絶え間ない波の音と、限りなく澄んだ空の色。

             ――時々夢に見て、思い出す。

        今も、きっとあの海は、優しい潮騒を奏でているだろう。






                   
追憶の海






「――

 潮騒の合間から、優しい声が聴こえる。

 長い黒髪の女性が、波打ち際で貝を拾っていた幼い少女に呼びかけた。

 名を呼ばれた少女は、「おかあさん!」と言って嬉しそうに走り寄る。

……」

 少女の母である琥珀の瞳の女性は、柔らかく微笑んで。

「……ごめんね……――――」

 せつなげな声を零して、幼い娘を抱きしめた。





「――……おかあさん……?」

 目を覚ますと、視界に入ってきたのは、自分の部屋の見慣れた天井。

 軽く目元を擦りながら、はベッドから起き上がった。

 窓のカーテンを開けると、壁にかけられたカレンダーを瞳に映す。

「……そっか。もうすぐなんだ……」

 納得したような、けれど淋しそうな笑みを浮かべて、机の上の写真立てを手に取った。

 幼い頃の――母親と一緒に写っている写真。

 と同じ、長い黒髪と琥珀色の双眸を持っていた母親。

 もっとも、が母親に似て生まれてきたということなのだが。

 双子の兄の夜凪も、顔立ちはやや違うが、その髪と瞳の色は同じである。

「……お母さん……」

 写真立てを抱きしめ、ひとり呟いて。

 溜め息を一つ零すと、それを元に戻して、身支度を始めた。





 燦々と輝いていた太陽が、西の空へと傾きながら、その色を染めてゆく。

 青学男子テニス部部長のしっかりとした声が、練習終了を告げた。

?」

 このテニス部の一の姫と言われるマネージャー・が、親友の名を呼ぶ。

 着替えを終えて、そろそろ帰ろうかと言葉をかけたのだが、しかし、テニス部二の姫はぼーっと前を見つめたままで。

姉ちゃん?」

 彼女の従妹であり、三の姫であるも呼んでみたが、依然として反応はない。

姉ちゃん!!」

「えっ!? な、何…?? どうしたの?」

 が思い切って声を張り上げると、ようやくが反応した。

 何があったのだろうと、周りをきょろきょろと見回しながら、琥珀の瞳を瞬きさせる。

「どうしたのじゃないよっ、さっきからずっと呼んでるのに!」

 相変わらずズレているというか、ボケている従姉に、はやや強い口調で言った。

 は「ごめんね、ちょっと考え事してたから…」と苦笑するように笑む。

「どうしたの? ? 何か悩み事?」

 親友であるが、心配そうな顔をして訊ねた。

「え? う、ううん。そうじゃないの、大丈夫」

 首を横に振って、はにこっと微笑んでみせる。

「おーい、! これから越前とバーガーショップ行くんだけど、一緒に行かねぇか?」

 すると後ろから、テニスバッグを担いだ桃城とリョーマが歩いてきた。

「あ、うん。いいよ」

「私も行きます! 桃ちゃん先輩!」

 振り返ったは微笑んで、は元気よく笑って、それぞれ答える。

先輩や先輩はともかく、何でまで……」

 歩み寄ってくるマネージャー達から、薄い金の瞳を外したリョーマが呟く。

「何か言った? リョーマくん」

 耳聡いがきつい視線を向けると、リョーマは「別に」と、顔を背けさせた。

「あ……ごめんね、桃くん、リョーマくん。私は今日、ちょっと遠慮させてもらう。夕飯の買い物して帰らなきゃいけないから」

