絶え間ない波の音と、限りなく澄んだ空の色。
――時々夢に見て、思い出す。
今も、きっとあの海は、優しい潮騒を奏でているだろう。
追憶の海
「――」
潮騒の合間から、優しい声が聴こえる。
長い黒髪の女性が、波打ち際で貝を拾っていた幼い少女に呼びかけた。
名を呼ばれた少女は、「おかあさん!」と言って嬉しそうに走り寄る。
「……」
少女の母である琥珀の瞳の女性は、柔らかく微笑んで。
「……ごめんね……――――」
せつなげな声を零して、幼い娘を抱きしめた。
「――……おかあさん……?」
目を覚ますと、視界に入ってきたのは、自分の部屋の見慣れた天井。
軽く目元を擦りながら、はベッドから起き上がった。
窓のカーテンを開けると、壁にかけられたカレンダーを瞳に映す。
「……そっか。もうすぐなんだ……」
納得したような、けれど淋しそうな笑みを浮かべて、机の上の写真立てを手に取った。
幼い頃の――母親と一緒に写っている写真。
と同じ、長い黒髪と琥珀色の双眸を持っていた母親。
もっとも、が母親に似て生まれてきたということなのだが。
双子の兄の夜凪も、顔立ちはやや違うが、その髪と瞳の色は同じである。
「……お母さん……」
写真立てを抱きしめ、ひとり呟いて。
溜め息を一つ零すと、それを元に戻して、身支度を始めた。
燦々と輝いていた太陽が、西の空へと傾きながら、その色を染めてゆく。
青学男子テニス部部長のしっかりとした声が、練習終了を告げた。
「、?」
このテニス部の一の姫と言われるマネージャー・が、親友の名を呼ぶ。
着替えを終えて、そろそろ帰ろうかと言葉をかけたのだが、しかし、テニス部二の姫はぼーっと前を見つめたままで。
「姉ちゃん?」
彼女の従妹であり、三の姫であるも呼んでみたが、依然として反応はない。
「姉ちゃん!!」
「えっ!? な、何…?? どうしたの?」
が思い切って声を張り上げると、ようやくが反応した。
何があったのだろうと、周りをきょろきょろと見回しながら、琥珀の瞳を瞬きさせる。
「どうしたのじゃないよっ、さっきからずっと呼んでるのに!」
相変わらずズレているというか、ボケている従姉に、はやや強い口調で言った。
は「ごめんね、ちょっと考え事してたから…」と苦笑するように笑む。
「どうしたの? ? 何か悩み事?」
親友であるが、心配そうな顔をして訊ねた。
「え? う、ううん。そうじゃないの、大丈夫」
首を横に振って、はにこっと微笑んでみせる。
「おーい、、、! これから越前とバーガーショップ行くんだけど、一緒に行かねぇか?」
すると後ろから、テニスバッグを担いだ桃城とリョーマが歩いてきた。
「あ、うん。いいよ」
「私も行きます! 桃ちゃん先輩!」
振り返ったは微笑んで、は元気よく笑って、それぞれ答える。
「先輩や先輩はともかく、何でまで……」
歩み寄ってくるマネージャー達から、薄い金の瞳を外したリョーマが呟く。
「何か言った? リョーマくん」
耳聡いがきつい視線を向けると、リョーマは「別に」と、顔を背けさせた。
「あ……ごめんね、桃くん、リョーマくん。私は今日、ちょっと遠慮させてもらう。夕飯の買い物して帰らなきゃいけないから」
こちらに歩み寄って来ていなかったが、すまなさそうに笑んで言う。
桃城は「あぁ、そっか。わかった、気にすんなよ」と、明るく笑って応えた。
「本当にごめんね、ありがとう。また今度誘ってね」
そう言うと、はくるっときびすを返そうとする。
「って、先輩、ひとりで帰るつもりなんすか?」
そんな彼女に、リョーマは思わず訊ねてしまった。
「うん。じゃぁ、また明日ね」
彼がどうしてそんなことを訊いてくるのか、それに何の疑問も持たず、こくんと頷いては校門へと歩き出す。
「ちょ、ちょっと…!?」
は慌てて追いかけようとした。
は――いや、もも、テニス部の姫君たちは、ひとりでいると何かと『からまれる』ことが多い。
男子にも女子にも――彼女たちに好意を寄せる者から、嫌悪を抱く者まで。
