姫君の始まり〜二の姫〜
新学期が始まって、少しした頃。
春風に花びらを乗せていた桜の木々も、葉桜に移り変わった。
「……あれぇ? おかしいなぁ……どこ行っちゃったんだろう……?」
テニスの名門と謳われる青春学園の中等部。
その校舎裏に、ひとりの少女がきょろきょろと辺りを見回しながらやって来た。
時折吹く風に舞う黒髪を押さえながら、琥珀色の瞳をこらす。
「確かこっちの方に飛んできたと思ったのに……」
ふぅ、と少女は溜息をついた。
彼女の名は、。
今年で中学二年生になったばかりの少女だ。
授業が終わった放課後、クラスは別れてしまったが、一年の時からの親友であると、「今年は部活をどうしようか」と話し合っていたのだが……。
その途中でのハンカチが風にさらわれてしまったので、こうして追いかけてきたというわけである。
「……部活、本当にどうしようかな」
独り言のように、ぽつりと呟く。
一年の時は、趣味でもあり、家でのやるべきことである料理をもっと勉強しようと、調理部に所属していた。
――の家は、母親が居ない。
父と双子の兄と弟、そして犬(オス)という、のみ女の子の家族。
の母は、心臓の病が原因で亡くなってしまった。
も、母と同じその病にかかり、一時は危なかったこともある。
が、幸い小学四年生の時に受けた手術により、完治はした。
それからの家の家事は、が進んでこなすようになったのだ。
でも、それはいいのだけれど――。
には、『好きなこと』があった。
料理とは別に、昔から『好きだったこと』があった。
「けど……今の私には、出来ない」
悲しげに俯いて、零す言葉。
が好きなそれをすることに、医者は許可を下ろしていなかった。
でも、とは思う。
さっきには話しそびれてしまったけれど、きっと彼女も頷いてくれるはずだ。
――見ているだけなら。
応援するだけなら、手助けすることなら――!
と、そう思った刻。
いつの間にか、校舎裏の木々や茂みのある所へ来ていた。
彼女のすぐ横の木に、バコンッというすごい音と衝撃が激突した。
「きゃぁ!?」
ほんの十センチ、木に姿を重ねていたら、間違いなく直撃だった。
実際、長い黒髪の毛先は巻き込まれたようである。
衝撃と木に挟まれたそれが、ふわりと弧を描くように舞い降りた。
はへなへなとその場に座り込む。
すると、コロコロと小さな黄色いボールが転がってきた。
「……テニス…ボール……??」
呆然としてが呟くと。
「おいっ……!?」
ガサッと葉の掠れる音と、少し焦ったような低い声が聴こえた。
が「え…?」と振り向いてみると、そこには――。
「か……海堂…くん……?」
のクラスメートである、海堂 薫が居た。
初めて同じクラスになって、まだ話したことはなかったが、彼の顔と名前は覚えている。
いつもの制服ではなく、青学レギュラージャージ姿に、深緑色のバンダナを頭に巻いた状態だが、すぐに彼だと判った。
それもこれも、彼の目つきの鋭さや、人を寄せつけない雰囲気が原因だ。
怖そうな人だなぁ、という強烈な第一印象をに与えていた。
しかし海堂の方は、「お前……?」と言ったきり沈黙している。
おそらくを覚えていないのだろう。
「同じクラスの、です」
それを察したが名乗ると、ようやく「ああ…」と思い出したようだった。
「怪我……してねぇか?」
から少し視線をずらして、ぼそっと問いかける。
「え?」
「ボール、飛んできただろ」
「う、うん……大丈夫。ギリギリで、当たらなかったから……」
そう言って力無く笑う。
けれど、余程驚いたのだろうというのは一目瞭然だった。
海堂は小さく舌打ちする。
スネイクの練習をしていた海堂は、自分の打ったボールが当たる音と少女の悲鳴がほぼ同時に聴こえたので、怪我をさせたかと思い、慌てて飛んできたのだ。
幸いに怪我はなかったようだが、驚かせて――怖がらせてしまったらしい。
「……悪かったな、」
正視が叶わない上、それを口にしたら尚更を見れなくなって、海堂はくるっと背を向けた。
「え? どうして海堂くんが謝るの?」
歩き出そうとした海堂の、しかしその足はぴたりと止まる。
「……んなの、俺が打ったボールだからに決まってんだろうが」
横顔と片方だけのきつい視線を向けながら、答えた。
「え? 今の……海堂くんが…?」
は大きな瞬きを繰り返しながら、そういえばと、海堂の姿を改めて見る。
「海堂くん……テニス部のレギュラーだったね。じゃぁ、今の、本当に海堂くんが?」
「ああ…。部活の練習が始まるのに少し時間あったから、そこでスネイクの練習してたんだが……」
まさかここに人が居るとは思わなかった。
「スネイク…? さっきのが、スネイクだったんだ……海堂くん、すごいね」
は先程のショックも、海堂に対する恐怖心も霞んでしまったかのように、微笑む。
海堂は驚いたように一時停止状態になる。
「いいなぁ……テニス」
と、の声で何とか我に返った。
「お前……テニスやんのか?」
何となく海堂は訊ねてみる。
すると、いきなりの表情が翳って。
「……ううん。前は、やってたけど、今は……出来ないの」
そんなに、海堂はどうしてかなんて訊かなかった。
風と葉の掠れる音がそよぎ、少しの時が流れる。