 こちらに歩み寄って来ていなかったが、すまなさそうに笑んで言う。

 桃城は「あぁ、そっか。わかった、気にすんなよ」と、明るく笑って応えた。

「本当にごめんね、ありがとう。また今度誘ってね」

 そう言うと、はくるっときびすを返そうとする。

「って、先輩、ひとりで帰るつもりなんすか?」

 そんな彼女に、リョーマは思わず訊ねてしまった。

「うん。じゃぁ、また明日ね」

 彼がどうしてそんなことを訊いてくるのか、それに何の疑問も持たず、こくんと頷いては校門へと歩き出す。

「ちょ、ちょっと…!?」

 は慌てて追いかけようとした。

 は――いや、も、テニス部の姫君たちは、ひとりでいると何かと『からまれる』ことが多い。

 男子にも女子にも――彼女たちに好意を寄せる者から、嫌悪を抱く者まで。

 は、それらからの退避法及び撃退法を大体心得ているが、は今一つだ。

 クラスメートである海堂を始めとする、青学テニス部レギュラー、果てはに助けられるということもしばしばなのだ。

「どうしたんだい? こんな所で」

 その刻後ろから、聴き慣れた穏やかな声がかけられた。

「大石先輩……!」

 声の主は、やはり青学テニス部の副部長だった。

 振り返ったが、彼のその名を口にする。

「あの、実は今、が……!」

 は今日のの様子も含めて、今あったことを大石に説明した。

「何だか、今日少し様子が違うんです。大丈夫って言ってたけど、何か悩んでるみたいで……」

「わかった。俺が行ってみるよ」

「先輩……」

 大石はの幼い頃からの知り合いだし、彼に任せた方がいいかもしれない。

 何より彼は、話を聞くのが上手い。

「じゃぁ、お願いします」

「ああ」

 達に持ち前の笑顔を見せて、大石はの後を追いかけた。




ちゃん!」

 商店街への道をひとり歩いていたは、ふいに名を呼ばれたのに気づき、「え?」と振り向く。

「お、大石先輩……?」

「よかった、追いつけて」

 そう言って微笑む大石。

 彼が本当に言いたかった「よかった」は、「俺が来るまで何事もなくて」という意味も含んでいた。

「先輩、どうして…?」

ちゃん達から話を聞いたんだよ。俺も一緒に行っていいかな? 荷物持ちぐらいにはなるよ」

「そ、そんな、荷物持ちなんて…!!」

 大石は何でもないことのようにさらりと言ったが、は大いに慌てる。

 ――実際にこうして見てみても、やはりの言う通り、の様子がいつもと違う。

 どこか淋しげな表情をしていた。

 だから大石としては、少しでも心がほぐれればと思って言ったのだが、真面目で遠慮深い彼女には効果がありすぎたかもしれない。

 大石は軽く笑ってから、「まぁとにかく、ひとりでなんて危ないし、大変だろう? だから、な?」と穏やかに言う。

「大石先輩……」

 優しい声、真っ直ぐに見つめてくれる瞳。

 の心の水面が、さざ波を起こし始める。

「……はい」

 はにかむように俯いて、は小さく返事を返す。

 大石は「よし、決まりだ」と、微笑んで頷いた。





 並んで歩く大石とが、青春台の商店街へと入っていく。

 ふたりの他にも、学校帰りの学生達や、主婦であろう女性達などが行き交っている。

 学生達と言っても、達のように夕飯の買い物をしている学生は少ないだろう。

(……あ……)