とは、それらからの退避法及び撃退法を大体心得ているが、は今一つだ。
クラスメートである海堂を始めとする、青学テニス部レギュラー、果てはやに助けられるということもしばしばなのだ。
「どうしたんだい? こんな所で」
その刻後ろから、聴き慣れた穏やかな声がかけられた。
「大石先輩……!」
声の主は、やはり青学テニス部の副部長だった。
振り返ったが、彼のその名を口にする。
「あの、実は今、が……!」
は今日のの様子も含めて、今あったことを大石に説明した。
「何だか、今日少し様子が違うんです。大丈夫って言ってたけど、何か悩んでるみたいで……」
「わかった。俺が行ってみるよ」
「先輩……」
大石はの幼い頃からの知り合いだし、彼に任せた方がいいかもしれない。
何より彼は、話を聞くのが上手い。
「じゃぁ、お願いします」
「ああ」
達に持ち前の笑顔を見せて、大石はの後を追いかけた。
「ちゃん!」
商店街への道をひとり歩いていたは、ふいに名を呼ばれたのに気づき、「え?」と振り向く。
「お、大石先輩……?」
「よかった、追いつけて」
そう言って微笑む大石。
彼が本当に言いたかった「よかった」は、「俺が来るまで何事もなくて」という意味も含んでいた。
「先輩、どうして…?」
「ちゃん達から話を聞いたんだよ。俺も一緒に行っていいかな? 荷物持ちぐらいにはなるよ」
「そ、そんな、荷物持ちなんて…!!」
大石は何でもないことのようにさらりと言ったが、は大いに慌てる。
――実際にこうして見てみても、やはりの言う通り、の様子がいつもと違う。
どこか淋しげな表情をしていた。
だから大石としては、少しでも心がほぐれればと思って言ったのだが、真面目で遠慮深い彼女には効果がありすぎたかもしれない。
大石は軽く笑ってから、「まぁとにかく、ひとりでなんて危ないし、大変だろう? だから、な?」と穏やかに言う。
「大石先輩……」
優しい声、真っ直ぐに見つめてくれる瞳。
の心の水面が、さざ波を起こし始める。
「……はい」
はにかむように俯いて、は小さく返事を返す。
大石は「よし、決まりだ」と、微笑んで頷いた。
並んで歩く大石とが、青春台の商店街へと入っていく。
ふたりの他にも、学校帰りの学生達や、主婦であろう女性達などが行き交っている。
学生達と言っても、達のように夕飯の買い物をしている学生は少ないだろう。
(……あ……)
書店の前を通った刻、はふと立ち止まった。
――青い空と碧い海の風景が切り取られた、ポスター。
風景写真集の広告ポスターが貼られていた。
「ちゃん、どうしたんだい?」
立ち止まった彼女に気づいた大石が、問いかける。
「……――」
その刻、はぽつりと何かを呟いた。
大石が「え?」と訊き返すと、はハッと我に返る。
「…あ、何でもないんです、すみません。あの写真、綺麗だなぁと思って」
が取り繕うように言うと、確かにその風景写真が美しかったため、大石も「ああ、そうだね」と頷いた。
「ところで、まずは何を買うんだい?」
大石にそう訊ねられて、が「えっとですね……」と制服のポケットからメモ用紙を取り出そうとした、その刻だった。
「あれぇ? ひょっとしてじゃない?」
人々の声をかいくぐった、やけに明るい少女の声がした。
と大石は、ほぼ同時に振り返る。
「やっぱりー、じゃん。超久しぶり!」
「あんま変わってないねぇ」
そこに居たのは、と同い年ぐらいの三人の少女達。
しかし制服は違うし、彼女達の髪は自然の色ではない、人工的な色をしている。
とは出で立ちが明らかに違った。
一瞬「誰?」と思っただが、すぐに思い出したような顔をする。
「おーい、どうしたんだよ?」
すると少女達の後ろから、仲間と思われる四、五人の少年達が集まってくる。
少女の一人が「見つけたんだよー」と、彼女の発見を話し始めた。
「ちゃんの、知り合い?」
その間に大石が問いかける。
「……はい。小学校の時の、同級生です」
