世界で一番のPure Heart
青学二の姫より〜海堂 薫編〜
茜色の夕空が、徐々に紫色を帯びていく。
部室の出口で待っていた海堂のもとへ、帰り支度を済ませた二の姫が、ぱたぱたと駆けてきた。
「ごめんね。お待たせ、薫くん」
ふたりきりになった刻の、その呼ばれ方に、未だ慣れきっていない海堂の鼓動が、一度だけ高鳴り――頬が熱を持つ。
「……行くぞ」
それだけ、ぼそっと言って歩き出す。
は「うん」と頷き、彼のすぐ横に並んだ。
クラスも同じこのふたりが、想いを実らせたのはかなり前のことなのだが――。
海堂は究極の照れ屋で、はいまいち男慣れしていなくて。
互いに恋愛には奥手だったので、いわゆる『普通のカップル』とは、全く違う道を歩んできた。
何せ、『つき合うこと』を前提に考えずに、想いを告げ合ったことから始まったふたりである。
――つまり、見返りを求めずに想いを告げたら、実は相手も同じ気持ちだったという話なのだ。
つき合うことになってからの問題の方が多かったふたりだが、そんな彼らが名字ではなく、名前で呼び合えるように
なったのも、最近のこと。
そこまで進展するには、同級生の友人――天空、七海、桃城、による協力と貢献が大きかった。
――とは言え、もっぱら呼んでいるのはの方で、海堂から呼ぶことは滅多に無い。
元々名字で呼び合っていた頃から、海堂がの名を口にすることは少なかった。
すべて、照れ屋な彼の性分ゆえである。
「それでいいのか、!?」
今までにも何度か、桃城はにそんな問いかけをしたことがあった。
ろくにデートもしてないとか、海堂のトレーニングにがつき合ってるだけとか、デートするにも、当の海堂が、どう
すればいいか悩むところから始まる等の話を聴いた刻だ。
そして、この刻も――たまたま海堂が居ない場で、名前の話になり、「呼んでもらうのは、少ないけどね」とが
笑って言うのを見て、桃城が問いかけたのだ。
は「えっと……」と、少し困ったような顔をしたが、
「でも……その分、呼ばれた刻、嬉しいから」
と、次の瞬間には、はにかむように微笑んでいた。
桃城は「っかぁ〜……!!」と項垂れて、
(マムシの幸せ者ぉっ!!)
天空や、七海が苦笑するように笑う中。
一年生の時からのライバルに向かって、胸中で叫びつけてやるのだった。
寝付きが早くなった太陽に代わり、気が早くなった月が空に浮かぶ。
夕刻の陽と月に見守られ、テニス部の現副部長と二の姫は歩いていた。
ふたりで一緒に帰っても、会話に花が咲くことが少ないのは、いつものこと。
大抵は、が何かを思い出したりして話しかけることがほとんどだ。
この日もそれは同じだった。
「ねぇ、薫くん。今日も帰ったら、すぐに練習に行く?」
「……あぁ」
海堂の返答は大体、一呼吸遅い。
しかし、がそれを気にすることなどなかった。
「いつもの公園?」
「…そのつもりだが」
「じゃぁ、またお手伝いに行ってもいい?」
お手伝い――と言っても、タオルやドリンクの用意をしたり、タイムを計ったりという、普段の部活の刻と変わらない
サポートだ。
海堂がランニングをする場合は、自転車で併走したりすることもある。
「す、好きにしろ」
「うん、ありがとう」
素っ気ないその言葉も、了承を意味していることを解っているは、笑顔を浮かべた。
――彼は不器用だが、確かな優しさを持っている人だから。
「……あれ?」
そろそろ家に着く、というところまで歩いて来て。
ふと、海堂の持つ紙袋に視線を落としたは、小首を傾げる。
「薫くん……もらったチョコ、それだけ? もっといっぱいじゃなかった?」
テニス部の姫君たちが、チョコレートをたくさんもらうであろうレギュラーたちのために用意した、紙袋。
今彼が持っている袋の中には、ほんの数個のそれしか入っていない。