 書店の前を通った刻、はふと立ち止まった。


 ――青い空と碧い海の風景が切り取られた、ポスター。


 風景写真集の広告ポスターが貼られていた。

ちゃん、どうしたんだい?」

 立ち止まった彼女に気づいた大石が、問いかける。

「……――」

 その刻、はぽつりと何かを呟いた。

 大石が「え?」と訊き返すと、はハッと我に返る。

「…あ、何でもないんです、すみません。あの写真、綺麗だなぁと思って」

 が取り繕うように言うと、確かにその風景写真が美しかったため、大石も「ああ、そうだね」と頷いた。

「ところで、まずは何を買うんだい?」

 大石にそう訊ねられて、が「えっとですね……」と制服のポケットからメモ用紙を取り出そうとした、その刻だった。

「あれぇ? ひょっとしてじゃない?」

 人々の声をかいくぐった、やけに明るい少女の声がした。

 と大石は、ほぼ同時に振り返る。

「やっぱりー、じゃん。超久しぶり!」

「あんま変わってないねぇ」

 そこに居たのは、と同い年ぐらいの三人の少女達。

 しかし制服は違うし、彼女達の髪は自然の色ではない、人工的な色をしている。

 とは出で立ちが明らかに違った。

 一瞬「誰?」と思っただが、すぐに思い出したような顔をする。

「おーい、どうしたんだよ?」

 すると少女達の後ろから、仲間と思われる四、五人の少年達が集まってくる。

 少女の一人が「見つけたんだよー」と、彼女の発見を話し始めた。

ちゃんの、知り合い?」

 その間に大石が問いかける。

「……はい。小学校の時の、同級生です」

 そう答えたは、かつての級友に会えて嬉しいというようではなかった。

「おぉ、ホントだ! じゃん! 相変わらず可愛いなぁ!」

 少年の一人が、嬉しそうにの前までやってくる。

「ねぇ、! これから一緒に遊びに行かない?」

 少女の一人が、の様子に気づくこともなく誘う。

 は「ごめんなさい…」と、首を横に振った。

「何でー? 久しぶりだしさ、一緒に行こうぜ?」

 の手前まで来ていた少年が、の手を取ろうとする。

 しかし――その前に、すっと大石が身を割り込ませて、阻んだ。

 いつもは穏やかな深緑の双眸が、真剣さを帯びて彼らを見据える。

『……っ!?』

 の級友達は、一瞬息を呑んで言葉を失った。

「な……何だよ、お前…!?」

 少年は一応言い返してみたが、大石の揺るがない瞳と表情に迫力負けして、たじろいでしまう。

っ、誰なのこの人!?」

 少女の一人が若干頬を染めながら問うた。

「……悪いけど、ちゃんはこれから用事があるんだ。お引き取り願えるかな?」

 言い方は極力控えめだが、その声と表情には有無を言わさないものがあった。

「大石先輩……」

 琥珀色の瞳に映る、大石の広い背中。

 は、ほっと力が抜けて、安堵するのを感じた。

「ひょっとして、やっぱ彼氏……?」

 少女達は明らかに悔しそうな、羨ましそうな顔をする。

「んー? ? そんなの居たっけ?」

 と、後ろで様子を見ていた少年が、首を傾げた。

「あんた憶えてないのぉ? ああ、あんた小学校の時、クラス違ったんだっけ」

 少女達は呆れ顔をしながら、何とか思い出させようとする。

「ほら、あたし達のクラスに居たでしょ? 病弱なお嬢様!」

「お母さんは死んじゃったけど、奇跡的に助かったって子だよ!」


「――――!!」


 その刻、の瞳も心も身体も、凍りついた。

「…ちゃん…!?」

 大石は、背にかばっている彼女の様子に気づいて、名を呼ぶ。

 けれどは、答えることすら出来なかった。

「あー、確かに居たな! だっけ? 思い出したぜ」

 少年は『病弱なお嬢様』、『奇跡的に助かった子』という言葉だけで、のことを思い出したようだ。

「ねぇ、ったら……」


ちゃん!?」


 再び誘おうとした少女の声を遮って、大石の声が響く。

 の級友達が、それぞれ視線を彼女に向けてみると――。


 ――ぽろぽろと涙を零しながら、震え出していた。


 彼らがぎょっと驚く中、大石はの肩に手を置こうとする、が。

「……ごめ…なさ……せんぱ…! ごめんなさい……!!」

 ぎゅっと目をつぶって、更に涙をあふれさせて。

 耐えきれなくなったように、はその場から走り出した。

ちゃんっ!!」

 大石は一瞬、の級友達にきつい一瞥をくれる。

 が、こんな奴らよりもの方が先だと思い直した大石は、彼女の後を追いかけた。





(まずいな……どこに行ったんだ、ちゃん……!?)

 商店街の中を走り回って、大石はを捜した。

 しかし、夕方の商店街の人混みは相当なもので――完全に見失ってしまったのだ。

「くそっ…!」

 の、あの級友達に――自分に腹が立つ。

 は完全に傷ついていた。

 心配でたまらない、どうしようもない気持ちが湧き出て止まらない。

「あれ? 大石先輩!?」

 ふと名を呼ばれて、大石は顔を上げる。

 すると、と、桃城とリョーマが居た。

「先輩、は…?」

 不安げに訊いてくるに、心底申し訳ない気持ちになりながら、大石は「実は…」と、事の次第を話した。

「そんな……!?」

 の表情が青ざめる。

「オレ達も捜しに行くか!」

 桃城がそう言った刻、が「あ、そっか…!」と何かに気づいたような顔をした。

「何? 

 リョーマが訊ねると、は一瞬躊躇してから、口を開く。

「もうすぐ、夕江さんの……姉ちゃんのお母さんの、命日なの」

 その言葉に、全員がハッとした。

「……だから…………!」

 元気がなくて、落ち込んでいるようだったのだ。

 大石は悔しげに項垂れる。

 と、その刻――あの書店の前で、が何かを呟いていたのを、思い出した。


『……海』


(…海…!? まさか!?)

