――羽ばたいて。
いつか憧れた空に、手をのばして。
大切な光を、掴みとろう。
翳りの瞬間〜In this arm〜
「……あ〜ぁ」
外からは、今日も元気に練習に励む部員達の声が聞こえる。
今は誰も居ない部室の中で、ベンチに座り、壁に寄り掛かっていた桃城は独語のようにつぶやいた。
溜め息混じりに、持ち上げた右足を見やる。
――昨日の練習試合の時に、得意のダンクスマッシュを決めた後、着地に失敗してしまって右足を捻ってしまったのである。
程度は軽く、二、三日ほど安静にしていれば治るとのことだった。
ゆえに、当然今日の練習には参加できないのだ。
今日だけでなく、明日も明後日も参加させてもらえないだろう。
「ったく、やってらんねぇな、やってらんねぇよ」
再び大きな溜め息をつくと、部室の扉が開いた。
桃城が向けた視線の先に居たのは、クラスメートで、テニス部一の姫と言われるマネージャー・だ。
「……、どうしたんだ?」
「うん、ちょっとボールカゴを取りに来たの」
いつものような明るさも、覇気も無い桃城の声。
しかしは、内心で感じたそれを、そのまま表に出さずにしまい込んだ。
部室の隅に置かれたボールカゴまで歩み寄り、よいしょ、と持ち上げる。
「無理すんなよ、。オレが持って行ってやるから」
ボールはカゴの中にあふれんばかりに詰め込まれていて、それなりの重量だ。
は特によろめく様子など見せなかったが、表情はやはり動いた。
「え? でも、桃くんは今、足が……」
自分のそばへ歩いてくる桃城の足を、は気遣わしげに見やる。
こんな重いものを持って歩いたりすれば、否応なしに足に負担をかけてしまうだろう。
けれど桃城は、「別にいいって」と笑った。
「どうせ練習が出来ないのに、かわりはねぇんだからよ」
――明らかに自嘲気味な笑みと言葉。
「ちょっと、桃くん、そういう言い方は……」
「本当のことだろ」
の声を、桃城が遮った。
「……っ!?」
一の姫の表情が、キッと厳しくなる。
カゴを持ったまま、歩み寄ってきた桃城の横を無言で通り過ぎた。
「お、おい、…!?」
何故か彼女を怒らせたようだと気づいた桃城は、焦って名を呼ぶ。
「――贅沢者だよ、桃くんは」
一度足を止めて振り返ったは、強い緑の瞳で桃城を射抜いた。
元々整った少女の顔が、その凛々しさを増す。
桃城は「なっ…!?」と、圧倒されたように半歩下がってしまった。
が、さっさと部室を出て行くを、慌てて追いかける。
「ちょっと待てよ、! なに怒ってんだよ!?」
「桃くんは贅沢者だって言ったの、私は。その意味解らない?」
「解るかよ! ちゃんと説明しろって!」
桃城の苛立った声に、は一瞬表情を翳らせた。
しかしまた彼の方を振り向いて、緑の双眸で真っ直ぐに見据える。
「……さっきの台詞、やちゃんの前で言ったら、承知しないから」
桃城はまた、の瞳に縛られて動けなくなる。
先程の「贅沢者だ」と言われた刻は、彼女の怒りを感じさせたが、今度のはもっと静かだが強い『意志』を感じさせた。
「え…? それって……?」
桃城は、の言葉をすぐに理解することが出来なかった。
何故ここで、二の姫や三の姫の名前が出てくるのか――。
桃城の答えを特に求めなかったは、そのまま歩き続けた。
と、突然、の手元からカゴが地面に落ちる。
落下したカゴの中から、詰められていたボールが辺りに散らばった。
「ほらみろ、だから言ったじゃねぇか――…って、!?」
桃城は身を屈めるに駆け寄る。
は地面に膝をついて、左手で右腕を押さえるように抱え込んでいた。
ポニーテールに結った茶色の髪が流れて、表情はうかがえないが、その身は微かに震えている。
「どうしたんだ!? 大丈夫か!?」
「……う、うん、大丈夫……たいしたことないから……!」
ただごとではないと、顔色を変えて傍らに片膝をついた桃城に、安堵させるよう、は無理矢理微笑んでみせた。
かえって辛そうに見えてしまい、桃城はどうしてやればいいか判らなくなる。
「……ボール、ばらまいちゃったね」
やがてがそうつぶやいて立ち上がり、右腕を庇っていた左手でボールを拾い始めた。
一の姫の右腕は、まるで力が入っていないかのように垂れ下がったままで、彼女が動くと揺れるだけだ。
よく見れば細い指先が震えて――痙攣を起こしている。
『……私の腕は、テニスのために使うことは、できないんです』
その刻、桃城の脳裏に、記憶の断片が繰り返された。
が青学テニス部のマネージャーをすることになった刻、彼女が漏らした言葉。
彼女がテニスを好きなのに、しない理由。
『……さっきの台詞、やちゃんの前で言ったら、承知しないから』