海堂は「ふしゅー」と一息ついてから、伏せかけていた双眸を開いて、のそばへ歩み寄る。
「おい、立てるか?」
いつまでも立ち上がる気配のないに、手を差し出した。
腰を抜かしてしまったのなら、それも原因は自分にあると思ったのだ。
「あ……うん、ありがとう」
は、『海堂が打った矢先に自分が来てしまった』のだから、彼のせいだとは思っていない。
「ごめんね。私、邪魔しちゃったよね……」
逆に練習の邪魔をしてしまったと思い、彼の手を取りながら謝る。
海堂は、それに何の返事もしなかった。
よいしょ、と何とか立ち上がる。
もう一度礼を言おうと思ったが、それよりも早く海堂は、手も視線もパッと離してしまった。
「ところでお前、何でこんな所に来た?」
「あ、えっと……友達と中庭で話してたら、ハンカチが飛んで行っちゃって……」
海堂は「ハンカチ?」と鋭い視線で訊き返す。
「は、はい…! 水色のなんだけど……海堂くん、見なかった?」
はふと現実に引き戻されたようにびくっとするが、一応訊いてみた。
「……あれか?」
と、意外にあっさりと返ってきた返事。
は「え?」と思いながら、海堂が向けた方へと視線を重ねてみる。
すると、少し先の木の枝に、水色のハンカチがひらひらと引っかかっていた。
「あ、うん、そう! よかったぁ…!」
は嬉しそうに笑い、ハンカチを取ってくると、海堂の方へ戻りながら。
「はい、ありがとう、海堂くん」
彼のテニスボールを拾って、礼の言葉と共に手渡した。
「……あ、あぁ」
ほとんど済し崩された状態で、海堂は返事をする。
が、すぐにきびすを返して、元の校舎側へと戻っていった。
それに――何となくついて行く。
「あの……海堂くん」
「っ!?」
まだ声をかけてくるとは思ってなかったらしい海堂が、すごい目つきで振り返る。
「あ、あの、その…! 何度もごめんね…!」
ぎゅっと怯えたような表情になる。
「……何だ?」
これでは埒があかないと思った海堂は、取りあえず訊いてみた。
その声に少しホッとして、は勇気を振り絞る。
「あの、あのね……テニス部のこと、訊いてもいい?」
青学の黄金ペアと呼ばれるふたりは、共に部活の場へと歩いていた。
「ねぇ、大石って好きな子いないの?」
「え? な、いきなり何言ってるんだ? 英二?」
いつも気まぐれで、突拍子のない行動と言動が多い相方。
それを解っているつもりの大石でも、この質問にはさすがに驚いた。
「だって大石って、そーゆー気配とか全然無いじゃん。つまんない!」
頬を膨らませ、明らかに不満顔をする菊丸。
大石は「つまんないって、あのな……」と疲れたように肩を落とす。
「そう言うお前はどうなんだ?」
逆に訊き返してみた大石。
菊丸はビシッと人差し指を立てて。
「オレは、今んとこテニス一筋! って、オレのことはいーのっ!」
と、そのまま、その指を大石に向けた。
「ねぇ、ホントにいないの? 何でいないの?」
「何でって言われても……まだそうゆう子と出逢えてないから、なんじゃないかなぁ…?」
軽く頬を掻きながら言うが、大石自身よくわからない。
「ふーん……じゃぁさ、どんな子が好みなの?」
「え? さ、さぁ……??」
内心「何なんだ一体?」と思いながら、首を傾げる大石。
菊丸は怒った顔で、両手を組んだ。
「もぉ! 『さぁ……??』じゃないだろぉ!? 大石ってクラスでも部活でも、周りのことばっかし気遣って、自分のことはほとんど構ってないじゃん! そんなんじゃオレ、大石の将来心配だよ」
――クラスはともかく。
部内で大石が気を遣ってばかりなのは、無茶ばかりする、問題ばかり起こすレギュラーが大勢居るからに他ならない。
更に言えば、菊丸も立派なその一人である。
だが、彼なりに大石を心配しているのは確かだ。
大石は穏やかに表情を和らげる。
「……ありがとう、英二。でも俺は…」
無理はしていないし、大丈夫だから――と、言おうと思った。
「あっ、あ〜っ!! 大石っ、見て見て!」
しかし菊丸は、もう聞く耳を持っていなかった。
がっくりと項垂れてしまう大石。
「何やってんだよ、大石! ほら、あの子!」
菊丸はじれったそうに、何やら見つけた方を指す。
仕方なく大石は顔を上げ、「あの子…?」とも思いながら、そちらへ視線を向けた。
「あそこ、海堂と一緒に居る子だよ!」
菊丸の言う通り、校舎裏のそこにはテニス部の後輩・海堂と、ひとりの女生徒が居た。
腰辺りまでの長い黒髪の少女。
青い髪留めを、頭の両側に軽くつけている。
「大石の好みの子って、あんな感じなんじゃない? 清楚でおとなしそうって感じの」
「そ、そうかもな……」
曖昧に答えながら、大石はもう一度、何か話しているらしい少女と海堂を瞳に映す。
「でもあの子、海堂と何話してるんだろ? もしかして、海堂の彼女だったりして!?」
菊丸が「にゃーんて、まさかね〜」と笑った刻だった。
「あっ……!?」
何かを思い出したように、大石が突然走り出す。
「ちゃん!?」
『え?』
菊丸や海堂、そして名前を呼ばれた少女――が、一斉に大石に視線を集めた。
「やっぱり、ちゃんじゃないか」
嬉しそうに笑いかける大石。
「あ……!」
――秀お兄ちゃん――!