しかし、今日が見ただけでも、海堂の机や靴箱などに置きみやげされたチョコレートは、紙袋が膨れるぐらい
あったはずだ。
不思議そうに海堂の横顔を見上げると、彼の足がぴたりと止まる。
「……名前が書いてあったやつは、返した」
「えっ……?」
同じように足を止めたは、その瞬間、時まで止まった気がした。
「これは、名前が書いてなかったから、どうしようもなかったやつだ。帰ったら、弟とか、家族にやる」
鋭い瞳を一瞬だけ紙袋に向けて、海堂は言葉を紡ぐ。
「か、薫くん……」
は胸の前で、手のひらを握りしめた。
見開いていた琥珀の瞳が、ゆっくりと揺らぎ始める。
頬や身体に受ける冷たい冬の風が、長い黒髪までも靡かせた。
「さっきの、やたちがくれたのは別としても、俺は――」
この凍てつく空気の中、それでも海堂の頬は仄かに熱くなる。
「俺は……その、基本的に」
ぎこちない言葉が、白い吐息と共に零れる。
「……お前からの以外、もらうつもりはねぇ」
それを言い切るのに要した彼の精神力は、壮大なものだった。
顔中が火照って仕方ない。
今の季節が冬であることが、海堂にとってはありがたく、丁度良かった。
と、その刻――どさっと、何かが地面に落ちる音がした。
訝しんで視線を転じさせてみると、
「薫…くん……!」
がカバンを地面に落とし、両手を口元に当てて俯いていた。
「お、おい、どうした…!?」
海堂は慌てて、彼女を意識するあまりに開けていた距離を縮める。
しかしは答えられずに、小さく震えるだけだ。
訳が解らず、少年はぎこちなく自身の手を、の肩に置いた。
「おい……?」
その瞬間、海堂の手が触れている少女の肩が、大きく震えた。
と、海堂も咄嗟に、その手を浮かせるように放してしまう。
「……ごめんね」
ようやくが、琥珀の瞳を潤ませた顔を上げた。
「私……嬉しいのと、色んな気持ちがいっぱいになっちゃって……!」
指で目元を拭いながら、懸命に説明しようとする。
海堂は、急かすことなくの言葉が紡がれるのを待った。
「……薫くんがそこまで言ってくれたこと、すごく嬉しかったの。でも、名前が判ってる他の子からもらったチョコを、
わざわざ返して…くれた、なんて……そこまでしてくれたのが……」
が再び胸の前で、両方の手のひらを握り合わせる。
「嬉しくもあったけど、すごくびっくりしたの。だって薫くん、すごく優しいから、返す刻、きっと大変だっただろうし、
それに、返された子にも、悪い気がして……あ、でも、薫くんのその気持ちや行為が悪いって言ってるんじゃなくて、
私は嬉しくもあったんだけど、でも……!!」
自分でも、何を言ってるのかわからなくなる。
考えが上手くまとまらなくて、言葉も上手く見つからない。
「……ごめんなさい……! 何か、心の中がごちゃごちゃで……!!」
――要するに、海堂の気持ちはとても嬉しかったのだが、彼にそこまでしてもらえるほどの価値が自分にあるのか
どうか、判らなかったから、驚いてしまったのだ。
元々は、海堂が他の女子からチョコレートをもらうことに、嫉妬心などは感じていなかった。
むしろ、彼の良さが解るから、たくさんもらうことに納得していたのだ。
けれども、海堂がそこまでしてくれたことを、少しでも嬉しいと感じてしまった自分が、嫌だった。
彼がチョコレートを返す刻の気持ちや、返された女子の気持ちを思うと、どうしても。
――夕陽が、ゆっくりと西の彼方へ溶けてゆく頃。
海堂は微かに溜め息をついて、テニスバッグを担いでいない、左手を伸ばす。
その左腕で、今にも泣きそうなを――長い黒髪の頭を抱えるように、抱き寄せた。
「……そんなことまで、お前が気にする必要はねぇ。ただ単に、俺が他の奴からもらうつもりが無かっただけの話だ。
