姫君の始まり〜一の姫〜





 は小さな吐息をつくと、空をふり仰いだ。先ほどまで話をしていた親友は、風に飛ばされたハンカチを追っていき、いまこの場には自分以外いない。

「――部活か……」

 吐息混じりに独語すると、視線を天から自身の右手に向けた。昨年は身体を鍛え、自身と親友を護るために空手部に所属していた。元々一番上の兄から護身術を習っていたおかげで、一年にしてレギュラーにもなれた。だから、今年も空手部に入るのも、ひとつの道であろう。だが――。

 ゆっくりと右の掌の開閉させる。この手には、以前握られていたものがあった。だが、いまはそれがない。

「やりたいことが、ないわけじゃないんだけどな……」

 の口元に、自嘲にも似た笑みが浮かんだ。

 しばらくの間、何とはなしに景色を眺めていただが、その表情が徐々に曇り始める。親友の帰りがあまりにも遅い。一体どこまで追っていったのだろうか。それとも、何か困ったことが起きたのであろうか。自分もそうだが、親友・は何かと絡まれやすいのだ。一度生まれた不安は、どんどん大きくなっていく。

ったら、どこまでいっちゃったのかな……?」

 思わずそう呟くと、の消えていった方向へ足を踏み出した。





 を捜して彷徨っていたは、いつの間にやらテニスコートの近くまできていた。まだ練習は始まっていないはずのコートから、人声とボールを打つ音が聞こえてくる。の足は自然とそちらへと向かっていた。

 コートではクラスメイトの桃城が、サーブの練習を行っているところであった。コートを抉ろうかという打球の威力に、少女は感歎の眼差しをおくる。が、それだけでなく、その緑の瞳には別の感情も込められているようであった。

「おっ、じゃねぇか」

 どれぐらいしてからであろうか。桃城の呼びかけに、は我に返ったようにそちらを見やった。クラスメイトの少年は、ラケットを右肩に担ぐように持つと、こちらへと歩み寄ってくる。

「どうかしたのか?」

「あ、うん、ちょっと……友だちを捜しにきたんだけどね。つい桃城くんの練習に見入っちゃって……ごめんね、邪魔しちゃったかな?」

「いいや、そんなことねぇって。そっか、友だちか……俺もよく見てたわけじゃねぇけど、こっちにはお前以外誰もきてねぇと思うぜ」

 桃城は若々しい顔を流れ落ちる汗を、手の甲で拭いつつ言った。

「そうなんだ。それにしても、桃城くん、凄いサーブ打つんだね。思わず見とれちゃった」

「サンキュー、って、お前、テニスに興味あるのか?」

「うん、まあ、ね」

 少女は表情と声を曖昧なものにして答えた。桃城は一瞬いぶかしげな色を瞳に浮かべたが、口に出したのは別のことだ。

「なあ、もしよかったらでいいんだけどな、球出ししてくれねぇか?」

 は驚いたように桃城を見上げた。

「え? いいの? 私、うまくできないかもしれないよ?」

「いいんだよ、そんなこと気にしなくても。お前は気にせず、こっちにボールを送ってくれるだけでいいんだ」

 クラスメイトの少年の、その人懐っこい笑みに誘われてか、も笑顔になる。そして「少しだけなら」と、了承の意を告げた。

 持っていた鞄から運動靴を取り出して履き替えると、「失礼します」とひと言告げてからコートに入る。その足どりも表情も、どこか明るい。自分の中に、言葉にはできぬ懐かしさが込み上げてくるのがわかる。はサービスラインに立つと、向かい側に立つ桃城を見やった。

「それじゃあ、いくよ!」

「おう!」

 黒髪の少年が軽く身構える。この時の桃城は、簡単なアンダーサーブがくるものと予想していた。が、数瞬後、彼は瞠目することになる。

 は何度かボールをつき、借りたラケットを握る手に力を込める。ひとつ深呼吸すると、少女の手からトスが上がった。両足が軽く地を蹴り、身体が宙に飛び上がる。ラケットが鋭く振り下ろされた。

「――!?」

 桃城のすぐ横を、弾んだボールが駆け抜けていった。あまりの出来事に、少年は動くこともできない。

「……おいおい、マジかよ」

 桃城はようやく声を発した。フェンスに当たり、力なく転がるボールを見、それからクラスメイトの少女を見やった。桃城の表情を別の意味で受けとったのだろう、は慌てたように声を上げた。

「ご、ごめんね、何かいけなかった!?」

「い、いや、そんなことねぇよ。それにしても、凄ぇじゃねぇか、! テニスやったことあるのか?」

 は少しばかり複雑な色合いをおびた視線を這わせる。

「う、うん、前に、ちょっとね」

「これだけできるんなら、球出しなんて言わずに、打ち合わねぇか?」

 少女は少し考えてから、首を縦に振ってみせる。肩より少し長めの茶色の頭髪が揺れた。

「お手柔らかにね、桃城くん」

 は右手にさらに力を込める。決してラケットを放さないように。





 桃城とが打ち合い始めた頃、男子テニス部の部長・手塚国光と、三年レギュラーのひとりである不二周助は、部室の方へと向かっていた。軽く言葉をかわしていた二人であったが、ふと思い出したように不二が言う。

