世界で一番のPure Heart

                  青学一の姫より〜手塚国光編〜





 黄昏の空が、地上を包み込む。

 昼頃から微かにぼやけていた月と、眠っていた星々も輝き始める。

 夕方の薄明かりの中で、かつての青学テニス部部長と、一の姫は、帰り道を共に歩いていた。

「今日はすまなかったな、俺たちまで」

「いいえ、そんな。私たちの方が、お呼びしたかったんですから」

 手塚は、普段と変わらない無表情に見える。

 が、の瞳には、それが充分穏やかなものに映っていた。




 常日頃から、『しっかり者』と評判の一の姫。

 その心に眠る淋しさを、彼女の兄たちを除けば、おそらく一番に理解していた手塚。

 青学で再会するよりもずっと前から、絆を育んできたふたりが想いを結ぶのに、さほどの障害も無ければ、時間もか
からなかった。

 問題があったとすれば、お互いに真面目で遠慮深い――相手を思いやるあまりに、自分の心を抑えやすくなる性格
だった、ということぐらいである。

 それを乗り越え、めでたく恋人同士となったふたりは、今や理想のカップルだ。





 冬枯れの街路樹が立ち並ぶ、帰り道。

 からの『お願い』があったこの日、ふたりは途中にある公園に立ち寄った。


 ――もう何度目かの、夕暮れの公園。

 二つずつ並んだ、ブランコ。


 その一つに座りながら、は「久しぶりですよね」と、手塚に笑顔を向ける。

 彼も「そうだな」と軽い返事をして、荷物を下ろし、隣りのブランコに座った。

 ――ここは、ふたりにとって、ひとつの思い出の場所。

「あの、今日、部室にお呼びして……よかったですか?」

 少し遠慮がちに訊ねてきたを、手塚は疑問に思いながらも「ああ」と答える。

「そうですか……なら、よかった」

「どうしてだ?」

「いえ、先輩方は今、大切な時期だから、お邪魔したら大変だなって思って」

 人一倍、気を遣うマネージャーたち。

 そのひとりであるが、手塚は改めて誇らしくなった。

「…大丈夫だ。みんなも思い思いに楽しんでいたようだぞ」

 双眸に穏やかな色を映し、「勿論、俺もだ」と言葉を添える。

「よかった……!」

 白い吐息と共に言葉を零すは、この上なく嬉しそうだ。

「本当は、私たちが皆さんにお会いしたかったから、っていうのもあったんですけどね。先輩方の跡を継いで、桃くん達と
一緒に頑張ってますけど、やっぱりどんなキッカケでもいいから、手塚部長たちにお会いしたくなるんです」

 そう言って笑いかけてから、気づく

「って、また言っちゃった…」

 現在の部長は桃城で、手塚への呼び方は「手塚先輩」になったはずなのに。

 以前からのくせで、つい「手塚部長」と呼んでしまう。

 少し慌てて、口元に手を当てるを見て、手塚が淡く微笑を零した。

 と、彼は縁なしの眼鏡をかけた瞳を、前に戻す。

「……

「はい?」

 名を呼ばれた一の姫が、やはり嬉しそうな表情で、手塚を見上げる。

「……俺は、みんなにとって、いい部長だったんだろうか」

「え……?」

 彼の横顔を、今度は不思議そうに見つめた。

 ――言われた言葉の意味が解らない。

 は手塚のことを、部長として、ひとりの人間として尊敬している。

 彼ほど、青学テニス部部長――『青学の柱』に相応しい人は居ない、と思っていた。

 ゆえに今彼から言われたことが、瞬間的に理解できなかったのだ。

 それを悟ったらしい手塚が、「いきなり、すまん」と詫びてから、言葉を紡ぐ。

「俺は……常に努力を惜しまず、全力を尽くしてきたつもりだ。だが結果的としては、部の皆に迷惑をかけてしまったもの
の方が、大きかった」

 今はもう痛みの消えた左腕を、知らないうちに、右手で掴む。

「手塚部長……!」

 は、彼の言いたいことを理解した。

 ――手塚は、一年生の刻に負った怪我のせいで、左腕を痛めていたことを、皆に心配させたくなくて、大石を初めとする
ほんの一握りの者以外には、隠していた。

 それは、関東大会初戦でのシングルス1で、氷帝部長との試合で明かされたことで。

 そして――その試合によって、左肩を完全に壊してしまった。

 全国大会へ向けてこれからという時に、自分が抜けなければならなくなってしまったため、手塚は部員の皆に対して、
申し訳ない気持ちになったのだ。

 余計に負担をかけてしまう、と。

 ――厳しく、そして辛そうな手塚の横顔を映した緑の瞳を、はせつなげに揺らした。

 彼の左腕を掴む手に、そっと自身の両手を伸ばし、重ねる。

……?」

 手塚が視線を向けてみると、一の姫はゆっくりと首を横に振った。

「そんなことありません。私は、手塚部長をとても尊敬しています。あなたほど、青学の部長に相応しい人は居ないって、
思ってます。今でも。それは、他のみんなも一緒だと思いますよ」