 一つの可能性かもしれない、と思った大石は、彼女の親友であると、彼女の従妹であるに問う。

ちゃん、ちゃん! ひょっとしてちゃんは……――――!!」





「――

 潮騒の合間から、優しい声が聴こえる。

 長い黒髪の女性が、波打ち際で貝を拾っていた幼い少女に呼びかけた。

 名を呼ばれた少女は、「おかあさん!」と言って嬉しそうに走り寄る。

……」

 少女の母である琥珀の瞳の女性は、柔らかく微笑んで。

「……ごめんね……」

 せつなげな声を零して、幼い娘を抱きしめた。

「おかあさん……どうしたの? どうして、にあやまるの?」

 薄らと涙を浮かべていた、彼女の母――夕江は、それを細い指先で拭う。

「ええ……ちょっとね。ねぇ、。海は好き?」

「うん、大好き! ほら、こんなにきれいな貝がらもあったよ」

 夕江に淡いピンクの貝殻を渡したは、母の手を引っ張って、素足を波に浸しに行く。

「それにね、おかあさんと一緒に来れたから、もっと大好き!」

 夕江は「そうね」と微笑んで、と手をつなぐ。

「……お父さんとも、よく来たわ。私にとって、海は……大好きな、大切な人と一緒に来たい場所」

 潮風に舞う黒髪を押さえながら、夕江は夕陽が溶け始めた水平線の彼方を見つめた。

「じゃぁ、今度はおとうさんもおにいちゃんも波輝も、一緒に来よう!」

「……そうね。そうしましょう」

 夕江は綺麗に微笑んで、甘えるように腕に絡まってきた娘を優しく抱きしめた。

、いつかあなたも……来られるといいわね」

 ふいに母から言われた言葉に、は「え? 、もう来てるよ」と小首を傾げる。

「ふふ、そうじゃなくて。もっと、大きくなってから――」

 夕江は楽しそうに笑って、その言葉を紡いだ。





 ――潮風と波の協奏曲。

 誰も居ない夕暮れの海辺に、ひとりの少女が膝を抱えて座り込んでいた。

「……お母さん……」

 震える涙声が潮騒にかき消される。

……今、ひとりでしか……来られない」

 いつもに増して、弱気な自分。

 だから、呟きを波の音が消してくれるなら、悲しみを風が連れ去ってくれるなら、それでよかった。


「――ちゃん」


 一瞬、幻聴かと思った。

 がゆっくりと顔を上げると、少し離れた砂浜の上に、大石が立っていた。

「……大石…先輩……? ど、どうして……!?」

 何故彼がここへ来たのか判らなくて、は涙の溜まった瞳を瞬かせる。

「…ちゃんやちゃんに聞いたんだ。ちゃんの、お母さんとの思い出の場所はどこの海かって」

 は「え? どうして、海って…?」と再び訊き返す。

「さっきちゃん、本屋のポスター見ながら、『海』って、呟いてたから」

 何となくだったけどね、と笑って、大石はの隣りに腰をおろした。

 少し乱れた、大石の呼吸。

 余程心配してくれたことが、必死に捜してくれたことが、判る。

「……すみません、先輩」

「いいんだよ。よかった、無事で」

 俯いて謝ったに、大石は優しく微笑んで応える。

 は何かを言おうとしたが、口をつぐんでしまう。

 ――大石が優しすぎて、悲しくて。

 暫くの間、寄せては返す波音がふたりの耳に響いた。

「……ごめん」

 沈黙を破ったのは、大石だった。

「すぐに気づいてあげられなくて……ちゃんと守ってあげられなくて」

 の母に対する思い、先程の級友達との遭遇。

 が元気がない訳を、買い物の帰りに訊こうと思っていた。

 あの彼らのことは、一応『の級友』ということで、あまり自分が口を挟まない方がいいかと思っていた。

 けれど――その結果がこれでは、どうしようもない。

 大石は重々しい表情で、謝りの言葉を紡いだ。

「そ、そんな…! 大石先輩、謝らないで下さい…! 先輩が悪いことなんて、謝ることなんて何も無いです!」

 の琥珀の瞳から、更なる涙が零れ出す。

「先輩は、私のこと、ちゃんと守ってくれました……!」

 実際、自分ひとりだったら、どうなっていたか判らない。

ちゃん……」

「私の、方こそ……心配させちゃって……! ごめ…なさい……!」