喉まで出かかった『呼び名』を、心の底にしまい込む。
「……大石…先輩…!?」
驚いていたの表情が、ぱぁっと輝き始める。
「にゃににゃに!? 大石っ、この子と知り合いなのぉ!?」
大石が女の子を名前で呼んだことなど、ほとんど見たことが無い菊丸は、興味津々に訊ねた。
「あ、ああ。小さい頃に何度か、ちゃんが俺のおじさんの病院に来ていたことがあったから、その時にね」
大石はあくまで普通に説明した。
が、菊丸は「まだ何かありそう」という顔をして、じーっと大石の顔を見る。
「と、ところでちゃんと海堂、こんな所でどうしたんだい?」
菊丸の視線から逃れたい思いもあって、誤魔化すように、大石は持ち前の笑顔を浮かべて二人に訊いた。
「え、えっと……あの……」
恥ずかしそうに俯いて、口ごもる。
青学の黄金ペアは、「?」と顔を見合わせた。
が、菊丸がすぐにハッとする。
「あっ! ごめん! ひょっとして邪魔しちゃった?」
が『海堂のクラスメート』だということをまだ知らない菊丸は、『海堂の彼女かも説』を思い出して訊いてみた。
「え? いえ、大丈夫です」
しかしは、菊丸の言葉を『ふたりの邪魔』ではなく、『話の邪魔』ととったようだ。
にっこりと微笑みを返してきたを見て、菊丸はそれを察知した。
「……先輩」
そんなを見ながら、「ふしゅー」と一呼吸置いて、ようやく海堂が口を開いた。
大石が「ん? 何だ? 海堂」と訊き返す。
海堂はを一瞥してから、
「こいつ、うちのマネージャー志望だそうっすよ」
緊張と遠慮と、引っ込み思案なために言えないの代わりに、それを告げた。
「か、海堂くん…!」
は困惑したような複雑な表情をして、彼の顔を見上げる。
言ってくれたのは嬉しいが、申し訳ない。
それに、まだ自信が足りなかったのだ。
「え?」
「ホント!?」
驚いて瞬きをする大石と、段々嬉しそうになる菊丸。
「やったぁ! こ〜んな可愛いマネージャーが来てくれたら嬉しいにゃ! ね? 大石!」
と、菊丸は上機嫌で相方に同意を求めた。
けれど、当の相方は真剣な表情で――。
「……いいのかい? ちゃん、本当に……」
真剣な中にどこか悲しそうな、心配そうな色を瞳に込めて、大石が訊ねる。
菊丸と海堂は、その意味がよく解らなかった。
は、一瞬だけ大きな瞳を伏せたが、すぐに開いて微笑む。
「はい。私に出来るすべてのことで、テニス部の皆さんのお手伝いがしたいです」
その声と微笑みに、そこに居た三人は暫し言葉を失った。
――春の香りを微かに残す風が、柔らかく通りすぎる。
「……わかった。おいで、一緒に行こう」
ややあって、穏やかな笑みを浮かべた大石が言った。
「は、はい」
はこくんと頷いて、大石のそばに駆け寄る。
「え? 行こうって、大石、どこ連れてくの?」
菊丸の問いに、大石は「手塚のところさ」と簡単に答えた。
「あ、そっか。じゃぁ、オレも! オレも行く〜! 海堂も行くだろ?」
大石との元へ素早く走り、くるっと振り向いて問う菊丸。
海堂は「いや、俺は……」と言いかけるが、
「どうせもう部活が始まる時間だ。手塚も部室に行ってるだろうし、一緒に行けばいいじゃないか、海堂」
大石にそう言われては、海堂も「……うっす」と返事をするしかなかった。
「よっし! んじゃぁ、行こ! ちゃん、だったよね? オレ、三年の菊丸英二! よろしくにゃ♪」
「は、はい。二年のです。よろしくお願いします、菊丸先輩」
菊丸の明るい調子に驚きつつも微笑んで、はぺこりと頭を下げる。
早速「ねぇ、大石とはいつから知り合いなの?」と訊き始める菊丸や、、大石が並んで歩くのを見ながら、海堂はラケットを担いでその後ろを歩き始めた。
