空に輝く光
――空は、もうすぐ夕暮れ時を迎える。
誰も居ない二年八組の教室。
自分の席に座っているは、窓の外の、沈んでいく陽を見つめていた。
今日一日、何度太陽を気にしたか判らない。
東の空から出発した太陽は、弧を描くように、西の空へと落ちていく。
時が、刻まれてゆく。
当たり前のことだけれど、には、それが時折酷いことのように思えた。
――は、今日はすぐに家に帰りたい理由が無かった。
部活も終わってしまい、取りあえず着替えて教室まで戻ってきたのだが、帰り支度をするまでには至らなかった。
机の上に深い意味もなく広げたノートに、シャーペンを立てては倒す。
その刻、教室の外の廊下から、ぱたぱたと走ってくる足音が聴こえてきた。
やがて二年八組の教室に顔を覗かせたのは、の親友であるだった。
「ちゃん、準備終わったから……――?」
帰ろう、と続けようとした言葉が途切れる。
は制服姿ではあったが、とても帰る用意が出来ているようではない。
「あ……ごめん、。私、まだちょっと、その……」
いつになく、歯切れの悪い様子の。
は内心やっぱり…と思った。
今朝や昼休み、部活のちょっとした刻など、どことなく淋しそうな表情を垣間見た。
普段の学校での彼女しか知らない者には、珍しく思えたことかもしれない。
しかし、彼女の親友であるは、その理由が大体解っていた。
「ちゃん! 一緒に帰ろう♪」
そこへ、着替えをすませてきた菊丸と不二がやって来た。
特別に親しい仲というわけではないが、テニス部員の中でもこの二人は、マネージャーであるとを構いたくて仕方ないらしい。
は「あ、英二先輩、不二先輩……」と振り向く。
「あれ? ちゃん、何やってんの?」
ひょいっと教室の中を覗いた菊丸は、席に座っているを見て不思議そうな顔をした。
と、その横で、不二が何かを思い出したように「あ、そうか。確か今日は……」と呟く。
「あ…あの、私、まだやることがあって……! 先に帰って頂いていいですよ。も。夕ご飯の支度とか、あるでしょ?」
は、菊丸と不二、そして一緒に残りかねない親友に笑顔を向けた。
の家は母親が居ないため、これから帰って夕飯の支度をしなければならないのだ。
しかしは、「でも…」と言いかける。
すると、にっこりとした笑みを浮かべた不二が、に視線を向けたまま、の肩に軽く手を置いた。
「わかったよ、ちゃん。じゃぁ、先に帰るね。ちゃんのことは、心配しないで。僕達がちゃんと送っていくから」
不二の笑顔と言葉に、はホッとして「ありがとうございます、不二先輩」と言う。
「そのかわり……あんまり遅くならないように、気をつけて帰るんだよ」
――やっぱり、取りあえずはこう言っておかなきゃね。
そう思いながら、綺麗な青の瞳を開けて、言葉を口にした不二。
「はい、不二先輩」
も、不二がどういう思いで言ってくれたか解っているから、素直に返事をする。
その笑顔は、夕陽に淋しく映えるものだった。
「おい、不二ぃ! ちゃん、あのままひとりにしちゃっていいのかよ!?」
を連れて廊下を歩いていく不二に、菊丸が追いかけながら問う。
すると不二は、「まさか」と言って横顔だけ向けた。
「今日は確か、高等部のテニス部レギュラーが、遠征試合のために出かけてしまったはずなんだよ」
「え? 高等部レギュラーって……。あ、じゃぁ…!?」
もしかして、という顔をする菊丸に、不二は一つ頷いてみせる。
「ちゃんのお兄さん達……今日はお家に居ないんですね」
俯き加減で歩くが、それを口にした。
――の家には、父親が居ない。
それもが幼い頃に亡くなってしまったため、『父親』の面影も、記憶のひとかけらさえも、残っていない。
今までずっと、にとって兄の二人が――特に長兄の時斗が、父親代わりだった。
兄達が居るから、激しい淋しさに襲われることも無かった。
けれど――今日は、その兄が、二人とも居ない。
二人とも、青学高等部の男子テニス部のレギュラーなのだ。
「そっかぁ……だから今日、ちゃん元気なかったんだ」
菊丸は可哀想に、と思いながら、両手を頭の後ろで組ませた。
極力明るく頑張っていたけれど、いつもの彼女とはやはりどこか違っていた。
「じゃぁ、尚更ひとりにしちゃいけないじゃん!」
「勿論。だからここは、一番適任な人に任せるのがいいんじゃないかと思ってさ」
菊丸に向けた笑顔を、「ね? ちゃん」と、彼女へと移す不二。