「……今年こそは、全国制覇したいね――結局、あの人たちには、見せてあげられなかったけれど……」

 常に浮かべている笑顔に、少しばかり寂しげなものが混じる。対する手塚は、表情こそ動かさなかったが、口調には不二と同種の感情がわずかに含まれていた。

「――ああ、そうだな」

 二人の脳裏には、青学中等部が全国制覇する瞬間を見ることなく引退していった、先輩たちの何人かの顔が浮かんでいた。

 と、不二が何かに気づいたように、歩みをとめる。二歩遅れて手塚もそれに倣う。急に立ち止まった友人を、肩ごしに見やった。

「どうした?」

「手塚、あれ……」

 同級生の白い指先が、テニスコートの方を指し示した。彼の視線と指先を追った手塚の双眸に、打ち合っている少年と少女の姿が映る。

「あれ、女の子だよね。凄いな、桃と打ち合ってるよ」

「……あれは、まさか……」

 こちらに背を向けた状態で、コート内を走り回っている少女に、手塚は見覚えがあった。

「え? 手塚の知ってる子?」

 不二は傍らに立つ友人を見上げる。が、手塚は真剣な眼差しをコートにはりつかせたまま、こちらを見ようともしない。と、無言のまま足早に歩き始める。不二は軽く肩をすくめて後を追った。





 コーナーめがけて飛び込んできたボールを、桃城のラケットが捉える。

「やるじゃねぇの、!」

 圧倒的なパワーの加えられたリターンが、センターラインに打ち込まれた。力強く弾んだ打球の前では、がすでに捕球体勢に入っている。両手で握ったラケットに、重い衝撃が走る。

「桃城くんこそ――凄い!!」

 台詞の最後で、何とか打ち返すことに成功する。その反動で軽くバランスを崩しながらも、は次に備えた。軽く肩が上下しているが、その表情は実に生き生きとしている。

(――やっぱり、楽しいっ!!)

 右のコーナーを狙ってきた打球を追って、は風を起こした。茶色の頭髪がなびく。フォアハンドでボールを受けた瞬間、右腕にひきつれるような感覚が駆け抜けた。

「――つっ!?」

 少女の手からラケットが抜け飛んだ。ボールは背後のフェンスに当たり、ラケットは地面を回転しながら、彼女の手のとどかない場所へと滑る。は呆然とラケットを見、それから自身の右手を見やった。呼吸音がやたらと耳につく。

「おい、! 大丈夫か!?」

 桃城がネットを飛び越えて駆け寄ってくる。彼の目には、自分の打った球がの手からラケットを弾き飛ばしたように映ったのである。

「手は平気か? 捻ったりしてねぇか?」

「あ、うん、大丈夫だよ。ありがとう」

 クラスメイトである少年は安堵の吐息をつくと、ラケットを拾いにいく。その背を見ながら、は内心でため息をついていた。こうなることは、最初からわかっていた。わかっていたのだ。だが、それでも――。

「あ……!?」

 ラケットを拾った桃城が、驚いたようにを見やった。正確には、の背後を、であるが。いぶかしんだ少女がそちらへと緑の双眸を向け――やはり、驚愕する。そこには手塚と不二の姿があった。

 不二は軽く拍手をしてみせる。

「凄いね、キミ。女の子なのに、桃とあそこまで打ち合えるなんて」

「不二先輩、それに、く、じゃなかった、手塚先輩も……!?」

 驚愕の去ったの瞳に、懐かしさが滲み出る。が、不二の方は、一瞬きょとんとした顔をする。

「えっと……ごめんね、どこかで会ったことあるかな?」

 茶色の髪に緑の瞳を持つ少女は、にっこりと笑うと、一礼してみせる。

「お久しぶりです。私、です。……覚えていらっしゃいませんか?」

……そうか、ちゃんか! 青学に入ったとは聞いていたけれど……とっても綺麗になったね」

「そんな……!」

 は照れたように微笑むと、先ほどから沈黙している手塚へと視線を転じた。

「――手塚先輩……」

 手塚はふっとその表情を和らげると、手を伸ばし、少女の頭にのせた。

「――見違えたぞ、……」

 小さく呟かれた声に、は懐かしさと嬉しさが込み上げてくるのを感じる。

「国光お兄ちゃんこそ……」という言葉は、胸中でそっとささやいた。

「あの、部長たちはと知り合いなんですか?」

 二本のラケットを持った桃城は、二人の先輩とひとりの同級生の顔を眺めわたしながら問うた。これには不二が応じた。

「うん、彼女はある人たちの妹さんでね。そのうちのひとりは、桃も知っているはずだよ」

「え……?」

 二年生である少年は、戸惑ったように視線を彷徨わせる。が、それも数十秒ほどのことで「あ!?」と声を上げた。

「そっか、お前、あの先輩の……!?」

 名字が一緒なのだから、同じクラスになった時点で気づいてもよさそうだが、去年引退したその先輩は、いつも名前の方で呼ばれていたので、名字の方を失念していた。桃城は納得したように頷いた。