そう答えたは、かつての級友に会えて嬉しいというようではなかった。
「おぉ、ホントだ! じゃん! 相変わらず可愛いなぁ!」
少年の一人が、嬉しそうにの前までやってくる。
「ねぇ、! これから一緒に遊びに行かない?」
少女の一人が、の様子に気づくこともなく誘う。
は「ごめんなさい…」と、首を横に振った。
「何でー? 久しぶりだしさ、一緒に行こうぜ?」
の手前まで来ていた少年が、の手を取ろうとする。
しかし――その前に、すっと大石が身を割り込ませて、阻んだ。
いつもは穏やかな深緑の双眸が、真剣さを帯びて彼らを見据える。
『……っ!?』
の級友達は、一瞬息を呑んで言葉を失った。
「な……何だよ、お前…!?」
少年は一応言い返してみたが、大石の揺るがない瞳と表情に迫力負けして、たじろいでしまう。
「っ、誰なのこの人!?」
少女の一人が若干頬を染めながら問うた。
「……悪いけど、ちゃんはこれから用事があるんだ。お引き取り願えるかな?」
言い方は極力控えめだが、その声と表情には有無を言わさないものがあった。
「大石先輩……」
琥珀色の瞳に映る、大石の広い背中。
は、ほっと力が抜けて、安堵するのを感じた。
「ひょっとして、やっぱ彼氏……?」
少女達は明らかに悔しそうな、羨ましそうな顔をする。
「んー? ? そんなの居たっけ?」
と、後ろで様子を見ていた少年が、首を傾げた。
「あんた憶えてないのぉ? ああ、あんた小学校の時、クラス違ったんだっけ」
少女達は呆れ顔をしながら、何とか思い出させようとする。
「ほら、あたし達のクラスに居たでしょ? 病弱なお嬢様!」
「お母さんは死んじゃったけど、奇跡的に助かったって子だよ!」
「――――!!」
その刻、の瞳も心も身体も、凍りついた。
「…ちゃん…!?」
大石は、背にかばっている彼女の様子に気づいて、名を呼ぶ。
けれどは、答えることすら出来なかった。
「あー、確かに居たな! だっけ? 思い出したぜ」
少年は『病弱なお嬢様』、『奇跡的に助かった子』という言葉だけで、のことを思い出したようだ。
「ねぇ、ったら……」
「ちゃん!?」
再び誘おうとした少女の声を遮って、大石の声が響く。
の級友達が、それぞれ視線を彼女に向けてみると――。
――ぽろぽろと涙を零しながら、震え出していた。
彼らがぎょっと驚く中、大石はの肩に手を置こうとする、が。
「……ごめ…なさ……せんぱ…! ごめんなさい……!!」
ぎゅっと目をつぶって、更に涙をあふれさせて。
耐えきれなくなったように、はその場から走り出した。
「ちゃんっ!!」
大石は一瞬、の級友達にきつい一瞥をくれる。
が、こんな奴らよりもの方が先だと思い直した大石は、彼女の後を追いかけた。
(まずいな……どこに行ったんだ、ちゃん……!?)
商店街の中を走り回って、大石はを捜した。
しかし、夕方の商店街の人混みは相当なもので――完全に見失ってしまったのだ。
「くそっ…!」
の、あの級友達に――自分に腹が立つ。
は完全に傷ついていた。
心配でたまらない、どうしようもない気持ちが湧き出て止まらない。
「あれ? 大石先輩!?」
ふと名を呼ばれて、大石は顔を上げる。
すると、とと、桃城とリョーマが居た。
「先輩、は…?」
不安げに訊いてくるに、心底申し訳ない気持ちになりながら、大石は「実は…」と、事の次第を話した。
「そんな……!?」
の表情が青ざめる。
「オレ達も捜しに行くか!」
桃城がそう言った刻、が「あ、そっか…!」と何かに気づいたような顔をした。
「何? 」
リョーマが訊ねると、は一瞬躊躇してから、口を開く。
「もうすぐ、夕江さんの……姉ちゃんのお母さんの、命日なの」
その言葉に、全員がハッとした。
「……だから…………!」
元気がなくて、落ち込んでいるようだったのだ。
大石は悔しげに項垂れる。
と、その刻――あの書店の前で、が何かを呟いていたのを、思い出した。
『……海』
(…海…!? まさか!?)