そしてと同じく、マネージャーをつとめることになった、と。
三人とも、抱えているものは違えど、マネージャーを志した理由は同じなのだ。
――テニスが好きだけど、出来ないから。
桃城はようやくの言葉を理解した。
途端に自分が情けなくなって、腹立たしくなる。
盛大な溜め息を一つつくと、クラスメートである少女のそばへ歩み寄って、その細い肩に軽く手を置いた。
「桃くん…?」
「――無理すんなよ」
そう言って桃城は、散らばったテニスボールを拾い始めた。
暫く彼を見つめていたは、少し表情を和らげて、自分に出来る範囲のボールを拾っていく。
「……すまねぇ、。悪かった」
すべてのボールを拾い終え、最後のそれをカゴに詰めた刻、桃城はに向き直って頭を下げた。
「ちゃんと考えたことなかったぜ。何で、お前や達がマネージャーをやることになったのか」
「……ううん、いいの。私の方こそ、ごめんね。半分以上八つ当たりだったもの」
もまた、茶色の髪をした頭を下げる。
ポニーテールの髪が揺れると、の表情にはすまなさそうな、けれどどこか自嘲気味な笑みが浮かんでいた。
左手で、そっと右腕を抱き寄せる。
「腕……動かないのか?」
桃城が心配そうに問いかけると、は「……うん」と、小さく頷いた。
「小学校五年生くらいの頃に、ある大会があってね……」
は右腕を抱えて、桃城の方を見ないまま、言葉を紡ぎ始める。
――兄達からテニスを学んでいたは、並以上の実力を発揮し、大会を順調に勝ち進んでいった。
しかし、決勝に至ったところで、それは訪れた。
試合が終盤に差し掛かった時、相手の打球で弾かれたラケットがネット脇のポールに当たり、折れたその破片がの右腕から鎖骨にかけてを切り裂いてしまったのだ。
今よりも幼いが受けたその瞬間を、想像するとあまりに痛々しく、桃城は息を呑む。
「傷自体は、そんなにひどくなかった。もう痕もほとんど残ってないよ。でも……神経に傷がついてしまったの」
神経に傷を負ったため、右腕が突発的に麻痺するようになってしまった。
ひどい時には、激痛を伴うこともある。
麻痺していない時は、日常生活に支障はないのだが――。
「残念ですが、テニスはもう出来ないでしょうって、お医者様からそう言われたわ……」
淋しげに微笑するの横顔を見た桃城の胸中を、やるせない思いが駆け巡る。
それに気づいたは、柔らかく微笑んだ。
「そんな顔しないで、桃くん。確かにテニスをするための私の腕は壊れてしまったけど、テニスを好きな気持ちまでは壊れたわけじゃないもの。それに、私の想いを引き継いで、頑張ってくれてる人達も居る。それだけで充分、私は幸せ者だよ」
の想いをいつも隣りに、コートに立って戦ってくれている兄達。
その兄達が中学で果たせなかった夢を、今度こそ果たそうと励んでいる桃城達、青学のレギュラー達。
そんな彼らを支えられるように、手助けできるように、自分もせめて、心で一緒に戦いたい。
今の桃城には、の姿がせつなげに映って仕方ない。
しかしは「それにね」と言って、桃城に笑顔を向ける。
「たとえテニスは出来なくても、この手には掴めるものがきっとあると思うの」
一度胸の前で合わせた手を、青い空に向かってのばした。
の手が陽射しを翳らせ、細い指の間から光の欠片が零れ落ちてくる。
――綺麗だ……。
桃城の胸に、素直に生まれた想い。
同時に、先程までの自分の態度が恥ずかしく、情けなく思えた。
自分はあとほんの数日我慢すれば、またテニスをすることが出来るのに。
は、あと何日経ったって――テニスをすることが出来ない。
それなのに、大きな悲しみを乗り越えて、毅然と前を向いて立っている。
そんな辛い思いを抱えていることなど、周りに見せることなんかない。
一体どれほどの人間が、このことを知っているのだろう。
桃城が見つめる中で、少女はくるりと振り返る。
「だからね、もし私の手でも必要な時は言ってね」
「…必要な時?」
「うん。たとえば、桃くんが自分自身の落とし穴に落ちそうになった時とか、ね。私、これでも力は結構ある方だから、絶対に引き上げてあげる」
から分けてもらったように、桃城の表情にも笑顔が浮かんだ。
確かに、と胸中でつぶやきながら。
今もこうして、光ある空へ引き上げてくれた。
「なら、の時は、オレがお前の手を掴んでやるよ」
片目をつぶって、任せろとばかりに明るく笑うと、も「うん、お願い」と言いながら笑う。
「……桃くん、やっと笑ってくれたね」
の瞳と表情が、とても穏やかなものになる。
桃城は「え?」と、双眸を見開いた。
