世界で一番のPure Heart
                             〜前編〜





 凍てつく季節の、寝ぼけ気味な太陽が、東の空から目覚め始める。


 青学テニス部の朝練が終了する頃、太陽はようやくまともに顔を見せた。

 蒼みを帯びていた空が、明るい青に移り変わっている。

「よーっし、今朝はここまでだ!」

 今ではこの青学テニス部部長を引き継いでいる桃城が、コート中に声を響かせる。

 長袖のジャージを着ているとはいえ、二月も中旬に入った冬の朝練は寒さが厳しい。

 レギュラー以外の部員たちは、桃城の声もありがたく、一斉に片づけを始めた。

「お疲れ様、桃くん、天空くん。はい、タオル」

 今も部を支え続けているマネージャーの一人、が桃城と天空にタオルを手渡す。

「お、サンキュー、!」

「ありがとう、ちゃん」

 寒さに凍えながら部室に駆け込んでいく他の部員たちとは違い、この二人は程良い汗をかいていた。

 一の姫から受け取ったタオルで、流れるそれを拭う。

 と、は何かを思い出したように、ぽんと手を打った。

「あ、そうだ。あのね、桃くん、天空くん。ちょっと頼みたいことがあるんだけど……」




「ありがとう、海堂くん、七くん。ごめんね、寒いのに」

 すでにレギュラーではない部員たちが去ってしまったあとで、残ったボールカゴを片づけようとしていたを、海堂と七海が手伝った。

 礼を言うに、彼女のクラスメートであり、従兄である少年は屈託なく笑う。

「平気だって! な? 薫?」

「……別に寒さなんか、気にならねぇしな」

 頭に巻いたバンダナをほどき、袖口で軽く汗を拭いながら、海堂はすました顔で言う。

「…そうだよね。それぐらい、一生懸命練習してるもんね」

 は、そんな海堂や七海を見て、誇らしい気持ちになった。

「今、タオル持ってくるから」

 コートの方に持って行かれているタオルを取りに、は小走りで駆け出した。




「ん? 頼みたいことって?」

「どんなこと?」

 桃城と天空が、に訊き返した刻だった。

 歩きながら話していた二年八組の三人の前に、テニス部二の姫が駆けてくる。

「どうしたの? 