一つの可能性かもしれない、と思った大石は、彼女の親友であると、彼女の従妹であるに問う。
「ちゃん、ちゃん! ひょっとしてちゃんは……――――!!」
「――」
潮騒の合間から、優しい声が聴こえる。
長い黒髪の女性が、波打ち際で貝を拾っていた幼い少女に呼びかけた。
名を呼ばれた少女は、「おかあさん!」と言って嬉しそうに走り寄る。
「……」
少女の母である琥珀の瞳の女性は、柔らかく微笑んで。
「……ごめんね……」
せつなげな声を零して、幼い娘を抱きしめた。
「おかあさん……どうしたの? どうして、にあやまるの?」
薄らと涙を浮かべていた、彼女の母――夕江は、それを細い指先で拭う。
「ええ……ちょっとね。ねぇ、。海は好き?」
「うん、大好き! ほら、こんなにきれいな貝がらもあったよ」
夕江に淡いピンクの貝殻を渡したは、母の手を引っ張って、素足を波に浸しに行く。
「それにね、おかあさんと一緒に来れたから、もっと大好き!」
夕江は「そうね」と微笑んで、と手をつなぐ。
「……お父さんとも、よく来たわ。私にとって、海は……大好きな、大切な人と一緒に来たい場所」
潮風に舞う黒髪を押さえながら、夕江は夕陽が溶け始めた水平線の彼方を見つめた。
「じゃぁ、今度はおとうさんもおにいちゃんも波輝も、一緒に来よう!」
「……そうね。そうしましょう」
夕江は綺麗に微笑んで、甘えるように腕に絡まってきた娘を優しく抱きしめた。
「、いつかあなたも……来られるといいわね」
ふいに母から言われた言葉に、は「え? 、もう来てるよ」と小首を傾げる。
「ふふ、そうじゃなくて。もっと、大きくなってから――」
夕江は楽しそうに笑って、その言葉を紡いだ。
――潮風と波の協奏曲。
誰も居ない夕暮れの海辺に、ひとりの少女が膝を抱えて座り込んでいた。
「……お母さん……」
震える涙声が潮騒にかき消される。
「……今、ひとりでしか……来られない」
いつもに増して、弱気な自分。
だから、呟きを波の音が消してくれるなら、悲しみを風が連れ去ってくれるなら、それでよかった。
「――ちゃん」
一瞬、幻聴かと思った。
がゆっくりと顔を上げると、少し離れた砂浜の上に、大石が立っていた。
「……大石…先輩……? ど、どうして……!?」
何故彼がここへ来たのか判らなくて、は涙の溜まった瞳を瞬かせる。
「…ちゃんやちゃんに聞いたんだ。ちゃんの、お母さんとの思い出の場所はどこの海かって」
は「え? どうして、海って…?」と再び訊き返す。
「さっきちゃん、本屋のポスター見ながら、『海』って、呟いてたから」
何となくだったけどね、と笑って、大石はの隣りに腰をおろした。
少し乱れた、大石の呼吸。
余程心配してくれたことが、必死に捜してくれたことが、判る。
「……すみません、先輩」
「いいんだよ。よかった、無事で」
俯いて謝ったに、大石は優しく微笑んで応える。
は何かを言おうとしたが、口をつぐんでしまう。
――大石が優しすぎて、悲しくて。
暫くの間、寄せては返す波音がふたりの耳に響いた。
「……ごめん」
沈黙を破ったのは、大石だった。
「すぐに気づいてあげられなくて……ちゃんと守ってあげられなくて」
の母に対する思い、先程の級友達との遭遇。
が元気がない訳を、買い物の帰りに訊こうと思っていた。
あの彼らのことは、一応『の級友』ということで、あまり自分が口を挟まない方がいいかと思っていた。
けれど――その結果がこれでは、どうしようもない。
大石は重々しい表情で、謝りの言葉を紡いだ。
「そ、そんな…! 大石先輩、謝らないで下さい…! 先輩が悪いことなんて、謝ることなんて何も無いです!」
の琥珀の瞳から、更なる涙が零れ出す。
「先輩は、私のこと、ちゃんと守ってくれました……!」
実際、自分ひとりだったら、どうなっていたか判らない。
「ちゃん……」