 心配そうな大石の瞳を見たは、耐えられなくなって、両手で顔を覆って泣き出した。

 大石は、そっとの頭を撫でる。

「……淋しかったんだよな」

 その言葉に、はびくっと身を震わせた。

 ――まだ、こんな少女なのに。

 母親に甘えたい刻があったって、おかしくない。

 自分の妹を見ていても思う。

 しかも、は六歳の時に母を亡くしている。

 父や双子の兄、弟も居るが、やはり『母』とは違うと思う。

 それに最近では、弟と犬や猫しか滅多に家に居ないことが多いらしい。

 どれほど淋しかっただろうと、大石までせつなくなりながら、の黒髪の頭を撫でた。

 は、こくんと小さく頷くが、「でも…」と言葉を続ける。

「確かに……お母さんが居なくて、淋しいって思う刻……いっぱい、あります……けど、家族も友達も、先輩達も……みんな居てくれるから、大丈夫なんです」

 父や兄弟、愛犬や愛猫。

 、そして青学テニス部のレギュラー達。

 を支えてくれる人達が居てくれるから、頑張れる。

 それを聞いた大石は、何だか胸が暖かくなった気がした。

「でも……時々思ってしまうんです」

 と、また悲しげに戻ってしまったの言葉の続きを、大石は「ん?」と待つ。

 はどうしようもない泣き顔を、夕暮れの空に向けて。


「どうして、私、助かったのに……お母さんが、死んじゃったの…って……!!」


 また激しく涙を頬に伝わせた。

「なっ、ちゃん……!?」

 大石の表情が変わる。

「どうして、お母さんが死んじゃったのにっ、私が助かったの……ッ!?」

ちゃん!!」

 泣きじゃくるを、大石は覆い隠すように抱きしめた。

 それを言ったら、も大石も――空の彼方の母も、きっと悲しい。


『ほら、あたし達のクラスに居たでしょ? 病弱なお嬢様!』

『お母さんは死んじゃったけど、奇跡的に助かったって子だよ!』


 ――と、の母・夕江は、共に同じ心臓病を患った。

 そして、夕江は亡くなり、は奇跡的に助かった。

 先程の無神経な級友の言葉が、にそれをよみがえらせてしまったのだ。

 大石は悔しそうに表情を歪めて、を強く抱きしめる。


『あの空の向こうのおかあさんに、会いに行けるから』


 心臓の手術を間近に控えた刻の、幼いは、綺麗なのに虚ろな瞳をしていた。

 あの頃からずっと、こんな思いを抱えていたのだ。

 ぎゅっとしがみついて泣きじゃくるを、大石は優しい強さで包み込む。

「……私……もう…ひとりでしか、海……来られないんです」

 母との思い出の場所。

 母にとっての、『大好きな、大切な人と一緒に来たい場所』。

 それは、にとっても同じだった。

 けれど一緒に行きたいなんて、家族には――言えない。

 多忙の父も兄も、弟も自分よりもっと淋しい思いをしているから。

「……俺が、居るよ」

 ずっと言葉を探していた大石。

 は「え…?」と、雫の残る瞳を上げる。

「ごめん、こんな刻に気の利いたこと言えなくて……でも俺、君のそばに居たいと思う。君をひとりにさせたくない」

 いつも以上に、真剣さを帯びた声。

「先輩…?」

 の鼓動が、音を立てて騒ぎ出す。


「俺は……君が好きだ。ちゃん。大好きだ。だから、君が助かってくれて、君が生きていてくれて、本当に嬉しいよ」


 大石は穏やかに微笑み、真っ直ぐにの瞳を見つめて、素直な気持ちを告げた。

「お…大石…先輩……!?」

 は、一瞬頭が真っ白になってしまうかと思った。

 琥珀の瞳を大きく見開いて、大石を見つめ返す。

「海にも、俺でよければ、一緒に来てあげたい」

「…っ!? 海……」

 優しい大石の声に、はハッと息を呑んで、呟く。




「――、いつかあなたも……来られるといいわね」

 ふいに母から言われた言葉に、は「え? 、もう来てるよ」と小首を傾げた。

「ふふ、そうじゃなくて」

 夕江は楽しそうに笑って、その言葉を紡いだ。

「もっと大きくなってから……。が、だけの大切な人を見つけられたら、その人と一緒に来られるといいわね」