俺なんかにくれた奴らには、確かに悪いとは思ったが、その気もねぇのに受け取っておく方が、余計悪いだろうが」
海堂の声が、の心の水面を凪がせてゆく。
やからのものは、普段から交友があるため、その意味での、日頃の感謝が込められたものであることが判る。
が、その他のは義理や本命などという、その区別すらつかないものばかりだった。
どちらにせよ、想い人が決まっている以上、普段からの交友も無い者から、受け取るわけにはいかなかったのだ。
段々と心が落ち着いてきたは、海堂の胸元にそっと手を当てる。
「……薫くんは、本当に優しいね」
――絶対に、中途半端な優しさは見せない。
「だ、だからっ……別にそんなんじゃねぇって、言ってるだろうが」
の声と仕草が、彼の心と頬に火を灯した。
照れてぶっきらぼうになる海堂に、は小さな微笑を零す。
そして暫くの間、彼の胸に顔を埋め、身を寄せていた。
夕月と共に、落日の空の片隅で金星が光り始める。
海堂は、二の姫を無事、家まで送り届けた。
「……本当はあとで、公園で渡そうと思ったんだけど」
門を開こうとする前に、が振り返る。
「あそこまで言ってもらえたら、今、渡したくなっちゃった」
カバンの中から取り出したのは――水色の包装紙に青いリボンをかけた、包み。
「これ……受け取ってもらえる?」
たくさんの想いと小さな勇気を込めて、はそれを差し出す。
海堂は、この期に及んでも、未だにおずおずと遠慮がちな二の姫を、彼女らしいと思わずにはいられなかった。
「……ああ」
心なしか、穏やかな声。
ドキドキしながら彼の反応を待っていたが、ほっと安堵の息をつく。
海堂がその場で包みを開けてみると、中にはチョコレートマフィンが入っていた。
「あ、えっとね…! チョコマフィンにしてみたの。練習の合間にでも、食べてもらえたらなって、思って」
その場で開けられるとは思っていなかったが、少し緊張しながら言葉を紡ぐ。
「ああ……そうする」
そう答えた海堂も、も、互いに視線を合わせられなかった。
「その…………あっ」
顔を背けたまま言いかける海堂に、はようやく琥珀の瞳を彼に向け、「あ…?」と小首を傾げる。
また丁寧に閉じた包みを持つ海堂の手が、僅かに震える。
「あ、ありがとよ……」
完全に背を向けた彼の言葉の最後は、とても小さかった。
「――うん……!」
まるで春が訪れ、色づいた花が咲くように。
心の底から嬉しくなったが微笑む。
「あの、薫くん!」
そのまま歩き出した海堂の名を呼ぶと、彼の足がぴたりと止まった。
「あとで……公園、行くね」
別に言わなくても解っていることなのに、と思いながら。
けれど、なぜか呼び止めてしまった。
何か、言いたかった。
「……待っててやる」
いつもの場所で、待っている。
低い声で、ぼそっとそれだけ零し、海堂は再び歩き出した。
「……うん。ありがとう、薫くん」
段々と遠ざかっていく彼の背に、は瞳の潤んだ笑顔で、そっとつぶやいた。
冷たい風が吹き抜ける、冬の季節。
黄昏の空に、月と星が白く冴え始める中で。
そっと優しく届いたのは、世界で一番のあたたかな想い。
end.
《あとがき》
テニプリバレンタインドリーム、海堂くん&二の姫バージョンでした。
はてさて。何があってこうなったんだか、このふたり(笑)
一応つき合うことになるまでの、大まかなエピソードはあるんですけどね…。
ありすぎる上に、中々進展しないので(苦笑) すべて書ききるのは大変です。
海堂くんはいつも自分の中で悪戦苦闘してます。でも、周りに恵まれてるし。
結果的に、少しずつ(亀の如くの歩みですが)進んでいくので頑張ってほしいです;
読んで下さって、ありがとうございましたv
written by 羽柴水帆
