかい?」
「……わかりません」
トーマはアゼルの傍に立つ人物をちらりと見上げると、首を左右に振りながら、消え入りそうな声では答えた。すると軍服を着た青年は苦笑したようである。少年と目線があうように片膝をつく。
「俺だよ、トーマ」
青年――カールがそう言いながら、軍帽をとる。
トーマは自分と同色の双眸を、じっと見つめた。優しい光のたたえられた翡翠の瞳。そう、自分は知っている。この瞳を。この人を。
いつも傍にいて、自分を見ていてくれる人……。
「――兄さん……」
「わかってもらえたようだな」
カールが微笑すると、トーマは大好きな兄の腕の中に飛び込んだ。
「兄さん! 兄さん! お帰りなさい!!」
「お帰りなさい」という言葉に、カールとアゼルは互いの顔を見合わせた。そして理解する。今のトーマにとって、兄は軍の仕官学校に入寮中の身なのだ。カールはあえて訂正はしなかった。
「ただいま、トーマ」
カールは小さな弟の身体を優しく抱きしめた。
その日、シュバルツ兄弟はアゼルの家に泊まった。にぎやかな食事が終わり、トーマが眠りにつくと、静かな夜の時間がおとずれる。
どこからか聞こえてくる虫たちの演奏と夜のもたらす静寂は、カールとアゼルに今日の出来事をふりかえらせた。
グラスを片手にアゼルがポツリと呟く。
「大変な一日だったね」
「そうだな……だが――」
アゼルは無言で友人の横顔に視線を移した。
カールは苦笑とも微笑ともつかぬものを、口元にたたえる。
「――ここ最近、緊迫とした事態が多かったせいか、今日のようなことなら、またあってもいい、と思ってしまう。不謹慎かもしれんがな……」
カールらしいことをカールが言うと、アゼルは唇をほころばせた。
「いいんじゃないかな。こういうことなら、さ。またあるんだったら、歓迎するよ」
「おいおい、まだ終わってないぞ。トーマは元に戻っていないのだからな」
「そんなこと言って、明日になったら、元に戻る、って、思っているんじゃないのかい? 仮に戻らなくても、トーマはトーマだもの、困ることなんてないじゃない。まあ、軍とかは大変だろうけどね」
アゼルがグラスを軽く掲げた。笑みを浮かべつつ、カールもそれに倣う。
「確かに、十歳だろうが、十九歳だろうが、トーマはトーマ……俺たちには、それで充分だ……」
二つのグラスが涼やかな音をたてた。九年ぶりの再会をはたした後、世の中が騒然とし、このようにゆったりとした時間を過ごす暇はなかった。久々におとずれた休息は、カールとアゼルに互いの、そして二階で眠るトーマの存在を認め合わせたのだった――。
翌日、カールたちの予想どおり、トーマは元の十九歳に戻った。
本人は昨日一日の出来事を全く覚えておらず、原因はいまだ不明である。ひょっとしたら、あまりに多忙な日々を過ごしている彼らをみかねた、神々のちょっとしたイタズラだったのかもしれない……。
−Fin−
<あとがき>
・ずっとシリアスで、ゾイドのみんなに苦労ばかりかけてしまうものを書いていたので、今回はちょっと遊んでみました(^−^;)
何だかよくわからない話にもなってしまいました。すみません。
こんなものですが、ツバサさん、受け取ってください。
2001.9.5 風見野 里久
※この創作は蒼海ツバサさんに差し上げました。
