心安らぐように
――校舎を照らす陽射しが、オレンジ色に染まる頃。
練習が終了した青学男子テニス部の部員達は、次第にコートから姿を消していった。
が、部室にはまだふたりの少女の姿がある。
「、こっち終わったよ」
茶色の髪を軽くポニーテールにした少女――は、部誌にペンを走らせている親友に笑いかけた。
は、部員達へのドリンクを入れていたホルダーやコップを片づけてきたのである。
「ご苦労様、ちゃん」
彼女の親友――は、顔を上げて柔らかな笑みを返した。
それぞれ、は青学テニス部の一の姫、は二の姫と言われるほど、レギュラーや部員に重宝されているマネージャーである。
「の方は? 終わりそう?」
「うーん、もう少しなんだけど……ちゃん、ここってどう書けばいいのかな?」
部誌を覗いてみるに、は少し困ったような顔をしながら、わからない箇所をペンで指した。
これも、マネージャーとしての仕事。
だが、まだなったばかりのふたりには、わからないことも多少ある。
「えーと……そうだね……」
の指した箇所は、どう書き込んだらいいのか、にもわからないようだ。
と、ふたりが考え込んでいるそこへ、ガチャッと部室のドアが開く音がした。
ふたりは反射的にそちらを見やる。
「――ん? 、……」
「あれ? ふたりとも、まだ残っていたのかい?」
ドアの向こうから入ってきたのは、テニス部の部長と副部長を務める二人――手塚国光と、大石秀一郎だった。
「手塚部長、大石先輩、お疲れ様です。あの、まだ部誌を書く仕事が残ってるんです。ちょっとわからないところがあって……」
がそう言うと、は「すみません」というような顔をする。
大石は、部誌を書いているの元へ歩み寄った。
「よかったら手伝うよ」
「え? でも、あの、悪いですから…!」
大石の言葉に、は慌てて両手を振る。
練習が終わったばかりで疲れているはずだから、悪いと思ったのだ。
「ん? 何故これが、まだこんな所にあるんだ?」
その刻、手塚が部室の机に置かれている、テニス関連本の束に気づいた。
今日部活で使った、図書室から借りてきたものだ。
「え?」
振り向いた大石の瞳に、どさっと置かれたそれが映る。
「さっき練習が終わった時に、桃や英二達に片づけておいてくれって言ったのに……」
そういえば『帰りにどこへ寄るか』という話をしていたし、ちゃんと聞いていなかったのかもしれない。
大石は「やれやれ」と苦笑するように笑って、小さく溜息をついた。
「あ、私、片づけます!」
は即座に言って、本の束を持とうとした。
すると、彼女の前にすっと手塚が入る。
「一人で持つのは大変だろう。俺も手伝おう」
そう言って手塚は、半分以上の本をひょいっと持ち上げてしまった。
は「部長…!?」と目を丸くする。
「丁度いい。俺はこれを片づけたら、を送っていく。大石、それが終わったらを送ってやれ」
「ああ、わかった」
手塚の冷静な声に、爽やかな声で答える大石。
『え、えぇ!?』
部長、副部長とは打って変わって、ふたりのマネージャーは揃って驚いた。
そんな恐れ多い、とでも言いたげである。
「行くぞ、」
けれどそんなふたりに構わず、手塚は本の束を持って歩き出す。
「ま、待って下さい、部長……!!」
は残りの数冊の本を持って、手塚の後を追った。
――手塚とが部室を出て行くのを、は呆然として見送る。
「あ……あの、大石先輩…??」
残されたは、瞬きさせている琥珀色の瞳を、同じく残された副部長の方へ向けた。
「さぁ、俺達も早く終わらせて帰ろう。ちゃん」
「え? でも…! あ…――」
疲れているのに、手伝ってもらうのは悪いから、先に帰ってもらった方が――とは思ったが、ふと気づく。
大石は部室の鍵当番だから、自分が仕事を終わらせなければ、彼も帰れないのだ。
「……すみません、大石先輩」
「全然構わないよ。気にしなくていいんだよ、ちゃん」
しゅんとして謝ったに、大石は穏やかな笑顔を向けた。
は顔を上げながら、「先輩…」と呟く。
――大石は、いつもこうして優しい。
「どこがわからないんだい?」
「え、えっと…!」
なるべく早く終わらせなきゃ、と思い、はわからない箇所を大石に訊き始めた。
「あの、すみません、部長」
図書室へ向かう廊下の途中で、が口を開いた。
「何がだ?」
それまでずっと黙ったまま、前を向いていた手塚が、視線だけをに向ける。
「手伝って頂いて、その上、送って下さるなんて……本当にいいんですか?」
恐縮そうに、は訊ねた。
手塚は、天下の青学テニス部部長。
そんな彼に本の返却を手伝わせた上、家まで送ってもらうなんて――と、自分が悪いわけではないのだが、は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
しかも手塚は、が持つ分が少なくてすむように、自分の方が何冊も多く持っている。
――本来なら、これすべてを持って運ぶくらい、手塚には何ともないこと。