 緑の瞳を瞬かせたに、は「あ、ちゃん、丁度良かった」と笑顔を向けた。

 は残った部員たちのタオルを、すべて両手に持っていたのだ。

「それ、タオル取りに来たの。海堂くんと七くんの分」

 そうなんだ、と納得したは、のクラスメートである少年たちのタオルを渡す。

 そして、が部室の中へ――海堂と七海の元へ戻ってくると、そこには青学のエースと三の姫も居た。

 と共に二年八組の三人も集まり、部長と副部長を含めた、今のテニス部を支えている者たちが揃う。

「はい、海堂くん、七くん。お待たせ」

「さんきゅー!」

「……あぁ」

 から手渡されたタオルと笑顔に、七海と海堂はそれぞれの表情で応えた。

「ところで、ちゃん。さっきの、僕たちに頼みたいことって何?」

『あぁ、そうだった!』

 ふいに天空が訊ねると、と、なぜかまでもが揃って声を上げた。

 部長と副部長とエース、それを補佐する立場の少年たちは、何事だというように瞳を丸くする。

「あのね、桃くんと天空くんだけじゃなくて、みんなにも頼みたいの」

 の言葉に、五人の少年たちは互いの視線を交わし合った。

「申し訳ないんだけど、手塚部長…じゃなくて、手塚先輩や大石先輩たちに、今日の部活が終わる頃、部室まで来てもらうようにって、頼みに行ってくれないかな……?」

 両手を合わせて、片目をつぶり、がお願いをするように言う。

 ――やはり、三年生が引退した今となっても、手塚が『部長』として皆の中に根づいているのは確かなようである。

「手塚部長…じゃねぇや、手塚先輩や大石先輩たちって……英二先輩や不二先輩も?」

「そう!」

「河村先輩や乾先輩も?」

「そう!」

「……要するに、引退した三年の先輩たちってことか?」

「そう! さすが皆さん! 解ってますね!」

 桃城とリョーマ、海堂の言葉に、は一つ一つ元気よく頷く。

 まるでクイズ番組の司会者のように、明るい笑顔と声を振りまいた。

「何があるんだかわかんねぇけど、先輩たちに、今日の部活が終わる頃、部室に来てくれって、頼めばいいんだな?」

『うん!』

 七海が確かめるように訊き返すと、テニス部の姫君たちは揃って頷いた。

「OK〜! 任しとけって。な?」

「おう、いいぜ」

「うん、もちろん」

 七海や桃城、天空は快い笑顔と共に返事をする。

 リョーマは面倒くさそうな顔をしたり、海堂などは舌打ちしたりしているが、双方とも特に嫌だと思っているわけではなかった。

「こら、海堂、越前ー! そーゆー態度はいけねぇな、いけねぇよ。別に断る理由なんかねぇだろ?」

「はぁ……まぁ、そうっすけど」

 リョーマはそう言うものの、海堂は「けっ」と態度を変えない。

「おい、海堂。越前でさえ、こう言ってんだぞ? 副部長のお前が、そんなんでどーすんだよ。ったく、可愛げがねぇな」

 海堂とて、別にマネージャーたちの頼みごとが面倒だと思っているのではない。

 ただ桃城相手には、やはり条件反射で反発してしまうだけだ。

 リョーマが「越前…でさえって、何すか?」と、密かに拗ねる中、

「何でお前相手に、可愛げある態度なんかとらなきゃならねぇんだ」

 と、海堂は鋭い瞳を、現部長に向けた。

「何だよ、その言い方は!? ほんっとに可愛げねぇな! 副部長なら、ちっとは部長の言うこと聞けよ!」

「……意味のあるものなら、聞く気も起きてくるがな」

「何だとぉ!?」

 ――あぁ、やっぱり。

 天空と七海、リョーマ、三人の姫君たちから、そんな心の声が聞こえてきそうな表情が零れる。

「はーいはい、ストップストップ!」

「二人とも、落ち着いて」

 睨み合う部長と副部長の間に、その補佐たちが入っていく。

 そのそばで、は「まったくもう…」と溜め息をつき、天空と七海に任せるのが一番いいと解っているは、困惑しながら、落ち着くのを待つしかなかった。

 と、二年生たちから少し離れたベンチに座っている一年二組の二人は、幸い巻き込まれることもなく、ただ静観していた。

「ホントに仲いいよね、先輩たち。桃ちゃん先輩が部長になって、海堂先輩が副部長になっても、根本的なところは変わってない」

 が苦笑するように笑いながら言う。

「……っていうか、あれじゃぁ、部長と副部長と先輩たちっていうより、部長二人に副部長二人って感じだね」

「確かにそうかも……」

 リョーマの個人的感想には、も肯定できるものしかなかった。





 陽が高く昇り、校内に昼休みのチャイムが鳴り響く。

 昼食を手早く終え、二年生部員たちとリョーマは、マネージャーに頼まれた用事をすませに教室を出た。

 三年生の教室が並ぶ階で、自然と集合した五人は、一組から順に回ることにした。

「すみません、手塚先輩いらっしゃいますか?」

 教室のドアを開けた所から、天空が中の生徒に訊ねる。

「手塚くんなら、昼休みになった途端に教室を出て行っちゃったわ」

 と、黒板を消している女生徒が、そう答えた。

 一度顔を見合わせた五人は、それならと隣りのクラスへ向かうことにした。



「失礼しま〜す! 大石先輩いますかっ?」

 三年二組の教室のドアを開け、弾んだ声で七海がクラスの者に問いかける。

「大石なら、昼休みになった途端にどっかへ行っちまったぜ」

 と、ドア付近に居た男子生徒が答えた。

 ――またしても、顔を見合わせる青学テニス部の要たち。

 もしやとは思いつつも、次の先輩のクラスへ向かった。



「すいませ〜ん、不二先輩と英二…あ、菊丸先輩、いますか?」

 てくてくと歩き、三年六組の教室に辿り着くと、桃城がドアの向こうの生徒に訊ねた。

「不二くんと英二くん!? それはこっちが訊きたいわよ!」