「…そうですね。不二先輩」
微かに微笑んで答えるも、不二と同じ考えだったようだ。
その証拠に、二人とも足の向かう方向が同じだった。
「え? 一番適任な奴って……あ、そっか!」
二人の後ろを歩きながら、菊丸はぽん、と手を打つ。
「うん。『一番』って言ったら、彼しか居ないでしょ? 多分、まだ大石と一緒に部室に居ると思うんだよね」
そう話す不二と、と菊丸は、揃って男子テニス部室へと歩いて行った。
オレンジ色の夕映えに包まれた街並み。
は、帰り道の途中にある公園のブランコに座った。
あのままずっと学校に居るわけにもいかないので、取りあえずこうして学校は出てきたのだ。
けれど、このまま帰っても――兄は居ない。
自分で自分に苦笑したくなる。
ひとりで軽く、ブランコをこいだ。
――公園の中には、の他に、ある親子が居た。
幼い男の子とその母親らしき女性。
やがて女性は、息子に「そろそろ帰るわよ」と言う。
はブランコをこいでいた足を止めて、何となく顔を上げ、親子の方を見やった。
「え〜、やだ! まだあそびたい!」
男の子は、犬の遊具にしがみついてただをこねる。
「もうすぐお父さんが帰ってくるから、夕ご飯の用意、しなきゃいけないでしょ?」
母親の口から『お父さん』が出た途端、男の子は目を輝かせて遊具から離れる。
「うん、わかった! はやくかえろう、おかあさん!」
先程とは正反対の様子の息子に軽い笑みを零して、女性は走ってきた息子と手をつないで、公園を出て行った。
(きっと、お父さんが大好きなんだろうな……)
そう思ったにも、微かな笑みが浮かぶ。
けれど、それはほんの一瞬のことだった。
代わりに今度は、どうしようもない淋しさが押し寄せてくる。
ブランコをこぐ気にもなれず、はただ俯いた。
茜色の夕焼けが、紫色に染まる。
空も雲も街も、明るい太陽に別れを告げ始めた。
刻一刻と陽は沈んでいき、時は流れてゆく。
吹き抜ける風が寒く思えるほど、淋しさが募っていた。
(そういえば、前にもこんなことがあったっけ……)
は俯きながら、自分が小学六年生だった時の、あることを思い出した。
――クラスの男子達に、『父親が居ないこと』を、からかわれたことがあった。
他のことに関してなら、きっちりと言い返すし、負けない。
しかし、その刻だけは――どうしようもなかった。
言い返したいはずだったけど、無視した。
そのまま家に帰ることも出来ずに、公園で泣きながらブランコに乗った。
(あの時と同じじゃない)
ちっとも変わっていない、と思った自分に苦笑する。
視界がぼんやりと霞んできて、はポケットからハンカチを取り出した。
夕陽色に染まる、元は白のハンカチ。
(でも、あの時は……)
ハンカチを見つめながら、思い出す。
あの時は、そのあとに救いがあった。
「――」
ふいに、呼ばれた名前。
聴き憶えのある、低くて暖かみのある声。
は「え……?」と、顔を上げる。
――既視感が訪れたのかと思った。
あの時もそうだった。
ひとりでブランコをこいでいたら、来てくれた。
「手塚…部長……?」
普段学校では、のことを「」と名字で呼ぶ、青春学園中等部生徒会長にして、男子テニス部部長――手塚国光。
僅かに残る夕陽のかけらに照らされたその姿が、の前にあった。
「部長、どうして……?」
緑の瞳を瞬きさせるの隣りのブランコに、手塚は荷物をおろして座る。
「不二と菊丸とが、お前のことを頼むと言ってきた」
「え? 不二先輩と英二先輩とってことは……」
おそらく先程教室で別れたその足で、手塚の元へ行ったのだろう。
「すみません、部長」
彼らの気持ちは嬉しかったが、手塚に迷惑をかけてしまったと思ったは、苦笑して謝る。
「いや、謝ることはない。不二達に言われるそれ以前に、俺は自分の意志でここへ来るつもりだった」
手塚から返ってきた言葉に、は「え?」と驚いて視線を向けた。
「……今日は、時斗先輩と蒼天先輩が、遠征試合で家に居ないんだろう?」
西の彼方へ落ちてゆく陽を見据えていた手塚の瞳が、のそれと重なる。
大きく見開かれた、彼女の緑色の瞳が揺れ始めた。
「…………はい」
段々と俯いていったが、小さく頷く。
そんなの頭に、手塚は軽く手を置いた。
――あの時も、ひとりでブランコをこいでいたら。
当時中学一年だった手塚が、偶然だったが公園を通りかかり、声をかけてくれた。