「さっきまではすっごく不機嫌そうで、自棄って感じな顔してたんだよ。でも、いつもの桃くんに戻ってくれて、よかった」
「……」
一の姫の笑顔に、鼓動が高鳴る。
空から降りそそぐ陽射しの中で、輝くような笑顔を浮かべる少女が、桃城には光の天使に見えて。
次の瞬間には照れたように笑ってみせた。
「ちゃん、ちょっと来てくれるー?」
少し離れた所から、の親友である二の姫から声が届く。
は「うん、今行く!」と、に答えを返した。
「じゃぁ、私、あっちに行くね。手伝ってくれてありがとう。また練習頑張ってね」
「おう!」
いつも通りの、明るく元気な笑顔と声。
も満面の笑みを零して、歩き出そうとする。
「あ、!」
ふいに桃城が呼び止めた。
は「なに?」と、振り返る。
「その……オレの方こそ、ありがとな」
の緑の瞳を見ることが叶わずに、少し視線をずらして、軽く頬を掻きながら礼を言った。
「桃くん……」
緑の双眸を瞬きさせたは、やがてくすっと笑う。
もう一度、桃城のそばへ戻って。
「テニスをしてる時の桃くんも、明るく笑ってくれる桃くんも、私は好きだよ」
背の高い彼の耳元へ届くよう、軽く背伸びをして囁いた。
「えっ……!?」
桃城の動きも思考も一時停止状態に陥る。
「あっ、おい、!?」
ハッと我に返った刻には、一の姫の姿はすでに向こうへ行ってしまっていた。
大きく、うるさく脈打つ鼓動。
顔中が熱く火照って仕方ない。
「……やべぇな、やべぇよ、こりゃぁ……」
言っているほど困っているようには見えないが、桃城は片手で軽く顔を覆った。
の声と、瞳と、笑顔が桃城の思考のすべてに焼き付いて離れない。
彼にとってという存在は、今まで仲のいい友達だった。
けれど、あんな風に言われて、悪い気などもちろんしない。
それどころか、心に、清々しい新たな風が吹き込んできた。
「やべぇよ、うわぁ〜! マジで困ったぜ〜!」
台詞とは裏腹に、嬉しくて仕方ない笑顔の桃城。
困ったというなりに、しゃがみ込もうとすると――右の足から、哀れな音。
「あいてぇーっ!!」
地面にしりもちをついて、右足を抱え込んだ。
その横を、どこからともなく歩いてきた、ひとりの少年が、
「……馬鹿が」
たった一言、低い声でつぶやき、桃城に手を差し伸べるでもなく去っていく。
「うるせー海堂! ケンカ売ってんのかぁっ!?」
歩み去っていく海堂の背中に大声を叩きつける。
「桃、何やってるの? こんな所で? 安静にしてなくちゃダメなんでしょ?」
わめいてるようにしか見えない親友の元へ、青緑の双眸を持つ少年が駆け寄ってきた。
右足を捻挫したのだから、安静にしていなければならないのに、こんな所に座り込んでライバルに向かって大声で叫んでいる彼を見れば、確かに誰でも「何やってるの?」と問いたくなるだろう。
「天空! んなこと言ったって…〜〜っ!」
悔しそうに嘆く桃城を、天空は「ほら、部室行こう?」と宥めるように言って、肩を貸した。
「桃くん、どうしたんだろう?」
コートの中で、フェンス越しに見えた光景に、が不思議そうに小首を傾げる。
「…うん、そうだね」
そう答えつつ、しかしはどこか可笑しそうに小さく笑みを零した。
――桃城は、今まで知らなかったの思いを知った。
明るく、しっかり者で、光そのもののようだと思っていた彼女が、抱えていたもの。
初めて見た、翳りの瞬間。
けれど、彼女の手は、まっすぐに空へとのびている。
いつか大切な夢と輝きを、掴みとるために。
end.
《あとがき》
桃くん&一の姫ドリーム、第一弾です! 桃くんが様に惚れました(笑)
このお話は、里久ちゃんから参考文献を頂き(里久ちゃん、ありがとうvv)、水帆が微妙に書き直したものです。
桃くんにしては、一弾としてはかなり真面目でシリアスな話だなぁと思ったのですが(彼に怒られそう/苦笑)、
それは様の抱えているものが、そうだからですよね(^^;)
様が居なくなったら、途端にあんなことに……ごめん、桃くん!!
里久ちゃんからの参考文献に、最後の部分(足がグキッていうところ/笑)は無かったです!(笑)
さてさて、桃くんに「好きだよ」と言った様ですが、里久ちゃんによると、
「まだ全然深い意味は無いよ(笑)」だそうなのです;
あくまで、「テニスしてる桃くん」、「明るい桃くん」が好きという、『友達レベル』の「好き」だったそうです。
……頑張れ、桃くん(笑)
様が抱えているものは、まだあります。もっと大きなものかもしれない(苦笑)
どうなることやら? 温かく見守って下さいませ;
specal thanks 風見野里久様
written by 羽柴水帆