「そっか。テニスは先輩に教えてもらったのか。どおりで強いと思ったぜ」

「そんな、私なんか、全然たいしたことないよ」

 は顔の前で左手を振ってみせる。手塚は二瞬ほどの間、視線に不審そうな色を込めたが、誰もそれには気づかなかった。

「謙遜するなって。そういや、部活はどうしてるんだ? テニス部には入らねぇのか?」

 途端、それまで笑顔だった少女の顔に翳りがさした。鮮やかな色の瞳を半ば伏せるようにする。

「……入っても……できないから……」

 の言葉に、三人のテニス部員は互いの顔を見合わせる。「できない」というのは、一体どういう意味であろうか。つい先ほどまで、桃城と打ち合っていたというのに。

 いぶかしむ先輩たちに、は寂しそうに微笑む。

「……私の腕は、テニスのために使うことは、できないんです。でも、テニスは大好き。――大好きだからこそ、辛い……」

 ――テニスができない自分を自覚することが。

 年齢の割に大人びた、その寂しそうな顔に手塚たちは言葉を失った。手塚は何かを確信したようにを見、不二も思うところがあるのか、色の深い瞳に少女を映す。桃城は、というと、決まりが悪そうに視線を彷徨わせていた。

 と、不二は何かを思いついたように、の顔を覗き込んだ。

「だったら、マネージャーなんてどうかな?」

「え?」

 は驚いたように不二の顔を見直した。淡い色の髪の少年は、にっこりと笑ってみせる。

「うちの部は人数が多いからね。マネージャーがいてくれると、何かと助かるんだよ。特にちゃんのように、テニスが純粋に好きな人がいてくれるとね」

 それは名案、とばかりに、二年生である少年が指を鳴らした。

「いいっスね! それ! どうだ? ?」

「――マネージャー……」

 は自身に言い聞かせるように、ゆっくりとその言葉を呟いた。脳裏にこの場にはいない兄の声が甦る。


『――が見ることのできなかったものを、俺たちが必ず見せてやる。約束する』


 そう言ってくれた兄のために、自分にも何かできることはないのだろうか。ずっとそれを考えていたが、ようやくその答えが得られたような気がした。目の前に、兄たちのできなかったことを成そうとしている人たちがいる。その人たちを助けるということは、兄たちを助けることと同じではないだろうか。それに何より、テニスに関わる何かがしたい。実際にプレイすることはできなくとも、それをする人たちの手助けをすることも、意義のあることだ。

「私……なりたいです、マネージャーに」

 ゆっくりと、だが、確かな声で言葉を紡ぐ。

「――大丈夫なのか……?」

 テニス部部長は、の右腕を一瞥して問うた。少女は右腕に左手をそえると、真っ直ぐに手塚を見上げる。

「はい、大丈夫です。私、精一杯皆さんのお手伝いをします。たとえコートには立てなくても、心で一緒に戦う仲間になりたいんです。――私も皆さんと一緒に、全国に行かせて下さい」

 沈黙が流れる。が、決して悪い意味のものではない。手塚に不二、そして桃城は微笑を含んだ視線をかわしあった。

 淡い色の髪の少年は、浮かべている笑みをさらに深める。

「やっぱり、兄妹だね。意志の強いところがそっくりだ」

 そこで一旦語を区切ると、自分たちの部長に視線を送る。

「僕は賛成。提案したのは僕自身だし、ちゃんなら、いいマネージャーになれると思うけれど……どう?」

「俺も賛成します! が仲間になってくれれば、心強いっスよ!」

 手塚の決断を促すように、桃城も声を張り上げた。三本の視線が、テニス部部長に集中する。手塚は軽く双眸を伏せ、思案にふけっていたようだが、ややあって口を開いた。

「――俺の一存では決められん。竜崎先生や他の部員にも訊いてみなければならない。だが、個人的な考えを言わせてもらうならば、俺も、お前がともに戦う仲間であればいいと思う」

 少女の顔に笑顔がひろがる。目の前にいる三人の先輩たちに向けて、深々と頭を下げた。

「ありがとうございます!」

「よかったな! !」

「よろしくね、ちゃん」

 すでに決定事項であるかのような、桃城たちの様子に、手塚は複雑な笑みを微かにこぼした。

 ――青学男子テニス部に、新しい風が吹こうとしている。