兄達の後輩である手塚を、すでにもう一人の兄のように慕っていたは、学校であったことを話した。
「そうか……辛かったな」
手塚は、の家――家に、大黒柱である父親が居ないのは知っていた。
兄の時斗が父親代わりとして頑張っていることも。
けれど――もう一人の兄・蒼天、母、そして犬や猫達が家族として居るにしても。
やはり、『父親』が居ないのは淋しいのだろうと、手塚は思っていた。
「わたし……お父さんが居ないこと自体が淋しいんじゃ、ないの」
から零れてきた言葉に、手塚は「え?」と訊き返す。
「淋しくないって、言い切れるわけじゃないけど……でも、お兄ちゃん達が居てくれるから。お母さんも、達も居てくれるから。頑張っていけるって、思う」
涙の溜まった大きな緑の瞳が、夕焼けの空を見上げる。
「わたしが淋しいって思うのは……お父さんのこと、何も憶えてないから……」
今は居ない、あの茜色の彼方にいってしまった父親。
「お父さんが亡くなったのは、私が二歳になるかならないかの時だったから……わたし、全然記憶が無いんです。お父さんって、どんな人だったのかなって思う時、あるけど……お兄ちゃん達やお母さんには、わたしがお父さんのこと、何も知らないで育ったんだって、淋しそうな顔させちゃうから……訊けなくて」
――は、『父親』のことを憶えていない。
その事実を彼女の口から聞いた手塚は、言葉も紡げず驚いた。
そんな昔に亡くなっていたなんて、知らなかった。
「でも、贅沢ですよね。あんなにいいお母さんとお兄ちゃん達が居るのに、こんな……!」
は、無理に笑って涙を隠そうとした。
けれど思いがけず、ぽろっと瞳から雫が零れ落ちる。
は「あれ…?」と言って、目元を拭う。
「いや、何も憶えていないことを淋しく思うのは当たり前だと、俺は思う」
手塚から返ってきたのは、真剣な瞳と声だった。
その中に、とても心配そうな色が浮かんでいる。
「え……? 国光お兄ちゃん……?」
目元を擦っていたは、ゆっくりと視線を手塚に戻す。
――静かな優しさがたゆたった瞳。
次の瞬間、まるで枷が外れたように、の双眸から涙が零れ始めた。
「っく……国光…お兄ちゃ……っ!」
今までため込んできた思いが、一気にあふれ出したようだった。
手塚は暫くの間、黙っての頭を撫でていた。
――大分、が落ち着いてきた頃。
手塚は、制服のポケットから白いハンカチを取り出す。
「もう大丈夫か?」
そう問いかけながら、ハンカチを差し出した。
「ありがと……っく……国光…お兄ちゃん……」
受け取りながら、礼を言いたいのに、嗚咽が混じってしまう。
「、もう泣かなくていい」
手塚は再び、の頭を優しく撫でた。
「お前には、俺が居る」
「え……?」
ハンカチで目元を拭いていたの手が、止まる。
「時斗先輩も蒼天先輩も……そして、俺も居る。それなら、淋しくないだろう?」
穏やかな微笑みと言葉。
の瞳に、先程とは違う涙がこみ上げる。
「うん……ありがとう、国光お兄ちゃん!」
涙の粒を夕陽に煌めかせて。
は感謝の言葉を笑顔を、手塚に返した。
「……何だか、懐かしいな」
ぽつりと呟いたを、手塚は「ん?」と見つめ返す。
「前にもこうやって、部長になぐさめてもらったことがありましたよね」
は、両手できゅっとハンカチを握る。
そのハンカチに気づいた手塚は、「それは……」と少し驚いたようだった。
「あの刻から、私のお守りです」
嬉しそうに微笑む。
――このハンカチは、あの刻、手塚からもらったもの。
手塚も、それを忘れていたわけではない。
だが、未だにこうして――『お守り』として持っていてくれたとは知らなかったし、嬉しかった。
ふいに手塚はブランコを降りて、の前に立つ。
「もう一度言っておくぞ、」
穏やかな声と、和らいだ表情。
は「え?」と顔を上げて、手塚を緑の瞳に映す。
「お前には、俺が居る」
青く薄れてゆく夕闇の中で。
太陽の代わりに、月と明星が輝きを放ち始めた刻。
手塚の優しげな声と微かな微笑みが、に届いた。
「……はい」
今度は嬉しくて、瞳が揺れる。
嬉しすぎて、もブランコから立って、ちょっぴり甘えるように手塚の胸元へ身を寄せる。
手塚はそんなの肩や頭を、優しく包み込んだ。
――空は、光を失わない。
朝から昼、夕方の刻まで太陽が照り。
夜は月と星々が輝く。
たとえ雨雲が空を覆っても、必ず陽射しの手を差し伸べ、虹という約束をくれる。
それと、同じように。