「私の、方こそ……心配させちゃって……! ごめ…なさい……!」
心配そうな大石の瞳を見たは、耐えられなくなって、両手で顔を覆って泣き出した。
大石は、そっとの頭を撫でる。
「……淋しかったんだよな」
その言葉に、はびくっと身を震わせた。
――まだ、こんな少女なのに。
母親に甘えたい刻があったって、おかしくない。
自分の妹を見ていても思う。
しかも、は六歳の時に母を亡くしている。
父や双子の兄、弟も居るが、やはり『母』とは違うと思う。
それに最近では、弟と犬や猫しか滅多に家に居ないことが多いらしい。
どれほど淋しかっただろうと、大石までせつなくなりながら、の黒髪の頭を撫でた。
は、こくんと小さく頷くが、「でも…」と言葉を続ける。
「確かに……お母さんが居なくて、淋しいって思う刻……いっぱい、あります……けど、家族も友達も、先輩達も……みんな居てくれるから、大丈夫なんです」
父や兄弟、愛犬や愛猫。
や、そして青学テニス部のレギュラー達。
を支えてくれる人達が居てくれるから、頑張れる。
それを聞いた大石は、何だか胸が暖かくなった気がした。
「でも……時々思ってしまうんです」
と、また悲しげに戻ってしまったの言葉の続きを、大石は「ん?」と待つ。
はどうしようもない泣き顔を、夕暮れの空に向けて。
「どうして、私、助かったのに……お母さんが、死んじゃったの…って……!!」
また激しく涙を頬に伝わせた。
「なっ、ちゃん……!?」
大石の表情が変わる。
「どうして、お母さんが死んじゃったのにっ、私が助かったの……ッ!?」
「ちゃん!!」
泣きじゃくるを、大石は覆い隠すように抱きしめた。
それを言ったら、も大石も――空の彼方の母も、きっと悲しい。
『ほら、あたし達のクラスに居たでしょ? 病弱なお嬢様!』
『お母さんは死んじゃったけど、奇跡的に助かったって子だよ!』
――と、の母・夕江は、共に同じ心臓病を患った。
そして、夕江は亡くなり、は奇跡的に助かった。
先程の無神経な級友の言葉が、にそれをよみがえらせてしまったのだ。
大石は悔しそうに表情を歪めて、を強く抱きしめる。
『あの空の向こうのおかあさんに、会いに行けるから』
心臓の手術を間近に控えた刻の、幼いは、綺麗なのに虚ろな瞳をしていた。
あの頃からずっと、こんな思いを抱えていたのだ。
ぎゅっとしがみついて泣きじゃくるを、大石は優しい強さで包み込む。
「……私……もう…ひとりでしか、海……来られないんです」
母との思い出の場所。
母にとっての、『大好きな、大切な人と一緒に来たい場所』。
それは、にとっても同じだった。
けれど一緒に行きたいなんて、家族には――言えない。
多忙の父も兄も、弟も自分よりもっと淋しい思いをしているから。
「……俺が、居るよ」
ずっと言葉を探していた大石。
は「え…?」と、雫の残る瞳を上げる。
「ごめん、こんな刻に気の利いたこと言えなくて……でも俺、君のそばに居たいと思う。君をひとりにさせたくない」
いつも以上に、真剣さを帯びた声。
「先輩…?」
の鼓動が、音を立てて騒ぎ出す。
「俺は……君が好きだ。ちゃん。大好きだ。だから、君が助かってくれて、君が生きていてくれて、本当に嬉しいよ」
大石は穏やかに微笑み、真っ直ぐにの瞳を見つめて、素直な気持ちを告げた。
「お…大石…先輩……!?」
は、一瞬頭が真っ白になってしまうかと思った。
琥珀の瞳を大きく見開いて、大石を見つめ返す。
「海にも、俺でよければ、一緒に来てあげたい」
「…っ!? 海……」
優しい大石の声に、はハッと息を呑んで、呟く。
「――、いつかあなたも……来られるといいわね」
ふいに母から言われた言葉に、は「え? 、もう来てるよ」と小首を傾げた。
「ふふ、そうじゃなくて」
夕江は楽しそうに笑って、その言葉を紡いだ。