「昼休みになった途端に、二人してどこかへ行っちゃったんだもの!」

 問いかけに答えてくれた女生徒たちは、何やら怒り気味だった。

 ――二度あることは三度ある、とは言うが。

「マジかよ……揃ってどこ行っちまったんだ? 先輩たち」

「しかも、揃って昼休みになった途端、っていうのは一体……」

 桃城と海堂が考え込む。

「どこかは判らないけど……昼休みになった途端に居なくならなきゃいけない理由なら、判るかも」

 ふいに、天空がつぶやいた。

『えっ……!?』

 と、他の四人の声が重なる。

 その理由が何なのか、訊こうと思ったが、天空の視線を辿ってみて――納得する。

 皆の視線が集ったのは、不二と菊丸のクラスの女子が手にしているもの――可愛くラッピングされた、チョコレート。

「多分……それっきゃないでしょうね」

 ふぅ、とリョーマは溜め息をついた。

 よくよく考えれば、自分たちも経験がある、いわば当事者なのだから理解できた。

 今日は、二月十四日――バレンタインデーと呼ばれる日。

 青学テニス部のレギュラーであった彼らは、学園中の人気者で。

 おそらく、今日もチョコレートを持った女子生徒に追い回されているのだろう。

 それは、現レギュラーであるこの五人も同じだった。

 否、海堂の場合は、面と向かって渡されることより、彼の居ない間の靴箱や机、ロッカーなどに置きみやげされている場合の方が多いが。

「しょーがねぇな。まぁ、とりあえず、タカさんと乾先輩のクラスにも行ってみて……」

 その二人も居なかったら捜しに行こう、と七海は続けたかった。

「あっ、越前くん!」

「桃城くんに海堂くん、夜空くんと架橋くんまで居るー!」

 突然、三年六組の中から女子生徒の声が上がった。

 ――しまった……!

 ぎくっと身を強張らせた五人は、咄嗟にその場から離れようと思ったが、かつての青学レギュラーたちが居ないのも相俟った女生徒たちの勢いから、逃れるのは難しかった。





 昼休みの青学中等部校舎内を、現テニス部の要たちは全力疾走した。

 中庭の、身を隠すのに丁度いい植え込みを見つけた彼らは、急いでそこへ駆け込む。

 ――三年の女生徒から、成り行きでチョコレートを五、六個ほどもらった刻。

 更に押し寄せる彼女たちの波に耐えきれず、皆、ここまで逃げてきたのである。

「こ……ここまで来りゃ、大丈夫だよなぁ……?」

「た…多分……大丈夫…だと……思うっすよ……」

 途切れ途切れの桃城の声に、答えたリョーマの声も、やはり同様だった。

 普段部活の練習で鍛えているはずの彼らだが、全員揃って呼吸が荒くなっている。

 さすがの海堂も、トレーニングという自主的に走るのとは違い、何かから逃げるために走るのでは、精神的な負荷が大きかったらしい。

「ま、マジでびっくりした……こんなバレンタイン、初めてだぜ」

 激しくなった鼓動を鎮めるように胸を押さえながら、七海は至極切実な表情で言った。

「気持ちは…嬉しいんだけどね……」

 天空が、苦笑するように笑いながら、呼吸を整える。

「な……何で俺まで……!?」

 自分の場合、面と向かって渡されることなど無かったはずなのに。

 そう思いながら、海堂は「フシュー」と大きく吐息を零した。

 ――と、その刻である。


「やはり、お前たちもか」

「どうやら、逃げ切れたようだな」

「ふふ、お疲れ様」


 地面に座り込んでいた五人の背後から、聞き覚えのある声が流れてきた。

『え――えぇっ……!?』

 一瞬の間を置いて、五人は一斉に振り返る。

「乾先輩、手塚部長…じゃなくて、先輩、それに周助先輩……!?」

 天空は青緑の双眸に映った、先輩の名を順に、驚きながら紡ぐ。

「大変だったなぁ」

「俺たちも、さっき合流したところなんだ」

「ここって結構見つかんないだよ〜。へへっ、お前たちもやっぱ仲間仲間〜♪」

「タカさん、大石先輩に、英二先輩…〜〜〜っ!?」

 人懐こい菊丸に背中から飛びつかれながら、七海も朱色の瞳を見開いて驚いた。

「お前たちもってことは、先輩方も……?」

「逃げてきたんすか……?」

 桃城と海堂が、未だに呆然としながら訊ねる。

「ま、平たく言えば」

「そうゆうことだにゃ」

 引退する前は、青学の黄金ペアとして活躍した二人が、困ったように笑って応えた。

 ようやく通常の呼吸に戻ってきたリョーマは、「ふーん」と納得する。

「けど、よく考えれば、贅沢なことなんだよね。もらいたくてももらえない人だって居るだろうから」

「それに……せっかく僕たちに持ってきてくれたのに、逃げたら悪いですよね」

 河村に続くような、天空の言葉。

 心優しい彼は、繊細な顔立ちを申し訳なさそうに翳らせる。

 その瞬間、沈黙の風が舞い降りた。

 それはこの場にいる誰しもが、心の中で感じていることだ。

 自分へチョコレートを贈ってくれる気持ちは、非常に嬉しい。

「でも、マジで怖かったんだぞぉ!?」

 ――やはり、物事には『限度』というものがあるのではないだろうか。

 真剣に訴えてくる桃城に、天空は「あはは…」と、また苦笑いを浮かべた。

「それにさ、あんだけのチョコもらっても、たちが用意してくれた紙袋、持ってこなかったし、受け取りきれるわけねぇじゃん」

 七海が言うと、三年生たちは一斉に視線を集めた。

「お前たちも、もらっていたのか?」

「はい、きっと必要だと思うからって……」

 手塚の言葉に、天空はこくりと頷く。

 ――青学テニス部の姫君たちは、この日の彼らに、膨大な数のチョコレートが殺到するであろうと思い、前もって複数の紙袋を用意し、当日である今日の朝、各々の靴箱に置いておいたのである。