だが敢えてそうしないのは、少しはが持つ分を残さないと、真面目な彼女のことだから恐縮するだろうと思ったのだ。
実際、これでもしているようだが。
「……ああ、それぐらい構わない」
丁度図書室へ辿り着いた刻、手塚はいつもの声色で答えた。
は「でも…」と、まだ納得のいかない、いや、納得していいのかわからない顔をしている。
「……いや、。そんなに気にするな」
図書室へ入り、本を棚に戻しながら手塚は和らいだ表情を向けた。
「部長…?」
は不思議そうに首を傾げる。
「お前やのことを頼むと、お前の兄さん達から言われているしな」
手塚は、きちんと本をしまいながら話す。
現在は青学高等部のテニス部レギュラーである、の二人の兄――時斗と蒼天は、手塚の先輩にあたる。
故には、青学に入学する前から、手塚と知り合いだった。
その時から名前で呼ばれていたため、今呼ばれても驚くことはない。
普段手塚がを名前で呼ばないのは、公私のけじめをつける彼の性分故だ。
「え? お兄ちゃん達から?」
そう訊き返して、はくすっと笑った。
の兄達の、妹の可愛がりようは凄まじいということを、手塚はよく知っていた。
次兄の蒼天は穏やかな面があるため、まだ控えめかもしれないが、長兄の時斗は冷静沈着な分、妹に関わる男には容赦がない。
だが手塚は、幸いなことに幾分か信用されているようである。
妹の親友であるも、彼らにとっては大事らしい。
ふたりがマネージャーをすることになった刻、「くれぐれもよろしく頼む」と、念を押され、頼まれたのだ。
「もう、お兄ちゃん達ったら……すみません、部長」
兄達の気持ちは嬉しいとは思いつつ、は困ったように笑って謝った。
「いや、当然のことだ。それに、先輩方に頼まれているからだけではない」
「え?」
が手塚を見上げた刻、もうほとんどの本をしまい終えていた。
「……うちはかなりハードだからな。マネージャーの仕事もきついだろう」
本棚の高い段へ本を入れ、その手をおろしながら、手塚は真剣な表情で言葉を紡ぐ。
「い、いえ、そんな……!」
大丈夫です――と、は言いたかった。
けれど、手塚のあまりの真剣な表情に、言葉が続かない。
「まだなったばかりだが、よくやってくれている。これは、俺からの感謝の気持ちだと思ってくれればいい」
そう言って、に向けられた手塚の表情は、普段中々見せることのない穏やかなものだった。
「手塚部長……」
にもやっと笑顔が戻る。
――もっと、遠い存在になってしまったかと思っていた。
以前の手塚は『兄達の後輩』で、にとって『もう一人のお兄さん』のようでもあった。
だが、現在の『青学テニス部部長』を務める手塚を間近で見るようになって、少し遠い存在になってしまったような気がしていたのだ。
でも――変わらない、変わっていなかった。
「ありがとうございます、手塚部長。……よかった」
とても嬉しそうに微笑む。
「…何がだ?」
手塚は、何が「よかった」のか解らず、問いかけた。
は「いえ、何でも」と微笑を繰り返し、手の中に残った本をしまいながら、
「手塚部長、私、これからも頑張ります! 少しでも部長の助けになれるように」
屈託のない、輝くような笑顔を手塚に向けた。
手塚は二度ほど瞬きをすると、ふっと微かに微笑んだ。
「……ありがとう。だが、無理は禁物だぞ、」
「はい!」
素直な笑顔を返してくるを見て、手塚は心が穏やかになるのを確かに感じる。
そして、がマネージャーになってくれてよかったと、心の底から思った。
「よっと……!」
最後の本をしまうため、は高い棚まで手を伸ばす。
が、背伸びをしたら、ふとバランスを崩しかけて。
「わっ……っと…!?」
しかし、の身体が後ろへ傾くことはなかった。
「言われてすぐに無理をするな、」
すっと背中に添えられた、暖かな手。
手塚が、を支えてくれていた。
「部長……」
緑の瞳を見開くから本を受け取って、手塚はいとも簡単に高いそこへしまう。
「今のも『無理』なんですか……難しいですね」
は、自分で出来そうなことはしようとする性格である。
今だって『無理』をしたつもりはなかった。
うーん、と考え込むを見て、手塚は「これはよく注意して見ていないと……」と、決意を新たにした。
「……とっても、助かってるんだよ」
「え?」
部誌の空白を埋めながら、は顔を上げる。
――わからない箇所について丁寧に教えてくれた大石に、が礼を言うと共に「ご迷惑かけてすみません」と謝ると。
「これぐらい、お安いご用だよ。迷惑なんてとんでもない」
大石が笑ってそう言ったかと思うと、急に表情を改めたのだ。
「元々、女の子のマネージャーが居てくれたらなぁって、思ってたんだ。俺だけじゃカバーしきれないことも、たくさんあるし……女の子の方がよく気がついてくれるからね」
大石は「でも、中々手塚が認める子が居なくて」と苦笑した。
手塚が『認める子』と言うよりは、『認められる子』の方が正しいかもしれない。
青学レギュラーの人気は高く、マネージャー志望の女生徒の数もすごかった。