 再び彼を見つめたは、穏やかでいて、誇らしげな笑みをたたえている。

「そんな部長だからこそ、みんなも私も、信じて頑張ることが出来ました」

 嘘偽り無い、一の姫の瞳と想い。

……」

 今、ふたりの瞳に映るのは、互いの姿だけだった。

「本当ですよ。それに……私もそうだけど、桃くん達、未だに『部長』って呼ぶでしょう? それだけ、みんなまだ『部長』と
して慕ってるんです」

 他の一、二年生はともかく、今では自分が部長である桃城まで、そう呼ぶことがある。

 思い出したら可笑しくなって、は微笑混じりに話した。

「本当に……国光お兄ちゃんが、青学の部長でよかった……」

 それを言うと、の目頭が急に熱くなった。

 ――マネージャーになってからの今までが、脳裏によみがえって。

 楽しいことばかりじゃ、なかった。

 辛く、心が痛むことも、たくさんあった。

 肩を治すために、手塚が一時、青学から離れた時は、どうしようもない淋しさも生まれた。

 それでも、は今、ここに居る。

 彼――手塚の、隣りに。

 嬉しいのか、辛いのか、ハッキリと名前のつけられない想いを抱いたが俯く。

……すまない」

 自分がそばに居てやれなかった頃のことを思い出したのだろうと、それを悟った手塚から、その言葉が滑り出る。

 自然に、ふたりはブランコから立ち上がって。

 手塚は彼女の細身の身体を、両腕で包み込んでいた。

「いいえ…………いいえ。大丈夫です」

 冷たい空気に晒されていた頬や身体が、一瞬で温かくなる。

 彼に身を任せながら、一の姫は静かに言葉を紡いだ。

 ――今はこうして、前のように、そばに居てくれるのだから。

(だけど……)

 必死に笑顔を取り戻そうとするだが、手塚の腕の中で、そっと開かれた緑の双眸はまだ憂いを残している。

 彼は、ここへ帰ってきてくれたけれど。

 また――いつか。

 いつか、また、ここではないところへ、行ってしまうかもしれない。

 世界に旅立っていくかもしれない。

 それだけの力と才能と、心の強さを持っている人だから。

 ここではない、空の下へ、行ってしまうかもしれない。

 一の姫の心に吹くのと同じくらいの冷たい風が、現実の公園の中をも通り過ぎる。

……」

 もう一度、手塚が彼女の名を呼んだ。

 ――声が、あたたかい。

 彼の腕や心と同じくらいに。

 それだけで、胸中の不安の風が過ぎ去り、光ある空を取り戻せる。

「大丈夫だよ、国光お兄ちゃん」

 輝く微笑みと、煌めく瞳で。

 影を落とす手塚の顔を、が見上げた。

「この先、何があっても……いつまでも、私は、国光お兄ちゃんが大好きです」

 ――きっと、ずっと、変わらずに。

 手塚は、腕の中に居る少女の言葉に、少なからず驚いた。

 彼女の心が――何も言わなくても、伝わってくる。

 空気と、瞳と、想いだけで。

……ありがとう」

 何よりも、誰よりも大切に想っているのに、また淋しい思いをさせてしまうかもしれない。

 自分の無力さを感じつつ、彼女らしい心遣いが胸に染みて、手塚はを抱きしめる腕に力を込めた。

「俺にとっても……この先何があろうと――お前だけだ」

 手塚が心から想う『好きな人』は、だけ――。

 暖かみのある声が、一の姫の心に響き渡る。

「国光…お兄ちゃん……!」

 嬉しすぎて、想いがあふれたは、更に彼の胸元にしがみついた。

 ――恋人同士となっても尚、未だに手塚のことを、「国光お兄ちゃん」と呼ぶ

 つき合いだした初めのうちこそ、手塚は「未だに『兄』と思われているのだろうか」と考えたことがあったが……。

にとって、『お兄ちゃん』は、特別で大切な人のことなんですよ」

 父親が居ない彼女にとって、本当の兄たち以外で『お兄ちゃん』と呼べる、そう思える人は、特別で大切な存在――
すなわち、『好きな人』ということなのだ。

 それを、彼女の次兄・蒼天が、手塚に教えてくれた。

「……ありがとう、国光お兄ちゃん。――あのね」

 軽く目元を拭って、顔を上げる

 そっと腕をほどいた手塚は、「何だ?」と優しく訊き返す。

「これ……」

 足元に置いておいたカバンから、が取り出した、ひとつの包み。

 緑の包装紙に、青いリボンをかけた、バレンタインのプレゼントだ。

から、国光お兄ちゃんだけに贈ります。どうか、受け取って下さい」

 光の粒が残る瞳と、心からの笑顔を一緒に、贈り物を差し出す。

「ああ……ありがとう」

 愛しさが詰まったそのすべてを、手塚は受け取った。

「中身、ビターチョコのクッキーにしたんですよ。国光お兄ちゃん、大人っぽいから」

 少し照れたように、はにこっと笑顔を零す。

 時の流れに導かれて、蒼い天鵞絨を広げ始めた空。

 やがてその南方に、冬空の英雄が訪れる。

 青学の柱と呼ばれた元部長は、緑の双眸を持つ一の姫を大切そうに抱きしめた。





 冷たい風が吹き抜ける、冬の季節。

 黄昏の空に、月と星が白く冴え始める中で。

 そっと優しく届いたのは、世界で一番のあたたかな想い。




                   end.




 《あとがき》
 テニプリバレンタイン創作、手塚くん&一の姫バージョンでした!
 …最初は、もっとバレンタインらしく、チョコの話をしようと思ってたのに(笑)
 さすがと言うか、何と言うか、結構シリアスめなお話になってしまいました;
 色々と里久ちゃんに相談しながら書いたのですが……やっぱり手塚くん、近い将来に
 世界へ行ってしまうかなぁと(苦笑) そんなせつない話が出まして(^^;)
 でもこのふたりなら、どんな困難も障壁も乗り越えていけると思います。
 相変わらず、すごい通じ合いぶりでした(笑)

                written by 羽柴水帆