「……やはりな。二月に入った直後に、三人して俺に訊いてきたからな」

「訊いてきたって……何を?」

 乾が軽く笑ったのを見て、リョーマが話を促すように問う。

「ここに居る全員の、バレンタインにもらうチョコのおおよその数だ」

 ――この場に再び訪れた、沈黙の風が吹き抜ける。

「そんなこと訊いてどうするんだと訊ねてみたんだが、その刻は答えてもらえなくてね。まさか、俺たちが持ち帰るための紙袋を用意してくれるためとは、思わなかったな」

 マネージャーたちの心遣いは嬉しいが、この場にいる全員のもらうチョコの数など、どうやって予想することが出来るのだろうか。

 ――感心しながら語る乾をよそに。

 数えようと思う気にすらなれない、先程の女生徒たちを思い出すと、皆めまいを起こしそうになった。

「……本当に、どこまでも気の利いたマネージャーたちだな」

 微笑と共に零された大石の言葉は、どこか凍りついていたこの場の空気を溶かした。

「確かに、ありがたいよな。な? 薫」

「……フン。まぁな」

 何かと自分に話を振ったり、同意を求めてきたりする七海に、海堂は素っ気なくだが応えてやった。

「あ、そろそろ昼休みも終わるし、戻らないとな」

 校舎の壁の時計を見て、河村が言う。

「はぁ〜。チョコをくれるのはありがたいけど、また追いかけられるのかにゃ〜?」

 背中合わせに座っている大石の、その背に寄り掛かりながら、菊丸は空を見上げた。

「やっぱり、出来るだけ頂いた方がいいですよね」

「うん……そうかもしれないけど」

 先程逃げてしまったことに、よほど罪悪感を感じているらしい天空。

 けれども、不二はしっかりと肯定せず、曖昧な答え方をした。

 天空は「…周助先輩?」と、綺麗な顔立ちをした彼を見上げてみる。

「難しいよね。もし自分に好きな人が居るとしたら、安易に受け取るわけにもいかないだろう? それに……たくさんもらえるのも、嬉しいけど。でも……」

 不二の言葉の続きを待つのは、もはや天空だけではなくなっていた。


「たったひとりの、一番欲しい人からもらえたら、きっと一番、嬉しいよね」


 この場に、三度目の沈黙の風が流れる。

 皆、思い思いに視線をずらした。

 心の中に、想い人を映し出しているのかもしれない。

「……そうだな」


 ――――ッ!?


 つぶやかれた低い声は、その張本人以外の皆を、心底驚かせた。

「…………何だ?」

 一斉に視線を向けられた彼――手塚は、眉間を寄せる。

 後輩である二年生たちは「い、いえ、別に何も……!!」と、焦る。

「いや、一番最初に、手塚が同意してくれるとは思ってなかったんだよ。僕もね」

 不二は宥めるように言いながら、くすくすと笑った。

「……そうか?」

「別におかしいわけじゃないから、気にしなくていいよ、手塚」

 自分たちの反応が手塚の機嫌を損ねたかと思った皆(特に二年生)は、不二のフォローに感謝しつつ、深く安堵した。

「あ、そうだ! マネージャーたちから頼まれたことがあったんだ」

 天空の言葉に、一、二年生たちはハッとする。

「そうだよ! そのために、先輩たちを捜しに来たんすから!」

 桃城が向き直った先に居る三年生たちは、顔を見合わせた。

「……見つかったのは偶然みたいなもんだがな」

 海堂がぼそっと零した言葉は、果たして誰かの耳に届いたのか。

 とりあえず、三人の姫君たちからの伝言を伝えるのだった。




 ――やがて、午後の授業が始まるチャイムが鳴る。
 彼らの試練も、これからが後半戦である。




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 《あとがき》
 テニヒメのバレンタイン創作でございます…;
 しかもまだ前編(‐‐;) 水帆もこれからが後半戦です(汗)
 って、オールキャラ、しかも男の子ばっかなので疲れました;
 この上、更に無謀なことに、後編の他にも、各々をお相手にした特別編も考えております!
 他校編も企画してあったりしたんですが……まぁ、とりあえず、青学を優先的に(笑)
 いけるところまで、いってみたいと思います(^^;)

                 written by 羽柴水帆