しかし、どの子も手塚が認められるほどの理由を持っていなかったのだ。
たとえばレギュラーに対する憧れ心だけとか、親しくなろうという魂胆だけとか……。
――これは、きちんとした理由と心構えがなければ、やっていけないことだから。
「だから、ちゃん達みたいな、ぴったりな子がマネージャーになってくれて、すごく嬉しいよ」
「そ、そんな……ちゃんはともかく、私は、至らないところばっかりで……」
今も――と言うように、は俯いてしまう。
「そんなことないよ。ちゃんも、ちゃんも、よくやってくれてる。手塚も俺も、みんなも本当に助かってるよ。ありがとう」
「大石先輩……」
爽やかな声、優しい笑顔。
はようやく、はにかむような微笑みを浮かべる。
「いえ……私なんかでも、少しでもお役に立ててるなら、嬉しいです」
ようやく笑ってくれたかと思ったら、と大石は、から返ってきた言葉に苦笑するような笑みを零した。
「ちゃんって、昔からおとなしくて控えめだよね。全然変わってないみたいだ」
「……先輩が優しいのも、変わってないです」
大石は「え?」とを見て。
少しの間、視線を合わせたふたりは、やがてどちらからともなく笑い合った。
は幼い頃から心臓が悪くて、大石のおじの病院に通っていたから、その時に何度か大石と会っていた。
だが手術を終えた小学四年の時から、あまり会う機会がなかったので、こうしてよく話せるようになったのは、ここ最近からだ。
――幼馴染みと呼べるような、呼べないような、そんな関係。
けれど、互いが互いに『忘れられない思い出』を持っていることを、ふたりはまだ知らなかった。
「最近、心臓の方は大丈夫?」
「はい。完治はしてるので、大丈夫です。また来週、病院へは行きますけど……」
念のためということで、月に一度は病院へ通っている。
大石は「そうか」と安堵の息をつくと、部誌の空白が残り二つになっているのに気がついた。
「あ、ちゃん。あとは、これとこれで終わりだ」
今日の感想・気づいたこと等を書くスペースと、鍵をかけたか否かを記すスペース。
は「はい」と返事をして、書き込もうと少し俯き加減になった。
すると、空白箇所を指していた大石の手に、の長い黒髪がさらりとかかってしまう。
「あっ…! す、すみません…!」
「い、いや、いいんだよ。こっちこそ、ごめん」
はパッと髪を押さえ、大石も慌てて手を引っ込める。
ふたりの頬が薄らと紅く染まり、大石に至ってはかなり鼓動が速まっていた。
「大石先輩は、悪くないですよ?」
と、は不思議そうな顔をして訊ねる。
大石が謝る理由が見当たらなかったのだ。
「え? あ、いや、そうだけど…! ちゃんだって悪くないよ」
驚いて、照れてしまって、つい謝ってしまったけれど、だって悪くない。
そう思って言ったのだが――再びふたりから、笑顔があふれ出した。
「本当に大石先輩って、優しいですね。私、このテニス部に大石先輩が居て下さってよかったって思ってます」
にこっと柔らかく微笑む。
「ちゃん……ありがとう。俺も、ちゃんがマネージャーになってくれて、よかったって思ってる。何度でも言えるよ」
「先輩……」
「また何かわからないことがあったら、遠慮しないで訊いてね」
「はい、ありがとうございます…! 私、これからも、頑張りますね」
嬉しそうなの笑顔を見ると、大石も心から笑顔を返せる。
――きっと、これからも頑張ってくれるから。
この優しい子を、ちゃんと見守っていこうと、大石は心に決めた。
その日の、『記入者・』の部誌を、顧問の竜崎スミレが読んでみると。
最後の感想・気づいたこと等の欄には――。
『とっても優しい先輩が居て下さって、恵まれてるなぁと思いました。これからも先輩方やレギュラー、部員の皆さんを助けてあげられるように、頑張ります』
と、書かれてあり、自然と笑みを誘ったようである。
天下の青学テニス部部長と副部長を務める手塚と大石は、やはりそれ相応の重圧を背負っていた。
だが、と――ふたりがマネージャーを始めてから、それが和らいだようだ。
とも、それを願っている。
少しでも、手塚と大石の負担が軽くなって、心が安らぎますようにと――。
end.
《あとがき》
『テニヒメ』創作、手塚部長&一の姫、大石副部長&二の姫ドリームです!(笑)
このように様は手塚くんと、様は大石くんとすでに関係があったのです〜。
ちなみに後に書く予定ですが、三の姫様は不二くんと関係があります(^^)
それにしても、本当に青学のテニス部っていいなぁと思います。
こんな部長、副部長、先輩……中々いませんよぉ(苦笑)
水帆的には特に、大石くんみたいな先輩っていいなぁと、切実に思います(笑)
ところで部誌や日誌の『感想』って困りません?; レポートでもいつも困ります;
まぁそれはいいとして。この二組のカップリングは落ち着いてて穏やかでした(笑)
過去があるだけに、また書けそうですv 読んで下さってありがとうございました!
written by 羽柴水帆