「もっと大きくなってから……。が、だけの大切な人を見つけられたら、その人と一緒に来られるといいわね」
と視線を合わせるようにしゃがんだ夕江の声も瞳も、限りなく優しいものだった。
「……だけの、大切な人……??」
母に言われた言葉の意味がよく解らないは、更に思い切り首を傾げる。
そんな幼い娘の仕草を見た夕江は、「ふふ、まだまだ先の話よね」と微笑んだ――。
「……大石先輩……!」
ぽたぽたと、再びの瞳から大粒の雫が零れてくる。
大石は頬を紅くして慌てた。
「あっ、ご、ごめん…! 俺、これ以上泣かすつもりも、困らせたいわけでもなかったんだ。でも……!!」
困るよな、実際、と胸中で呟く大石。
のためにという一心で言ってしまったけれど、よく考えたらそれは、一方的な自分の気持ちであって。
の心には、他の誰かが居るかもしれないのに。
こんな状況で想いを告げられても、優しい彼女のことだから、困ってしまうに決まっている。
「本当に、ごめん……」
もはや大石は、謝る言葉しか見つけられなかった。
「いいえ、いいえ……! 謝らないで下さい、先輩……――ありがとうございます」
謝ってくる大石に、は首を横に振ってみせて、にっこりと微笑む。
大石は「え?」とを瞳に映す。
「私も……大石先輩が、好きです。大好きです。だから先輩の気持ちも、言葉も、すごく嬉しい……!」
「ちゃん……!」
大石は驚いて、双眸を見開く。
の表情に、ようやく笑顔が戻ってきた。
「ありがとうございます、先輩……私なんかを好きになって下さって……私なんかが生きてることを、喜んで下さって……」
止まることを忘れてしまったかのような、の涙。
大石はふっと苦笑するように笑む。
「……そんな、『私なんか』なんて言わないでくれ」
もう一度ぎゅっと抱きしめると、の頬がかぁっと朱に染まった。
「だって…私、こんなに弱いし、泣き虫だし、先輩に迷惑かけてばかりだし……!」
大石の腕の中で、の声が段々と小さくなる。
「俺は迷惑なんて思ったこと、一度も無いよ。誰にだって弱い部分はあるし、ちゃんがよく泣いてしまうのは、素直な証拠。――全部引っくるめて、ちゃんが好きだよ」
どこまでも優しい大石の声。
の胸の奥が一層暖かくなる。
「先輩……優しすぎ……! 私なんかに……もったい、ない……!」
「だから、言っちゃ駄目だって」
くすくすと笑う大石。
「大石先輩……!」
泣きながらも微笑んで、は大石の胸に抱きついた。
(――――お母さん。見つけられたよ。ううん、もう見つけてたよ。だけの大好きな、大切な人……)
幼いあの日以来、ずっと夢で見ることしか出来なかった、海。
母との思い出の場所。
大切な人と一緒に来たい――この、追憶の海に。
これからは、きっとまた、大好きなこの人と一緒に――。
end.
《あとがき》
大石くん&二の姫ドリーム、第二弾……です。長い(汗) すみません;
って、ありゃりゃ、お互い告白しちゃってうまくいっちゃいました!(笑)
本来そんな予定なかったです(苦笑) まぁ、よしとして下さい( ̄▽ ̄;)
今回は、様の過去パート2って感じでした。お母さんのことですね。
……いえ別に、『お母さん』のことだから、お相手が大石くんってわけでは…(笑)
様とお母さんは同じ病気だったのですが、手術の結果、残念ながらお母さんは
亡くなってしまいました。その病気はどうやら遺伝性のようだったので、本編中で
お母さんが謝っているのは、そのことだと思って頂ければ…と、思います。
最近、色々と『母親』に関して、考えたり悩んだりすることが多かったので、
何か……こんな話になってしまいまいた(苦笑)
「こんな時に大石くんが居てくれたらなぁ」と思うこと、最近多いです;
あ、でも平気ですよ(笑) 私、ひとりじゃありませんから(^^)
ここまで読んで下さって、本当にありがとうございました!
written by 羽柴水帆