 と視線を合わせるようにしゃがんだ夕江の声も瞳も、限りなく優しいものだった。

「……だけの、大切な人……??」

 母に言われた言葉の意味がよく解らないは、更に思い切り首を傾げる。

 そんな幼い娘の仕草を見た夕江は、「ふふ、まだまだ先の話よね」と微笑んだ――。




「……大石先輩……!」

 ぽたぽたと、再びの瞳から大粒の雫が零れてくる。

 大石は頬を紅くして慌てた。

「あっ、ご、ごめん…! 俺、これ以上泣かすつもりも、困らせたいわけでもなかったんだ。でも……!!」

 困るよな、実際、と胸中で呟く大石。

 のためにという一心で言ってしまったけれど、よく考えたらそれは、一方的な自分の気持ちであって。

 の心には、他の誰かが居るかもしれないのに。

 こんな状況で想いを告げられても、優しい彼女のことだから、困ってしまうに決まっている。

「本当に、ごめん……」

 もはや大石は、謝る言葉しか見つけられなかった。

「いいえ、いいえ……! 謝らないで下さい、先輩……――ありがとうございます」

 謝ってくる大石に、は首を横に振ってみせて、にっこりと微笑む。

 大石は「え?」とを瞳に映す。


「私も……大石先輩が、好きです。大好きです。だから先輩の気持ちも、言葉も、すごく嬉しい……!」


ちゃん……!」

 大石は驚いて、双眸を見開く。

 の表情に、ようやく笑顔が戻ってきた。

「ありがとうございます、先輩……私なんかを好きになって下さって……私なんかが生きてることを、喜んで下さって……」

 止まることを忘れてしまったかのような、の涙。

 大石はふっと苦笑するように笑む。

「……そんな、『私なんか』なんて言わないでくれ」

 もう一度ぎゅっと抱きしめると、の頬がかぁっと朱に染まった。

「だって…私、こんなに弱いし、泣き虫だし、先輩に迷惑かけてばかりだし……!」

 大石の腕の中で、の声が段々と小さくなる。

「俺は迷惑なんて思ったこと、一度も無いよ。誰にだって弱い部分はあるし、ちゃんがよく泣いてしまうのは、素直な証拠。――全部引っくるめて、ちゃんが好きだよ」

 どこまでも優しい大石の声。

 の胸の奥が一層暖かくなる。

「先輩……優しすぎ……! 私なんかに……もったい、ない……!」

「だから、言っちゃ駄目だって」

 くすくすと笑う大石。

「大石先輩……!」

 泣きながらも微笑んで、は大石の胸に抱きついた。

(――――お母さん。見つけられたよ。ううん、もう見つけてたよ。だけの大好きな、大切な人……)





 幼いあの日以来、ずっと夢で見ることしか出来なかった、海。

 母との思い出の場所。

 大切な人と一緒に来たい――この、追憶の海に。

 これからは、きっとまた、大好きなこの人と一緒に――。





                end.





 《あとがき》
 大石くん&二の姫ドリーム、第二弾……です。長い(汗) すみません;
 って、ありゃりゃ、お互い告白しちゃってうまくいっちゃいました!(笑)
 本来そんな予定なかったです(苦笑) まぁ、よしとして下さい( ̄▽ ̄;)
 今回は、様の過去パート2って感じでした。お母さんのことですね。
 ……いえ別に、『お母さん』のことだから、お相手が大石くんってわけでは…(笑)
 様とお母さんは同じ病気だったのですが、手術の結果、残念ながらお母さんは
 亡くなってしまいました。その病気はどうやら遺伝性のようだったので、本編中で
 お母さんが謝っているのは、そのことだと思って頂ければ…と、思います。
 最近、色々と『母親』に関して、考えたり悩んだりすることが多かったので、
 何か……こんな話になってしまいまいた(苦笑)
 「こんな時に大石くんが居てくれたらなぁ」と思うこと、最近多いです;
 あ、でも平気ですよ(笑) 私、ひとりじゃありませんから(^^)
 ここまで読んで下さって、本当にありがとうございました!

              written by 羽柴水帆