のそばには、いつも手塚が居てくれる。
彼が居てくれるから、は、前を向いて歩いていける。
空には常に、光があるように――。
――丁度、夕飯を終えた刻。
家の電話が鳴り、は「はーい!」とご機嫌な様子で受話器を取った。
『か?』
受話器の向こうから聴こえきたのは、大好きな兄の声。
「時斗お兄ちゃん!」
の声が、更に嬉しそうになる。
『変わりは無いか?』
普段冷静沈着な時斗の声も、この刻ばかりは限りなく優しい。
「うん。あ、あのね、国光お兄ちゃんが来てくれてるの! 今一緒に夕ご飯食べたところだよ。それで、今日泊まっていってくれるって!」
『そうか、手塚が……電話、出られそうか?』
手塚の名を聞いても、時斗の声の調子が変わることは無かった。
これが手塚以外、もしくは三年レギュラー以外の者だったらそうはいかない。
は「ちょっと待っててね」と言って、手塚の元へ行く。
「お電話かわりました。手塚です」
暫くして、時斗の耳に聴き慣れた声が届いた。
『手塚、すまないな』
「いえ、を送って、失礼しようと思っていたのですが……」
――手塚がを家まで送ると、彼女の母親・雪魅が暖かく出迎えた。
「お帰り、。こんばんは、手塚くん」
が「ただいま!」と駆け寄り、手塚が「お久しぶりです」と頭を下げると、
「きっと手塚くんが来てくれると思ったから、夕ご飯用意してあるの。手塚くん、一緒にどうかしら?」
と、朗らかな笑顔が返ってきたのである。
律儀で礼儀正しく、遠慮深い手塚は一瞬戸惑ってしまったが、「さすがお母さん!」とすっかり喜んでいるを前にして断るわけにもいかず……。
「部長、食べていって頂けますか?」
身長差もあるが、『お願い』をされるように上目遣いで見つめられてしまった手塚は、首を縦に振ったのである。
そして夕飯が済んだ先程、「明日はお休みだし、手塚くん、よかったら今日は泊まっていったら?」と、また雪魅に笑顔で提案されて。
「あ、それいい! 部長、いいですか?」
くるっと振り向いてきたに、手塚は「いや…」と、何と答えていいかまた戸惑いかける。
「…駄目ですか?」
しゅんとして見上げてくる緑の瞳が潤む。
いつの間にか、家の猫・とまで、手塚の足元にすり寄って来ていた。
そんな達の『お願い』に適うはずもなく。
「……では、お言葉に甘えさせて頂き、お世話になります」
深々と、雪魅に頭を下げたのである。
――以前にの次兄・蒼天が、「って、普段しっかりしてるけど、『お願い』をしてくる刻は、留守番させられる猫みたいな瞳をしてくるから、困るんですよね」と言っていた。
困るとは言っても、そうは見えなかったが、実際その通りだと思う。
とても断れない。
『そうか。お前の予定は大丈夫なのか?』
手塚から、泊まるまでに至った経緯を聞いた時斗が訊ねる。
「はい、それは大丈夫です。これから、一度家に必要な物を取りに戻ります」
手塚がそう答えると、時斗の声が少し憂いを含む。
『俺達が居ないばかりに……本当にすまないな、手塚』
「いえ、謝って頂くことはありません」
時斗の言葉に、手塚はあっさりとそう返す。
「俺の意志でもありますから」
そして、持ち前のしっかりした声で答えた。
『……ありがとう』
心から礼を言う時斗。
彼に中等部のテニス部部長を任せたことを、時斗は後悔などしたことはなかった。
星を忘れがちな、街の夜空。
けれど、それは星が『無い』のではない。
月と共に、空と地上を照らしている。
空には、必ずいつも、光が輝いている――。
end.
《あとがき》
手塚くん&一の姫ドリーム、です。 如何でしょう?; ちょっと心配…(汗)
というわけで、様の過去、手塚くんとの『思い出』を書いてみました。
様に『お父さんが居ない』ということは、手塚くん以外にも大石くん、英二くん、
不二くん…と、三年レギュラーさん達は知ってるそうです。
おそらくお兄さん達のおかげですね。桃くん達、一、二年は知らないそうですが(笑)
ま、三年レギュラーの中でも、特に手塚くんが様にとって『一番』な存在なのでは
と思います。手塚くんも満更じゃないみたいなので、嬉しい限りです(^^)
『お兄さん達』という難関もほぼクリアしてるし、この先もあまり苦労しないで
済みそうv(笑) その分、桃くんとかは頑張らなきゃ、ですが(苦笑)
読んで頂いて、ありがとうございました!
written by 羽柴水帆
